ベルクソン 反時代的哲学 連載・読み物

『ベルクソン 反時代的哲学』17

1月 06日, 2016 藤田尚志
§52. 呼びかけII:無為(デジャヴについて)

一般に信じられているのとは逆に、ベルクソンは、純粋記憶の秘められた、深い本性を解明することにはそれほど関心を抱いていない。彼がそれに関心を抱くのは、記憶が私たちの日常生活に関わり、それを十二分に明るく照らし出すために働いている限りにおいてのことである。いや、むしろこう言うべきだろう。日常の何気ない生の襞の中にこそ最も謎めいた秘密が隠されているのであり、それこそベルクソンの関心を最も引くことなのだ、と。これは「エラン・ヴィタル」や「エラン・ダムール」についても言えることだ。彼は生命の神秘をどこか奥深いところに求めたりはしない。生命現象が立ち現れてくるまさにその場所において、すなわちエラン・ヴィタルと物質性がぶつかり合う地点において生命を捉えようとするのであって、エラン・ヴィタルのみを純粋に析出すること――それはむしろ、時間を空間化する(記憶を局所化する、生命進化を物質の視点からのみ解明する)のとは逆の意味で過度の抽象化であり、悪しき思弁化でさえあるだろう――にはさほど関心がないのだ。何度も繰り返そう。「体系化することはたやすい。ある観念の果てまで行くのはあまりにも容易だ。難しいのはむしろ演繹を止めねばならないところで止めること、個別科学の深化のおかげで、また現実との絶えず維持された接触のおかげで、その演繹を屈曲させねばならないところで屈曲させることである」(Mélanges, p. 1187)。この点を今一度肝に銘じたうえで、先に進むことにしよう。

純粋想起は精神的な現出(manifestation spirituelle)である。記憶をもって、われわれはまさに紛れもなく精神の領域にいるのだ。VIII-われわれはこの領域を探査する必要はなかった。精神と物質の合流点(confluent)に身を置き、一方が他方に流れ込むのを何よりも見ようと欲しながら、われわれが知性の自発性について銘記せねばならなかったのは、このような知性と身体的機構との接触点(point de contact)だけである。(MM, Résumé et conclusion, 370/270-271)

そういうわけで、記憶の深く精神的な、固執的(persistant)ないし生き延び(survivant)的な、あるいは先に(§45で)規定した意味でimmémorialな性格を理解させてくれるような手掛かりを多く残す必然性をベルクソンは感じていなかった。したがって私たちもまた、純粋想起を「意識の諸平面」の逆円錐の限界内でのみ扱うことにする。だが、とはいえ、その限界にもう少しこだわって、純粋想起の特徴を際立たせてみたい。

1)憑在論的な記憶  まず初めに強調しておくべきは、純粋記憶が存在、、している、実在、、しているということ、しかしながら知覚とは別の仕方でそうなのだということである。アンドレ・ブルトンは、「Qui suis-je?」という表現を別様に受け取る可能性を示唆することで、『ナジャ』を開始させていた。つまりsuisを、être動詞の三人称単数形としてのみでなく、「追いかける」を意味する動詞suivreの三人称単数形としても、したがってhanter(執り憑く)としても受け取るとすればどうなるかということだ。ブルトンと同じような仕方で、私たちも純粋記憶の性格を「準‐存在論的」(quasi-ontologique)、あるいはさらに正確に言えば「憑在論的」(hantologique)と呼ぶことも出来よう。例えばサルトルは、『想像力』でこう述べていた。

ベルクソンは、「イマージュ」という語の二重の意味の上で戯れつつ、想起イメージに対して、対象のもつ一切の充実性を与えている。というより、それは新しい存在の型に従って理解された対象そのものなのだ。(p. 48)

