連載・読み物 ベルクソン 反時代的哲学

『ベルクソン 反時代的哲学』18

1月 06日, 2016 藤田尚志
§53. 暫定的結論(もう一つの「スペクトル分析」のほうへ)

私とは誰であるのか?(Qui suis-je?)めずらしく諺に頼るとしたら、これは結局、私が誰と「つきあっている」のかを知りさえすればいい、ということになるはずではあるまいか?実を言うと、この「つきまとっている=執り憑いている (hanter)」とも取れる言葉には戸惑いを覚える。それはある人々と私の間に、思いも寄らなかったほど奇妙な、避けがたい、気がかりな関係を結ぼうとするからだ。この言葉は元の意味よりもずっと多くのことを語り、私に生きながら幽霊の役を演じさせる。明らかにこの言葉は、今の私という誰かになるために、私がそうであることをやめなければならなかった何かを暗示しているのだ。
――ブルトン『ナジャ』
私たちの無知を告白しましょう。しかし、その無知が決定的なものであると大人しく信じてしまわないようにしましょう。もし仮に、人々の意識にとって彼岸=来世(au-delà)といったものがあるとするならば、それを探索する手段が発見できない理由が私には分かりません。人間に関することで、人間から画然と逃れ去りうるようなものは何もありません。それに、時には、非常に遠く、無限の彼方にあると想像している情報が、私たちのすぐそばにあって、私たちが摘み取る気になるのを待っているということがあります。もう一つの彼岸=彼方〔un autre au-delà〕、つまり太陽系外の宇宙について起こったことを思い出してください。オーギュスト・コントは、天体の化学的組成は永久に知ることができないと断言していました。数年後、スペクトル分析(analyse spectrale)が考案され、今では私たちは星がどんな元素から出来ているかを、実際にそこへ行くよりもよく知っているのです。
――ベルクソン

Locus/situs  まとめよう。この第二部では、『物質と記憶』において作動しているマイナーな論理を「場所の論理」と呼び、それが導出されてくる様子を見てきた。まず、第一章(§§39-40)では、博士論文『試論』の副論文である『アリストテレスの場所論』を、『試論』のみならず『物質と記憶』との関連において、すなわちこの両著作を結ぶ通底器のようなものとして、読み解こうとした。『場所論』最終章は、アリストテレスの場所論のうちにカントの空間論とは異なる道を模索する哲学者の姿を見出していたわけだが、この読解姿勢のうちに『物質と記憶』への道が示されていたのである。次に、第二章(§§41-46)では、物質論・知覚論である『物質と記憶』第一章・第四章を、monumentalなsitusの論理を提示するものとして読み解き、メルロ=ポンティの主著の一つ『知覚の現象学』との比較を通じて、ベルクソンの知覚論に見られる場所の論理を確認した。『知覚の現象学』が知覚の(記憶を吸収する)一元論的な優位、そして同時に状況(situation)の絶対的な優位を確立するのに対し、『物質と記憶』は記憶の(知覚に対する)二元論的な優位、そして場(locus)の(situsに対する)相対的な優位を打ち立てる。ここに見てとるべきは単なる対立ではない。メルロ=ポンティがいきいきとした知覚のいわば連結点(charnière)的な次元である「存在の肉」に、ベルクソンとは異なるもう一つの「経験の転回点」を見てとったのは正しいことであった。これこそ、『物質と記憶』冒頭で、身体のすべての厚みを脳に、そして脳の厚みを単なる交錯点、「一種の中央電話交換局」にまで切り縮めたベルクソンに――その後、ある程度の情動性(affectivité)を与え戻すわけだが――欠けていたものである。むろんこの『物質と記憶』第一章だけを取り出し、あたかも一冊の本であるかのような読解を展開する者は、電子空間の革新性を強調し、物質的実在の重要性を性急に無視した狂信的なネット世界の信者に似ている。電子空間(サイバースペース)における遠隔通信(テレコミュニケーション)が成立するためには、やはり最低限の人員と機材、つまりは最低限の物質的な空間が必要だということを忘れた者たちに。

