ベルクソン 反時代的哲学 連載・読み物

『ベルクソン 反時代的哲学』20

1月 06日, 2016 藤田尚志
§56. 場所学III:傾向としての存在、意味=方向としての実存(承前)

傾向(tendance)の理論に関しては、『創造的進化』冒頭の一節を想起すればよい。ベルクソンはそこで、物質的対象(objets matériels)と生命体(corps vivants)を区別しているが、実際の区別は、物理的対象と生命体の間を走っているというよりは、むしろ潜在的行動としての知覚と、身体的行動の間を走っている。たしかに、生命体も、物質的対象同様、ある広がりを有し、その広がりは残りの部分と結びつき、全体と連関している以上、物質全体を統治する同一の物理化学的な諸法則に服するものである。だが、生命体は、物質に対して、諸々の現実的・現働的な行動を遂行するべく、潜在的な行動=作用の試みとして知覚を投射する。なまの物体は、言ってみれば「知覚によって自然という生地から裁ち切り取られたもので、知覚の鋏は行動が通るはずの道を示す点線をなぞる」のである。異質な諸部分が互いに補い合って組み立てあい、互いに入れ子になったさまざまな機能を営む生物個体の個体性について、ベルクソンはこう述べている。

個体性は無数の度合いを許すもので、それは完全にはどこにも、人間においてさえ実現されていない。しかしだからといって、個体性に生命の固有な特徴を見ることを拒んでよいわけではない。[…]さて、生命の諸特性は決して完全には実現されぬもので、常に実現の途上にある。それは、状態であるというよりむしろ傾向なのだ。そして傾向が目的を残りなく達成するのは、それに逆らう傾向が一つも残っていないときに限るのである。[…]そこでは相克する諸傾向が常にもつれ合っている。なかんずく個体性の場合には、個体化の傾向が有機的世界の随所にあらわれているとすれば、生殖の傾向も随処でそれと闘っている、と言ってよい。[…]してみれば、個体性は己が敵に宿を貸しているわけである。(EC, I, 505/12-13)

ショーペンハウアー同様、そしてとりわけニーチェ同様、ベルクソンは個体化原理の“批判者”(否定論者ではない)であるように思われる。個体をすでに構成されたものとして丸ごと承認するよりはむしろ、個体化の運動そのものを捉えようと試みる立場を、さらに厳格に推し進めようとする点において「批判者」だというのである。いわゆる「固有身体」(corps propre)が存在しないと言おうとしているのではない。ただ、「固有身体」のその「固有性」の意味について厳密に問いただすのでない限り、身体論の隆盛は一時の流行で終わるであろうということが言いたいのである。もしベルクソン哲学の中に固有身体に対するある種の懐疑(これも単純な否定ではない)が存在するとすれば、それは、身体が彼にとって、デカルトにおけるように「機械」(machine)ではなく、ある「器官=機関」(organe)であり、その意味である「道具」(instrument)であるからにほかならない。『創造的進化』のベルクソンにとって重要なのは、諸物体間の物理的な因果関係を解明することではないし、魂と身体の結合という困難な形而上学的問いを解決することですらない。そうではなく、身体が行動の一契機として、生命の現働化プロセスに組み入れられているのかをプラグマティックなレベルで理解すること、そしてこの点に関する誤解から不可避的に偽の諸問題が生じてきていると示すことこそが、『物質と記憶』以後のベルクソンにとってきわめて重要な課題だったのである。

§57. リズム計測III:「持続のリズム」から「生命の衝迫」へ

持続は多様な緊張の度合いによってそのリズムを刻んでいるが、これらの緊張自体は、諸生命体の内にある「生命の衝迫」(pulsation de vie)すなわち「生のはずみエラン・ヴィタル」の諸々の度合いを測っている。いくら強調しても足りないことだが、「生のはずみ」は「生命」そのものではない、、、、。持続のリズムが持続そのものでなく、持続と空間の錯綜した関係を示す差動装置ディフェレンシャルであったように(§19)、生のはずみは、生命と物質の衝突・対立・相互干渉ないし方向転換・転向などなどを示す関係概念である。生のはずみを生命と同一視し、とりわけ生命そのものとして実体化してしまうことは、差異の哲学としてのベルクソン哲学の賭け金の全てを見失うことである。さて、この「はずみ」の帝国は、どこまで広がっているのだろうか? 宇宙の果てまで、とベルクソンは答える。一九〇七年に刊行された第三の主著『創造的進化』において彼は実際、宇宙全体の持続について語る意味が一つあると主張する。

