連載・読み物 ベルクソン 反時代的哲学

『ベルクソン 反時代的哲学』25

1月 06日, 2016 藤田尚志
 §74. 人間の手――人間性と動物性、自然的なものと人工的なもの

まずは人間の手から始めることにしよう。〈手〉はもはや『試論』におけるように、痛覚の量的計測に対して質的変化を対置するためのリズム計測的な場でもなければ、『物質と記憶』におけるように、イマージュ論における身体の肉性の希薄さを象徴する場所学的な幻影肢としてでもなく、今回は生命学的(bio-logique)な器官=機関(organe)として現れてくる。ベルクソンにとっての生命は、物理化学法則に還元不可能な現象であるというだけでなく、この生物学的な還元不可能性こそがベルクソン的生気論を構成するというだけでもない。説明を要するのは、ここで言う「生物学的」(biologique)が、単に科学の一分野に関わるというだけでなく、生命の論理と技術、有機組織化と規範性に関わる限りで「生命学的」(bio-logique)であるということだ。脊椎動物では活動はもっぱら四肢に集中されており、この器官の果たす様々な機能は、節足動物に比べて、その形に依存する度合いもはるかに薄い。そしてこの把捉機械の発達が、人間の手というほとんど無限の可能性/危険性を秘めたもののうちに頂点を極める。

人間においては独立は完全なものになり、人間の手はどんな業でもやってのけられるものとなっている。(II, 134/608)

手によるこの解放は、ベルクソンによれば、「はじめて武器が製作され、はじめて道具が製作された」(138/611)日まで遡る(「武器」が「道具」に先行している。この点には『二源泉』に関する第四部で戻ってくることにしよう)。ホモ・サピエンスではなく、ホモ・ファベル(140/613)。ここで提起されている人間の定義は、私たちを当惑させる。というのも、それは通常ベルクソンに帰せられる生気論ないし唯心論から彼を一見して遠ざけるように思われるからだ。だが、無論、明らかに、人間の手は、知性なしには何物でもない。手と知性をめぐるこの文脈においてまさに、「手仕事(travail manuel)について、それが学校で演じうる役割について」ベルクソンが意義深い区別を行なっている一節を位置づけねばならない。「ひとは、知性が本質的に物質を操作する(manipuler)能力であるということを忘れている〔……〕。だとすれば、どうして知性が手(main)の教育から益を俾さないわけがあろうか。〔……〕子どもの手は、自然と構築するよう自らを努力へと促す(s’essaie)。〔……〕それゆえ子供には手仕事をさせよう。この教育を単なる労働(manœuvre)に任せっきりで放置しないようにしよう。触覚(le toucher)があるtactになるまでに完成させてくれるよう(pour qu’il perfectionne le toucher au point d’en faire un tact)、真の師に頼みこもう。そうすれば、知性は手から頭にのぼってくるだろう」(PM 92-93/1325)。このtactは実に訳しにくい。フランス語の辞書を繙けば、まずは生理学的な意味での「触覚」とある。つまり、toucherと同義である。次に、「起点、臨機応変、如才なさ」とあり、その後に、古義として「感触、手触り」や「直感、勘」といった意味が続く。つまりtact自身非常に手触りというかニュアンスに富んだ言葉なのである。河野与一は「触覚が手加減タクトになるまで」(岩波文庫127頁)、矢内原伊作は「触覚を完成させて敏感さにまで至らせる」(白水社版旧全集101頁)と訳し、原章二は「触覚が微妙な感触を得るまで」(平凡社ライブラリー117頁)と訳している。英語版訳者のAndisonは「the touchをa sense of touchとするまでに」、イタリア語版訳者のPerrottiは、「il toccareをun tattoとするまでに」と訳している。訳者たちの苦労が垣間見える瞬間である。私たちとしてはこれらの翻訳を踏まえて、さしあたり「触覚が或る種の手触りとなるまでに」と訳しておくことにしよう。触覚が単なる感覚器官であるにとどまらず、「敏感さ」や「微妙な感触」を備えたものとなりうること、そこには精神・生命と物質の相互関係がある。『創造的進化』は、この種の相互作用的な関係について、さまざまなレベルで展開している。例えば、芸術家とその作品の関係である。

画家は自分の制作する作品の感化そのものでその才能が形成されたり崩れたり、ともかくも変容するが、それと同じことで、私たちの各々の状態は私たちから離れて出るや否や、私たちが今自分にあてがいはじめた新しい形となって私たちの人格を変容していく。(EC 7/500)