逆に、ベルクソンがデジャヴ現象を取り上げることでよく見て取っていたもの、そしてメルロ=ポンティが幻影肢の問題を取り上げながら十分に考慮に入れていなかったもの、それはまさに知覚の潜在的(ヴァーチャル)な次元、すなわち記憶に固有なものである。むろん知覚の肉的・歴史的・状況的次元を強調することは間違っていない。だが、その本質的に潜在的で創出的な本性を発見するためには、さらに先に進まねばならない。ベルクソンにとって知覚とは創造であり、発明であるが、それは知覚が記憶との交錯点にある限りにおいてであり、だからこそ、記憶・技術的な進展に決定的に含みこまれた知覚的創造の無限に有限な可能性があるのである。まさにこの意味において、「私の無機的な巨大身体」と「神秘主義を要請する機械主義」の交錯点、潜在的知覚理論と「機械主義と神秘主義」論の交錯点において、記憶の政治学との関連において、『道徳と宗教の二源泉』を締めくくる一節を理解せねばならない。

次にまた、人類はただ生きているというだけでよいのか、それともそのうえさらに、神々を産み出す機械と言うべき宇宙の本質的な機能が――言うことをきかぬこの地球上においても――成就されるために必要な努力を惜しまぬ意志があるのかどうか、それを問うのも他ならぬ人類の責任なのである。(DS, IV, 338/1245)

『二源泉』のこの解釈から引き出される幾つかの帰結については、第四部で確認することにして、『物質と記憶』に関する私たちの読解の総括に戻ろう。

最後に、第三章(§§47-52)では、再認論・記憶論である『物質と記憶』第二章・第三章を、immémorialなlocusの論理を提示するものとして読み解き、『精神のエネルギー』所収の幾つかのテクスト、とりわけ「現在の記憶と誤った再認」などとともに、ベルクソンの記憶論に見られる場所の論理を確認したのであった。そこで問題となった「記憶の場所」とは、無為な記憶が滞留し待機する場所であり、それは存在論的(ontologique)というより――デリダの『マルクスの亡霊たち』やブルトンの『ナジャ』に倣って――憑在論的(hantologique)あるいは亡霊的(spectral)と言うべきものであった。「ベルクソンにあって、思考はどこか夢と接するところがある」と喝破する熊野純彦は、こう続ける。「夢とうつつとが、記憶と回想を介して混じり合う。夜に結ばれる夢と醒めて見られた世界は、同じ生地から織り上げられている」と。これは言い換えれば、ベルクソンが「記憶の底辺」たる「夢の平面」と「記憶の最終平面、究極のイメージ、過去が絶えず未来に伸びてゆくその動的先端部」たる「行動の平面」の間に織りなされる「意識の諸平面」の逆円錐のうちに、、、、、逆円錐としての、、、、「在る」ということの意味を探らねばならない、ということだ。脳の中に記憶を探るべきでなく、記憶の中に脳を探るべきだというベルクソンの言葉の真意はここにある。「それゆえ、あなたが説明しなければならないことは、知覚がどのように生じるのかではなく、どのように知覚が制限されるのかである。というのも、知覚は権利的には全体のイマージュであるのに、事実的にはあなたに利害のあるものに縮減されているのだから」(MM 38. Cf. MM 29, 32, 38-39)。ベルクソン的経験論に固有の減算的・縮減的アプローチは、「意識の諸平面」こそが図式論を可能にしつつ、図式論を横溢するものだということを示す。『物質と記憶』を「超図式論(hyper-schématisme)の書」と呼んだゆえんである。本節の冒頭で、『精神のエネルギー』の巻頭を飾る論文「意識と生命」の末尾を締めくくる一節を引いておいた。そこでベルクソンは、彼岸au-delàという語の二つの意味(太陽系外としての「向こう側」と、来世という「あの世」)を駆使しつつ、「スペクトル分析」が天体の化学的組成を明らかにすることで天文学にもたらされた革命的展開になぞらえて、心霊科学の可能性を示唆していたのであった。フロイトの『快原則の彼岸』における思弁的関心と、第二局所論をはじめとする彼のメタ心理学の理論構築を切り離してはならないように、このベルクソンの心霊科学への思弁的関心と、彼の記憶論の理論構築の連関を断ち切ってはならない。むしろ、「スペクトル分析」(analyse spectrale)という語を「亡霊的分析」と読み替え、夢と亡霊と記憶をつなぐベルクソン哲学のマイナーな論理を積極的に開かれたままにしておかねばならないのだ。