宇宙は持続する。時間の本性を掘り下げるにつれて、持続とは発明を、形態の創造(création de formes)を、絶対的に新しいものを作り上げる弛まぬ錬成を意味することがいよいよ分かってくる。〔……〕もっとも、宇宙そのものにも相反する二つの運動が区別されねばならない。一つは「下り」、もう一つは「上り」で、前者はすっかり書き終えた巻物を広げるだけである。〔……〕ところが後者の「上り」のほうは、成熟あるいは創造の内的作業に対応するもので、本質的に持続する。そしてそれと切り離せない間柄の「下り」に自分のリズムを押し付けるのである。(EC, I, 503/11)

ベルクソンにとって生命の進化とは、宇宙的な持続が、その固有のリズムによって、物質の上に刻み込む痕跡なのだ。こうして、諸事物の持続と諸生命体の間の関係について語る可能性が開かれることになる。持続(意識)/物質、生命一般/生命の特殊個別的な顕現、「行動すること」(agir)と「知ること」(savoir)などなどにおいて問題となっているのは、要するに、形相・形式・形態(forme)/質料・内容・物質(matière)の概念対ではないだろうか? 実際、ベルクソンが、この著作の中でリズムという語を用いる時は絶えず、この意味において用いている。二つ例を挙げよう。

そうした不協和の深い原因は、埋めようのないリズムの差異に潜んでいる。生命一般は動きそのものである。生命の発露した個々の形態はこの動きをしぶしぶと受け取るにすぎず、絶えずそれに遅れている。動きはずんずん前進するのに、個々の形態はその場で足踏みしていたがる。進化一般はなるたけ直線的に進もうとし、特殊な進化過程はいずれも円を描く。生物は一陣の風に巻き上げられた埃の渦のようなもので、生命の大きな息吹の中に浮かんだままぐるぐると自転する。したがって生物は割合に安定していて、しばしば動かぬものの真似までうまくやるので、私たちはついそれを進歩よりはむしろ事物として扱い、その形態の恒久的なところすら運動を描いたものに他ならぬことを忘れてしまう。(II, 603/128)

序論において確認したことを思い起こしておけば(§13)、ベルクソン的螺旋は、生命の二つの意味=方向からなっているのであった。そして、「仕事と結果の間に驚くべき不均衡(disproportion)」、リズムの差異が生じてくるのも、まさにこれら二つの運動の間においてであった。二つ目の例は、意識と、「認識の知性外的な素材」との間のリズムの差異、つまり「身体と精神という現実=実在の二つのかたち(formes)」に関するものである。

そうすることでカントは新しい哲学に道を開いていたわけである。この哲学は直観の高次の努力によって(par un effort supérieur d’intuition)、認識における知性外の素材の中に腰を据えようとする。意識がそのような素材と合致し、それと同じリズム、同じ運動を取り入れて、自分をかわるがわる高めたり低めたりしながら反対方向の二つの努力(deux efforts de direction inverse)を重ねてゆくなら、現実=実在の両形態、すなわち物体〔身体〕と精神は、もはや外側から知覚されないで、内側から掴まれるのではないか。この二重の努力は私たちにもう一度、それが可能な範囲で、絶対を生きさせてくれるかもしれない。それにいずれは人も見る通り、そうした操作の間に知性は自ら起き直り、精神の全体の中に自分を裁ち切り出すようになるが、その際、知性認識もそのあるがままの制限されたものとして、しかしもはや相対的ならぬものとして現れることであろう。再興されたデカルト主義に対し、カント主義が方向を示すことができるとすれば、そのような方向がそれであった。ただしカント自らはその方向をとらなかった。(IV, 797/357)

