連載・読み物 ベルクソン 反時代的哲学

『ベルクソン 反時代的哲学』29

1月 15日, 2016 藤田尚志

第四部 呼びかけえぬものに呼びかける
『道徳と宗教の二源泉』(一九三二年)における情動の政治学

§79. テクストの聴診(方法論的考察):功利性と効力、生命の二つの運動

ベルクソンの哲学を貫いて相対立する二つのvitalがある。vitalはむろん「生命的なもの」だが、primum vivereというベルクソン哲学の絶対的な参照点からすれば、「生命になくてはならない」「最重要の」という副次的意味のかすかな響きを常に何ほどか聴き取っておかねばならない。「死活問題question vitale」のように、élan vitalは「生命の躍動」であるとともに、生命の「命懸けの跳躍」というニュアンスをどこかに響かせている。二つのvitalとは、安定的な生に命懸けで固執する「その場での旋回」の運動ないし回転運動と、そこから離脱し、見えるはずのない流動的な生の流れへ命懸けで飛び込んでいく「推力」ないし前進運動である。ベルクソンの四大著作で言えば、『試論』における持続と空間や『物質と記憶』における知覚と記憶のみならず、『創造的進化』における生命進化、そして『二源泉』における人間の歴史も、もちろんこの二つの運動を含んでいる。ここでは『二源泉』を見てみよう。

生命は、種の保存たるその停止、ないしはむしろその場での旋回のうちに、その安定への要求を示しているわけだが、この要求の底には、さらに前進運動へのやみがたい欲求、まだ使われずにいた推進力、エラン・ヴィタルがあるのではなかろうか。(II, 1069/115)

人間は、このその場での旋回から身をもぎ離した。すなわち人間は、新たに今一度進化の流れのうちへ躍り込み、この流れをさらに伸ばしていった。これが動的宗教だった。(II, 1133/196)

その場での旋回と推進力、回転運動と前進運動とは、生命の歴史で言えば、種の保存とエラン・ヴィタルであり、人類の歴史で言えば、閉じたものと開かれたものである。人類の安定的繁栄、持続的再生産のための生の循環・旋回運動を目指すものを、ベルクソンは閉じた道徳あるいは静的宗教と呼び、種として固定され、その意味で停滞していた人間の歴史で言えば、ふたたび進化の流れの中へと人類が身を投じていくという前進運動を目指す人類の活動を開かれた道徳あるいは動的宗教と呼ぶ。したがって功利性や有用性(utilité)とは区別される力、効力ないし有効性(efficacité)がある。

この二つの運動は言語にも見て取ることができる。ベルクソンによれば、常識と科学は結局のところ、物質的な利便性・有用性を目指す点で共通しており、言語はそのいっそうの効率化を図るためのものである。しかし、言語はまた、哲学者がそのような生の安定化から身を離し、精神の極限に近づくという危険を冒しつつ、より強度に満ちた生の次元を垣間見ることで、人間的生のよりいっそうの拡充・深化を図る際にも役立つ。その場合、言語は通常の用法から逸脱させられ、撓(たわ)められ無理を強いられることになるが ――「言葉に暴力を振るわねばならぬ」(III, 1191/270)――、言語に強いられた無理(ア・ロゴス)、言語の被る暴力、これこそまさにベルクソン的なメタファーやアナロジーにほかならない。したがって本論文でイメージや隠喩の問題を取り上げるとしても、それは決して瑣末な、非哲学的な問題を扱うということではありえない。バルト的に言えば「声の肌理(きめ)」にまで繊細な注意を払いつつ特異なテクストの聴診を行なうことは、二つの生の運動に注意を払うベルクソン哲学の生命論的かつ認識論的な枠組からくる必然的な要請なのである。哲学的営為とは論理の粗筋を掴み出すための要約的読解の謂(いい)ではない。隠喩や類比、イメージは哲学にとって、むしろ本質的な契機である。

§80. 『二源泉』とは道徳論でも宗教論でもなく、行動の論理の探究である

では、『道徳と宗教の二源泉』を読み、そのテクストの声に耳を傾ける際に、鍵になると思われる思考のイメージないし隠喩とは何か。声・火・道の隠喩、そして「生命の息吹」のイメージがそれであるように思われる。以下、本論に入る前にまず、我々は『二源泉』をどのように読むか、我々の読解の出発点、いわばmea culpaを明示し ――「罪のない読み方などないのだから、我々がどのような読み方で罪を犯しているのかを語ることにしよう」とアルチュセールは言っていた ――、次いで声・火・道の隠喩や「生の息吹」のイメージが我々をどこへ運んでくれるように思われるか、議論の構成や方向性とともに、その終着点となるべき地点を簡潔に指し示しておくことにしよう。

