医学史とはどんな学問か
第1章 ギリシア・ローマ文明とキリスト教における医学と医療

About the Author: 鈴木晃仁

すずき・あきひと  静岡県生まれ。静岡県立清水東高等学校卒、1986年、東京大学教養学部教養学科科学史・科学哲学専攻を卒業、同大学院総合文化研究科地域文化研究(イギリス文化)に進学、1992年にロンドン大学ウェルカム医学史研究所で博士号を取得した。博士論文は啓蒙主義時代イングランドの精神医学思想史を主題とし、指導教官はロイ・ポーターであった。その後、ウェルカム財団医学史研究所リサーチ・フェロー、アバディーン大学研究員などを経て、1997年に慶應義塾大学助教授となり、2005年から慶應義塾大学経済学部教授。
Published On: 2016/2/23By

ヒポクラテス派が活躍した時期に、アテーナイの疫病」と呼ばれる大きな感染症の流行があった。紀元前430年から-429年までアテーナイを蹂躙し、ペリクレスはその疫病の中で死亡した。「ヒポクラテス派によるこの疫病の記述はなく、現代の疾患名はさまざまな候補があって分かっていない。しかし、幸運なことに、歴史学の父と言われるトゥキディデースの『ペロポンネソス戦争史』に、きわめて充実した詳細な記述がある。とりわけ、疫病による大量の速やかな死が進みつつある都市では(市の人口の四分の一が失われたと記述されている)、人々が名誉の観念を失い、犯罪は増え、死体が路傍に打ち捨てられているありさまは迫真性が高く、過去と現在の疫病の記述、あるいはその文学的な理解に大きな影響を与えてきた。この記述は、疫病を見る見方に大きな影響を与え、ソポクレス『オイディプス王』、ルクレティウスの『物の本性について』、ヴェルギリウス『農耕詩』などには、トゥキディデースの疫病の記述の影響があると言われている。近代には絵画の主題として取り上げられている(図5)。
 
図5 「アテーナイの疫病」

L0004078 The plague of Athens. Line engraving by J. Fittler after M. Credit: Wellcome Library, London. Wellcome Images images@wellcome.ac.uk http://wellcomeimages.org The plague of Athens. Line engraving by J. Fittler after M. Sweerts. 1811 By: Michael Sweertsafter: James FittlerPublished: 1811 Copyrighted work available under Creative Commons Attribution only licence CC BY 4.0 http://creativecommons.org/licenses/by/4.0/

L0004078 The plague of Athens. Line engraving by J. Fittler after M.
Credit: Wellcome Library, London. Wellcome Images
images@wellcome.ac.uk
http://wellcomeimages.org
The plague of Athens. Line engraving by J. Fittler after M. Sweerts.
1811 By: Michael Sweertsafter: James FittlerPublished: 1811
Copyrighted work available under Creative Commons Attribution only licence CC BY 4.0 http://creativecommons.org/licenses/by/4.0/

 

アレクサンドリアの医学

 

ギリシア世界の拡大とともに、医学の新しい方向が切り拓かれた。紀元前3世紀には、エジプトの都市であるアレクサンドリアがさまざまなギリシアの学問の拠点となり、そこでギリシア医学が新たな発展をとげた。マケドニアのアレクサンダー大王(アレクサンドロス三世、356-323BCE)によるギリシア、小アジア、エジプト、中近東にわたる広大な地域の征服のあと、紀元前3世紀には、アンティゴノス朝マケドニア、セレウコス朝シリア、そしてプトレマイオス朝エジプトの3つの王国が成立した。アレクサンダー大王がアリストテレスを教師として崇拝していたことが象徴するように、これらの王国は学術を優遇し、国家が後援する学術の拠点が各地に作られた。その中でもアレクサンダー大王が新たに設立し、プトレマイオス朝の首都となった都市であるアレクサンドリアは、人口100万人ともいわれる巨大都市となり、学術研究所のムセイオンや、数十万巻の書物を集めた図書館が設立された。これらの資源を背景にして、幾何学のエウクレイデス(ユークリッド)や天文学者のプトレマイオスなど、科学史上の巨人たちが活躍した。

