連載・読み物 ベルクソン 反時代的哲学

『ベルクソン 反時代的哲学』6

1月 06日, 2016 藤田尚志
§33. 自由はいかにその歩みのリズムを刻むのか(ベルクソンとハイデガー)

彼にとって習慣のように、決定論者たちのテーゼが辿り着く袋小路を警告した後で、ベルクソンは自らのテーゼを提案する。「自由行為」と題されたセクションのポイントは次の点にある。魂は一つないし複数の感情を動機として自己決定するのだと主張する決定論的で連合主義的な心理学は、「言語に囚われた(dupe du langage)、粗雑な心理学にすぎない」(109/124)。数ある感情の中から一つないし複数の感情を分離し、「動機」として特権視することで、そのような心理学はその感情を変質させ歪曲しているのではないか。そうではなく、逆に、もし魂が自己決定するということがあるとすれば、それは「共感、嫌悪や、憎悪」といった様々な感情が、「それぞれ魂全体を表象」するかぎりにおいてのことである(ここで、ベルクソンの挙げている例に、嫌悪や憎悪といったネガティヴな感情も含まれていることに注意しておこう。自由は決して心地よい感情にだけ関わっているわけではない。もう少し先でベルクソンは『人間嫌い』のアルセストの例を出しさえするだろう)。「それらの感情が十分な深さを備えていれば、魂の全内実が、その各々のうちに反映されている」(id.)。ここで先に(§32で)予告しておいた、あの「通常は」と「自己決定に関する紋切り型の考え」に戻ることにしよう。次の一節は、その理解にとって決定的である。

魂はこれらの感情のどれかひとつの影響下で決定されると述べること、それは、魂は自ら自己決定すると認めることなのである。(109/124)

粗雑でない、「より注意深い心理学」(105/119)の観点からすれば、魂は通常の意味で、つまり自己自身の意志が、ある特定の感情を動機として、ある特定の行動へと姿を変えるという仕方で、自己決定するのではない。というのも、この自己決定の図式は、過ぎ去った時間、空間化された時間に基づいているからである。意志的決定や自己決定がもし可能であるなら、それとはまったく異なる形態の下でのことである。生成し過ぎ去りつつある時間のなかで、ある行為の産出は、自我の表現と一体となって行われる。すでに存在していた私や私の特定の感情が、何かの行為を生み出すのではなく、様々な感情の特定の布置が行為に反映される度合いが、そのまま〈私〉の現れる度合いなのである。

人格は、それを選ぶ術さえ知っていれば、これらの意識的事象の中の一つのうちに全面的に存しているからだ。そして、この内的状態の外的顕現こそ、まさに自由行為と呼ばれるものであろう。というのも、自我のみがその作者であったろうし、また、この顕現は自我全体を表現するであろうからだ。(109/124-125)

誤解のないように言い添えておけば、自我の全体性を表現するよう意識して行動すれば、ひとは自由でありうる、といったようなことをベルクソンは言わんとしているのではもちろんない。自我全体や意識の有機的全体性を表現するような特定の行動ないし意志決定を前もって想像したり思い浮かべることは、その想像し思い浮かべるという当の行為そのものの時間を不可避的に逸してしまうというまさにその点で、ここで問題としている全体性を取り逃してしまう。そうではなく、ベルクソンが言いたいのは、魂の全体を表現している行為があれば、そのような行為こそが自由行為だということである。

このベルクソンの自由概念について幾つかの考察を加えておこう。まず、特徴的なのは、自由が表現という観点から捉えられているということである。「これらの感情は、十分な深さに達していれば、魂の全内実がその各々に反映されている(se reflète)という意味で、その各々が魂の全体を表している(représentent)。〔……〕そして、この内的状態の外的顕現(la manifestation extérieure de cet état interne)こそ、まさに自由行為と呼ばれるものであろう。というのも、自我のみがその作者であったろうし、また、この顕現は自我全体を表現するであろう(exprimera)からだ」(109/125)。「要するに、われわれが自由であるのは、われわれの行為が自らの人格の全体から発出し、これらの行為が人格の全体を表現する(expriment)場合、そして、前者と後者のあいだに、作品と芸術家とのあいだに時に見られるあの定義しがたい類似が存在する場合である」(113/129)。「実を言えば、われわれの魂の深層の諸状態、数々の自由な行為によって翻訳される諸状態は、われわれの過去の経歴の総体を表現し、要約して(expriment et résument)いる(122/139)。表現という概念は、自由の度合いとともに凝縮性をも導入している。

