虚構世界はなぜ必要か? SFアニメ「超」考察 連載・読み物

虚構世界はなぜ必要か? SFアニメ「超」考察
第1回 はじめに(1)フィクションの価値低下のなかでフィクションを問うこと

4月 13日, 2016 古谷利裕

 
インターネットに代表されるこの20年の技術の進展は、生活環境を大幅に改変し、これまで以上にわれわれの身の回りは技術に「侵食」されつつあります。そうした状況では、一見するとフィクションが成立しにくくなっているように思われます。はたして、いま、フィクションは必要とされているのでしょうか。必要とされるのであれば、なぜ必要とされるのでしょうか。本連載では、この大きな問いに、SFアニメという軸を設けて深く考えていきます。2010年代の「フィクション論」はじまります。[編集部]
 

はじめに(1)フィクションの価値低下のなかでフィクションを問うこと

 

フィクションはなぜ必要か? フィクションを「リアルだ」と感じるというのはどういうことなのか? この連載で考えてみたいのはそのような事柄です。このような問題をたてるのは、現在の我々を取り巻く環境に「現実主義」とでも言えるような力が強く作用しているという感覚があるからです。虚構の世界がどうなっていようと、それがこのわたしにとって、この社会にとって、どんな意味があるというのか、というようなフィクションへの軽視が、広く共有されてあるように思われます。それは、文化的なもの一般への軽視にもつながるでしょう。

手始めに、フィクションの価値の下落を示す例として、70年代、90年代、2010年代に生まれたフィクションを順を追って挙げて考えてみたいと思います。フィクション一般を考えるためにそれぞれ異なるジャンルから挙げます。一つめは、中上健次による芥川賞受賞作『岬』(1976年)。二つめは、ゆうきまさみ、押井守らによる『機動警察パトレイバー』シリーズ(1988年~)、三つめは、ベネディクト・カンバーバッチ主演のハリウッド映画『イミテーション・ゲーム』(2014年)。この選択はある程度は恣意的なものですが、まったく恣意的だというわけではないことは、読まれるうちに納得されると思います。
 

見立てとしての父殺し

『岬』は1976年に第74回芥川賞を受賞した小説で、中上健次は戦後生まれとしてはじめての芥川賞作家となりました。彼はその後も自らの出身地を舞台とした多くの小説を書いて高い評価を受けます。『岬』は、竹原秋幸という人物を描く作家の代表作といえる3部作(『岬』『枯木灘』『地の果て至上の時』)の最初の作品でもあります。3部作中の『枯木灘』は、批評家の江藤淳により日本の自然主義文学が理想を実現した作だとまで評されるなど、中上健次は戦後の日本文学を代表する作家の一人と言えます。

主人公の秋幸は多層的な物語に織り込まれて生きています。彼は、母の三番目の夫である義父の家に住み、父親の異なる姉の夫が経営する土建会社で働いています。彼には若くして死んだ兄がいて、母も姉も、彼と兄とが似ていると、ことあるごとに指摘します。物語は、母の最初の夫(兄と姉の父です)の法事を、母と義父の家で行うのか、姉の家で行うのかという対立によって語り起こされます。母は、兄と姉を捨てるようにして、幼かった秋幸だけをつれて、最初の夫の家を出て現在の夫に家に移り住みました。姉としては、自分たちや父の家を捨てた母に、父の法事の権限を譲りたくはないのです。いわば、亡き父の所有権を巡る姉と母との対立があり、秋幸は兄の代理として、二人の保護者的女性(母・姉)の対立の中立点にいます(彼は「母にとっての兄」の代理であり「姉にとっての兄」の代理でもある)。彼自身は受動的で、女たちに従順な無色のスクリーンでしかなく、二人の女性によって兄の像を代理的に投射され、見立てられた存在としてその保護下にいます。

そんな彼が、代理ではなく、自分自身であろうとする時にモデルとするのが、彼が生まれるより前に母と別れた自分の実父(母の二番目の夫)である「あの男」です。実父は非常に評判の悪い、汚いやり方で成り上がったと人々から噂される男です。秋幸はまず、自分は兄よりも実父に似ていると言って自分と実父とを同一化し、その上で、汚く乱暴な成り上がり者である実父を否定することで、自分自身として立とうとします。しかし、その否定の仕方は、母親の異なる妹(実父の娘)との近親姦です。彼は、異母妹とつながることで母や姉の系列を切断し、近親姦というタブーを犯すことで実父を否定し、それによって自立しようとするのです。

ここにあるのは典型的な(ギリシャ神話的ですらある)「父殺しによる自立」という物語です。『岬』は文章から空気の質感さえ感じ取れるような非常に優れた小説ですが、あらすじだけを取り出すと、現在では多くの人がしらけるのではないでしょうか。秋幸がやっていることも結局「見立て」上の行為でしかありません。妹は余所の土地から流れてきた売春婦で、彼が兄であることを知りません。実父も自分の子供たちの関係を知りません。客観的には、童貞の男が金で女を買っただけです。妹にとって秋幸は大勢の客の一人でしかありません。しかし彼は自分の頭のなかだけで勝手に父への「勝利」や「自立」を宣言します。彼は内面的にはアウトローなのです。この小説の発表当時(70年代)は、そのような「見立て上(物語上)の父殺し」こそがリアルな問題でした。

父殺しとは権威の否定であり、父に代わって自分が権威の位置につこうとすることだと言えます。それは革命への指向とも言えるでしょう。しかし90年代になると、そのような革命への指向は、見立て上でさえリアリティを失います。見立てによる父殺しを行う秋幸に代わって物語に出てくるのは、体制内アウトローとでも言うべき人物たちです。体制内アウトローは、見立てとしては父の側にいて、父をサポートしつつ、父の無能さと戦います。

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