『物質と記憶』の読解を締めくくるべく、最後に一つの追伸を付け加えておこう。ドミニク・ジャニコーが『フランス現象学の神学的転回』において提示したパースペクティヴによれば、「現れざるもの」への転回は一九六一年に生じた。これは、メルロ=ポンティの『見えるものと見えないもの』の刊行、と同時にレヴィナスの『全体性と無限』の刊行の年でもある。ジャニコーの見立てでは、「鉛直」(aplomb)的なレヴィナス(および、ミシェル・アンリ(1922-2002)やジャン=リュック・マリオン(1946-)といった後続の神学的現象学者たち)の思考、すなわち「絶対的に他なるもの」の超越性を強調する思考とは異なり、最晩年のメルロ=ポンティは別の道を模索していた。それは、誰しもが体験しうる経験の豊饒さへと接近するための不安定かもしれないが発見的ヒューリスティックな方法であり、ジャニコーはこれを「ミニマリスト的」と形容している。性急な還元へといざなう観念論的・超越論的な誘惑を退け、世界の奥底まで感性的なものを汲み尽くすべく、大文字の他者(Autre)でなく、小文字の他者たち(autres)に限りなく繊細な眼差しを向ける。何も仮定せず、経験の中で常に私たちの手からすり抜けていくものを捉えようとし、様々な現象が生きられるその現象性に肉薄しようとするメルロ=ポンティのこの飽くなき欲望は決定的に現象学的である、とジャニコーは言う。メルロ=ポンティによって開かれたこの道はさまざなま仕方で引き継がれうるだろう。『経験の転回点』と言う著作をものした現代フランスを代表する現象学者の一人であるルノー・バルバラスの仕事や、ジャック・デリダが『触覚』において示したように、メルロ=ポンティの(徹底的に批判的な仕方ではあれ)潜在的な後継者としてのジャン=リュック・ナンシーの仕事である。「現れる」このような形であれば、ベルクソンは現象学者と言えるのではないだろうか。

レナード・ローラーは、『ベルクソン哲学の挑戦』(二〇〇三年)という優れた著作において、ベルクソン哲学の三つの挑戦を描き出している。現象学に対する挑戦、存在論に対する挑戦、そして倫理学に対する挑戦である。私たちはローラーに完全に同意するが、私たちの言い方で言えば、こうなるだろう。現れざるものの神学的現象学に抗する「現れ」(ファイネスタイ)の回折的(diffractive)な論理。ハイデガー的ないしバディウ的存在論に抗する潜在的なものの束の間の憑在論。「絶対的に他なるもの」ないし超越論的他性のレヴィナス的倫理に抗する内在的な生命=意味の流動的な生態学。これらの試みはそれぞれなりの仕方で、もう一つの「スペクトル分析」を体現しているのではないだろうか。
 
 


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ベルクソン連載一覧
 
 
[第18回初出:2014年10月31日]
【編集部より】本連載の第29回までは、2013年4月15日から2015年12月28日にわたり、勁草書房サイトに掲載されていたものを移行いたしました。未読の方は、ぜひ第1回からお読みください。第30回からは編集部サイトでの掲載が初出になります。*注は省略してあります。

藤田尚志

About The Author

ふじた・ひさし  九州産業大学准教授。1973年生まれ。東京大学大学院人文社会系研究科博士課程単位取得退学。リール第三大学博士課程修了。Ph.D. 専門はフランス近現代思想。共著に、久米博・中田光雄・安孫子信編『ベルクソン読本』(法政大学出版会)、金森修編『エピステモロジー』(慶應義塾大学出版会)、西山雄二編『人文学と制度』(未來社)、共訳に、ゴーシェ『民主主義と宗教』(トランスビュー)など。