勁草書房創立70周年 本たちの周辺

勁草書房創立70周年
社長にあれこれ聞いてみる:03


 
 
創立70周年を迎えた勁草書房の話を、あちらこちらに寄り道しながら、井村寿人社長にゆるく聞いて振り返るシリーズ第3回目です。今回は勁草書房の親会社である金沢の百貨店「大和」に勁草書房ができるころを中心にお送りします。[編集部]
 
 
――――少し間が空いてしまいましたが、勁草書房の70年を社長に聞いてみるシリーズの続きで、徐々に出版社の歴史そのものに入っていきたいと思っています。まずは、たいてい驚かれるんですが、勁草書房には親会社があって、その親会社が石川県金沢市に本社がある「大和」という百貨店なんですよね。読みは「やまと」じゃなくて、「だいわ」ですね。
 
井村寿人社長 ええ、正式には「株式会社大和」というデパートです。その出版部として勁草書房はスタートしました。
 
――大和百貨店じゃなくて、株式会社大和なんですね。
 

現在の勁草書房社長・井村寿人(2018年4月4日撮影)
井村 そうなんです。大和デパート、大和百貨店とも呼ばれてますが。もともとは祖父の前、ぼくの曾祖父、井村徳三郎が始めました。小さなお店からスタートして百貨店になっていったと聞いています(→【大和「沿革」】)。富山県にも店舗をもつ、北陸最大のデパートですね。ピーク時は何店舗だったかな。福井や新潟にもあってたしか7店舗でした。
 
――流通業のどまんなかともいえる百貨店に出版部ができたというのは不思議な気もします。
 
井村 要は、ぼくの父親(先代の勁草書房社長・井村寿二)が商売嫌いで、百貨店業をやりたくなくて(笑)、どちらかというと研究とか学究とか……。出版かどうかは別として学者が好きだったというのもあるんでしょうね。
 
――なるほど(笑)。
 
井村 勁草書房のスタート地点となる大和の出版部ができたのも戦争直後の時代ですし、あの当時は今でいうような「社会貢献」という発想ではないだろうと思います。百貨店業から自ら文化事業を起こそうというようなことまでは考えていなかったと思うんですよね。推測ですが。
 
ではありますけれど、当時大和社長だった祖父の井村徳二もかなりパトロン的というか、文化事業や学者の集まりは好きだったみたいですね。国会議員も務めていた人でした。
 
ぼくは生まれる前なんで、親戚や叔母の井村喜代子(寿二勁草書房先代社長の妹。慶應義塾大学名誉教授)から聞いた話ですが、祖父の徳二もいろんな研究をしている人たちとのつながりや話を聞く機会を大事にしていたようです。
 
――戦前からそういうパトロン的なタイプだったんでしょうか?
 
井村 北陸、金沢の大きなデパートとして事業をしていると、いろいろなところとの関係もできますしね。
 
――そのなかでアカデミックな方面との付き合いもできてきたんですか?
 
井村 アカデミアとの直接的な関係は、父親(寿二先代社長)と、その妹(現社長の叔母・喜代子)、くらいですかね。
 
父親からはほとんど何も聞いていないので、大和の社史『大和五十年のあゆみ』に書いてあることや、この叔母から聞いた話になるんですが、戦後すぐのころ、大学生たちがいろいろな分野の学者を招いて講演会を開く活動があったそうです。
 
金沢では、加越能青年文化連盟という団体が講演会などを企画していて、そこの資金援助をしたのが、大和社長だった祖父の徳二でした。金沢市の片町にある大和デパートの一室を事務所として無料で貸したり。この加越能青年文化連盟の代表が、早稲田大学の学生だった富山県出身の逸見俊吾さんという方で、とても企画力があったそうです。勁草書房の名付け親である安倍能成先生をはじめ、我妻栄、南原繁といったそうそうたる先生方の講演会を開いていました。学者だけでなく、諏訪根自子や藤原義江といった音楽家も呼んだり。そうして、のちに大和が東京支店を作るときに、逸見さんを中心に大和の出版部も作ったという経緯みたいですね。幅広い人脈を活かして主幹として出版部の立ち上げに尽力、活躍し、しばらくして青林書院を立ち上げられた方です。
 
やっぱり人のつながりは金沢を中心に動いていますね。初期の編集部にも金沢や北陸の出身者が多かったようです。
 
古参社員 空襲を受けていないから古い文化が残っていて、食べ物が豊富にあったのも大きいかもしれませんね。
 
井村 そうですね。それだけ金沢には余裕があったんでしょうね。金沢の祖父の家には、とにかくいろんな人がご飯を食べに来ていたって話ですし。
 
――スタートしたころの勁草書房というか大和の出版部は、井村徳二大和社長が代表を兼務されていたんですよね。
 
井村 組織としては大和なのでそうなりますが、実際は出資者という立場だったと思います。
 
――大和の東京支店が銀座にあったというころのお話ですか。
 
銀座7丁目に開店した大和東京支店の様子を伝える業界紙より。
井村 そうです。せっかくですから、1972年に出た『大和五十年のあゆみ』から、そのころについて書いてある箇所を引用しておきますね。
 
