現実は変えられないという「現実主義」に抗するためにフィクションは意味をもち得るか、SFアニメで考える骨太フィクション論。
科学、技術の急速な発展をうけて、現実主義者は、フィクションは意味がないしくだらない、あるいは、無責任で害悪でさえあるという。それに対し、そのような態度こそがわたしたちの現実を堅く貧しくしているのだと反論することはできるのだろうか。名作SFアニメを題材に、フィクション、現実、技術について、深く検討する。本連載を大幅修正加筆し、2018年12月末刊行。
【ネット書店で見る】
古谷利裕 著
『虚構世界はなぜ必要か? SFアニメ「超」考察』
四六版判上製・304頁 本体価格2600円(税込2808円)
ISBN:978-4-326-85196-6 →[書誌情報]
体制内アウトローの現実主義
70年代から80年代にかけての大衆的な物語のなかでは、アウトロー的なヒーロー像の一つのひな形として私立探偵という存在がありました。レイモンド・チャンドラーやダシール・ハメットによって書かれた内面的な探偵たちに端を発する私立探偵の物語は、70~80年代の日本のテレビドラマにおいて『傷だらけの天使』(1974~75年)や『探偵物語』(1979~80年)のような発展形を生み、人気を博しました。そこでは私立探偵は社会からドロップアウトした存在であり、警察には扱えない事件を非公式的に扱います。彼らはいわば放蕩息子であり、父としての警察や法とは対立します。テレビドラマというジャンル内でも、これらは主流の「刑事ドラマ」に対するオルタナティブとしてありました。
しかし、私立探偵の系譜は次第に消えていきます。『探偵物語』を製作したセントラル・アーツは、86年にその後長くつづくことになる『あぶない刑事』シリーズの製作を開始します。登場人物は「あぶない」存在でありつつ「刑事」であり、かつて私立探偵であったような性質をもつ人物たちが警察に属すようになります。あるいは、ポール・トーマス・アンダーソンによるトマス・ピンチョン原作の映画『インヒアレント・ヴァイス』(2014年)には、70年代を舞台にして、私立探偵的アウトローの存在が次第に困難になってゆく様が描かれています。このようなアウトローの体制化という傾向は、『機動警察パトレイバー』(88年~)シリーズの後藤隊長や『攻殻機動隊』シリーズ(89年~)の荒巻課長、草薙素子に至って、それが本来抱える矛盾や物語としてのポテンシャルが最大限に発揮されるまでになります。
パトレイバー・シリーズは、1988年にスタートして現在までつづく、マンガ・アニメ・ノベルズ・実写ドラマといった複数メディアで展開される物語群です。警視庁特車二課と呼ばれる警察内の架空の組織が舞台となります。特車二課は警察内では周縁的、落ちこぼれ的なポジションとされています。周縁的な特車二課のなかでもさらに補助的な二係のリーダーが、このシリーズで最も印象的な人物である後藤隊長です。この後藤こそが、典型的な体制内アウトローと言えます。
彼ら(特車二課)は警察官であり、あくまで体制(「父」)の側にいて、しかし権力の中心や主流にいる人たちとは違う動き方をします。そして、そのような彼らの独自な努力こそが、権力の中枢の腐ったダメな部分を補い、支える、縁の下の力持ちとして機能するのです。偉い人たちは腐っており、有事には体制内反主流である彼らの活躍と矜持こそが世界の秩序を支えている。彼らが、自ら進んで名を捨て、体制内に留まる「やせ我慢」をすることで、混乱は収められ、秩序は回復されます。ここには父殺しはありません。
この傾向は特に押井守を中心としたアニメーション作品において顕著ですが、体制内アウトローは、精神としてはアウトローなので、彼らと敵とは実は似通っていて鏡像的です。彼らは敵との戦いを通して、実は「体制の中枢の無能さ」と戦っています。つまり敵と同じものを「敵」としている。しかしそうであっても、「敵の敵は味方」とはならず、同時に2つの敵と戦います。彼らにとって、「中枢の無能さ(父)」も「無能な中枢を攻撃する者(父殺しを望む者)」も、どちらも「秩序を破壊する」という意味では敵です。
ここには、革命の夢のかわりに秩序を維持するという大人の現実主義(の物語)があります。90年代的なヒーローである「体制内アウトロー」は決して世界を変えず、無名の存在として黙々とその維持に貢献します。最悪の混乱や暴力(それは「世界を変えようとする者」によって引き起こされます)よりはずっとマシですが、秩序の維持とは既得権の維持であり、今、勝っている者がその位置に居つづけることです。変化は破壊であり、維持は硬直であるとすれば、世界を変えるという大きな物語は不可能なのでしょうか。
