連載・読み物 ベルクソン 反時代的哲学

『ベルクソン 反時代的哲学』4

1月 06日, 2016 藤田尚志

第2章 リズム数論(arythmologie)――『試論』第2章の読解

諸々の〈数〉のうちで、数とは何とわずかなものであることか!〈数〉の存在は、われわれに到達できるものを至るところで超脱している。にもかかわらず、われわれの力は、思考に対するそのような存在の超脱を思考できるという点に存する。
――アラン・バディウ『数と諸々の数』

 

『試論』第1章は、「詳細に読もうとすると見た目以上に難しい章」(ヴォルムス)であり、その構造を正確に解明しようとする試みはこれまでほとんどなかったと言ってよい。私たちが煩瑣を承知でその構造の素描を試みたのは、その欠をわずかなりとも補おうとしてのことであった。これに対して残りの二章に関しては、すでに少なからぬ数の研究が存在する。したがって、私たちも読解の歩幅を大きくして、数と拡がりとリズムという三つの点に絞ることにしよう。そのいずれもが、持続の様々な側面を浮き彫りにしてくれるであろう。

§27. 数の問い(カント、フッサール、ベルクソン)

第1章末尾でベルクソンは、強度概念に関して「二つのアスペクト」を区別していた。「外的原因の表象的意識の諸状態」を研究するか、「それ自体で自己充足している状態」を研究するかに応じて表れてくる二つの相である。後者の相が、「根底的状態の内部にあると推察される単純な心的諸事実の多様性」と呼ばれていることから、ベルクソンがどちらの相も多様性と捉えていることが分かる。だとすれば、この心的諸事実の多様性という意味での強度と、量的ないし数的多様性という意味での強度的な大きさ、あるいはより一般的に数との間にいかなる差異があるのかをできるかぎり厳密に知らねばならない。「それで残る問題は、この〔内的多様性の〕イメージがどこに存立するのか、それは数のイメージと溶け合うものなのか、それともそれとは根本的に違うものなのか、ということである」(以上、50/54)。

『試論』第2章が、数の定義を再検討することから始まるのは以上のような理由による。ベルクソンは、「さしあたっては、この単一性と多数性の観念を掘り下げることはしないで、数の観念がまだ他に何かの表象を含んでいないか」(52/56)再検討してみようという。数を数えるとき、私たちは、一連のイメージの継起を心にとどめ、それらを次に喚起する新たな単位の一つ一つと並列する。「諸単位を加算するとき、それらの瞬間は永久に消え失せてしまう以上、演算の対象となっているのは、それらの瞬間そのものではなく、それらが空間を通過するときその中に残していったと思われる痕跡のほうなのだ」(54/59)。このとき重要なのは、数とは、「諸単位の集合」、あるいはもっと正確に言えば「一と多の総合」であるということではなく、それらの諸単位が「相互に同一」であるということ、「何らかの場所で区別される」ということである。数えるということはつまり、ある同一の空間の異なる「場所」において、諸事物を「同一」であると同時に「区別される」ものとして表象するということなのだ。数を数えるという作業は、それがいかなるものであれ、諸対象についての同時的な表象を含意している。どんな数の観念にも、それが抽象的なものであっても、空間の直観が伴っている。「数についての明晰な観念はすべて、空間内における視像ヴィジョンの中で見られた像を含んでいる」(54/59)。

だが、こうして数の問題から空間の問題へベルクソンは移行していくのだと、したがって彼にとって数の問題はあくまでも空間の問題を導入する役割を果たしているに過ぎないと考えるのは、いささか早計であろう。実際、彼は、数を数えるという行為の時間的な性格を強調している。あえてくどい言い方をすれば、数える時間を数えることが問題となっている。数えるという操作そのもの、数の形成作用そのもののうちに、ベルクソンは二つの多様性の区別の起源を見出す。

一言で言えば、考えられている単位と、考えられた後で物として立てられる単位とは区別しなければならない。それは、形成途上の数と、ひとたび形成されてしまった数とを区別しなければならないのと同様である。(57/62)