私たちが第一部で「内在的感性論」というベルクソンのプロジェクトとして描き出したものが想起されるであろう。機械論は、「科学が映画的な仕方で事を運ばねばならず、その役割とは、事物の流れのリズムを刻むことであって、そこに自らを挿入することではない」としていた(IV, 788/346)。ベルクソンの内在的感性論は、逆に、内側から、自らを挿入しつつ、自己と事物の流れのリズムを刻むものである。

§58. ベルクソン的目的論の四つの根本特徴

繰り返しになるが、具体的な生の持続に迫るため、ベルクソンは生概念を心理学化、すなわち相互浸透化・多様体化したが、これによって個体概念(individualité)がたわめられ、傾向(tendance)ないし個体化(individuation)概念への移行が準備される。存在するのは個体ではなく、個体化である。存在とは傾向である(505)。もちろん、ベルクソンによる個体概念の批判が決してその否定でないことは言うまでもない。「個体性は決して完全ではなく、どれが個体でどれがそうでないかを述べることはしばしば困難であり、ときには不可能でもある。それでもやはり生命は個体性の追求を歴然とあらわしており、そこには自然的に孤立し自然的に閉じた系を構成しようとする努力がある」(EC507)。だとすれば、生の哲学が生命現象の中心として分析すべき対象は、諸々の生物個体ではなく、個体を貫く進化の流れであり、関わりあうべき学問分野は生理学であるよりむしろ進化論である、ということになる(511, 513)。そこで、進化論学説と、その二つの見方としての機械論と目的論が登場するわけで、言ってみれば持続の哲学によるこの個体概念の批判(否定ではない)こそがベルクソンの進化論哲学、さらには生命哲学の端緒を開くのである。

進化を分析する際に、機械論的な立場と目的論的な立場がある、とベルクソンは言う。機械論的な立場とは、一連の物理化学現象の継起によって進化を説明しようとするものであり、目的論的な立場とは、最初から目的を措定し、その目的との関係において進化を説明しようとするものだ。機械論においても目的論においても現象の総体はすでにはじめから与えられてしまっており、どちらも持続の本質であるところの予見不可能な創造性を無視している点では同罪である、とベルクソンは指摘し、採るべき第三の道を示そうとするが、この立場はベルクソン自身示唆しているように、目的論ときわめて近い関係にある。

目的因をたてる教説は、決定的に論破されることは決してないであろう。ある形を遠ざけても、別な形であらわれるであろう。その原理は心理的な本質のもので[Son principe, qui est d’essence psychologique]、柔軟を極めている。それは引き延ばしがきき、だからこそごく広くもあるので、人は純粋な機械論を斥けるや否や目的論をいくらかは受け入れている始末である。したがって、私がこれから本書で述べるテーゼもある程度はどうしても目的論の性質を持つことになろう。目的論から私は何をとろうとし何を捨てるつもりでいるか、これを正確に示しておくことが重要になる(528-529)。

目的論の原理が「心理学的」なものであるとはどういうことか。その「柔軟さ」「拡張可能性」「広がり」を理解するには、上述した「質的多様性」の内実にさらに踏み込まねばならない。
 
 


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[第20回初出:2014年12月31日]
【編集部より】本連載の第29回までは、2013年4月15日から2015年12月28日にわたり、勁草書房サイトに掲載されていたものを移行いたしました。未読の方は、ぜひ第1回からお読みください。第30回からは編集部サイトでの掲載が初出になります。*注は省略してあります。

藤田尚志

About The Author

ふじた・ひさし  九州産業大学准教授。1973年生まれ。東京大学大学院人文社会系研究科博士課程単位取得退学。リール第三大学博士課程修了。Ph.D. 専門はフランス近現代思想。共著に、久米博・中田光雄・安孫子信編『ベルクソン読本』(法政大学出版会)、金森修編『エピステモロジー』(慶應義塾大学出版会)、西山雄二編『人文学と制度』(未來社)、共訳に、ゴーシェ『民主主義と宗教』(トランスビュー)など。