ベルクソンの四大著作の最後を飾る『道徳と宗教の二源泉』は、1932年、彼が73歳のときに刊行された。生前最後に刊行された著作は1934年の『思考と動くもの』だが、これは1903年から1922年までに書かれたものを集めた論文・講演集であり、実質的には『二源泉』が生前最後に書かれたベルクソンの「哲学的遺書」(ラヴェッソン)ということになる。ヨーロッパの危機が再び高まりつつあった1932年という時期に出版されたこと、そしてベルクソン自身が出版後「ヒトラーは『二源泉』が正しかったことを実証した」と洩らしていたことを思い出しておこう。世界戦争や増え続ける人口の問題、奢侈や安楽、快楽を過剰に追求する「色情狂的」な文明の動向(IV, 1232/322)といった当時のアクチュアルな政治的・社会的問題が生命進化の頂点たる人類の歴史の帰結であるという事実に対して、哲学者としていかに応答するか。我々の考えでは、『二源泉』が書かれた真の動機は、そこにある。『二源泉』は、あれほど著作の構成や形式に執着を見せたベルクソンが前書きも序論も置かなかった唯一の著作であるが、序論の不在は、読者をあらかじめ設(しつら)えられ心地よく整えられた理論空間へ招じ入れることの拒否に他ならない。

ここから出てくる私のテーゼは、逆説的な言い方になるが、『道徳と宗教の二源泉』という著作は道徳論でも宗教論でもない、というものである。道徳論や宗教論は、古典的な形式であるtraité、あるいは当時改めて流行していたessaiという形式を用いて、道徳や宗教の本質を純粋に思弁的に究明し、その本性を論じることを目的とするはずのものだ。しかしながら、『二源泉』は決してそのような形で道徳や宗教そのものを論じようとはしない。ベルクソンはむしろ、道徳や宗教という語ないし概念を通して何か他のものに(とはいえ、むろん道徳や宗教と密接に関係している何かに)到達しようとしている。『二源泉』を貫く問い ―― 「なぜ我々は従ったのだろうか?」(I, 981/1)、「どうして聖人たちはこのように模倣者をもったのだろうか、そして道徳上の偉人たちはどうしてその背後に人々を引き連れて[entraîner]いったのだろうか」(I, 1003/30)、「その模範を示した人々が、自らに付き従う他の人々を見出したのは何故なのか、また、ここで社会的圧力と対をなしている力とはいったい何なのか」(I, 1007-1008/35)――、それは、人間を行動へといざない、行動へと促し、行動へと駆り立てる力、「我々の意志に現実に働きかけ、実際に影響を及ぼすある種の力」(I, 1050/90)とはいかなるものであるのか、という問いである。『二源泉』とは、道徳論でも宗教論でもなく、行動の論理を探究する著作にほかならない。ベルクソンのこのchant du cygneを支えているのは、道徳や宗教の本質を見極めんとする形而上学的な認識の欲望ではなく、行動の論理を捉えることで人類を、そして人類を通して生命そのものを危機的状況に陥らせかねない行動を制御し、真に人間的な行動を推進できるような処方への期待、臨床的クリニックな眼差しである。

冒頭でベルクソン哲学における生命の二つの運動を見た。一方は、生の安定化・固定化を目指し、特定の利害関心に固着し円環運動を構成する動きであり(功利性)、他方は、その循環・停滞を打ち破り前進運動を再開する動きであった(効力)。『二源泉』では、前者は閉じた道徳ないし静的宗教と呼ばれ、後者は開かれた道徳ないし動的宗教と呼ばれるが、この二つのヴェクトル、二つの「理念的な極限」(I, 1046/85)においても、人を有用な行動へと追いたて、あるいは強度に満ちた行動へと駆り立てるものが問題となっている。行動の論理は開いた行動だけでなく、閉じた行動をも規定している。

私は、この[静的]宗教という名称が、通常は行動に向けられた表象を、また特定の利益を目指して自然が呼び起こした表象を指して用いられるわけを論証したのだった。(II, 1149/215)

仏教を一個の神秘主義と見ることに躊躇はあるまい。だが、こうした仏教が完全な神秘主義とは言われえぬ理由もまた理解されよう。完全な神秘主義[動的宗教]とは、行動であり、創造であり、愛でなくてはなるまい。もとより、仏教が慈愛を知らずにいたなどと言おうとするのではない。むしろ反対に、仏教は極度に昂揚した言葉で慈愛を薦めたと言いうる。戒律に模範例を添わせもした。だが、熱が欠けていた。[…]仏教は人間の行動の効力[efficacité]を信じなかったのである。信頼を置かなかった。ところが実は、この信頼だけが力となって山をも動かしうるのである。(III, 1166-67/238-239)

まとめよう。『道徳と宗教の二源泉』とは何か。道徳や宗教の「源泉」を探究する試みである。道徳と宗教の二つの「源泉」とは何か。人間を行動へと駆り立てる二つの力である。運動と停止、というよりむしろ推進力と循環力という二つの力、行動とその制度化、創造とその規則化の間で織り成される螺旋形の奇妙な運動である。これが我々のterminus a quoにほかならない。

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藤田尚志

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ふじた・ひさし  九州産業大学准教授。1973年生まれ。東京大学大学院人文社会系研究科博士課程単位取得退学。リール第三大学博士課程修了。Ph.D. 専門はフランス近現代思想。共著に、久米博・中田光雄・安孫子信編『ベルクソン読本』(法政大学出版会)、金森修編『エピステモロジー』(慶應義塾大学出版会)、西山雄二編『人文学と制度』(未來社)、共訳に、ゴーシェ『民主主義と宗教』(トランスビュー)など。