勁草書房創立70周年 本たちの周辺

勁草書房創立70周年
社長にあれこれ聞いてみる:04


 
 
創立70周年を迎えた勁草書房の話を、あちらこちらに寄り道しながら、井村寿人社長にゆるく聞いて振り返るシリーズ第4回目です。金沢の百貨店「大和」の出版部として銀座の大和ビルでスタートした勁草書房は井村寿二社長のもと、出版社として確立していきます。あわせて先代社長の横顔もうかがってみました。[編集部]
 
 
――――勁草書房のスタートは銀座七丁目の大和ビルでしたが、その後けっこう移転してるんですね。
 
井村寿人社長 ええ、銀座のビルが1950年に火事で焼けたので、同じ場所で5階建てのビルを大和が再建して、1階から4階を賃貸で貸し、5階に勁草書房が入っていました。そのあと1957年に勁草書房だけ御茶ノ水に移ります。千代田区神田駿河台にあった地上4階地下1階のビルを買って、そこに入ったんです。
 

銀座から移転した社屋。御茶ノ水駅からすぐのところにあった(『大和五十年のあゆみ』より)。
古参社員 御茶ノ水駅の近くだったらしいですね。
 
井村 アテネフランセにいく途中の、御茶ノ水駅からすぐのところだったと記憶しています。途中で大和の東京支店も移ってきたようです。
 
――看板、よく見ると社名以外に「商法」とか「やさしい経済学」とかも書いてありますね。これ、どういう角度で撮っているんだろう。すごい宣伝ですね。
 
古参社員 御茶ノ水駅前の交番から2~3軒先のビルで、とてもいいところだったと聞いています。明治大学や当時中央大学も近くにあったし、著者の先生方がふらっとお茶を飲みにいらっしゃったりして。人が集まりやすいというか。そういうの、大事ですからね。
 
井村 1967年には文京区後楽2丁目に倉庫を新しく作って営業部だけ移って、「後楽営業所」を開設しました。ちょうど首都高の大曲のところですよ。その後1975年までに編集部もあわせて全部、後楽に移ることになりました。
 
――なんで御茶ノ水から移ったんですかね。
 
古参社員 再開発かなにかで東京都の指図があったと聞いてますけど、いまもあのあたりはペンシルビルが多いですね。
 
――この後楽社屋時代に寿二先代社長が亡くなり、現社長が三菱商事を辞めて勁草書房に入られたんですよね?
 
井村 ええ。もともとは御茶ノ水だったっていう話を聞くたびに、家では「もったいない」って言ってましたね(笑)。
 
文京区後楽にあった社屋からの引っ越し風景。こちらを見ているのが「古参社員」こと、現在の宮本詳三取締役編集長。
古参社員 後楽の社屋は、もともと別の出版社だった建物でした。3階建の建物に4階部分が建て増しされてたんです。
 
井村 後楽の社屋には組合の部屋とかもありましたよね。卓球台やお風呂も後から作ったり。
 
古参社員 建て増しの4階部分が使いにくいんで、本を置き始めて、結局そこが倉庫になっていったんです。そうすると上が重い頭でっかちになってしまって、耐震性の問題とか消防署からも言われて……。
 
現在の文京区水道にある社屋の地下倉庫。天井高があり、ここにスチールの棚が組まれ社内在庫が収まっている。
井村 現在の文京区水道に新社屋を2000年建てて、引っ越し、今にいたります。
 
――会社の大枠の歴史がつながったんで、今度は先代の寿二社長についてうかがいたいんですが、どういう方だったんですか。と、ざっくり(笑)。
 
井村 とにかく商売が嫌い(笑)。この前、叔母(寿二先代社長の妹。井村喜代子・慶應義塾大学名誉教授)が言ってましたが、祖父の徳二も会社のことを家では絶対にしゃべらない人だったそうで、ぼくの父親もそうでした。なので、仕事についてはほんとにわからないのですが、叔母によるとかなり変わっていて、「デパートなんてまったく無関心で、小学校のころから勉強ばっかり」だったらしく、絶対大和の社長にはなりたくないと言い続けていたようですね。できれば自分が学者になりたいくらいだったんでしょうね。戦争でどうしようもなかったけれど。
 
