連載・読み物 ベルクソン 反時代的哲学

『ベルクソン 反時代的哲学』13

1月 06日, 2016 藤田尚志
§45. situsの論理――記念碑的なもの(le monumental)から記憶を絶したもの(l’immémorial)へ(『物質と記憶』第4章)

ベルクソンの四大著作――『試論』、『物質と記憶』、『創造的進化』、『道徳と宗教の二源泉』――は、定型性(文学部系では三章構成、法学部系では二章構成)が求められる博士論文(『試論』)を除けば、すべて四章構成である。そしてそれらの著作において、最終章となる第四章というのはいつも、奇妙な(bizarre)ことではないとしても、特異な(singulier)ことが生じる場である。ベルクソンはそこでいつも、最後の大胆な一歩を踏み出す。

『二源泉』はどうか。最終章は「結びの考察――機械的なものと神秘的なもの」(Remarques finales. Mécanique et mystique)で、ベルクソンはこんな風に述べている。

この著作の目的は、道徳と宗教の起源を探究することだった。われわれはそこばくの結論に達した。ここで満足してもよいのかもしれない。だが、われわれの結論の根底には、閉じた社会と開かれた社会との根本的区別があった。〔……〕そこでこの本源の本能は、いったいどの程度にまで抑えられることができ、ないしはかわされうるものなのかをわれわれは問わねばならぬ。そして、われわれに向かって当然提出されてこよう一つの問いに――幾らか考察を付け加えて――答えねばならぬ。(DS 306-307)

結論のさらに「根底」へと掘り進めようとする姿勢がうかがえる。『創造的進化』第四章も同様である。その冒頭で彼は、理論的錯覚の「原理」を「根底から」見据えようとする。

なお二つの理論的錯覚をそれだけで取り出して吟味する仕事が残されている。それはここまで来る途中でよく出会った錯覚で、しかも今まではそれの原理(le principe)よりはむしろその諸帰結(les conséquences)が前面に出ていたのであった。本章では原理の方が対象となるであろう。〔……〕われわれが不在から現前へ、空虚から充実へと進むのはわれわれの悟性の根本的錯覚(illusion fondamentale)による。この誤謬から生まれる結論の一つを私は前章で注意してもらったわけであった。さきにも仄めかしておいたとおり、この誤謬を後腐れのないまでに克服するためにはそれと体当たりで取り組むほかない。われわれはこの誤謬を剥き出しにして、それが否定や空虚や無について根底から(radicalement)誤った考えを含んでいるところをしっかりと正面から見据えなければならない。(EC 275)

さて、以上を踏まえたうえで、予告しておいたように、ベルクソンに戻り、『物質と記憶』第4章の読解に取り掛かることにしよう。第四章冒頭で、ベルクソンはこう述べている。「厳密に言えば、私たちはここまでにしておいてもいいのかもしれない。というのも、私たちがこの仕事を企てたのは、精神生活における身体の役割を定義するためだからである」(IV, 317/200)。では、ヴォルムスの言うように、「著作の当初の目的とは関係のない、一種の〈代補〉(supplément)のように」現れるこの最終章は、いったいいかなる役割を果たしているのであろうか?形態(forme)から基底(fond)へと移行するように、ベルクソンは知覚から物質へと移行する。monument(像・碑など記念建造物、記念碑的作品、途方もないもの)は、基本的に物質からなるもの、純粋な物質性を指すはずだが、語源的にはmonereすなわち思い出させるものに由来する語である。厳密にこの意味で、つまり物質的なものを通じて想起させるという意味で、私たちは『物質と記憶』第四章におけるこの知覚から物質への移行をmonumentalと呼ぶ。というのも、『物質と記憶』第一章から第四章へのこの移行自体が、そのまま第二章・第三章へと私たちを導いていくからである。そこでは、今度は、「記憶を絶したもの」(immémorial)という逆説的な表現で表される事態が問題となるであろう。なぜなら、この表現において問題となっているのは、まさに記憶を助けないもの(in-memorialis)、記憶にないものと、しかしそのような形で記憶において存続し残存するものとの間で生じる事態だからである。immémorialは、まさにこの意味で、『物質と記憶』の中核をなす第二章・第三章の動きをうまく要約してくれる表現であるように思われる。

『物質と記憶』第四章に後続する「要約と結論」において、ベルクソンは、「この『純粋知覚』の理論は次の二つの点で、緩和されると同時に補われなければならなかった」と認めている。

