医学史とはどんな学問か
第3章 アラブ・イスラーム世界の医学

About the Author: 鈴木晃仁

すずき・あきひと  静岡県生まれ。静岡県立清水東高等学校卒、1986年、東京大学教養学部教養学科科学史・科学哲学専攻を卒業、同大学院総合文化研究科地域文化研究(イギリス文化)に進学、1992年にロンドン大学ウェルカム医学史研究所で博士号を取得した。博士論文は啓蒙主義時代イングランドの精神医学思想史を主題とし、指導教官はロイ・ポーターであった。その後、ウェルカム財団医学史研究所リサーチ・フェロー、アバディーン大学研究員などを経て、1997年に慶應義塾大学助教授となり、2005年から慶應義塾大学経済学部教授。
Published On: 2016/7/8By

 

イスラーム世界の病院と医療

 

これまでの節では、アラブ・イスラーム世界におけるギリシア医学の翻訳と発展の歴史的な背景とダイナミズムを論じた。過去数世紀におよぶ中近東における文明の交差、特にギリシア医学の文献がギリシア以外の地で蓄積されていたことと、宗教的な対立や迫害によるキリスト教徒の移動が重要であり、より直接的な原因としては、アラブ・イスラーム世界、特にアッバース朝のエリートたちが、神学論争とイデオロギーに駆動されてギリシア医学を翻訳し発展させたことを論じた。これと似た構図を、医学書だけでなく、病院という組織についても描くことができる。ここでも、シリアやペルシアなどの地域のキリスト教徒が設立していた、小規模な慈善のための扶助の機能を持つ設備が原型となって、それをより大規模にして医学と医療の機能を拡大させた設備がアッバース朝の時代に作られるというパターンが描かれる。

イスラーム教の成立以前に、第2章で描いたキリスト教の隣人愛のモデルに従って、シリアやペルシアのキリスト教徒たちは、修道院や教会で貧民や困窮者を救うことを行っており、そこには病人の介護と治療も含まれていた。このような場所はいずれも規模が小さく、それらに関する記述はいずれも断片的なものである。シリアにおいては、エデッサで4世紀の飢饉の折に300人を収容する施設が作られ、その後5世紀には常設の病院が作られたという記述を見出せる。同じく4世紀の中葉にニシビス(現在ではトルコ領内のヌサイビン)でキリスト教徒たちが中心となった神学、哲学、医学を教える学校が成立し、サーサーン朝に支配されていた6世紀の末には、病者を治療する場所が設立されて医学が教えられたという記述がある。また、サーサーン朝では国王の侍医でキリスト教徒である人物が病院を設立したという記述もある。ジュンディーシャープールの壮麗な医学校としての病院の記述が神話であるとしても、より小さな形でサーサーン朝の領内のキリスト教徒たちが病院に近い施設を作っていたことは極めて可能性が高い。このように、中近東のキリスト教徒たちが軸になって、貧者・困窮者に対するケアの1つとして医療を与え、場合によってはそこで医学を学ぶものが経験を積むことが行われていた。

このような事情を背景にして、イスラーム世界において本格的な病院の設立が行われた。イスラーム世界で設立されたことが最初に確証できる病院は、翻訳運動と同様に、やはりアッバース帝国の時期であり、そのカリフであるハルン・アル・ラシッドが支配していた9世紀の初頭にバグダードに設立したものである。設立の具体的な推進者は、ハルン・アル・ラシッドの教師であり宰相となったヤーヤ・イブン・カーリッド(d.806)であろうと推測されている。この人物はペルシアのバクトリア地方出身の名家であるバルマキッド家の出身であり、アッバース帝国の新しい権力の拠点となったペルシアの文化を推奨すると同時に、インドから仏教徒を招くなどの多元的な政策を進めた政治家である。この病院を設立するときにも、このような文化の多元性が組み合わされて、そもそもはキリスト教に起源を持つ病院の設立と、サーサーン朝の伝統であるインド医学の導入を組み合わせた。病院ではインドからもたらされたサンスクリット語の医学テキストがアラビア語に翻訳され、ペルシア語で「病人がいる場所」の意である「ビマリスタン」(bimaristan)という語があてられた。このペルシア語由来の名称は、その後もアラブ・イスラーム世界の病院をさす言葉となり、現在でも、アラビア語では病院をビマリスタンという。

この病院は、宗教的・文化的な多元性以外の点でも、かつてのキリスト教の病院とは大きく異なっていることを強調しなければならない。その1つは、アッバース朝のエリートの文化政策と共鳴した組織であることであり、それに順じて、当時の医学の最先端であった翻訳が営まれたことである。かつてのキリスト教の病院は、先端的な医学と医療の拠点ではまったくなかった。そこで提供されていたことの基本は、宗教的な動機に基づいた貧困者・困窮者の介護であり、そこに付随していた医療はベーシックなものであった。それに対して、このイスラーム世界の病院は、富と権力を持ったカリフやエリートが行った文化的な仕掛けであった。病院は大きく壮麗な建築物であり、慈善性や宗教性よりも医学研究が強調された。イスラーム世界の病院は、宗教組織が経営するのではなかったため世俗性がより高く、そのため、キリスト教徒やユダヤ教徒が医師として働くことには問題がなかった。それどころか、初期においては、ガレノス医学を学ぶのに、ギリシア語やシリア語のほうがより容易であったことを反映して、キリスト教徒が有利な立場にすらあった。

