《要旨》
紀元前500年から紀元500年ほどの1000年の間に、ギリシア医学とキリスト教という2つの現象が、のちのヨーロッパ医学の原型を作り出した。医学と宗教はこの時期において密接に連関していたが、紀元前5世紀から、ギリシア、その植民地、そしてローマ帝国において、ギリシアの思想を背景にした新しい医学が発展した。次いで紀元1世紀に登場したキリスト教は、身体、疾病、倫理に関する新しい文化と制度を作り出し、ギリシア由来の医学がその中で発展する新しい構造を作り上げた。ギリシア医学とキリスト教は、対立を含みながら共存して、現在にいたるまで医療にさまざまな影響を与える伝統を作り上げた。
古代ギリシア文明とヒポクラテス集成の医学
医学の太古の起源を神々にさかのぼるのは、世界各地の神話において見られ、そのような神話の解釈を通じてある特定の医学を正当化しようという動きは近現代においても見られる。病気とその治療には、しばしば宗教が直接関与し、医学にとっても宗教は重要な要素であった。古代の文明にはそれぞれ医神が存在したし、16世紀の宗教改革期のヨーロッパで医療の改革を唱えたパラケルスス(1493-1541)は、既存の医学の権威を根本から否定するときに、宗教を通じて自らの医学を正当化してキリストにその起源を求め、19世紀初頭の日本の国学者である平田篤胤(1776-1843)は、中国から輸入された漢方医学に対抗するために、日本の神々である大名牟遅(おおなむぢ)や少彦名神(すくなひこな)が仙界に上って医薬を学んだと主張した。古代から近現代まで、人間の苦しみの一つとしての疾病を扱う宗教と医学は、密接に連関しながら共存していた。古代エジプトの紀元前1500年ほどにさかのぼる医学パピルスであるエーベルス・パピルスでは、宗教的・魔術的な祈りや呪術と自然的な薬や療法の双方が記載されていることは、宗教と医学の併存を象徴している。
古代ギリシアにおいても、宗教と医学は併存した形であらわれている。ギリシア神話においては、病を起こすのもそれを癒すのも神々であったと同時に、神々に依存しない疾病と医療も記されている。医神アポローンは、『イーリアス』の冒頭で語られているギリシア軍の間で流行した疫病を起こし、闘った英雄たちが負傷したときに治療している。それと同時に、神話の中においても、すべての疾病が直接神によって引き起こされるわけではない。たとえば、パンドーラーが壺を開けたときにそこから多くの悪や疾病が外にあふれ出て、人類の世界に疾病が現れたという神話は有名だが、その疾病たちは、特定の神の命令や意思によって特定の人物を病にするわけではない。神による疾病と医療、そしてそうではない疾病と医療という2つの考えは共存していたのである。
また、宗教的な癒しの空間である神殿においても、神の癒しと医療の治療は併存していた。アスクレピオスは、後に触れる紀元前5世紀にアテーナイなどを襲って大きな被害を出した疫病の後に、医神としての権威が上昇して、ギリシア世界に広く分布する医神となった[1]。堂々たる建築であったアスクレピオスの神殿の遺跡は各地に残っている(図1・図2)。
図1 ペルガモンのアスクレピウスの神殿の遺跡
図2 アスクレピウスの彫像
これらの神殿に病人が入り、身体を浄めて捧げ物を供えてから境内で眠ると、夢の中で病気を治す手法についての神のお告げがあるという形が一般的であった。このような宗教的な病気の治療は、宗教的ではない医療に対して開かれていた。患者の夢の中で伝えられる治療の手法は、しばしば通常の医療の手法であり、医者たちが与える医療の方法が宗教施設の治療の中で教えられるという併存の構造を取っていた。そのため、神殿に付随して治療を行う医者たちも存在したし、逆に、医者たちも宗教的な治療に対して敵意を示さないことが多かった。
紀元前5世紀から4世紀にかけて現れた新しい医学は、宗教との併存という構造を全体としては保ちつつ、宗教の方向性とは違う独自の問題を新しい仕方で問うという特を持っていた。人間の身体とそれを取り囲む自然の世界との連関を問い、自然に根拠を持つ仕方で疾病を理解して治療するものであった。かつてはこの新しい医学を宗教と対立するものであると捉えていたが、現在の研究では、対立ではなく併存する構造の中での独自の発展と捉えている。その新しい医学を象徴する人物が、ギリシア文化、特にアテーナイの文化の黄金時代と重なる時期に活躍したヒポクラテス(c.460-c.370BCE)であり、彼の学派の医者たちなどが書いた医学の著作を集成したのがヒポクラテス集成である。
ヒポクラテスその人について確実に知られていることは非常に少ない。プラトンの対話篇で、コス島の出身で、医学を教えて授業料を取っていた著名な医師・医学教師であると記述されており、この対話篇が書かれた紀元前430年頃に著名な人物であったと推察される。また、アリストテレス派によるヒポクラテスの学説についての言及を記したパピルスがあり、彼の名を冠した著作が読まれていたことも確かである。ヒポクラテスが著名な医師になったため、紀元前350年頃にはヒポクラテスの演説や手紙などの「偽書」を創作することが始まっていた。これらの偽書は、後に述べる「ヒポクラテス集成」とともに、古代から現代にいたるまでヒポクラテスに関する伝説を作り上げ続け、それぞれの時代や文脈の価値観に応じたヒポクラテス像を作り上げてきた。古代には、ヒポクラテスはギリシアの医神のアスクレピオスの子孫であるという宗教的な関心に基づく系譜も製作されたし、ペルシア王に医療を乞われたがギリシアの敵を治療することはしないと断ったという愛国心を持つヒポクラテス像も創作された。20世紀前半に盛んに唱えられた、宗教と対立する科学的な医学を唱えたというヒポクラテス像も、このような伝説の一つの現れである。長い伝統とそこで加えられたさまざまな解釈が、「西洋医学の父」としての「ヒポクラテス」を作り上げてきた。