連載・読み物 ベルクソン 反時代的哲学

『ベルクソン 反時代的哲学』23

1月 06日, 2016 藤田尚志

第2章 「生物の丹精=産業industrie)」について
ベルクソン的器官=機関学(organologie:『創造的進化』第二章の読解 

 

§64. 『創造的進化』の撒種。受容の(複数の)歴史

今日、約百年前に一人のフランス人哲学者によって書かれた一冊の本を、あらゆる意味で、すなわち時間的にも空間的にも文化的にも歴史的にも遠く離れた日本で、読み直すとはどういう営為なのだろうか? どういう営為でありえ、また、どういう営為でなければならないのだろうか? リディ・アドルフは1952年に次のような言葉を書きつけていた。

ベルクソンの著作は、時を経ても色褪せないように見える。だが、一世紀を経たとき、『創造的進化』は今日と同じ読み方で読まれているだろうか。今日ですらも、刊行当時と同じように理解されていると言えるだろうか。そうは言えまい。たしかに哲学的な環境は大きく変化し、幾つかの点では完全に変容してしまったし、そもそも、この著作そのものの影響や、この著作によって育てられた者たちが形成した様々な潮流によって、変容した部分もある。『創造的進化』刊行から四十年以上を経て、著作によって伝えられるメッセージはおそらく同じだが、それが蒔かれる土地はすでに耕されたものだ。未開の大地はしばしば固く、人を寄せつけない。だが、そうであれば、休みなく産み出し続けてきた大地は、もはや貧相な実りを稀にしかもたらさなくなるだろう。老いるにつれ、種を蒔き尽くしてしまった著作の場合がそうである。しかし、うまく耕された大地は、その種を百倍にして返すだろう。作品はいささかも新鮮さを失わなかったのであり、絶えず若さを新たなものにし、強固なものにするからだ。

この一節は、『創造的進化』の撒種(disséminations)、その受容の(複数の)歴史(histoire(s) de la réception)にこれ以上ないほど呼応しつつ、様々な問題を我々に突き付けてくるように思われる。日本の代表的な思想家丸山真男は、民主的な要素や革命的な契機を日本の伝統の中に「草の根をわけても捜す」とする純血主義を批判していたが、彼の「伝統の植物主義的定義」をさらに拡大し、植物学の用語でいうところの「植生」や「植物相」に着目し、果たして思想には耕作限界や植生分布の限界があるのか、思想の風土学、あるいはドゥルーズ=ガタリが「地理哲学géo-philosophie」と呼んだものはいかにして成立しうるのかと問うてみることは興味深いことであろう。

『創造的進化』が提起する核心的問題とは何か? それはまさしくこの農耕的な意味でのculture、生命が様々な方向に向かって畝をつくり、運河をつけ(canaliser)、伸び広がっていこうとする〈線〉の歴史、〈意味=方向sens〉の物語であるように思われる。それは、具体的な形としては必ずや分離不可能な形態で表れるとしても、一方では、ある特殊な目的論の形をとり、他方では、ある特殊な生気論の形をとるだろう。

したがって私たちの第一のテーゼはこうである。《『創造的進化』が今日提起する核心的問題とは、目的論の問題であり、生気論の問題である》。とはいえ、すぐに付け加えて言っておかねばならないが、ここで問題になる目的論とはごく特殊な目的論であり、生気論もまた通常解されているものの範囲を大きく逸脱するものである。

ベルクソンの目的論に関しては、前章でその概要を見た。ここでは彼の特異な技術的生気論に議論を絞ることにしたい。

§65. ベルクソンの生気論は(非)有機的である

私たちの第二のテーゼを、先に見たベルクソンの合目的性の定式を借りて、明確な形で表現しておこう――ベルクソンの生気論は(非)有機的(non-)organiqueであるか、でなければまったく何物でもない。この「(非)有機的」という表現は、ドゥルーズの『差異と反復』のある一節に着想を得ている。

一と同時に多を告発し、多による一の限定と同時に一に対する多の対立を告発するのは、まさしく多様体という観念である。秩序と無秩序を同時に告発するのは、変化性である。存在と非-存在を同時に告発するのは、(非)-存在であり、?-存在である。到る所で、否定的なものと仮定的なものとの共犯関係は、問題的なものと差異とのいっそう深い紐帯のために、断ち切られなければならない。