6 Hospital

図6 カイロのマンスーリー病院を復元した図面。 1が精神病者の病棟、2が中庭、3が病室、4が外科室。Conrad (1995) より

このようなイスラーム型の病院は、10世紀には各地に存在するようになり、12世紀にはイスラーム世界の大都市には標準的に病院が存在するようになっていた。10世紀のバグダードでは、カリフ、その妻、宰相などが寄附をして財団を設立し、そこからの収入で運営される病院が少なくとも2つは作られ、アル・ラージーのような著名な医師が診療をしていた。首長のアドゥド・アル・ダウラー(在位949-83)が982年に建設し、彼の名を冠してアドゥド病院と称された病院は、一時は25人の医師たちが働いていたとされる。12世紀から13世紀になると、ダマスクスには2つの病院があり、その1つはトルコ系の王族で当時のシリアを支配していたヌール・アル・ディン(在位1146-74)が設立したヌーリ病院であった。この病院には、バグダードのアドゥド病院から著名な医師が医学生を連れて移住し、これにより医学の教育と研究の中心が移動するという事態が起きた。同時期のエジプトでは、アイユーブ朝の創始者であるサラー・アル・ディン(d.1193)が1171年に病院を設立し、1284年には、マムルーク朝の支配者アル・マンスール・カラウーン(在位1279-90)がカイロにマンスーリー病院を開設した。モロッコのマラケッシュでは、ムワッヒド朝の君主であるアル・マンスール・イブン・ユースフ(在位1183-99)が贅を尽した病院を建設した。エジプトのマンスーリー病院は、寄付をして財団を形成し、その資産からの収入で経営される仕組みであった。その収入をもとにして、調理、薬局、モスク、図書などを購入して、豪華な病院には、プール、流水施設、木陰を持つ中庭なども設けられていた。マンスーリー病院は、100人程度の患者を収容するものであったが、図面から、中庭を中心にして病室、眼科室、精神病者の隔離収容施設のための部屋が配置されている模様がうかがえる(図6)。しかし、これらの病院は、権力者や富裕層の慈善の観念を表現することが第一の目標であり、ことにその収容力や病床数を考えると、現実の人々の医療に貢献した程度は極めて小さいものであった。

イスラーム世界における医学の興隆は、もともとはアラビア語とイスラーム教の外部にあった高度な医学書を翻訳することをエリート層が後援したことから始まった。そのため、最初の駆動力は高度な内容の学術的な医学書を生産することにあり、その次に、そのような医学が教育されて実践される方向に進んだ。イブン・シーナやカイロで活躍したイブン・リドワーン(d.c.1081)のような著名な医師が、医学書を読んで医学を独学したと記述しているが、これが仮に事実であったにせよ、一般的な医学教育の形態ではなかったであろう。「ヒポクラテスの誓い」はアラビア語に翻訳されてよく知られており、医学の教師と学生を軸とする教育関係が広まっていた可能性が高い[6]。高度な医学を教える仕組みが広まり、アラブ・イスラーム世界では学院や病院で教育が行われていたため、医師の条件として鮮明な像が社会において出来上がっていた。一方で、行政的に医療を行ってよい人々を定める規制は、存在しないか著しく弱体なものであった。

このような学術的な医学を学んだ集団の外に存在した女性の治療者は、アラブ・イスラーム世界では大きな存在であった。ラテン・キリスト教世界と同様に、医学書を執筆するような教養ある医師の中で女性は1人もいないし、女性医師が言及されることは非常にまれな事態である。しかし、教養ある医師とは異なった社会のセクターに、女性の治療者は数多く存在しており、医師たちは彼女たちを敵視し、ある意味での競争者として認知していた。たとえば、医師のイブン・アル・ハサン(d.1072)は、彼の患者たちは、病気になったらまず妻、母、女性の親族や隣人の女性たちに診てもらい、無学な彼女たちの助言に従い、彼女たちが誂えたものを取るのに、なぜ病気が治ってしまうのだろうと苦々し気に記し、アル・ラージーは、自分の患者がなかなか治らないためについに別の女性治療師にかかったところすぐに治ってしまった例に触れて、実は自分の治療が効いたのだと書いている。実際、眼科の病の治療者には女性が多く、名声を集めた女性医師や社会の下層の女性の眼科治療者が挙げられている。イタリアの眼科医が13世紀に記すところによれば、北アフリカでは、女性がイチジクの小枝と砂糖を用いてトラコーマを治療していたという。

 

「預言者の医学」

 

