勁草書房創立70周年 本たちの周辺

勁草書房創立70周年
社長にあれこれ聞いてみる:02


 
 
創立70周年を迎えた勁草書房の話を、井村寿人社長に、あちらこちらに寄り道しながら、ゆるく聞いて振り返る(社員もけっこう知らない)シリーズ。前回は現社長の自己紹介で、勁草書房先代社長の息子であるがゆえに巡り合ったフィリピンの大学進学の話から始まりました。第2回目は大学卒業後、勁草書房入社につながるお話です。[編集部]
 
 
――前回にひきつづき、現・井村社長の自己紹介的振り返りをお願いしたいんですが、フィリピンの大学を卒業後、就職は?
 
井村寿人社長 1983年3月に卒業して、入社式の前々日に日本に帰ってきました。
 
――でも、勁草書房に入社されたんではないんですよね。
 
井村 なんでだか、商事会社かホテルに入りたいと思ってたんです。商社のダイナミズムに憧れたんですかね。商社いいなぁと思う一方で、ホテルマンにも憧れていました。ちょうどロッキード事件とかもあった時代で、商社に関する実務書や小説とかそういう本ばかり読んでました。『炎熱商人』とかね(笑)。
 
――で、実際に。
 
井村 ええ、卒業前年の中日ドラゴンズが優勝した年の秋に商社を受けてました。ホテルも受けるつもりが、三菱商事が決まったのでそのまま入社です。でも、ホテルでもどっちもよかった。ただ、日本国内だけのホテルじゃなくて、インターナショナル系のところで。海外での仕事をしたかったんでしょうね。
 

フィリピンの大学卒業後の進路は商社かホテルにと考え、出版はまったく頭になかったという。2018年4月4日撮影。
――それは、お父さんである先代社長のお話を聞いて?
 
井村 父親は商売がきらいらしくて。百貨店や商社より、どっちかっていうと学者が好きだったんでしょうね。だからか、商社や貿易のことは、一言も聞いたことなかった。
 
――商社ではどういうお仕事をなさっていたんですか?
 
井村 配属先は無機化学品を扱うところでした。だけど、化学はもうほんとうに大嫌いだった。大学の時に化学の単位を取らないといけなかったんだけど、学生仲間にも知れ渡るくらいに嫌いで、どうにか化学から解放されたと思っていたのに……。化学品以外ならどこでもと面接で話してたら、化学品になってしまいました。
 
配属先は、ぼくがいた大学のあったネグロス島でできるサトウキビからアルコール原料の糖蜜エタノールを作り輸入するとか、そういうことをやっていた部署でした。そのせいで配属になったんだ、将来はまたフィリピンに行くんだって思いましたね。ただ、結局その方面にはまったくタッチせず、どちらかというとファインケミカル的な、セルロースの誘導体というものを扱ってました。外壁や水中コンクリートの混和剤に使われたり、医薬品のバインダーといって、錠剤が水に触れるとすぐに崩壊するようにしたり、錠剤をコーティングして、pHコントロールを利用し腸で溶かしたり胃で溶かしたりし、必要な薬を必要な場所に届けるためのものですが、当時はそういった高額なものは先進国でしか需要がなく、日本とヨーロッパで物を売ってました。中国で売れないかとやってみましたがダメでしたね。早すぎました。その後もどちらかというと先進国相手のビジネスでしたので、結果的に三菱商事に15年いましたが、1回もフィリピンに行く機会はありませんでした。
 
三菱商事時代の後半は石油化学を扱ってました。紙おむつって水を吸って抱え込みますよね。その高吸水性ポリマーの主原料であるアクリル酸と、樹脂や塗料の原料になるアクリル酸エステルといったものですが、無機化学とは違い液体ですのでタンカーで運ぶ商品です。比較的自由に仕事を作れましたし、憧れていた商社という仕事のダイナミズムを少しでも感じることができましたね。残業と海外出張が多く大変でしたがほんとうに楽しかったですね。
 
――ほんとうに出版とは全然関係ない畑のお仕事だったんですね。
 
井村 でも、いま出版社の代表をしている人にも他業種経験者がけっこう多いですよ。講談社、中央経済社、弘文堂、東洋館出版の社長さんたちも、みなさん三菱系企業の出身です。たまに集まるんですけど、意味があるんだかないんだか(笑)。
 
――みなさん大きい会社からですね。
 
井村 当初はなんで出版ってこうなんだろうっていう話は出ましたね。挨拶をしないとかね(笑)。不思議なんですよね。朝、先輩に挨拶しないのは、商社ではありえないから。あと、予算がほとんど有名無実だったり(笑)。
 