アレクサンドリアにおいて、医学も多方面にめざましく発展した。図書館の設備を背景にして、さまざまな医学のテキストが収集され、それらが「ヒポクラテス集成」という名称でまとめあげられたのも、おそらくこの地であっただろうと推測されている。これを現代の感覚で言う新しい文系的な学問であるすれば、アレクサンドリアでは新しい理系的な方向に向かって医学が進展した。それが、人体の解剖と人間・動物の実験である。とりわけ、人体解剖については、世界の医学の歴史の中で、組織的に行われた最初の人体解剖として名高い。活躍した医師としては、ヘロフィロス(Herophilus of Chalcedon, c.330-c.260BCE)とエラシストラトス (Esasistratus of Ceos, c.315-c.240BCE) の2人が著名である。

人間の死体を切り開いてその内部を観察することをタブー視する文化は多く、古代ギリシアもその例外ではなかった。アリストテレスは多くの動物解剖を行い、生物学の祖とも言われているが、これは食用の動物を解体することと倫理的に連続しており、人体解剖は行わなかった。その意味で、ヘロフィロスとエラシストラトスが動物解剖だけでなく人体解剖を行ったことは、それまでのタブーを破る行為であった。さらに、古代の医者たちは、たとえばケルススが『医術について』で述べるように、ヘロフィロスらが人間の生体解剖を行って生理学的な洞察を得たとも述べている。生体解剖については、現在の医学史家たちは、確実な証拠はないが、行われた可能性もあると考えている。

人体解剖というこれまでのタブーを破る行為と、生体解剖という現在でもタブーである行為の可能性が、なぜアレクサンドリアで起きたのだろうか? これについては、ヘロフィロスについての優れた研究をあらわしたフォン・シュターデンが言うように、19世紀以降のヨーロッパの植民地科学・植民地医学を祖型にして考えて、紀元前3世紀のアレクサンドリアでは、ギリシア人がエジプトを征服して「植民地医学」を作ったとするとイメージをつかみやすい。エジプトの伝統であるミイラを作成するために死体から内臓を取り出す技法を持つ人々がおり、彼らの行為が、死体解剖へのヒントとある程度の倫理的な正当化を提供した。さらに、プトレマイオス朝は、刑死体、特にエジプト人の刑死体をギリシア人の医師・科学者たちに与えた。それを背景にして、ギリシア人がもともと持っていた、権利は市民が持つものであり、奴隷や異邦人などには与えないという発想が現れ、その結果、被植民地人の人体を解剖し、生体解剖すら行うことができたというイメージを持つことができるだろう。しかし、フォン・シュターデンが注意を促すように、ヘロフィロスらの研究をプトレマイオス朝が国家として後援したという証拠はなく、むしろ、ヘロフィロスは国家に雇われておらず、ムセイオンではなく彼の家で解剖などを行ったのではないかと考えられる。それまでの倫理的なルールを破る「暴力」が、国家に後援された科学の力で行われたと想像するのは安直にすぎる。

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すずき・あきひと  静岡県生まれ。静岡県立清水東高等学校卒、1986年、東京大学教養学部教養学科科学史・科学哲学専攻を卒業、同大学院総合文化研究科地域文化研究(イギリス文化)に進学、1992年にロンドン大学ウェルカム医学史研究所で博士号を取得した。博士論文は啓蒙主義時代イングランドの精神医学思想史を主題とし、指導教官はロイ・ポーターであった。その後、ウェルカム財団医学史研究所リサーチ・フェロー、アバディーン大学研究員などを経て、1997年に慶應義塾大学助教授となり、2005年から慶應義塾大学経済学部教授。
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