ベルクソン 反時代的哲学 連載・読み物

『ベルクソン 反時代的哲学』2

1月 06日, 2016 藤田尚志

第1部 持続のリズム的計測、あるいは、いかにして測りえぬものを測るか?
『意識に直接与えられたものについての試論』(1889年)を読む

数の縁なき領域においては、いかなる計測の尺度を選んだのかを示さねばならない。というのも、これから見ていくことになるが、より繊細な尺度を見出すことは常に、、可能だからである。
――アラン・バディウ『数と諸々の数』

§17. 計測から遠く離れて(第一部の構成)

ベルクソンの処女作には、著者自身が認めた英訳タイトルがある。『時間と自由』である。これは、元のフランス語タイトル『意識に直接与えられたものについての試論』が争点化しようとしていたものを直截指し示している。つまり、意識に直接与えられたものとは、時間と自由である。意識(自我)、時間(持続)、自由(自由行為)というこれら三つの概念の内的連関こそ、この第一著作においてベルクソンが解明しようとしたものに他ならない。だが、序論で定式化された私たちの観点からすれば、さらにこう問わねばならないだろう。これら三つのメジャーな概念が内的連関をもって機能するように、それらを駆動させているマイナーな論理とはいったいどのようなものであろうか、と。この問いに答えるには、一見目立たない三つのものに注目する必要がある。それは、リズムであり、数であり、拍=計測である。これから示していくように、私たちが「リズム的計測」(rythmesure)と呼ぶものの論理とその直接化(immédiation)のプロセスこそが、『試論』の概念装置を準備し構成しているのである。『試論』は、時間の計りえない性格を強調するだけで満足せず、その計りえないものを計ろうとし、「量的度合い」と「数」からなる「算術的計測」(mesure arithmétique)の根底的ラディカルな批判を通して、「質的度合い」と「潜勢態の数」からなる「リズム的把捉」という不可能な計測を創出することを自らの任務としている。そこには、カント的な超越論的感性論とは真っ向から対立し、かといって単に心理学的・実験的でもない、内在的、、、な感性論が立ち現れる。

このことを別様に言い換えてみよう。『試論』全体を導く問いは、結論中の次の一節に見出されるように思われる。

 私たちとしては、〔カントとは〕逆の問題を提出して、私たちが直接に把握していると思い込んでいる自我そのものの最も明白な諸状態も、たいていの場合、外界から借りた或る形式を通して知覚され、その反面、外界は私たちから借りたものをそうやって私たちに返すのではないかと自問してみる必要があると思われた。(DI 145-146/167)

自我が固有の直接与件と見なしているものの、実際には外界から押しつけられたに過ぎない「形式」を批判し、質と量、内部と外部、持続と空間、継起と同時性に対して的確な境界画定を与えることで係争を解決すること――偽の問題の解消は、カント的「裁判官」(アンチノミーによる解決)だけの強みではなく、ベルクソン的「予審判事」の強みでもある。この問題については、いずれ立ち戻ることにしよう――、それこそが『試論』の目的である。ここで『試論』を構成する三章のタイトルを並べてみよう。

第1章 心理的諸状態の強度について
第2章 意識の諸状態の多様性について:持続の観念
第3章 意識の諸状態の有機組織化について:自由

私たちは、これらのタイトルについてすでに先行研究によって言われていることは繰り返さない。ここではただ単に目次を見て誰もが気付く三つのこと、つまり1)「心理的諸状態」から「意識の諸状態」へ、2)その「強度」から「多様性」を経て「有機組織化」へ、3)いかなる新たな概念も提起されていない一見すると批判的な部分から、「持続の観念」や「自由」といった概念が展開されているセクションへと進展していることについて、それぞれ言及しておこう。

1)「心理的状態」(état psychologique)と「意識的状態」(état de conscience)の違いとは何であろうか。第1章の終りで、ベルクソンははっきりと区別しているように思われる。「以下の章では、われわれはもはや意識状態を相互に孤立させて考察するのではなく、それらの具体的な多様性において、純粋な持続のうちで繰り広げられるかぎりで、考察しよう」(DI 50-51/54)。心理的状態とは、別々に切り分けて取り上げられ観察される結果、意識現象が真の時間的な相貌――リズムが目立たないものの決定的な役割を果たす相貌――の元に現れることのない状態である。

2)「強度」(intensité)、「多様性」(multiplicité)、「有機組織化」(organisation)という三つの概念は、リズムや数、計測といったものについての、ある種カント的な「批判」を通して、練り上げられていく。このことは次のことと表裏の関係にある。