次に、そこで言われている自由は、いかなる外的規範も参照することはない。「自由は、行為それ自体のあるニュアンスないし質のうちに求められるべきであって、行為とこの行為がそうではないところのもの、または、そうでありえたかもしれないところのものとの連関のうちに求められるべきではないからだ」(120/137)。全体主義国家に生きているか否か、資本主義体制のもとで搾取されているか否か。自由であるか否かはそういった二者択一によっては決まらない、とベルクソンは言う。政治・経済といった外的・物質的基準だけではない。心理的・精神的基準に関しても同じであって、自由であるか否かは、その人が道徳的であるか否か、因習に囚われた人であるか否かによっては決まらないのである。この点をよく理解しておかなければ、次の一節は理解できないだろう。

情念は、たとえそれが突発的なものであったとしても、たとえばアルセスト〔モリエールの戯曲『人間嫌い』の主人公の名前〕の憤慨のように、そこに人格の経歴全体が反映していれば、もはや宿命的な性格を呈することはないだろう。このうえもなく権威主義的な教育であっても、それが魂全体に浸透しうる観念や感情だけを伝えるのであれば、われわれの自由は何も剥奪されないだろう。(110/125)

したがって、『試論』第一章において「深い感情」が、第二章において「深層の自我」が問題となっていたとしても、その場合の「深さ」に表層的・通俗的な意味を読み取るべきではない。人づきあいが悪く、問題含みと見える人格の持ち主であっても、限りなく偏向していると見える教育を受けてきた人であっても、その人がこれまで生きてきた歴史、全人生が、ある行為に余すところなく表現されていれば、その時その人は自由である。注意しておこう、その人の「意識」が、ではない。その人の「全存在」があますところなく表現されていれば、である。

ベルクソンのこのように「表現主義的」な自由に対して、次のような皮肉を込めた反論が提起されるかもしれない。「ならば、ベルクソン的自我は、牢獄の中にあっても“自由”たりうるのでしょうね」と。もし日常生活自体、ベルクソンの目にはおそらくすでに一種の牢獄なのだと認めるのであれば、その通りであるかもしれない。「このように解すれば、自己自身を観察し、自分が行なうことについて理性的に推論するのに申し分なく習熟したひとにあっても、自由な行為は稀である。われわれは大抵は空間を介した屈折(réfraction)によって自らを覚知するということ、われわれの意識状態は諸々の語へと固化する(solidifiaient)ということ、われわれの具体的自我、生きた自我も、明確に描かれ、互いに分離され(séparés)、ひいては固定された心理的事象の外皮によって覆われるであろうということ、これをわれわれはすでに示した。〔……〕今やわれわれとしてはこう言いたい。われわれの日常的な行動は、無限に移り気な感情そのものよりもむしろ、これらの感情が接合している不変のイメージを範としている。」(110-111/126)。ここで描かれている自己の「屈折」「固化」「分離」、あるいはベルクソンの「表層的な自我」概念自体、ハイデガーが「日常性の存在の根本的様相」ないし「現存在の頽落(Verfallen)」と呼ぶものときわめて近い何かを思考しようとしているように思われる。ハイデガーは、自己の自覚を押し殺し、隠蔽するような存在様態の分析から論を始め、そのような非本来的な「世間」(das Man)に、存在の意義を知る本来的自己を対置するが、このような現存在の「本来性」(Eigentlichkeit)と「非本来性」(Uneigentlichkeit)の区別は、ベルクソンにおける「深層の自我」と「表層の自我」の区別に――その区別が時間に対面する姿勢の違いに発するという点まで含めて――酷似している。

ここで注意しておくべきだが、ベルクソン同様、ハイデガーも、いかに本来性を獲得し、どう非本来性を回避すべきかといったことを言おうとしているのではない。彼はただ、「本来性/非本来性」という二つの様態を現象学的に記述し、両者の底に横たわる存在論的な基盤を発見しようとしているにすぎない。

この名称〔現存在の頽落〕は、なんら否定的な評価を表明するものではなくて、現存在がさしあたってたいていは、配慮された「世界」のもとに携わっているということにほかならない。このように……に携わってそれに融けこんでいることは、たいていは、世間(Man)の公開性のなかでわれを忘れているという性格をもっている。現存在は本来的な自己存在可能としてのおのれ自身から、さしあたってはいつもすでに脱落していて、「世界」へ頽落している。「世界」へ頽落しているということは、世間話や好奇心や曖昧さによって導かれているかぎりでの相互存在のなかへ融けこんでいるということである。われわれがまえに現存在の非本来性と名付けておいたものは、いま頽落の解釈を通じていっそう鮮明に規定されることになる。(ハイデガー『存在と時間』第38節)