この純粋知覚というものは、実際、実在からそのまま切り取られた断片のようなもので、他の物体の知覚に、自己の身体の知覚すなわち感情を交えることもなく、その現在の瞬間の直観に別な諸瞬間の直観すなわちその想起を交えることもないような存在に属するであろう。言い換えれば、われわれはまず研究の便宜のため、生きた身体を、あたかも空間内の数学的な一点のように扱い、意識的知覚を時間内の数学的瞬間のように扱ってきたということだ。身体にその延長(étendue)を、知覚にその持続を回復してやらねばならなかった。そうすることによってわれわれは、意識の中に二つの主体的要素、つまり情動性と記憶を再統合することになるだろう。(MM 262)

 意識と身体内への情動性と記憶のこのような再挿入こそ、まさに第一章で純粋知覚が提示された後、第二章・第三章でなされてきたことにほかならない。ところで、ベルクソンは第四章を、二つの関係に要約されうる「一般的な結論」を述べることから始めている。まず問題になるのは、「選択の道具」としての身体と、身体の「位置」(place)としての知覚との間の関係(第一の選択)であり、次いで、この身体と、「最終的な行動のために現在の状況を補完し照らし出す」記憶との間の関係(第二の選択)である。第二の選択が第一のそれよりも「はるかに厳密なものでない」理由はまた、ベルクソンがこの主題をこの第四章で展開する理由でもある。というのも、それこそ、人間存在に固有なものとしての記憶を構成するものであると同時に、精神生活つまり人間の情動性に具体的な基盤を与える想像力を構成するものであるからである。

この〔記憶の行なう〕第二の選択は、〔知覚の行なう〕第一のそれよりもはるかに厳密でないが、それはわれわれの過去の経験が個人的な経験であって、もはや〔知覚におけるように〕共通のものではないから、われわれは常に、現在の同じ一つの状況に対して同様に適合しうる多くの異なった想起を持っているからであり、さらにまた、自然は、知覚の場合にそうであったように、われわれの表象群を限定するための確固たる規則を、〔記憶においては〕もはや持ちうることはないからである。したがってある一定の余白が、今回は〔記憶の場合には〕空想(fantaisie)に必然的に残されている。動物たちはこれをほとんど利用しないが、それは彼らが物質的な必要に囚われているからであって、逆に、人間精神は、身体が少しばかり開いてみせる扉を、記憶の総体をもって絶えず押し続けるのである。その結果生じてくるのが、幻想の戯れであり、想像力の作業であって――それはとりもなおさず、精神が自然に対してもつ自由である。(id.

後で詳しく見るが、想像力には二つの面がある。図式論の中で機能する想像力と、知性に対して自由な一致をもつ想像力である。ベルクソンがこの一節で語っているのは後者であって、これについては第三章に関する読解の中で取り上げることにしよう。今私たちの対象となっている第四章で語られるのは前者である。

「空間が空間化する」といったハイデガー的なトートロジーよりも、むしろイマージュは、私たちの利害関心に基づいて整序され(s’ordonner)、空間は私の身体から出発して調整される(se coordonner)と私たちは先に述べておいた(§42)。別の言い方をすれば、場所(site)を状況(situation)と混同すべきではない。siteは大地(terre)と関係を持ち、それぞれの地理に応じて付与される(se disposer)されるのに対して、situationは領土(terrain)と関係を持ち、政治的・経済的・歴史的ないし社会的な土地の境界画定によって課される(s’imposer)。ベルクソンにおける「situsの論理」は、メルロ=ポンティ的な「状況の論理」と区別されねばならない。メルロ=ポンティ的な「知覚の状況」は、個人を取り巻く状況として置かれる(se situer)ものに依存する、個人的なもの(individuel)である。ベルクソン的な「知覚の場所」は、非人称的(impersonnel)ではなく、そこに置かれる(se placer)者の観点に応じて自らの在り方や外界への印象を変えるという点で、主体的で匿名的(anonyme)のままである。この場所は自らにとって存在するだけでなく、あらゆる者にとって存在するが、あらゆる者にとって人称的=人格的(personnel)に存在する。知覚の「場所」(le site)は、「私の身体」が「コンパス」ないし「万華鏡」として周囲を取り巻く世界に対して取る距離に従って配置される(se disposer)。だが、こう表現することが許されるなら、内面にまだ晒されてはいない。私たちの課題は、したがって、『物質と記憶』最終章にまで、situsの論理を追究していくこととなる。

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藤田尚志

About The Author

ふじた・ひさし  九州産業大学准教授。1973年生まれ。東京大学大学院人文社会系研究科博士課程単位取得退学。リール第三大学博士課程修了。Ph.D. 専門はフランス近現代思想。共著に、久米博・中田光雄・安孫子信編『ベルクソン読本』(法政大学出版会)、金森修編『エピステモロジー』(慶應義塾大学出版会)、西山雄二編『人文学と制度』(未來社)、共訳に、ゴーシェ『民主主義と宗教』(トランスビュー)など。