ベルクソンが強度概念の「二つの相」を区別していることは先に見た。今や彼はこの二つの多様性を分かつ基準を、数の構築そのもののうちに認める。ということは、空間そのもののうちにではなく、精神が諸対象を空間内に位置づける局所化プロセスのうちに認める。数え上げるという行為自体が時間的プロセスである以上、空間はひたすら数的表象への固定化ないし固体化の契機としてのみ介入してくる。数えるとは、数える時間を殺し、固定し、数え終わった時間へと虚構化することなのだ。したがって、数から空間へと手早く移ってしまう前に、時間が必要である。このフィクション、この表象の「隠された技法」に気づく時間が。より詳細には『物質と記憶』の分析において見ることになるが、表象するとは、像化するイマジェイマージュを与える)ことであり、間隔化=空間化するエスパセ空間エスパスを与える)ことにほかならない。

この数えるという行為における主体性は、ある種の規定不可能性に関わっている。より単純な一定数の要素を含む複雑な感情は、はっきりとした知覚において際立つという事実そのものによって変化してしまう。逆に、ある対象の多様な解体が常に可能であり、つまりはその総体の相を何ら変えることなしに現在、解体が可能である場合、そのような状態が客観性と呼ばれる。「未分割なもののうちに下位区分を、それも単に可能的にではなく、このように現実的に統覚するということ、このことこそまさに私たちが客観性と呼んでいるものである」(57/63)。では、主体性と客観性はどのように区別されることになるのか。

となればもう、数の観念のうちに主観的なものと客観的なものとの領分を正確に割り振ることは、たやすい作業になる。本来精神に属するのは、精神が特定の空間のさまざまな部分に継起的にその注意を固定していく不可分な過程である。しかし、このように孤立した諸部分が保存されて他の部分に付け加わり、そしていったん相互に加算されてしまうと、どんな分解にも適応するようになる。〔…〕空間こそは、精神が数を形づくる素材、精神が数を位置づける環境なのである。(57/63)

この「正確に割り振る」ことの真の賭け金はいったい何であろうか。私たちの考えでは、それは二つの統覚の様態を区別することにある。

たしかに純然たる継起を時間のなかで、しかも時間のなかだけで統覚することはできようが、しかし付加すること、つまりある総和に達するような継起となると、そうはいかない。(54/58-59)

してみると、二種類の単位があるように思われる。その一つは、自分を自分自身に加えることによって数を形づくるように定められた単位であり、もう一つは、暫定的な単位で、それ自身では多数性でありながら、それを統覚する知性の単純な作用からその単一性を借りてくるような数に備わっているものである。(55/60)

一方で問題となっているのは、カント的、超越論的、空間的、算術的、実践的な統覚である。他方で問題となっているのは、ベルクソン的、内在的、時間的、リズム的、実効的な統覚である。この『試論』第2章冒頭における数の批判的分析は、カントによる数の分析への批判であり、彼の図式論への、ということは演繹論全体への、つまりは彼の超越論哲学総体への批判を内に秘めているのである。

数は「超越論的」な起源をもつ。というのも、ベルクソンにとっても、カントにとってと同様、数は私たちの精神のある一つの行為の帰結だからである。だが、カントにとって、数とは、「悟性の概念としての量(quantitas)の純粋な図式」であり、「一を(等質的な)一に順次加算することを含む表象」である。「したがって数は、等質的な直観全般において理解された多様なものの綜合がもたらす統一に他ならない。このような統一は、私が時間そのものを直観の覚知において産出するという事実によって可能となる」(KRV, B182)。

