魔法少女まどか☆マギカ
「ビューティフルドリーマー」や「エンドレスエイト」で描かれるのは、いわば他愛ない幸福な出来事であり、それが持続する宙づりの時間の反復でした。しかし「まどか☆マギカ」はかなり異なります。ここで問題になっているのは、希望が絶望へと必然的に反転してしまう呪いの連鎖という反復であり、そこからの脱出です。しかし、この作品が「ビューティフルドリーマー」を強く意識していることは劇場版「叛逆の物語」によって明らかです。「まどか☆マギカ」は「ビューティフルドリーマー」のネガのような作品といえます。
「まどか☆マギカ」本編には二つの反復があり、その両方の解消が目指されます。一つ目は魔女と魔法少女の連鎖です。この世界には憎悪と絶望の塊である魔女という存在があって、人にとりついて死に至らしめます。魔女を抑止できる唯一の存在が魔法少女です。魔法少女は、本当に叶えたい切実な一つの願いと引き替えに、魔女と戦う者となることを選びます。しかし魔法少女は魔女との戦いのうちに疲弊し絶望に至り、やがて自身が魔女へと変化してしまいます。魔女がいる限り魔法少女は必要であり、しかし魔法少女は必ずいつかは絶望して魔女になってしまう。魔法少女は、かつて自分と同じであった、そして自分の将来の姿でもある魔女を、倒しつづけなければならないのです。世界の秩序は、少女たちを犠牲としたこの呪いの無限の反復によって維持されています。
二つ目の反復は、時を操作する魔法をもつ魔法少女ほむらによる同じ1カ月の反復です。ほむらは、大切な友人であるまどかが、魔女と魔法少女の呪いの連鎖に巻き込まれてしまうことのないように、彼女が決して魔法少女にならないように画策し、それに失敗すると、また1カ月前に戻ってやり直すということを何度も繰り返しています。失敗することが予め運命づけられているようなこの孤独な試みを、ほむらは、果てしなくつづけているのです。
ここにあるのは幸福な時間ではなく、呪いと自己犠牲の果てない反復です。この作品で希望(魔法少女)から絶望(魔女)への反転という呪いは、物理法則のような決定的な宇宙の掟であり、避けることはできません。人類の歴史は少女たちの無数の絶望に支えられています。ほむらによる反復は、物理法則のような強い掟としての呪いから、たった一人の少女だけでも救おうとする世界そのものとの戦いです。
そしてこの物語は、主人公のまどかが、この二つの反復を同時に停止させる方法を見つけ出すことによって完結します。しかしこの解決法は、ほむらの願いとは相容れないものであり、いわばほむらの願いを踏みにじる形での解決でした。
魔法少女の魔女への反転は避けられない法則ですが、少女が魔法少女となる時、一つだけ願いを叶えることができます。そこでまどかは「過去から未来にわたって、すべての魔法少女は魔女になる前に消滅するようになれ」という要求をします。これは、法則を変えずに新たな条件付けによって法則を無化するという、論理によって法則の隙間をつく解決法です。しかしこれは、過去から未来にわたる宇宙そのものの書き換え(法則の追加)なので、この「書き換えを実行した者」は新たな宇宙の時間の内部には存在できなくなります。まどかは、書き換えられた新たな宇宙の起源・原因であり、宇宙のなかに魔女が存在しないことの根拠になります。彼女は、起源として、根拠として、宇宙のなかに遍く存在するようになりますが、個としてはどこにも存在できません。
叛逆の物語
「まどか☆マギカ」は、感情を蹂躙する法則(呪い)に対して論理を用いて勝利する話といえます。これにより、希望から絶望への反転は、反転が起こったと同時に絶望が消滅するので、呪いの連鎖は断ち切られます。同時に、まどかが存在しなくなるので、まどかを救うためのほむらの反復も停止されます。提示された問題は、きわめてロジカルに解決されました。しかしここに齟齬が生じます。まどかが自分を犠牲にして救ったのは、歴史上に生まれたすべての魔法少女たちであり、その成れの果てとしての魔女たちです。しかし、ほむらが自分を犠牲にしてでも救いたかったのは、まどかという個でした。まどかが導き出した解は、呪いの連鎖を無化するだけでなく、ほむらの果てしない反復も無意味化してしまうものでした。
この齟齬が劇場版「叛逆の物語」につながります。劇場版の前半は、あからさまに「ビューティフルドリーマー」を想起させます。本編では過酷な運命を強いられていたはずの魔法少女たちが、楽しげに集い、遊技的に仕事をこなしています。すでに死んだはずの人物も、この宇宙には存在しないはずのまどかまでもが存在しています。彼女たちは明らかに、誰かの夢のなかに閉じこめられているのです。
「ビューティフルドリーマー」では、ヒロインのラムにとっての理想の世界が、夢邪気という怪異によって形づくられ、そのなかに他の登場人物たちが閉じこめられました。ここでは、魔女となったほむらが、自らの作り出した結界のなかに閉じこもっているのです。まどかを失ったほむらがまどかを欲し、夢のなかでまどかに会っているともいえます。しかし、まどかの介入によって、この宇宙では魔法少女は魔女になったとたんに消滅するように書き換えられたはずではなかったでしょうか。
ここに、夢邪気に相当するインキュベーター(人間よりずっと高度な知的生命体)という存在の介入があります。彼らによって「魔女になったとたんに消滅する」という法則(「円環の理」と呼ばれる)が及ばないような閉ざされた特殊な閉鎖空間がつくられ、今にも魔女に変化して消滅しそうなほむらをそのなかに閉じこめたのです。本来なら一瞬で消えるはずだったほむらの夢は、インキュベーターによって固定され、維持されたのです。ここまでは「ビューティフルドリーマー」の構造にそっくりだといえます。
「ビューティフルドリーマー」には、夢の世界を維持しようとする夢邪気と、夢からの脱出を試みる主人公あたるとの闘争があります。一方に、閉じた領域を守ろうとする者がいて、他方に、閉じた領域を内破しようとする者がいるという対立構図です。しかし、「叛逆の物語」では、閉じた領域はそもそも成立していなかったのです。インキュベーターが「円環の理」の影響を排除したと考えていた干渉遮断フィールドの内側には、すでに円環の理の作用が入り込んでいたのです。擬人化された円環の理の使者として、まどか、さやか、そして魔女べべが、その夢の世界を構成する要素の一部となっていました。ほむらの孤独な夢は、決してほむらの内部だけで閉ざされたものではなく、そこにはすでに他者が住んでいたのです。つまりここで、夢とは外部から遮断されて宙づりになった(偽りの幸福の)領域なのではなく、夢をみることそれ自体が現実に対する、そして現実からの働きかけであり、夢は「わたし」と「世界」との間を媒介する緩衝地帯として機能しているのです。夢と現実とは対立するのではなく、夢は現実を構成する一つのメディウムであるわけです。
まどかとほむらの齟齬
しかし、「叛逆の物語」ではここからもう一段、物語が展開します。魔女になりきれず、消滅することのできなかったほむらによる、まどかに対する逆転が描かれます。まどかが書き換えた宇宙では、魔女になって消滅することは、円環の理によって救われることです。そして、円環の理とは、この宇宙に遍く存在することによって個としての場を失ったまどかにほかなりません。ほむらは魔女となり消滅することで、ようやくまどかと一体になれるのです。しかし、ほむらが欲しているのはあくまで個としてのまどかであり、個としてのまどかとほむらの関係でした。ほむらは、魔女となって消える一歩手前で円環の理を拒否し、まどかを個へと引きずり降ろしたのです。物語は、まどかとほむらの齟齬が決定的になることで終わります。