しかし、このテクストを読んでいただいて、おそらく気づかれることは、この「(非)-存在」や「?-存在」といった発想自体がベルクソンから取られているのではないか、ということである。事実はおそらくそうなのであって、我々はいわば、カエサルのものをカエサルに、ベルクソンのものをベルクソンに返したにすぎないのである。『創造的進化』の一節を見ておこう。

してみると、私は[…]多なる一であり、一なる多なのである。けれども一や多は知性が自分のカテゴリーを私に差し向けて私の人格を写し取った眺めにすぎぬ。私は一と他のどちらにも入らないし、両者を合わせたものの中にも入らない。[…]私の内的生命とはそのようなものであり、生命一般もまたそうしたものなのである。(EC, III, 258-259)

後で詳しく見ることになるが、ここで暫定的に「(非)有機的」という言葉をごく簡単に定義しておけば、それは有機的と無機的のどちらかに分類されることなく、両者を人工的に総合したものでもなく、むしろそのような対立や限定を解消する方向に向かうことになるもの、である。

では、「(非)有機的」という言葉のおおよその意味は分かったとして、この奇妙な付加語によって我々は、いったいベルクソンの生気論のいかなる側面を照らし出そうとするのか?その側面をベルクソン的生気論の根本特徴とするに足るいかなる理由があるのか?これらの問いに答えねばなるまい。

§66. ベルクソンの生気論は非個体的である

ベルクソンの生気論の第一の特徴は、個体にとどまらない、ということである。これは、従来の生気論、とりわけ生気論の代表的な形態とされてきたモンペリエ学派、例えば、バルテスなどを考えれば、一目瞭然である。彼の「人間の生命原理についてDe Principio vitali Hominis」について、カンギレムはこう述べている。

バルテスが互いに異なる要素的生命現象を支配する唯一の最終的な(または最初の)生命事象を自ら選んだ名称[生命原理]のもとに持ち出した理由は、それらすべての現象の結合の統一性、初めは医学的経験の所与と見なされていた有機体の個体性という性質にある。

これに対して、ベルクソンの生気論は明確に非個体的である。ベルクソンが次のように述べるとき、彼がモンペリエ学派流の、「人間の生命原理」を軸とする生気論を標的として念頭に置いているのは疑いえないように思われる。

個体性は無数の度合いを許すもので、それは完全にはどこにも、人間においてさえ実現されていない。(……)生命の諸特性は決して完全には実現されぬもので、常に実現の途上にある。それは状態よりは傾向なのだ。(……)なかんずく個体性の場合には、個体化の傾向が有機的世界の随所にあらわれているとすれば、生殖の傾向も随所でそれと闘っている、といってよい。(……)個体性は己が敵に宿を貸しているわけである。(EC, I, 12-13)

完全な個体性とは、どんな部分もその有機体から離れて独立には生きていけないようなものであるはずである。だが、種が存続するために必要不可欠な生殖とは、古い個体から離れ出た諸要素で、新しい有機体を再構成することに他ならない。したがって、オートポイエーシスはオート(自己)の核心部においてすでに揺るがされている。

ベルクソンが目的論について述べた有名な言葉、「合目的性は内的であるか、でなければまったく何物でもない」は、この事態を言い換えたものにすぎない。生命の目的論のこの臨界地点に、生気論が現れる。「ここに様々な生気論の躓きの石がある」というベルクソンの言葉が、彼の目的論批判の最終局面に登場すること、そして、そこではまさに個体性が問題とされていたことを思い出そう。

ここに様々な生気論の躓きの石がある。私は生気論に対して普通なされるような、問いに答えるに際して当の問いをもってしている[論点先取]、といった非難は加えない。もちろん「生命原理」は大して説明にならない。[…]実は、生気論の立場を極めて難しくしているのは、自然界には純粋に内的な目的性もなければ、絶対的に切り離された個体性もない、という事実なのである。有機的な諸要素は個体の構成に参加しながらそれぞれにある自主性をもっており、個体が自分の生命原理をもつべきであるなら各要素もそれぞれの生命原理を主張するであろう。ところが他方では、その当の個体がまた自分以外のものからそれほど独立も孤立もしていないから、固有の「生命原理」をそれに備えさせることはできなくなる(EC, I, 42-43)。