逆に、ベルクソンは、数えるという行為のもつ時間性と数えられるものの空間性の差異を強調する。先に見たとおり、彼は「考えられている単位」と「考えられた後で物として立てられる単位」、つまり「形成途上の数」と「ひとたび形成されてしまった数」とを区別しなければならないという(57/62)。それは、「私たちは自分が数える各々の瞬間を知らず知らずのうちに空間の一点に固定している」(54/59)からである。通常の意味での「数」はベルクソンにとって、すでに数え終わったものという意味で、数え上げるという時間的な操作から抽象されたものである。彼は、総和を考えるというプロセス全体を「主観的」(主体化するもの)と呼び、このプロセスの(諸部分に分解可能なものとしての)結果を「客観的」(客体化されるもの)と呼んでいた。時間のなかで、時間とともに数えるという行為は、生きているという事実と切り離しがたいものである。後に『試論』第3章で言われるように、「要するに、深層心理学的な諸事実の領域では、予見すること、見ること、行動することのあいだに大した違いはない」(130/149)からだ。数えられ区別されることで本性を変える、アリストテレス的な「潜勢態における数」という概念の変形のうちには、やがて「内在的感性論」とその特異な身体論へと導かれることになる新たな計測の論理が存在する。

ベルクソン的主体は、数えられるべく分割され空間化される数を外側から数える(つまり、多様な可感的与件を取り集め、一つの認識へと綜合する)「超越論的統覚」の地位を占めるものではない。「綜合」の領域を拡張し、構想力と悟性を分かつ深淵を一挙に飛び越えようとしたカントは、図式論を「人間の魂の奥深いところに潜む隠微な技術」(B181)と捉えた。あたかも、細心の注意を必要とされる手術に見事な手腕を発揮はするが、縫合された傷を嘆く患者の気持ちを理解しない医者のように。ベルクソンにとって、図式論の中にはいささかも神秘的なところはない。数えるという行為が内在的に数を生み出すプロセスにおいて決定的な役割を果たすリズム性はまた、主体・自我・意識をも生み出す。

フッサールは『算術の哲学』(1891年)において、カントのこの数論(arithmologie)を再び取り上げ、それを図式論の不十分さと、綜合という概念の不十分さという二つの点で批判している。ここでの文脈に必要な第二の点のみを取り上げるにとどめよう。

フッサールは、数の起源として、「集合的綜合」の活動を考え、それをより厳密に特徴づけるために、カントの綜合の理論と比較しようとする。フッサールによれば、「綜合」という語は、カントにおいて二つの意味を持っている。ある全体の諸部分の統一性という意味と、結びつけるという精神的営為の意味である。フッサールは、この二つの意味の混同ないし「移行によって生じる曖昧さ」を批判するのである。

したがって綜合ということが彼〔カント〕にとって意味するのは、結びつけるという行為(関係づけ活動)であると同時に、結びつけるという行為の結果(関係の内容)でもあるのだ。ところが、二つの意味を混ぜ合わせてしまった結果、例えば、「自発的な活動行為」、悟性の機能といったような、表象の一次的内容という意味における「関係」しか問題となっていない場合でさえ、明らかに関係一般を指しているといった事態が生じてしまっている。〔…〕

カントは、諸内容のうちに置かれた数多くの関係が私たちに与えられてはいるが、それらの諸関係のうちで、諸内容の内部に関係状態を作り出すような綜合的営為があると認めるのは不可能だということを忘れてしまっていたのだ。〔…〕量のうちに集められ、数のうちに数えあげられた諸内容の関係〔結びつき〕は、空間的な関係ではないし、時間的な結びつきとして考えられうるものでもない(そして私たちは、すぐさま付け加えることができるが、一次的な内容のうちにある別の結びつきのようなものとしてあるわけでもない)。〔…〕ここから分かることは、我々の諸概念の綜合が、内容のうちに見出しえず、ただ幾つかの総合的な行為のうちに見出しうるのみだということ、したがってまた、それらに関する反省によってしか気づかれえないものでもあるということである。