大きな会社にいくと、最初の1年は宴会要員になったりします。新入社員なんてできることないですからね。酒をつくらされる。先輩のグラスが空いてないかとか常に見てる。そうやって接待の基本である気配りを徹底的に叩き込まれるんです。部全体だと50名ですからね。飲み会が終わると新人2名は汗だくでした(笑)。
 
入社したてのころ、花見の場所取りをやらされるんじゃないかと恐れていて、先輩に聞いたら「そんなことしない」って。あと、昼休みに屋上でバレーボール? そしたら「あのねぇ、うちの会社、屋上出られないから」って呆れられました(笑)。
 
――クレイジーキャッツの映画の見過ぎじゃないですか、それ。
 
井村 昔の商社は、お客さんと飲むのも仕事で、そういうことで評価されるっていう面もあったんですね。たとえば鉄鋼の部署にいた同期が、薄板を大製鉄会社から買って大自動車会社に売る。商社が介在する意味ってどこにあるんだろうって話になったり。介在している意味合いって実にさまざまなんですね。
 
いまは商社はものを売る商売ではやっていけません。投資をしていかないといけない。扱っている分野については、自分がマーケットを世界でいちばん知っている存在になって、どこに投資してどこで物を作って売ればいいかと常に考えている。そうやって新しい仕事をみつけていかないと生き残れないし、社内で評価もされないそうです。厳しい世界です
 
――そういう現場で15年過ごされて、勁草に入社ですか?
 
井村 勁草書房の社長をやっていた父親が他界したのは、ぼくが三菱商事に入って5年目でした。叔父で、勁草の親会社である大和百貨店の副社長だった八田恒平から「お前がやれ」と言われたんですが、さすがにせっかく入った商社を5年で辞めて移るのは、ふんぎりがつかない。父親と家で仕事の話をしたこともなかったですし。
 
大和という上場会社の子会社でもあり、息子だから継ぐというようなものでもないんじゃないかと思ったんです。でもよく考えると父親が好きで始めた出版でしたし、百貨店にいる人間に出版に興味をもってやりたいような人間はいないんですね。渋っているうちに、「それじゃおれがやっておく」と、結果的にその叔父が引き継いでくれました。だから、当時の八田勁草書房社長は、金沢の大和百貨店副社長と兼務だったんです。
 
――八田社長時代が10年ありますね。
 
古参社員 八田さんは1年に1度くらい会社に顔を出される程度で、「あの人が八田さん」って言われて挨拶をする感じでしたね。
 
井村 八田さんはいい方でしたが、8年めくらいに「私も歳で先も長くないだろうからそろそろ、お前がそろそろやれ」と、再度言われたんですよね。
 
――決心まで時間がかかりました?
 
井村 八田さんが10年間近くやってくれたのと、お歳だったので。
 
――最初に話があったときから、「いずれは」と見据えていた?
 
井村 いえ、ぜんぜん(笑)。八田さんから2回目の話がきたときに考えた。
 
――その間の10年間は?
 
井村 すっかり忘れてましたね(笑)。
 
――2回目は、じゃあ、となった?
 
井村 父親がやっていた会社で、社会的に立派な会社だという認識があったので、やってみるしかないかな、と。
 
――それで移られたんですね。
 
井村 そうですね。三菱商事を辞める2年前の1996年に2回目の話があって、98年1月末で退社しました。最初は97年の秋に辞めるつもりだったんですが、98年の2月に勁草に入りました。
 
井村寿人(いむら・ひさと) 1958年、東京生まれ。創業に携わった井村寿二前社長の息子にあたる。フィリピンのシリマン大学卒業後、三菱商事入社。1998年2月に勁草書房入社。1998年より代表取締役社長。
――三菱商事をやめてすぐ入社ですか?
 
井村 ええ。当時、飯田橋近くの大曲のところにあった社屋へ。2月1日か2日にきたんですが、たしか取締役会が9月で、そのときに社長に就任しました。
 
古参社員 平社員は、その入社時から「社長」だと聞いていましたね。それまでは編集長だった石橋という専務取締役が、実質的な社長の仕事をしてました。
 
井村 ぼくが勁草にきたあとも、八田さんは会長職で1~2年いました。八田さんが会長を辞めるときに編集長の石橋さんも交代して、哲学分野で有名な前編集長の富岡勝さんになったんですよね。
▶次回につづく――
 

*今年2018年は勁草書房70周年ですが、現在の井村寿人社長就任20周年でもありました。節目の年がいろいろ重なっていますね。さてさて、井村現社長の少し長めのアイスブレイクで場も温まってきたので、次回あたりから勁草書房の昔話をあれこれ聞いてみたいと思います。[編集部]
 
勁草書房のオフィシャルな沿革は【こちら】にございます。ご参考になるでしょうか。よろしければぜひご覧ください。
 
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