ハイデガーはここではっきりと、「現存在の頽落」「現存在の非本来性」「世間話や好奇心や曖昧さ」に対して、単純に「否定的な評価」を与えているわけではないと明言している。私たちは、序論でベルクソンの言語に対する態度を見たが、そこでも強調しておいたように、ベルクソンもまた、決して単純に、「表層的な自我」「社会的自我」やそれを成立させる「言語」「空間」を否定しているわけではない。「会話(conversation)は保守(conservation)にひどく似ている」(PM 1322/89)というとき、ベルクソンがハイデガーと共に与えているのは、事態を明確に捉えるために、紛糾した諸要素を区別し切り分けるという意味での「批判」なのだ。マイケル・ゲルヴェンは、『存在と時間』に関する註解のなかで、ハイデガーの方法が「論理的というよりは現象学的である」と指摘し、「いきなり自由だとか時間だとかの考察から始めて、そこから本来的、非本来的の様態を還元するというような仕方はとらずに、我々の自己了解の様態についての現象学的、日常的理解から出発し、その分析を通じて存在論的基盤を展開させる」と述べているが、もしこの指摘が正しいとするなら、ベルクソンの方法は、ハイデガーのそれとある意味でまったく異なるが、しかし別の意味ではかなり似ている。ベルクソンは、予備的・方法論的考察から論を始めることを決してせず、常に事態の核心から論を説き起こすという点でハイデガーとは決定的に異なるが、ベルクソンも時間と自由についていきなり議論を始めているわけではなく、心理的諸状態の質だけを取り出すために強度の計測という概念の再検討から始め、純粋持続を把捉するために数の概念の分析から始め、自由行為に至るために連合主義的決定論の批判的検討から始めるという点ではほぼ同じである。

ハイデガーとの比較はこのくらいにして、ベルクソンの自由概念に戻ろう。

自由と呼ばれるのは、具体的な自我とそれが遂行する行為とのあいだの連関である。(143/165)

意識の表現性こそが自由の本質だとするベルクソンにとって、「自由」とは、継起的で「印象的」(impressive)な持続が、意識内の部分と全体の有機的連関をもってしては表現しきれない現象である。感覚にせよ観念にせよ、それらが深いものであれば、魂の全体を表現しうる。問題となるのは、それらの深さの度合いであり、したがって自我の深さと凝縮的で「表現的」(expressive)な相互浸透である。自由とは、桎梏からの解放でもなければ、拘束の除去でもない。ベルクソンにとって「自由であること」とその逆のあいだに二者択一が成立するわけではなく、自由はオール・オア・ナッシング、ゼロサムではない。自由はニュアンスのうちにある。あるいはむしろ、自由とは、もはや単にある感情や観念のうちにではなく、ある特定の行動に反映された、人格と記憶の凝縮の表現である。意識の諸状態が各々ある深さを持っていたように、自由行為もまたそれぞれ深さを持っている。

この意味で、自由は唯心論が時折それに帰してきた絶対的な性格を呈することはない。自由は複数の度合いを容れる。――なぜなら、すべての意識状態が、ちょうど雨滴が池の水と混じり合うように、その同類と混じり合って一体化するなどということはおよそありえないからだ。(143/165)

すべての意識の諸状態が、「雨滴が池の水と混じり合うように」、互いのうちに相互浸透しているのではない。つまり相互浸透にも度合いがあり、混淆の仕方はさまざまである。したがって、自由行為の本質を解明するうえで、有機的全体性の構造における相互浸透を言うだけではもはや十分ではない。『試論』第三章のタイトル「意識の諸状態の有機組織化について。自由」を思い起こそう。問題は、この「有機組織化」がいかなるものであるのかということである。

1 2
藤田尚志

About The Author

ふじた・ひさし  九州産業大学准教授。1973年生まれ。東京大学大学院人文社会系研究科博士課程単位取得退学。リール第三大学博士課程修了。Ph.D. 専門はフランス近現代思想。共著に、久米博・中田光雄・安孫子信編『ベルクソン読本』(法政大学出版会)、金森修編『エピステモロジー』(慶應義塾大学出版会)、西山雄二編『人文学と制度』(未來社)、共訳に、ゴーシェ『民主主義と宗教』(トランスビュー)など。