注目すべきは、この二つの実在の秩序の間の言ってみれば存在論的な差異が、サルトルによって二つの動詞のニュアンスの差異によって記述されているということである。

ベルクソンのイマージュが何であるか、私たちはすでに見た。知覚とは、身体の可能的な動作に関係づけられているが、しかしなおも他の像の間に入り込んだままとどまっている像である。想起とは、孤立化し、一幅の絵のように他の像から分離された像である。そしてすべての実在は同時にこれら二つの性格を備えている。すなわち、それは身体を動作へと準備し(dispose)――、また無活動な想起として精神の内部に沈殿する(se dépose)。(p. 50)

知覚は現在の現働的な行動のために準備すべく起動され、記憶は潜在的行動としての知覚へ向けて、待機状態にとどまっている。知覚が常に作動しており、いわば仕事中である(à l’œuvre)と言えるとすれば、記憶はいわば仕事に就かず、無為である(désœuvré)。だが、無為もまた一つの存在様態なのであって、一つの憑在論的な調性なのである。

2)無為な記憶  『物質と記憶』は、身体と行動のプラグマティックな気遣いに貫かれた著作であるということは、たしかに間違っていない。だが、この気遣いを規定しているものは何なのか。ベルクソンにとってのpragmaとは何であるのかをさらに問う必要があるのだ。私たちはこの問いに対して、序論においてすでに答えを与えてある。つまり、ベルクソンは功利性や利便性に、効力や実効性を対置する。その場での旋回に対して、前進が対置される。功利性の観点からすれば、効力は単なる迂回や逸脱に見えるかもしれないが、逆に効力の観点からすれば、功利性はいささか近視眼的な目先の利益追求に追われ過ぎていて、さらなる功利性獲得の可能性を自ら手放していると映る。同様に、「現在の我々の心理状態の実際的な使命に関して忘れられていること」が問題となっているところでは、それ以外のものは、無関心であり、非活動的であり、非効力的であるように思われる。

知覚が精神の一つの没利害の操作、観照(une opération désintéressée de l’esprit, une contemplation)でしかないものにされているのだ。その場合、純粋想起は明らかにこの種の〔没利害的な、観照的な〕何かでしかありえないから(なぜなら、純粋想起は現存しかつ切迫した実在(réalité présente et pressante)に対応していないからだ)、想起と知覚は同じ本性の状態と化し、両者の間にはもはや強度の相違しか見出すことができない。しかし、本当はどうかというと、われわれの現在がより強度を持ったものと定義されるはずはない。われわれの現在はわれわれに働きかけるものであり、われわれを活動させるものであり、それは感覚伝達的であり運動性のものである。――われわれの現在は何よりもわれわれの身体の状態である。それとは逆に、われわれの過去は、(ce qui n’agit plus, mais pourrait agir)、現在の感覚から生命力を借りつつ、この感覚の中に挿入されることで働きかけることになるものである。たしかに、働きかけつつ想起が自らを現実化するその時、この想起は想起たることをやめ、ふたたび知覚となるのだ。(Résumé et conclusion, 369-370/270)

純粋想起はその性格として、「観照」であり、精神的な没利害であり、こう言ってよければ――というのも、もしひとが生き続けるならば、生への注意が完全に消え去るはずがないから――精神の「無為」をもつ。だが、。これこそ、私たちが記憶の第三の特徴として示そうと試みるものに他ならない。

3)待機する記憶  たしかに純粋記憶は、もはや活動的でなく、現在の知覚に「挿入されることで」、「自らを現働化する」ほかに行動に関わる余地はなく、ただ行動を待っているにすぎない。ところで、無為である、すなわち命に係わる関心との接続を断たれている以上、純粋記憶は、潜在的行動としての知覚が、なされつつある行動へと接続され現働化されていくのと同じ仕方で、現働化されていくわけではない。言い換えれば、純粋記憶とイマージュ想起(ないし知覚)の区別は截然としたものでありながら、にもかかわらず両者はある関係をもつ。ではその関係は一体どのようなものであろうか?