生命原理が実体的なものとして措定されるか否かということは生気論か否かを決定するにあたって、最も重要な要素ではない。私の考えでは、生気論の運命にとってむしろ重要な争点とは、個体をどう解釈するか、これである。そしてベルクソンは、はっきりと個体性(individualité)より個体化(individuation)を重視する姿勢を打ち出した。これは生気論の歴史において画期的なことではあるまいか。

「個体化」という概念自体に長い歴史があることを知らないわけではない。古くはドゥンス・スコトゥスによる議論があり、十九世紀にあっても生物学を発想源とするニーチェ的思考などがあった。したがって、「非個体的」「個体化的」であるということは、たしかにベルクソン的生気論の大きな特徴ではあるが、これをもって、ベルクソンの特殊な生気論の最大の特徴とすることはできない。

§67.ベルクソンの(非)有機的生気論は一つの器官=機関学(organologie)である

では、何が最大の特徴なのか? ベルクソンの生気論の第二の特徴は、先の「個体化」ということから直接導かれるように思われる。個体を特権視しないということは、その背後を貫いて流れる生命の流れを特権視するということである。ベルクソンの個体化は、「生命の大いなる息吹」が物質という塵芥を巻き上げていく過程に他ならない。すなわち物質を生命化し、無機物を有機組織化していく過程である。この生の流れにおいて、植物は、「大気や土や水からじかに鉱物元素を吸収し、それを費やして有機物質を作り出す能力」(EC, II, 109)によって定義される。動物は神経系(場合によっては脳中枢)によって「有機物質の塊に浸み渡っているある原始的なぼんやりした活動力を、一定の方向に運河で導き(canaliser dans des sens déterminés)、いっそう高い強度に持っていく」(EC, II, 111)。そして動物の中でも、脊椎動物においては、活動はもっぱら四肢に集中され、この器官(organes)の果たす機能がその形に依存する度合いははるかに薄い。人間ではそれは完全に独立して、どんな業でもやってのけられる手を持つようになる(L’indépendance devient complète chez l’homme, dont la main peut exécuter n’importe quel travail.)」(EC, II, 134)――「手」のモチーフについては後で詳しく展開することにしよう。ここで強調しておくべきは、生命の歴史とは、文化=耕作(culture)の歴史であり、運河化(canalisation)の歴史であり、有機組織化(organisation)の歴史にほかならない、ということである。

ベルクソン的生気論がこのような生命による物質の有機組織化と、発明や技術の問題系を結びつけている点に初めて注目し、『創造的進化』を「一般器官学概論」であると喝破したのがカンギレムであることはよく知られている。

ベルクソンは、機械発明を生物学的な機能として、つまり生命による物質の有機組織化の一側面として考えた、唯一のではないとしても、稀なフランス人哲学者の一人である。『創造的進化』は、いわば一般器官=機関学概論(un traité d’organologie générale)である。

カンギレムが『創造的進化』を「器官学概論」と呼んだとき、彼の念頭にあったのはほぼ間違いなく次の頁であったはずである。

このように、知性の要素をなす諸能力はいずれも物質を行動の用具に、すなわち言葉の語源的な意味でのorgane(道具=器官)に変形することを目指している。生命は有機体を生み出すだけで満足せず無機物そのままをお添えに与えて、これが生物の丹精によって大がかりな器官=道具に転化される(convertie en un immense organe par l’industrie de l’être vivant)ことを望んだのである。(EC, II, 162)

本章は、この決定的な一節の注釈と、したがって『創造的進化』第二章の読解と見なされてもよいものである。この一節を出発点として、絶えずそこに戻りつつ、ベルクソン的器官学の幾つかの根本特徴を指摘することで、今後詳細な分析を行なうにあたっての足掛かりを提供したい。以下にその特徴を四つ挙げる。延長、知性主義、道具主義、可塑性である。

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藤田尚志

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ふじた・ひさし  九州産業大学准教授。1973年生まれ。東京大学大学院人文社会系研究科博士課程単位取得退学。リール第三大学博士課程修了。Ph.D. 専門はフランス近現代思想。共著に、久米博・中田光雄・安孫子信編『ベルクソン読本』(法政大学出版会)、金森修編『エピステモロジー』(慶應義塾大学出版会)、西山雄二編『人文学と制度』(未來社)、共訳に、ゴーシェ『民主主義と宗教』(トランスビュー)など。