アラブ・イスラーム医学の衰退
11世紀に書かれたイブン・シーナの『典範』をアラブ・イスラーム世界の医学の1つの頂点と看做して、その後のイスラーム世界の医学が硬直化して13世紀には衰退に向かったとする考え方がある。この考え方は、イスラーム世界の哲学や天文学の盛衰の時期に関するモデルとも一致しており、アラブ・イスラーム世界の医学の歴史的な位置づけという大きな問いと結び付いている。近年の研究では、このような盛衰の考え方に疑問を呈する議論が挙げられている。たとえば、サラー・アル・ディンの庇護を受けて13世紀のエジプトで活躍したアブド・アル・ラティーフ(Abd al-Latif, d.1231)の著作の内容は、一方でこの衰退モデルを支えると同時に、他方では13世紀のイスラーム世界の医学が新たな動きへのダイナミズムを持っていたことも示している。すなわち、アル・ラティーフは、同時代の教養ある医師たちを激しく批判して、書物と合理性だけを墨守して臨床での経験を忘れていると痛罵して、それくらいなら、無教養の女性治療者のほうが、経験から学ぶだけまだ害が少ないとまで主張する。そのような注釈書に埋もれるのではなく、臨床での経験と、要約や注釈ではないガレノスやヒポクラテスを読むことが、医学を現在の惨状から救うとアル・ラティーフは結論する。このような13世紀の主張は、当時の医学が閉塞しているという内からの批判であると同時に、臨床と原典を重んじる新たな態度、ヨーロッパでルネッサンス期に主流となって新しい医学を生み出した態度と似たものが生み出されていると解釈する学者もいる。そして、より重要なのは、イブン・シーナに頂点を見出す発想そのものが、ヨーロッパで非常に大きな成功を収めたことに由来するヨーロッパ中心主義ではないかという指摘である。
しかし、13世紀になると、アラブ・イスラーム世界とその医学研究に衰退の傾向がみられることも事実である。この時期には、チンギス・ハーンが率いるモンゴルの軍勢がイラン、イラク、シリア、小アジアなどを占領して、それらの地域を破壊・略奪した。1258年にはバグダードがその対象となり、カリフやその一族などが処刑された。モンゴルの進撃がエジプトやヨーロッパに侵入するのは辛うじて食い止められたが、イスラーム世界の東半分はモンゴル勢力によって占領されて、それまでの開放的で多元的な医学研究の政治的・文化的な脈絡は失われた。
イギリスの詩人のチョーサーは14世紀に書かれた『カンタベリー物語』の一節で偉大な医学教師を9人掲げて、ギリシアから5人(そのうち1名は神である)、そしてアラブ・イスラーム世界から4人を挙げている。そこにキリスト教徒は1人もおらず、この時期には、イスラーム世界の医師たちの名声がキリスト教世界においても轟いていたことの1つの証左である。しかし、1500年以降のルネッサンスや宗教改革の時期になると、ヨーロッパとイスラーム世界の医学をめぐる関係が変化しはじめる。ルネッサンス期の医師たちは、古典復興と人文主義の中でギリシア語を習得し、アラビア語を介さずにギリシア語の医学に直接アクセスすることができるようになった。そのため、中世におけるアラブ・イスラーム世界とラテン・キリスト教世界という2つの知的な医学の世界を時間的に飛び越えて、ギリシアの医学を復興することが新しい知的な目標となる。その運動の熱狂の中で一部のルネサンスの医学教授たちは、スコラ医学とイスラーム医学の双方に痛烈な批判を加えはじめた。アラビア語訳について、レオナルド・フックスは、アラビアの教えはすべて不潔で野蛮で醜く込み入っており、空恐ろしいほどの過ちに満ちているのに対し、もともとのギリシアは清潔、明晰、輝かしく、開放的で、過ちに汚染されていない、と記している。このような意見は確かに少数派であったが、1500年以降に新しい世界を次々と開いていくヨーロッパの医学に比べて、アラブ・イスラーム世界にあたる地域では、それまでの医学が継続するという状況となる。たしかに、イスラーム世界の医学は、ラテン語訳された形でヨーロッパでも重要な位置を占めていたし、18世紀の初頭に天然痘に対する人痘の予防法は、トルコを訪れていたイギリス人女性が自分の子供に行ってイギリスにその方法を持ち帰ったものであったことを忘れてはならない。また、イスラーム世界においても、トルコ、エジプト、ペルシアの各地で一定の進展があり、ヨーロッパでの新しい動きに対応して治療法や化学的な医学を学ぶというダイナミズムも見せていた。しかし、それらの発展は、16世紀以降のヨーロッパの医学に現れた劇的な変化に比べると、スケールが小さいものであったことは否めない。
18世紀の中葉以降になると、ヨーロッパとイスラーム圏の医学の関係は、前者の明らかな優越という形で把握されるようになる。18世紀の中葉から末にかけて、シリアやエジプトを訪れたヨーロッパの医師たちは、現地の医学について否定的な見解を記すようになる。この見解が、医学の内容についての否定なのか、医療が行われる経済・社会・文化的な状況についてのネガティヴな見解なのかはにわかには決しがたい。19世紀になると、ヨーロッパの医学テキストがアラビア語やペルシア語に翻訳されて、ヨーロッパ式の医学教育がイスラーム世界で行われるようになる。1828年のカイロではフランス、イタリア、ドイツなどの出身の医学教師がヨーロッパ式の医学を教える医学校が設立され、1850年のテヘランでは軍医学校が設立されてオーストリアとイタリア出身の医学教授がフランス語で医学を教えるようになる。この時期は、日本がオランダから医学の吸収を始めたのと同じ時期である。シーボルトが長崎で医学を教える鳴滝塾を設立し(1824年)、ポンぺが長崎の医学伝習所で系統的な西洋医学の教育を始めた(1857年)のと同じ時期に、イスラーム諸国もヨーロッパから医学を学ぶ方向に舵を切り始めるのである。
参考文献
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注
[1]ベドウィンの医学について、14世紀後半に活躍した偉大な歴史家であるイブン・ハルドゥーンは、ベドウィンは彼らの種族の年長の男女から引き継いだ医学を持っており、それらは正しいこともあるが、自然の法則にも基づいていないし、体質にもかなっていない、と述べている。
[2]奢侈品としての医薬の国際的な移動は、同時代の日本において形成された「正倉院薬物」にも見て取れる。
[3]ジュンディーシャープールについては、英語圏では Dols, Poorman and Savage-Smith, Conrad といった近年の標準的な書物はすべて神話であると記述している。一方で、日本語での優れた一般向けの著作である伊東俊太郎、川喜田愛郎、シュタイネックとズートホフ共著の『図説医学史』は実在したと記述していることも付記しておく。
[4]アル・ラージーの活発な興味は、男性同性愛者で受動的な肛門性交に快感を愛好するものについて、それを「医師には隠される疾病」と呼んで議論した著作などにも見出せる。
[5]ちなみに、後期中世のイングランドで大人気であったチョーサーの『カンタベリー物語』の写本は80点あまりであるという。
[6]もともとの「ヒポクラテスの誓い」はギリシアの多神教を反映して、複数の神々に誓う個所があるが、イスラーム世界では、一神教の理念に合わせて「神とその天使たち」とされている。
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