虚構世界はなぜ必要か? SFアニメ「超」考察
第2回 はじめに(2)「たんなるリアル」を開く技術

About the Author: 古谷利裕

ふるや・としひろ  画家、評論家。1967年、神奈川県生まれ。1993年、東京造形大学卒業。著書に『世界へと滲み出す脳』(青土社)、『人はある日とつぜん小説家になる』(青土社)、共著に『映画空間400選』(INAX出版)、『吉本隆明論集』(アーツアンドクラフツ)がある。
Published On: 2016/5/11By

 

世界観というフィクションと現実主義

前回、「現実」のカテゴリーとして次の5種類を挙げました。①物理、②論理、③技術、④共同性、⑤個としての内的な生、です。ここで、①こそをもっとも根本的な現実だと考えれば実在論という立場に、④や⑤こそを根本的だと考えると観念論という立場に、哲学的にはなるでしょう。実在論とは、事物が人間の経験や精神と切り離されて独立して実在するという立場で、観念論とは、人間の主観や精神が事物を存在させるという立場です。しかし、実在論を採るにしても観念論を採るにしても、②の論理というものをどう扱うかは大きな難題です。前回、181が素数ではない可能世界は、ただ「想定する」ことさえ困難だということを書きましたが、論理は、事物からも精神からも独立してあるように思われるからです。そこで、②こそが根本にあると考えるのが論理哲学といえるでしょうか。このように、5種類の「現実」のカテゴリーをどのように関係づけ、配置するのかによって、さまざまな哲学的立場、あるいは世界観があり得るでしょう。ここでは、複雑な哲学的議論に立ち入ることは避けますが、哲学的には「現実」という概念が決して自明なものではなく、一筋縄ではいかないものだということを確認しておきます。

仮に、もっとも素朴な実在論という立場を採ると仮定します。その時、①物理的な事象を②論理的に組み立てることで③技術が生まれる。ここまでが客観的な領域となります。そして、④共同的な信と⑤個的な生とが、重なり合い、絡み合い、相克する領域が、主観的な領域となります。実在論では、主観的領域を客観的な根拠によってどのように説明することができるのかが問題となるでしょう。

(ここで主観的とは、あくまで現実としての強いられた主観のことです。たとえば、私の歯の痛みは私の主観のなかにしかありませんが、私はその原因を取り除かない限り、それを自由に消したり現したりすることは出来ません。「痛み」は強いられています。)

5種類の「現実」のカテゴリーをどのように関係づけるかによって、様々な哲学的立場があり得るということを書きました。つまりここには選択可能性があります。私は、仮に実在論という立場を信じてみると仮定して、実在論によってどれだけ説得力をもって首尾一貫した世界の説明を組み立てることができるのかという(「現実」を素材にした)論理的なゲームを行うことができます。つまり、現実がどのような原理で、どのように構成されているのかということを表す「世界観」はフィクションであるといえます。このようなフィクションを真剣に演じること、フィクション同士で競い合うこと、そのようなフィクションの歴史に参加すること、そのようなゲームにリアリティを感じること、それらが「現実について思考する」というフィクションであり、そのようなフィクションの歴史的連なりとして文化があるといえるのではないでしょうか。

今、強くなっている現実主義というものは、単純な絵空事への軽視ではなく、このような「現実について思考する」というフィクションに対する軽視として現れているように思われます。「で、一体それは何の役に立つの?(世界観なにそれ美味しいの?)」というような思想や哲学に対する冷笑的な実践主義は古くからありました。そうではなく、問題はもっと切羽詰まったものだと感じます。「世界観(現実について思考すること)」には、「現実は切迫的であるという現実」が抜けているという反感があるのではないでしょうか。

『進撃の巨人』(2013年)のリヴァイ兵長という登場人物は、主人公のエレンに対して、「自分の力を信じても、信頼できる仲間の判断を信じても、結果は誰にも分からない、だからせいぜい悔いが残らない方を自分で選べ」、というようなことを言います。ここには主体的な選択可能性があるようにみえます。しかしここでの選択とは、仲間たちを見殺しにしてでも特殊な能力をもつエレンを温存する方が自軍に有益なのか、それとも、大きなリスクをとってエレンが敵との戦いに出るべきなのかの選択を、エレン自身に対して迫っているのです。エレンの特殊能力は物語上では人類の唯一の勝利の可能性なので、エレンが英雄的な行為に出て失敗したとなれば、人類の希望が消えてしまうことになります。つまりこれは、行くも地獄、戻るも地獄といった、ほとんど選択とはいえない、あらゆる選択可能性を奪われた果てにやってくる究極の選択です。さらに、この場面では、どちらを選択すべきなのか判断するための情報はほぼ何もない状態で、迫る敵を前に即断が求められています。そしてこの判断のやり直しはできません。