フッサールとベルクソンは出発点を共にしつつも、その後、逆の方向へ向かっていくことが分かる。彼らはどちらも、カントが未だ明確に分離していなかったものを分離しようとしている。アリストテレスのようにmétabasis eis allo genos(ある類から別の類への移行・越境)を戒め、関係づける営為と関係づけられる内容を分離しようと欲したのである。だが、フッサールにとってこの分離は、超越論的な身振りの純化を完遂するためのものであり、引用の最後に登場した「反省」の概念はその萌芽である。ベルクソンは逆に、ラディカルな内在の道をとろうとする。

 

§28. 場所論(khorologie)I――コンパス化された存在(拡がりと空間)

数えるもの(生成しつつあるもの)と数えられたもの(すでに出来上がったもの)、測るもの(主体、質的なもの、持続)と測られるもの(対象、量的なもの、空間)の区別によって、私たちはベルクソン『試論』のよく知られた最深部に降り立ったかに見える。だが、これら二つの多様性を区別し、量的多様体は数と拡がり、程度の差異をもった、並置された物理的諸実在であり、他方、質的多様体はリズムと持続、本性の差異をもった、相互浸透する心的諸実在であると言明することで、ベルクソンはいったい何をしようとしているのか。彼は、物質を数えられ、計りうるものに切り詰め、精神を数えられず、計りえないものに切り詰めて満足しようとしているのではない。実際にはそれとはまったく異なることが問題となっているのである。質的多様性は、分割不可能なものとして規定されているのではなく、分割されることで本性を変えてしまうものとして、本性を変えつつ分割されることをやめないものとして規定されているのだ。

ある意味では、『試論』はほとんどカントの超越論的感性論の焼き直しであるかのように見えさえする。というのも、持続という、時間に関する新たな概念を導入しつつ、ベルクソンは、空間概念に関してはカント的定義に満足しているようにも見えるからである。「カントが感性のア・プリオリな形式と呼んでいたもの」とは「空虚で等質的な媒体」だとベルクソンは言う。「空間とは、複数の同一的かつ同時的な諸感覚の区別をわれわれに許容するものである〔…〕。つまり空間とは、質的差異化の原理とは別の差異化の原理であり、ひいては質なき実在なのである」(64/70-71)。ここでベルクソンが、このカント的空間について、「今仮にこの働きを特徴づけようとすれば、それは本質的に、空虚で等質的な媒体についての直観、、、というよりもむしろ、空虚で等質的な媒体という概念の形成、、、、のうちに存しているのが分かるだろう」と述べていることに注目せねばならない。これはもう少し後で次のように言われていることとどのような整合性を持つのだろうか。

こうした〔等質的な空間を知覚し表象する〕能力は抽象する能力ではまったくない。それどころか、抽象が截然たる区別ならびに、諸概念あるいはそれらの象徴相互の一種の外在性を想定していることに注目するなら、抽象する、、、、能力がすでに、、、、、、、等質的な媒体についての直観を含んでいる、、、、、、、、、、、、、、、、、、、のが分かるだろう。述べるべきは、われわれが、一方では異質的な実在、感性的諸質の実在、他方では等質的な実在たる空間という二つの相異なる秩序の実在を認識しているということ、これである。

これこそ、空間概念に関して、『試論』を単なるカントの焼き直しにすることを阻んでいる要素である。すなわち、「経験論的あるいは発生論的説明は、空間の問題を、カントが放置したまさにその地点で取り上げ直す」とベルクソンが言うとき、彼が狙っているのは、一方では、従来の経験論的・発生論的説明が連合論に堕してしまっていることへの批判であるが、他方で、新たな高次の経験論ないし高次の発生論の創出である。つまり空間の超越論性の維持(単純な概念化の棄却)とその発生論的説明(超越論性の内在性への折り畳み)である。ベルクソンの拡がり(étendue)の知覚への注目もこの文脈において捉えねばならない。「等質的空間の表象が知性の努力に由来するものであるなら、逆に、二つの感覚を差異化する諸々の質そのもののうちに、それらが空間内でしかじかの規定された場所を占めることの理由が存しているはずだと、われわれは踏んでいる。そうだとすると、拡がりについての知覚と、〔等質的な〕空間という概念の形成とを区別しなければなるまい」(65/72)。「拡がりの知覚」は決して「空間の概念」と、「具体」対「抽象」のような単純な形で対立しない。空間の概念の超越論性は決して廃棄されない。空間は相変わらずア・プリオリな感性の形式であり続ける。ただ、生の哲学は、空間直観の生成過程についての探究は決して禁じられていない、理念的なものの発生は問いうる、とするのである。

