虚構世界はなぜ必要か? SFアニメ「超」考察

虚構世界はなぜ必要か? SFアニメ「超」考察
第2回 はじめに(2)「たんなるリアル」を開く技術

5月 11日, 2016 古谷利裕

 
 

なぜアニメなのか

ここで考えようとしているのは「フィクションはなぜ必要か」ということです。つまり、フィクションというもの一般が問題であり、作家論でも作品論でも、特定のメディアに関する表現論や歴史でもなく、物語の類型やその発展形を探るということでもありません。この問いの動機は、実感としてフィクションの力の低下があり、その背景として現在の技術的な環境があると推測されることでした。そして、それを考える素材として、ここでは主にSFアニメを取り上げるつもりです。

特定ジャンルの表現論ではないと言いながらなぜアニメなのか。第一の理由は、アニメは、物語が特定のメディアに留まらず、様々なメディアを横断して展開してゆく時の強い結節点の一つになっているという点があります。

例えば『攻殻機動隊』というフィクションは、1989年に士郎正宗によるコミックとして生まれ、1995年に『GHOST IN THE SHELL/攻殻機動隊』という形でアニメ映画として制作され、2004年にはほぼオリジナルといえるその続編『イノセンス』がつくられます。さらに、別のスタッフによる『攻殻機動隊 STAND ALONE COMPLEX』などのテレビアニメシリーズへと展開されて、そのシリーズは2002年から2005年までつづきます。そして最近(2013年~2015年)になってまた、『攻殻機動隊 ARISE』として新シリーズが生まれました。これらは、基本的な世界観とキャラクターを共有していますが、各々の作品においてオリジナリティが強く出ており、たんに原作のアニメ化という概念ではとらえられません。それぞれが、士郎正宗、押井守、神山健二、冲方丁という作家の作品といえるものになっています。

(さらに、2017年公開予定のハリウッド実写版が現在制作中です。)

あるいは『涼宮ハルヒの憂鬱』は、2003年に谷川流、いとうのいぢによるライトノベル作品として生まれ、高い人気を得ることで小説がシリーズ化された後、京都アニメーションという制作会社により二度にわたりテレビアニメ化(2006年、2009年)され、劇場映画版もつくられます(2010年)。それと平行して、複数の漫画家によるコミカライズも進められました。さらに、シリーズ中の一編で映画化もされた『涼宮ハルヒの消失』という作品と同じ世界観で、本編とは異なる結末が訪れ、別の人物の視点にたったとしたらどうなるかという仮定の世界を描く『長門有紀ちゃんの消失』(2009年~)など、複数のスピンオフが、ぷよという漫画家によって描かれます。これらは公式的な二次創作といえます。そして『長門有希ちゃんの消失』は、サテライトという(オリジナルをアニメ化したのとは別の)会社によってテレビアニメ化(2014年)もされました。

このようにアニメは、一つの共有された世界観、キャラクター、ストーリーをもった「物語」が、さまざまな作者たちへ、さまざまなメディアへと横断的に変換されてゆく運動のなかで、その一角を担うことがとても多いメディアであるといえます。この時、『攻殻機動隊』のように、ある世界観やキャラクターが、複数の作家たちの間を横断してそれぞれに自律性の高い作品へと結実することもあれば、『涼宮ハルヒの憂鬱』のように、様々なジャンル、製作体制の間で拡散され、作家性よりも、キャラクターやエピソードそれ自体が増殖し、展開してゆくかのような形もあります。このことが、ある特定の作者やメディアの固有性とは異なる形でフィクションについて考える時の素材としてアニメが適していると考える理由の一つです。しかしだとしたら、ライトノベルやコミックも同様ともいえます。
 

予めメディア横断的なメディアとしてのアニメ

現在のアニメの多くは、製作委員会という形式によってつくられています。製作委員会は一般的に、出版社、制作会社、広告代理店、放送局などにより構成されます。出版社は、原作を提供したり、作品のコミカライズ、ノベライズを担当します。制作会社はアニメそのものを製作し、作品をソフト化して販売もします。広告代理店はキャラクター商品などノベルティを管理します。放送局は、作品を放映します。アニメは、その製作体制から、予めメディア横断的であることを宿命づけられているといえます。この点でアニメは、ライトノベルやコミックのように、作者の個としての才能や技量に強く依存し、また、出版というある程度自律的にも成立し得る業界のなかで生まれるものよりも、取り上げる素材としてより適当であると考えます。

作家性という意味でも、アニメにはユニークな特徴があります。宮崎駿、押井守、幾原邦彦の作品のように、「作家性」を持った作家によってつくられたものとして語られる傾向が強い作品がある一方、京都アニメーション、シャフト、ボンズの作品という風に、制作会社のカラーが「作家性」と同等かそれ以上のものとして語られる場合もあります。「イクニ(幾原邦彦)の新作」と言うことと「京アニ(京都アニメーション)の新作」と言うこととが、同じ重さをもつのです。

(さらに、作画マニアという存在もいて、作品という単位より、その場面の原画を誰が描いたのかという風に、アニメーターが最重要視されることさえあります。)

これは、アニメの制作が高度に分業化されていて、その分業を統合する働きとして、個としての作家(監督)の印が強く刻まれる場合もあり、その会社としての蓄積や共同性の方が強く前に出てくる場合もあるということだと考えられます。実写映画でも、監督、撮影、照明、音声などのスタッフと俳優たちという分業はありますが、皆が同じ空間にいて、ヨーイ、スタートで演技がはじまるという風に、一つの場が共有されることもあります。しかし、アニメはその全ての作業がバラバラに行われます。同じシーンであっても、カットが違えば別のアニメーターによって描かれているかもしれません。だからこそ、バラバラなものの伝播や統合のされ方には、様々な異なる形があり得るのでしょう。

以上にみてきたように、アニメは、一つの自律的なメディアであるというより、それぞれに異なる力学をもつ複数のメディアの横断的な複合体として成立しており、しかも、その複合、統合のされ方は個々の作品においてかなり異なっていると言っていいと思われます。そのような複合的メディアのなかで、フィクションというものがどのように立ち上がってくるのか。それを考えることが、特定のメディアの特徴ではなく、フィクションというものの成立について考えたいという動機と、しかし、あらゆる種類のフィクションに手を出すことで散漫になってしまうことは避けたいという狙いとの、両者を満たすものとして適当であると考えています。
 

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