3)では、それぞれの章はどのような機能をもち、またいかなる相互連関をもっているのであろうか。この問いについても、ベルクソンは結論において答えを与えてくれていた。

 かくして、自我をその本然の純粋さで凝視するために、心理学は外界の明白な刻印を帯びたいくつかの形式を除去ないし修正しなければならないだろう。――その形式とはどのようなものか。〔第1章〕心理状態というものは、それらを相互に孤立させ、その数だけの別々の単位として考えると、大小の違いはあれ、強さをもっているように見える。〔第2章〕次いでそれらの多様性において眺めると、それらは時間のなかで自己を展開し、持続を構成する。〔第3章〕最後に、それらの相互関係において、またそれらの多様性を通してある一つの統一性が保たれているかぎりで、それらは相互に決定し合っているように見える。――強度、持続、意志的決定、これら三つの観念こそ純化すべきものだが、そのためには、それらが感覚的世界に侵入されたために、そして一言で言えば、空間の観念にとり憑かれたために、身に蒙ることになった一切のものからそれらを解放しなければならない。(DI 146/168. 括弧内の章立ては引用者)

一言でまとめれば、『試論』の三つの章は、純粋自我に到達すべく、1)個々別々に切り離して考察された心理的諸状態の強度、2)それらの分離しえない具体的な多様性において考察された意識的諸状態の持続、3)意志的決定における「ある一つの統一性」すなわち有機組織化を「純化」し、これらを「外界の明白な刻印を帯びたいくつかの形式」、とりわけ空間の観念から解放することである。これである程度、『試論』の構成が明確になったということにしよう。

だが、ベルクソン的批判は、単純に否定的なものを析出し排除するだけでは満足しない。ベルクソン哲学とは新たな論理の探究である、と私たちは序論で述べた。では、『試論』におけるそのような論理とはいかなるものであるか。それは、計測の新たな論理の探究であるように思われる。繰り返しになるが、『試論』は、計りえないものを計り、「算術的計測」「量的度合い」「数」の根底的な批判を通して、「リズム的把捉」「質的度合い」「潜勢態における数」といった諸要素を提案しようとする著作に他ならない。だからこそ、第1章の重要性を強調せねばならないのである。第1章は、ともすれば、長すぎるイントロダクションのようなものとして、心理学的な事実や実験を豊富に示してはいるが、自我・持続・自由行為という三つのメジャーな概念の生成に直接的には何ら役立っていないものとして見なされがちである。だが、ベルクソンにあっては認識論と理論的争点、批判と理論的創設がいつも分離不可能であるとするなら、第1章は単なる応用的な記述ではあり得ない。実際まったくそのようなものではないことを次に示していこう。そのためには、まず『試論』第1章の構造を理解しておく必要がある。

「心理的諸状態の強度について」と題された『試論』第1章は、ある意識的状態の強度(intensité)すなわち計測可能で量化可能な度合いという観念を批判することを目的としている。より正確に言えば、感情や努力や感覚といった心理的諸状態の「強度的大きさ」(grandeur intensive)は、外的で物理的な原因ないし結果から出発してしか計測可能なものとはならず、それらの「強度」は、それ自体としては、「量の質」(82/92)に他ならないということを示そうとしている。例えば、「握り拳を徐々に強く握る」(20/18)ための努力の量は計測可能だと考えられがちだが、実際にそこで計られているのは、筋肉とそれに関係する身体諸部分の数の増大にすぎない。ベルクソンが第1章で主張しているのは、意識の諸状態は、「強度」ないし「強度的大きさ」といった概念によるあらゆる計測・数値化からは逃れており、そのこと自体によって、自らの究極的に質的な性格を明らかにしているということである。彼は「意識的状態」を形容するのに、繰り返し「計測に反抗的な」(49/53, 151/174)という表現を用いている。心理的諸状態の計測化・量化を模範的な形で推進したのは、精神物理学とその代表者たるグスタフ・フェヒナーであるが、ベルクソンは、彼に対して、通過することと感覚を混同している、つまり「算術的差異」(46/49)を理解していないと指摘している。

フェヒナーの誤謬は、相次いで起こる二つの感覚SとS’とのあいだに、本当は一方から他方への移行しかなく、言葉の算術的な意味での差異などないのに、一つの間隔があると信じた点にあった。(47/50)

「規約」、すなわちここでは、「二つの状態を恣意的に、また自分に都合のいいように、二つの大きさの差異化と同一視するような思考の作用」によって、「虹の色調に似た差異」と、「象徴」にすぎない大きさの間隔との間の「取り違え」(46/49)が生み出される。かくして、「質的差異」(45/47)が忘れ去られてしまう。

しかるに、外的事物の測定を可能にするために、その事物から初めに取り除いておいたこの質的要素こそ、まさに精神物理学が引きとどめ、測量したいと願っているものなのだ。(……)要するに、二つの異なった感覚が等しいと言われうるとすれば、何らかの同じ基盤がそれらの質的差異が排除された後にも残る場合だけであるように思われる。しかも他方、この質的差異は私たちが感じるすべてのものなのだから、いったんそれが排除されてしまえば、何が残りうるのか分からなくなるのである。(44-45/47)