なんでも、四高時代はすごく勉強のできた人だったらしいです、うちの父親は。金沢にあった旧制の第四高等学校で、ずっと2番だったと聞きました。体育がほとんどビリに近くて、いつも全体的には2番だったって(笑)。その時の1番の人は東大の航空学科に進学されたそうです。
 
2番の父親はいまの金沢大学医学部に行ったんですが、国が軍医をやれば医師免許をやるという約束を反故にしたとへそを曲げて医者にはならず、それでおそらく大和との付き合いがあった三菱重工の伝手で三菱商事にいって、その後大和に入ったんだと思います。
 
――どういうお父さんでした?
 
故・井村寿二氏。勁草書房創業の頃から携わった元社長、現・井村寿人社長の父親にあたる(非売品の自伝『異境有情』より)。
井村 とにかく商売が嫌いだった反動で学者の集まりが好きだった。そういうのもあってか、思い入れとか思い込みが激しい人でしたよね(笑)。自分が「こうだ」と決めたらどうやってもそうなんですよ。人が何を言っても曲げない人でした。家庭で仕事の話を口にする人ではなかったので母親は気楽だったと思いますけど。
 
酒も飲まないですから、会社が終わるとすぐ帰ってきてました。夜はずっと家。晩年は麻雀の頻度があがって、しょっちゅう家で麻雀卓を囲んでました。
 
――会社の人と?
 
井村 勁草書房の人は、法律書担当していた石橋さんという人くらい。父親は思い込みが強いから、こうだとなると「違うでしょ」と思っても突き進んで、振り込むんですよ(笑)。
 
そういえば、三菱商事時代の同期で中国語できるやつが時々うちに泊まりに来ていたんですが、朝、ぼくと一緒に「行ってきます」と出て行って、ぼくよりも早く帰ってきてうちで麻雀してた(笑)。
 
井村寿人(いむら・ひさと) 1958年、東京生まれ。創業に携わった井村寿二前社長の息子にあたる。フィリピンのシリマン大学卒業後、三菱商事入社。1998年2月に勁草書房入社。同年5月より代表取締役社長。
人が来てわいわい賑やかなのが好きだったんでしょうね。祖父の徳二譲りかもしれません。金沢の家も、家族以外が誰かしらご飯を一緒に食べてるような家だったそうですし。
 
祖父は囲碁が好きで、自分も強くて、東京の家に囲碁の先生を呼んでは碁好きの学者の先生方と碁会をやっていたと聞きました。父親もその碁会に顔を出して、碁を覚えたらしいです。碁会のメンバーには都留重人先生とかいらっしゃって……。父親の仲人は都留先生なんですよね。
 
岩波書店の安江良介さんも父親の囲碁仲間でした。父の晩年は麻雀でしたが、それまでは家でも囲碁でした。郵便で囲碁の勝負をする郵便碁愛好会の会長もやってたくらい。碁好きが集まっていたんでしょうね。その囲碁仲間が麻雀になっていった。本因坊の石田芳夫さんや名人の林海峰さんとか、みんな碁じゃなくて麻雀やりにきていました(笑)。父親が亡くなるちょっと前まで続いてました。
 
古参社員 ほんとうに顔が広くて、寿二社長のところへいろんな方がいらっしゃるんですよね。
 

 
*いきおいで先代・井村寿二社長の横顔をうかがってみたところ、息子さんならではのお話が飛び出てきました。特色ある出版活動で注目を集めた故・井村寿二氏。聞いてみるもんですね。次回はその取り組みについてわかる範囲でお伝えしたいと思います。[編集部]
 
 
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