『パトレイバー』における大人の現実主義の裏返しとして、強い権威をもつように見える父が、実は息子と同様に母を求めるわがままな夢見る子供でしかないことが暴かれる『新世紀エヴァンゲリオン』(1995年)があると言えます。主人公の父、碇ゲンドウは、自分の欲望のために世界全体を書き換えてしまおうとする点で、『パトレイバー』や『攻殻機動隊』のテロリストと変わりません。実は、『パトレイバー』や『攻殻機動隊』のような大人の現実主義をベースにした物語においても、最終的には否定される秩序破壊者側の存在(欲望や思想)がどの程度魅力的であるのかというところに、物語の面白さの多くを負っています。つまり、秩序破壊者は現実主義者の見る「夢」のようなものでもあるのです。
「夢」としての、天才とその制作物
女たちの語る多数の物語に埋まるように絡めとられていた『岬』の秋幸は、「見立て」としての父殺しによって自分自身という存在を立て、それによって世界を変えようとします。それは、多数の(女たちによる)物語群に対して「父(殺し)」という物語のもつ位置が特権的なものだからこそ可能なことでした。アウトロー的なヒーローもまた、父(体制)の強さに支えられます。しかし『パトレイバー』シリーズでは、父も多数の物語群の1つでしかなく、しかも主人公は既に父の一部に組み込まれています。この時「父殺し」は世界の破壊となります。世界を変えることが世界の破壊でしかないとすれば、物語は、決して美しくはないこの世界をそうと知りつつ維持し、ちまちまと改良や修復を加え続ける大人の現実主義を謳い上げるしかなくなります。しかしそれでは、常に大人であることを強いられ、否定されるべきものとしてしか「夢」を見られなくなります。
現在、多くの人にとって現実が決して「良い」ものだと思えないものになっているとしたら、大人の現実主義の物語は輝きを失うでしょう。『進撃の巨人』(2009年~)のような物語が強迫的に突きつけてくる「現実」が、それを示しているように思います。
現代のフィクションのリアリティにおいては、世界を変え得る肯定的な希望の物語は、天才的知性に辛うじて託されているように思われます。とびぬけた頭脳を持った人や集団がつくったモノやプログラム、テクノロジーによってのみ、世界が変わり得る希望がある。この感じは、最近のハリウッド映画における天才的なイノべーターの伝記映画の流行によって反映されているように思われます(アラン・チューリング、スティーブ・ジョブズ、マーク・ザッカーバーグ、スティーヴン・ホーキングなど)。彼らは頭脳として存在し、政治や荒事ではなくプログラムや制作物を通じて問題を解決する、あるいは状況を変える。
『イミテーション・ゲーム』はモルテン・ティルドゥム監督によって2014年に製作された、天才数学者アラン・チューリングの評伝を原作とする映画です。主演のベネディクト・カンバーバッチはテレビシリーズのシャーロック・ホームズ役でも知られています。ここで主人公のアラン・チューリングは、果敢な行動によってでも、優れた軍事作戦によってでも、政治力によってでもなく、彼の頭脳から生み出された「計算機(暗号解読機)」によって人々をナチスの攻撃から救います。主人公は、変わり者で嫌われ者で一人ぼっちで、自分は政治には興味がないと発言します。彼の関心は計算機を完成させることにあって、人々を戦争から救うことではありません。見るからに堂々とした、軍人としての誇りや風格が感じられる(大人の現実主義を体現するような)彼の上司は、そんなアランを嫌います。しかしそんなアランこそが戦争の終結に貢献するのです。
断念された革命家であり縁の下の力持ちである体制内アウトローと異なり、天才は有名人です。しかし、英雄、リーダー、救世主(つまり父)のような存在ではなく、「ある種の能力においてとびぬけている」だけであり、理想や志や矜持をもっているとは限りません。世界を変えるとしても、それは彼の能力、技術、あるいは制作物がおのずと変えてしまうのであって、彼の志や思想や理想が変えるのではありません。大人の現実主義という物語は、現実を変える技術の力によって乗り越えられます。
ただ20世紀において天才たちの開発したテクノロジーが主に何を生産したかと言えば、それは戦争における大量死でしょう。技術は希望であり、同時にそのような負の側面があります。