この製作プロセスは手を通じてしか現働化ないし具体化されえないが、それも知性あってのことである。この知性とその要素をなす諸能力こそが「物質を行動の用具に、すなわち語の語源的な意味でのorganeに変形することを目指している。生命は有機体を生み出すだけで満足せず、無機物そのものを添え物として与えて、これが生物の丹精=産業(industrie)によって大がかりな器官に転化されることを望んだのである」(162/632)。手の「意味=方向」(sens)と知性のそれ、「われわれの悟性の使命」(165/634)はこうして、生命の「意味=方向」へと流れ込む。人間の器官が自然の道具であるなら、いわゆる道具は人工の器官であると言える。そういうわけで、道具(outil)と機械(machine)の区別は、ベルクソンにとって大した価値を持たない。セリスが的確に注意を促しているように、「ホモ・ファベルの性格を考慮することから着想された知性の定義は、道具と機械の間に断絶を打ち立てない」。技術の問いは、『創造的進化』と『二源泉』にはっきりと現前している。ひとはしばしば、カンギレムやシモンドンが技術哲学を創始したかのように語る。だが、カンギレムが「生気論の諸相」や「機械と有機体」といった論文で、「機械の構築という現象を、真の意味で生物学的な性質の諸観念に依拠することで理解しようと思えば、同時に、科学的現象との関係における技術的現象のオリジナリティの問題を検討することに取り組まないわけにはいかない」と言う時、あるいはシモンドンが、「形相と質料は、もしそれらがまだ存在するとして、同じレベルにあり、同一のシステムに属している。技術的なものと自然的なものの間には連続性がある」と言う時、あるいはスティグレールが「無機的なものの有機組織化としての対象の産婆術」について語るとき、彼らは厳密にベルクソンのこの技術哲学の系譜に属しているのだ。

こうしてベルクソン的「器官=機関」(organe)は、有機的なものと無機的なものの境界を超え出る。手だけでなく、知性や道具だけでもなく、「記憶、想像力、概念や知覚、最後に一般化も」(PM 54/1294-95)が、生命の名において、Primum vivereの名において、「われわれを物質の主にする」。もしそれらすべてが器官=機関(organe)であるのなら、「方向なきものを方向づける」(orienter l’inorientable)延長の法則ないしorgの論理とでも呼びたいようなものが『創造的進化』のうちに現れてくるのは驚くべきことではない。「われわれの知性は諸感覚の延長(le prolongement de nos sens)である」(PM 34-35/1278-79)。「労働者の道具は彼の腕の引き続きである。してみれば、人類の道具制作は、自分の身体の延長である」(DS 330/1238)。この延長の論理は、先行する著作『物質と記憶』において展開されていた「二つの身体の理論」の直接の帰結である。諸事物がその存在するところにおいて知覚されるものであり、知覚が潜在的作用以外の何物でもないのだとすれば、人間身体は、いわゆる「直接」「自分で」触れているところまででとどまるはずはない。「固有身体」ないし「有機組織化されたきわめて小さな身体」を超えて、その向こうに、人間はもう一つの身体、「星々にまで達しうる無機的なきわめて大きな身体」を持っていると言える(DS 274/1194)。後に、この延長の論理の最終的な帰結を見定め、ベルクソンの「手」の特性を見極めるためには、ここで、この論理が導くほとんど唯物論的な以下の所説の意義について問うておく必要がある。

知性によって製作された道具は、〔……〕無機物で出来ているので、どんな形にもなれるし、どんな用にも役立つ。新しく持ち上がるあらゆる困難を生物に切り抜けさせ、さまざまな能力を数限りなく生物に付与することもできる。それは自然な道具に比べて、直接的な要求の満足という点で劣るけれども、要求が身近でなくなるにつれて、それだけ利点を増す。殊に、道具はそれの製作者の性質にこちらから逆に働きかけるという長所をもつ。けだし、道具は新しい機能を果たしてみるように製作者に誘いかけながら、製作者の持って生まれた有機体を延長した人工の器官(un organe artificiel qui prolonge l’organisme naturel)となって、いわばいっそう豊かな有機組織を製作者に授けるのである。道具は一つの要求を満たすごとに新しい要求を生み出す。こうして本能なら動物の行動の円を閉じてその中を動物がこれから先、自動的に動き続けるようにするところを、そうはしないで、道具は果てしない領域をそうした活動のために開いてやり、活動はそこを先へ先へと推進されていよいよ自由になる。(EC 142/614-615)