実在論か観念論かという選択可能性と、仲間を見殺しにするか自分が出ていくかの選択可能性とでは、その切迫性が異なります。選択可能性は、前者においては自由と能動性として現われますが、後者においては、自由も能動性もないところに、選択責任と後悔だけが押しつけられることになります。なまじ選択可能性があることで、苦しみだけではなく迷いや悔いをも生んでしまうのです。もし人が、切迫性の高い「現実」を生きているとすれば、選択可能性をもてあそぶような行為に反感をもち、むしろ排他的で一義的な現実主義に傾倒するとしても納得できるように思われます。
 

近代科学の排他性

さまざまにあり得る世界観のなかで、もっとも論理的整合性が高く、体系化され、スケールの大きさと解像度の高さを同時にもち、かつ強力に排他的であるものこそが近代科学といえるでしょう。科学において、複数の可能性(多義性、多様性)があるということは、充分には解明されていないということです。定説が決まるということは、それ以外の全ての説が排除されるということを意味します。もちろん定説が真理であるとは限りませんし、後に修正されることもあります。しかし少なくとも、その時点で考え得るもっとも真理に近いといえるものとして定説があるでしょう。

そして、技術は基本的に、そのような科学の排他性によって成り立っています。Aという入力に対し必ずBという出力があるという原理があり、Cという入力に対し必ずDという出力があるという原理があるという前提が成り立ってはじめて、それらを組み合わせ、Eという入力に対して必ずFという出力をする装置をつくることができる。装置には再現性があり、それを量産することができる。逆に言えば、科学の排他性の正しさは、技術の排他性(一義性)によって保証されているといえます。同じ原理をもつ装置は、量産されてもどれも皆一様に、常に一義的に作動するという事実によって、科学の排他性が正当化されます。それは、リアリティ(現実感)とは関係なく、たんなるリアル(現実)としてあるのだ、と。

『パーティクル・フィーバー』(マーク・A・レヴィンソン監督)という映画があります。2007年のLHC稼働直前から、2012年のヒッグス粒子発見まで5年の過程を追ったドキュメンタリーです。LHCとは大型ハドロン衝突型加速器 (Large Hadron Collider)の略で、山手線と同じくらいの長さをもつ巨大な円状のパイプの中で、光速に近い速度にまで加速させた二つの陽子を衝突させることでビッグバンの状態を再現する装置です。スイスのCERN(欧州原子核研究機構)という研究機関にあります。そこでシミュレートされたビッグバン状態からヒッグス粒子が出現したことが2012年に確認されたのです。映画ではこのLHCの一部である、衝突によって生じたものを検出し解析するアトラスと呼ばれる巨大な装置が、「五階建てのスイス式腕時計のようなもの」だと形容されていました。

極めて微細な精密機械同士が、これまた精密に組み合わされることで巨大な装置ができているということです。そしてその精密な機械は、背後にある物理学の精密な理論に支えられています。つまり、精密な理論同士の、隙のない精密な組み合わせとして体系化された、巨大で排他的な物理学理論の物質的なあらわれとしてLHCという装置があるのです。素粒子は決して目に見たり手で触れたりできない半ば抽象的な存在で、それが「ある」と言えるためには、隙のない、排他的な理論の体系が必要なのです。素粒子は人間の感覚では決して実感できない(リアリティのない)物質ですが、しかし、物理学の理論体系によってリアル(現実)であるのです。

実在論と科学とは同じ前提を共有します。しかし実在論は世界観というフィクションであり、基本的にリアリティ(説得力)があるかないかが問題で、その評価は必ずしも一義的に決定できません。しかし、科学は違います。『パーティクル・フィーバー』には二つの異なる主張をもつ理論物理学者が登場します。この宇宙の物理法則には美しい秩序と理由があるとする「超対称性」派と、この宇宙は他にも無数にある宇宙の一つで、物理法則は偶然このようになったとする「多宇宙」派です。そして、発見されたヒッグス粒子の質量によってどちらかの優位が決定的になるというのです。物理学者の一人は、物理学に努力賞はなく、正しい答えを導いた者だけが歴史に残るのだと言い、別の物理学者は、この結果によっては自分の30年に渡る研究生活が無意味になるかもしれないという恐れを語ります。このように科学は排他的なのです。そして、排他的原理による科学を根拠とする技術が、わたしたちの生の条件を強く左右し、そして、めまぐるしく変化させる圧倒的な力をもっていることを、「現実」として認めざるを得ない世界にわたしたちは住んでいます。科学は世界観(というフィクション)であることを越えて、「たんなるリアル」と繋がる、強迫的ともいえる力をもってしまっています。
(皮肉なことに、測定されたヒッグス粒子の質量は、超対称性と多宇宙のどちらの説も排除しないが、積極的に支持もしないという、曖昧な値を示しました。現実に測定された数値が、まるでフィクションのような効果を生んでしまいました。)
 

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ふるや・としひろ  画家、評論家。1967年、神奈川県生まれ。1993年、東京造形大学卒業。著書に『世界へと滲み出す脳』(青土社)、『人はある日とつぜん小説家になる』(青土社)、共著に『映画空間400選』(INAX出版)、『吉本隆明論集』(アーツアンドクラフツ)がある。
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