「昭和二十三年四月、銀座七丁目一番地の電停前、資生堂本舗の向かい角に、もと老舗えり治の跡地を買収して、木造三階建延二百坪余の近代的な店舗が完成、赤大理石のショーウインドウに銀座名物の柳が影をうつした。
 待望の大和東京支店の開店となり、半歳前から在京して開発の調査に当たっていた相木喜久男を同店の初代支配人に任命した。
 一階には高級服飾品と郷土工芸品、あるいは郷土の味自まん、治作の店などを併設し、二階にはこんど芸術院賞を受賞した郷土作家高光一也の壁画を飾って、小会合のサロンを設け、三階には大和各店の商品仕入れの連絡機関をおき、併せて貿易部と出版部を新設した。貿易部はまもなく閉鎖したが、この出版部が発展して、今日法律経済関係の書類[ママ]の出版ではナンバーワンを誇る勁草書房になったのである」(138-139頁)
 
出版部については、こんなふうに書かれています。
 
「戦後の頽廃した世相の中にあって、若い世代の活動的な人々のうち、多少文化性のある連中が集まって文化運動をおこし、人間性の恢復をはかろうとして井村[徳二]社長のもとに援助をもとめてきた。
 彼らがまず訪ねてくるくらい、戦前から井村社長は百貨店という企業の性格もあって、文化運動に熱意をもっていたが、戦後はいっそうその必要を痛感していた。
 さっそく彼らのために大和本社本店内の一室を提供、本部をつくらせ物心両面の援助を惜しまなかった。これが加越能出身の学生たちが集まって結成した加越能文化連盟[ママ]の発足であり、その中心いた逸見俊吾という青年が出版を計画、当時の学習院大学学長、安倍能成はじめ、著名な学者の応援の下に、勁草書房を創設した。勁草書房の名は安倍能成が名づけ親であり、勁草書房設立当初から、長男寿二は関心と興味をもって父に代わって文化運動、出版事業の両方を援助してきたが、その後逸見が独立して出版事業をはじめたので、寿二が、全面的に勁草書房主幹として経営にあたることになった。
 井村社長は、出版事業は文化事業であって営利事業ではない。良書を世に送ると同時に、世事にうとい学者の側に立って少しでも後顧の憂いなく執筆に専念できるよう配慮すべきであると、利潤追求の私企業とは性格の異なるべき経営の在り方を強調、寿二はこの父の指針に従って、爾来我妻栄、石井照久、都留重人、小泉信三、中川善之助、中山伊知郎、牧野英一らユニークな存在として出版界に名をなし、日本を代表する優れた学者の著書を順次出版、昭和三十三年十月「近代経済学教室」全四冊により、毎日出版文化賞を受賞、銀座の事務所ではもはや狭隘に過ぎ、神田お茶の水駅前に移転、さらに文京区後楽に社屋を建設し、株式会社勁草書房として営業を拡張し今日に及んでいる」(139-140頁)
 
この銀座の東京支店、1950年に火事で焼けてしまったんですよね。翌年、同じところに建て直しています。ほかでも店舗や関連施設が火事に見舞われることがあって、たいへんだったようです。
 
井村寿人(いむら・ひさと) 1958年、東京生まれ。創業に携わった井村寿二前社長の息子にあたる。フィリピンのシリマン大学卒業後、三菱商事入社。1998年2月に勁草書房入社。同年5月より代表取締役社長。
――ちなみに、徳二氏の次に勁草書房代表になった寿二氏は、最初は大和の社員だったんですか?
 
井村 そのはずなんですが、具体的に何年から何をとか、よくわからないんですよね。なんにも言わない人だったから(笑)。少なくとも金沢で大和の社員をしてはいなかった。父親は軍医になるために大学の医学部を出ましたが、戦争がおわって一時期は三菱商事にいたようです。父親や叔母の話によると、どうやらかなり短い期間みたいですが。
 
そこで貿易に携わり、その後、『大和五十年のあゆみ』にあるように大和の東京支店にできた貿易部で仕事をしていた時期がありました。そこには出版部もあり、祖父の徳二にかわって出版部にかかわりはじめ、逸見さんが辞められたあとは全面的に主幹として勁草書房の経営にあたっていたことになりますね。
 
――その後、寿二氏が正式に勁草書房の社長に就任されるんですね。
 
井村 そうです。父親は、大和では1951年に東京支店長になり、翌年取締役になっています。1958年に祖父の徳二が急逝したことで、大和の社長に就任しました。大和の社長になってもだいたい東京にいたんですが(笑)。大和の社長は2期4年勤めたあと、社長を弟の宮太郎にまかせて自分は会長になってましたね。勁草書房が大和から登記上も独立して株式会社となるのは1970年で、その時から正式に勁草書房取締役社長になったんだと思います。
 
―― ……会社組織というか変遷は、こうやってみるとけっこうややこしいものですね。
 
井村 叔母も言ってましたが、どこの会社であれ戦後すぐのころの関連会社の人事はそんなもので、今ではありえないほどいい加減なところもあったようですね。
 

 
*勁草書房が「会社」としてまとまってくるあたりまできました。次回はどこまで行って、どんな話が出てくるでしょうか。[編集部]
 
 
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