ホモ・ファベルが単に具体的な諸事物を作ることができるというだけでなく、「自分自身を作り出す」(PM 91-92/1325)こともできるのだとすれば、人間がそのような自己変容を遂行しうるのは、道具という物質による延長を通じてのことである。ほとんどマルクス的な筆致ではあるまいか。「人間性の変容は道具の変改に遅れる〔……〕。蒸気機関の発明から一世紀も経った今、私たちはそれが私たちに与えた深い動揺をやっと感じ始めたところである。しかもこの発明が工業に巻き起こした革命は、人間関係をもやはり覆したのであった。新しい思想が萌え出つつある。新しい感情が花を開こうとしている」(EC 139/612)。ある日、とベルクソンは言う、数千年が経って、私たちの「現代モデルニテ」という時代を振り返って規定しようとしたとき、戦争や政革命といった政治的・経済的尺度ではなく、蒸気機関の発明や産業革命といった技術的尺度を用いるのではないか。私たちの祖先の文明を例えば「旧石器時代」などと呼ぶように。ベルクソンから「人間と物質のカップリングとしての技術的傾向」の着想を得たルロワ=グーランが見事に示したように――彼もまた、生の技術哲学の系譜に連なる思想家の一人である――、技術は、純粋に生物学的な進化の延長なのであり、一種の補綴、義肢なのである。「生命の役割は、物質のうちに不確定性を挿入することである」(127/602)以上、知性的存在が技術的発明によって行なっているのは、生命が根源的には潜在的形態の下で有している不確定性の延長以外の何物であろうか。生命が不確定性を挿入するとしても、それは物質のうちにおいてしか実現されえない。物質が、「その上で生命が飛躍(élan)を遂げる大きな踏切板」(265/722)であるという一節が十全な意味を持ちうるのは、この意味においてである。ここには生命と物質の弁証法的な性格、ジャン=ルイ・ヴィエイヤール=バロンの表現を借りれば、「実在的リアルなものの弁証性」が見られる。「それと知らずに、知性をこのように批判することで、ベルクソンは、カテゴリーを思考の道具として用いる悟性(intellect, Verstand)に対してヘーゲルが行なった批判を再び見出している」。ベルクソンはまさにこの意味で、エラン・ヴィタルという概念を用いているのだ。

私が生命のはずみエラン・ヴィタルというのはつまり、創造の要求のことである。生命のはずみは絶対的には創造しえない。物質に、すなわち自分のとは逆の運動にまともにぶつかるからである。しかし生命はそうした必然そのものとしての物質を我が物にして、そこにできるだけ多くの不確定と自由とを導入しようと努める。(252/708)

生命と物質の間にあって、人間の手は、人間の活動のこの不確定性、この自由の外在化を表現している。諸々の道具を作ることで、より正確に言えば、知性とその創出性、その産業性=丹精性と協力することで、手は、人間と機械、人間と動物、有機的なものと無機的なもの、生命と物質の間の境界線を揺るがすと同時に確定する。というよりもむしろ、揺るがすことによって確定する。ベルクソンはこうして、人間、技術、生命の間の錯綜した諸関係を私たちによりよく理解させてくれる思想家の一人として立ち現われてくることになる。
 
 


【バックナンバー】
     ベルクソン 反時代的哲学 24
     ベルクソン 反時代的哲学 23
     ベルクソン 反時代的哲学 22
     ベルクソン 反時代的哲学 21
     ベルクソン 反時代的哲学 20
 
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[第25回初出:2014年5月31日]
【編集部より】本連載の第29回までは、2013年4月15日から2015年12月28日にわたり、勁草書房サイトに掲載されていたものを移行いたしました。未読の方は、ぜひ第1回からお読みください。第30回からは編集部サイトでの掲載が初出になります。*注は省略してあります。

藤田尚志

About The Author

ふじた・ひさし  九州産業大学准教授。1973年生まれ。東京大学大学院人文社会系研究科博士課程単位取得退学。リール第三大学博士課程修了。Ph.D. 専門はフランス近現代思想。共著に、久米博・中田光雄・安孫子信編『ベルクソン読本』(法政大学出版会)、金森修編『エピステモロジー』(慶應義塾大学出版会)、西山雄二編『人文学と制度』(未來社)、共訳に、ゴーシェ『民主主義と宗教』(トランスビュー)など。