7 PropheticMedicine

図7 アル・スユーティーによる預言者の医学の彩色ページ。アメリカ国立医学図書館

これまで、アラブ・イスラーム世界の医学と医療は、もともとはイスラームやアラブではない要素を理論や実践のかたちに取り込んでいることを論じてきた。医学書においても病院においても、非アラブ・非ムスリムの医学と制度が吸収されて、高度に発展させられ、独自の形態を持った。しかし、その一方で、イスラームと深く結び付いた医学の書物も数多く書かれた。これらの書物は「預言者の医学」と呼ばれ、イスラームの聖典であるコーランや、ムハンマドの言行を記したハディース(Hadith)からの引用を中心にして構成された。このような書物は、基本的には、家庭療法のコレクションであり、それを預言者ムハンマドや他のイスラームの権威を通じて正当化したものである。敬虔なムスリムにふさわしい医学、養生法、治療などであり、主に宗教学者が執筆したものであることが大きな特徴である(図7)。

預言者の医学というジャンルは、潜在的には、ギリシア医学が持つ体液が疾病と健康の原因であるという考え方とは異なる方向を持っており、すべての現象の原因は神であり宗教に類似する手段が癒すという考え方に向かっている。聖典からの引用は預言者の医学がイスラームとムハンマドの言行こそが健康と治療のカギであると考えた証左である。治療法や養生法は、単純なもの、宗教的なもの、魔術的なものを含んでいる。食餌、瀉血、吸い玉放血法、焼灼法、そして単純な薬が用いられた。単純な薬の中ではハチミツが特に人気があり、「あなたには2つの薬がある。ハチミツとコーランである」というムハンマドの言葉のハディースが好んで引用された。ハディースでしばしば引用されているラクダの尿は、現在でも人気がある療法である。このように、預言者の医学は、イスラーム以前の文化が持ち、イスラームが成立した後にも実践されていた治療法や魔術的な医術を含みこんだものでもあり、祈り、まじない、お守りや護符なども記されていた。初期に書かれた『イマームの医学』では、ハディースからの引用、シーア派の導師であるイマームの言葉、魔術的な治療などが記された。あるいは、アル・サナウバリー(d.1412)の『医学と賢明さについての慈悲の書』では、悲しみに対してある言葉を螺旋形に書いて見せること、頭痛に対して手を頭において敬虔な言葉を3回から7回繰り返すことなどを記している。あるいは、霊魔であるジン(jinn)や邪視などの脅威に対しては、神に祈りを捧げると同時に、魔術的な護符をつけていた。また、縦横3つの行列に数を表すアラビア文字を9つ書き込み、縦横斜めの数の和が等しくなるようにしたいわゆる魔法陣が作られて、この魔法陣の四隅の文字を並べた言葉(budūh)自体も疾病を避け治療する力を持つとされた。これらの魔術的な治療法・養生法などが、自然哲学に依拠した学術的な医学と大きく異なった方向性を持っていたことは確かである。

しかし、預言者の医学と学術的な医学が、鮮明に対立していたかというと、必ずしもそうではなかった。預言者の医学はギリシア医学由来の学説を紹介していた。例えば、ダマスクスの神学者のイブン・タイミーヤ(Ibn Taymiyah, d.1318)の弟子で、シリアの神学者であるイブン・カイイム・ジャウズィーヤ(Ibn Qayyim al-Jawziyah, d.1359)や、ダマスクスの神学者のアル・ダハービー(al-Dhahabi, d.1348)たちが書いた預言者の医学の書は、ギリシア哲学の考え方に対する一定の批判にもかかわらず、ガレノスをはじめ、ヒポクラテスやアリストテレスといったギリシアの医者・自然哲学者や、アル・ラージーやイブン・シーナといったイスラーム世界の医師たちの著作を引用し、体液論などを解説したうえで、預言者の医学を展開している。15世紀から16世紀にかけてエジプトで活躍した多作の神学者、アル・スユーティ(al-Suyuti, d.1505)の『預言者の医学』は、ギリシア医学由来の考え方を提示して、そのあとに、それに関連するコーランやハディースなどの聖典からの引用を付加する仕組みで記述されている。四体液と熱冷乾湿の性質の組み合わせから生じる気質というギリシア医学を説き、そのあとにムハンマドの気質は最もバランスが取れたものであることを示す聖典からの引用を並べる。同様に、それぞれの食物について、四性質理論の特徴を述べて、その食物についてのムハンマドの言行を記すという形式である。ここにあるのは、イスラームと密接に関連する健康法とギリシア医学の考え方を併用する方式であり、対立させる発想ではない。このようなことが理由の1つなのか、学術的な医学が預言者の医学を敵視する度合いは決して高くなかった。


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すずき・あきひと  静岡県生まれ。静岡県立清水東高等学校卒、1986年、東京大学教養学部教養学科科学史・科学哲学専攻を卒業、同大学院総合文化研究科地域文化研究(イギリス文化)に進学、1992年にロンドン大学ウェルカム医学史研究所で博士号を取得した。博士論文は啓蒙主義時代イングランドの精神医学思想史を主題とし、指導教官はロイ・ポーターであった。その後、ウェルカム財団医学史研究所リサーチ・フェロー、アバディーン大学研究員などを経て、1997年に慶應義塾大学助教授となり、2005年から慶應義塾大学経済学部教授。
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