「空間の概念」に先行する「拡がりの知覚」の例としてベルクソンは、動物の方向感覚を持ち出す。渡り鳥など、数百キロにも及ぶ長さの未知の道程を駆け抜けて、古巣へとほとんど一直線に戻ってくる動物は、驚くほど容易に自分の進むべき方位を空間内で見出す。

こうした方向感覚については、視覚あるいは嗅覚によって、より最近では磁気流の知覚――磁気流によって動物は羅針盤のように方位づけられる(s’orienter comme une boussole)というのだ――によって、それを解明せんとする試みがなされてきた。これは要するに、われわれとは違って、動物にとって空間は等質的ではなく、空間上の諸規定や方向も決して純粋に幾何学的な形態を帯びていない、ということである。動物にとっては、そうした規定や方向の各々が、そのニュアンス、それ固有の質を帯びて現れるのだろう。〔…〕実を言えば、質的差異は自然の随所に存在している。(65/72)

哲学は驚きから始まると言われるが、それは、一見して尋常ならざるものに対する驚きではなく、一見すると何の変哲もないものに対する驚きである。「空虚で等質的な媒体という概念の形成はというと、それはまた別の意味で尋常ならざるものであって、われわれの経験の基底そのものをなす異質性に対する一種の反動を要請しているように見える」。ベルクソンを驚かせるのはしたがってある種の動物が特別な方向感覚を有しているということよりも、「さらに、そしてとりわけ、われわれは質なしの空間を知覚したり思い描いたりする特別な能力を有している」ということなのである。

ちなみに、この「空虚で等質的な媒体」としての「幾何学的な形態」を帯びた「空間の概念」と、方向感覚の例に見られる「拡がりの知覚」の区別は、後にメルロ=ポンティによって、「位置の空間性」と「状況の空間性」という形で取り上げ直され、彼の知覚の現象学において独自の発展を遂げることになるが、ここでは二点強調しておく。まず第一に、この特異な「拡がり」は、右手と左手の例を通して、人間が空間においてdéboussoléな存在であることを示すと同時に――déboussoléは「羅針盤、コンパス」を意味するboussoleから作られた語で、「途方に暮れた、先の見通しがない、指針を失った」を意味する。ここでは、まずは「方位磁石化されていない」という意味で用いている――、状況において方位磁石化されていことを示しているが、この空間的な方位-喪失(dés-orientation)こそが、私たち人間を動物たちと分かつものだということである。第二に、この空間と拡がりの区別が、決して完全に死んだものと生き生きとしたものの区別でなく、むしろ空間の超越論性の発生を拡がりの中から内在的に説明しようとするものであることは、後の『物質と記憶』における「二つの身体」の理論、次いで『創造的進化』における「傾向」の理論を準備し、「流動の哲学」を目指すものであるように思われる。これらの点については、それぞれの著作の読解において改めて指摘することにしたい。ここでは、ベルクソン特有の場所論が初めて素描されたという点を指摘するにとどめる。

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藤田尚志

About The Author

ふじた・ひさし  九州産業大学准教授。1973年生まれ。東京大学大学院人文社会系研究科博士課程単位取得退学。リール第三大学博士課程修了。Ph.D. 専門はフランス近現代思想。共著に、久米博・中田光雄・安孫子信編『ベルクソン読本』(法政大学出版会)、金森修編『エピステモロジー』(慶應義塾大学出版会)、西山雄二編『人文学と制度』(未來社)、共訳に、ゴーシェ『民主主義と宗教』(トランスビュー)など。