しかし他方では、われわれがもっと後で示すことになるように、イマージュ想起それ自体は、純粋想起の状態に還元されれば無効(inefficace)なままだろう。潜在的(virtuel)なものとして、この想起は、それを惹きつける(attire)知覚によってしか現実的なものとなりえない。無力(impuissant)なものとして、この想起はその生命と効力(sa vie et sa force)を現在の感覚から借りていて、現在の感覚の中で物質化される(se matérialise)。(MM II, 272/142)

ベルクソンがここで、純粋想起と知覚の関係を表現するのに「惹きつける」(attirer)という語を用いていることに注意しよう。この「魅力」(attraction)、この呼びかけは知覚の側から発している。この点に関して、ベルクソンは伝統的な「光」のメタファーに対して、ここでもまた聴覚的なメタファーを対置させている。『物質と記憶』第一章では、電信による呼びかけの比喩が用いられていた。

把持され、あるいは思い出されたイマージュが、知覚されたイマージュの細部のすべてを補うことができなければ、記憶のより深く、より遠い領域へと呼びかけが発せられ(un appel est lancé)、遂には、知られている別の細部が知られざる細部へと投影されるに至る。この操作は果てしなく続けられうるが、記憶は知覚を強め、知覚を豊かにし、今度は知覚が、ますます発展させられながら、漸増する補足的な想起を記憶へと引き寄せる(attire)のである。それゆえ、なんだか分からない一定量の光を自由に使い、ある時はそれを辺り一面に拡散させ、ある時はそれを一点に集中させるような精神などもう持ち出さないでおこう。イマージュに対してはイマージュで(image pour image)ということで、われわれはむしろ注意の基本的な働きを電信技手の働きに譬えるほうを好む。重要な電報を受け取ると、その正確さを調べるために、発信地に対して同じ語を返信する電信技手(télégraphiste)に。(MM II, 247/111)

ここでも呼びかけを発するのはあくまでも知覚であって、記憶は知覚に呼びかけられる存在にすぎないとされている。だが、別の個所で――『精神のエネルギー』の決定的なテクストにおいて――、ベルクソンは呼びかけが別の形を取りうること、別の側から発されうることを明記している。

ある感覚の記憶はその感覚を暗示することのできるもの、つまりふたたびそれを蘇らせることのできるものである。〔……〕しかし、その記憶とそれが暗示する状態とは別である。それはまさに、幻覚の背後に催眠術師がいるように、暗示された感覚の背後にその記憶のあることを私たちが感じているからであり、私たちが自分の感じているものの原因を過去に置く(localisons)からである。実際、感覚は本質的に現実のものであり、現在のものである。それに対して記憶は無意識の底からかろうじて浮上して感覚を暗示し(le souvenir, qui la suggère du fond de l’inconscient d’où il émerge à peine)、この暗示という独特な力(cette puissance sui generis de suggestion)とともに姿を現す。その力はもはや存在していないもの、未だ存在を欲しているかもしれないもののしるし(la marque de ce qui n’est plus, de ce qui voudrait être encore)である。〔……〕だが、暗示とは、いかなる度合いにあっても、それが暗示するものではなく、ある感覚ないし知覚の純粋想起は、いかなる度合いにあっても、感覚ないし知覚そのものではない。さもなければ、眠っている被験者に向かって口の中に砂糖や塩があると暗示する催眠術師の言葉は、すでにそれ自体が幾分か甘いとか塩辛いものだと言わねばならないことになってしまうだろう。(ES, V, 915/133)

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藤田尚志

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ふじた・ひさし  九州産業大学准教授。1973年生まれ。東京大学大学院人文社会系研究科博士課程単位取得退学。リール第三大学博士課程修了。Ph.D. 専門はフランス近現代思想。共著に、久米博・中田光雄・安孫子信編『ベルクソン読本』(法政大学出版会)、金森修編『エピステモロジー』(慶應義塾大学出版会)、西山雄二編『人文学と制度』(未來社)、共訳に、ゴーシェ『民主主義と宗教』(トランスビュー)など。