質的差異の忘却を批判し、それと量的差異ないし「算術的差異」との混同を批判するベルクソンは、「計測」に対する警戒感を隠していない。

続いて、数に対する同様に批判的な分析が第2章で開始される。数は、その後『試論』全体を通じて絶えず批判されていくが、この計測批判の象徴的な対象である。数の問いは、第1章全体から得られた観点とともに、第2章で導入される「持続」という新たな観念に対立させることで、計測の問いを完成し代表する。したがって、ベルクソンの否定的な態度のうちに、計測や数に対する彼の最後の言葉を看取したくなったとしても不思議はない。そしてベルクソン哲学の「欠陥」に烙印を押すだけに飽き足らず、あまつさえ非合理主義のしるしを見てとる者たちもいる。近年でもなお、フランソワ・ダゴニェはベルクソンを「科学の敵対者」と名指しで攻撃していた。

持続の計りえない性格を神秘化しようとしているのでないとしたら、ベルクソンはここで何をしようとしているのか。むしろ彼は可能な限り明確に、概念的再検討とイメージ使用を通して、持続を捉え直そうとしているのではないか。そのために、量化作業からは必然的に逃れるしなやかな本性を癒しがたく損なってしまうことなしに、この計りえないものをその場で、いわば飛んでいるところをとりおさえられるような概念とイメージの往復作業を創出しようとしているのではないか。持続が精神物理学の指の間からすり抜けていくことは決して偶然ではない。持続の計測は、現実的なものに直に「尺度を合わせて」裁ち直されることになる。ここで、ベルクソンの『方法序説』とも言うべき『思考と動くもの』序論の一節を引いておこう。そこで彼は自らが歩んできた哲学的な軌跡を振り返っている。

普通われわれが時間というときは、われわれは持続の測定(mesure)を考えるが、持続そのものを考えない。しかし科学が除去する持続、思考することも表現することも困難な持続を、われわれは感得し体験する。その持続が何であるかということをわれわれが求めたらどうであろう。一つの意識が測定などを試みずに持続を見ようと欲し、その際持続を止めずにつかまえようとし、つまり意識自身を対象にとろうとし、観察者と行動者、自発と反省を兼ねて、固定する注意と逃げていく時間をぴたりと合うまで近づけようとする際に、持続はその意識にどう見えてくるか。これが問題であった。(PM 1255/4)

計測せずに見ること、止めることなしに捉えること、それは一つの「計測するとは異なる仕方で」であり、既存のあらゆる計測の外で計測する新たな方法を発明しようと試みることに他ならない。「これから見るように、区別するという動詞は、一方では質的な、他方では量的な二つの意味を有している。ところが、われわれが思うに、これら二つの意味は、数と空間との諸連関を扱ったすべての人々によって混同されてきたのである」(DI 52/56, n.1)。持続に対応する直接与件とは、したがって、何らかの言いえない神秘的な経験から直接に由来するものではなく、量的に計測可能な時間である「物理学者たちの時間」の批判を通して、もっと正確に言えば、計測・数・度合いといった諸概念の根底的な鋳直しを経て、見出されるものなのである。さもなければ、ベルクソンが「自由の度合い」と呼んでいるものをどのように理解すればいいだろう。彼は『試論』第3章でこう言っているのである。「この意味で、自由は唯心論が時折それに帰してきた絶対的な性格を呈することはない。自由は複数の度合いを容れる」(DI 109/125)。文字通りにとるならば、直接与件(données immédiates)の「直接」という言葉がフランス語において「間接的でない im-médiates」と表現されていることは示唆的である。「意識に直接与えられたもの=間接的でない仕方で与えられたもの」の分析プロセスは、こうして、あらゆる媒介を排除しようとする現象学的還元に似ていなくもない方法に基づいて遂行される。持続/空間の差異化はまさに、このような「計りえぬものを計る」ことに関する新たな概念-イメージ装置である。ここから「数の科学」という通常の意味での数論(arithmologie)ではなく、ベルクソン的な数リズム論(arythmologie)を解明する必要が生じてくる。

ドゥルーズは、「ベルクソンの多様性理論」に関する講義の中で、次のように述べていた。「もちろん、二つの多様性に関するこの区別の下に、空間と持続の区別を認めることはたやすいことです。けれども大切なのは、『直接与件』の第2章において、持続-空間のテーマは、二つの多様性という前もって提示された、より深いテーマに応じる形でのみ導入されているということです」。私たちはこれに付け加えて、二つの多様性のテーマは、『試論』の第1章において、数・計測・度合いのテーマに応じる形で準備されている。さらに言えば、第2章においてリズム的数論が展開され、第3章で「自由の度合い」が提示されることを勘案するなら、『試論』全体の構造は、数・計測・度合い(リズム)論→多様性論→持続-空間論と概念化されていると考えるべきではないだろうか。こうして第1章からどのように読み進めていくべきか、その大まかな方針が得られたことになる。

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藤田尚志

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ふじた・ひさし  九州産業大学准教授。1973年生まれ。東京大学大学院人文社会系研究科博士課程単位取得退学。リール第三大学博士課程修了。Ph.D. 専門はフランス近現代思想。共著に、久米博・中田光雄・安孫子信編『ベルクソン読本』(法政大学出版会)、金森修編『エピステモロジー』(慶應義塾大学出版会)、西山雄二編『人文学と制度』(未來社)、共訳に、ゴーシェ『民主主義と宗教』(トランスビュー)など。