医学史とはどんな学問か 連載・読み物

医学史とはどんな学問か
第3章 アラブ・イスラーム世界の医学

7月 08日, 2016 鈴木晃仁

 
 
《要旨》
7世紀以降に広大な地域に成立したアラブ・イスラーム世界は、古代ギリシア医学を高度に吸収・消化して、独自の発展を加えた医学・医療のシステムを形成した。この形成の背景には、古代以来の文明の十字路として発展した中近東地域の宗教、言語、文化などの側面において複雑な歴史的な経緯と、とりわけアッバース朝(750-1258) が始めた、イスラームの推進と多元性を併存させる革新的な文化政策が存在した。以下、古代ギリシア医学のテキスト、キリスト教に起源を持つ病院が、それぞれアラブ・イスラーム世界においてどのような独自性が与えられたのかを論じる。また、イスラームの神学者による健康書も数多く執筆されたので、その内容を解説する。

 

背景

 

本章は、紀元7世紀以降の「アラブ・イスラーム世界」の医学と医療を記述する。「アラブ・イスラーム世界」という概念は、前章で用いた「ラテン・キリスト教世界」と同じように、言語と宗教という2つの特徴を用いて地域を捉えている。地域としては、アラビア半島を軸にして、西はエジプト、アフリカ北部を経てイベリア半島に至り、東はメソポタミアとイランを経てインドとの境まで広がる地域であり、そこでは、もとはアラブ民族の言語であったアラビア語が8世紀ごろには公用言語・共通言語になり、宗教としてはイスラームが支配的なものになった。

アラブ・イスラーム世界の医学は、中世のラテン・キリスト教世界と較べたときに、興味深い2つの違いがある。まず、宗教に関する特徴であるが、キリスト教世界においてはキリスト教徒が医学者の集団を独占していたのに対し、イスラーム世界ではムスリムではない医学者が存在したことが重要である。ことに、学問としての医学や医学教育にかかわる指導的な医学者のグループにおいて、この違いが鮮明である。医療一般について言えば、イスラーム世界でもキリスト教世界でも、複数の宗教の信徒により担われていたことは同じである。たとえば、ラテン・キリスト教世界においては、ユダヤ教徒はむしろ人気が高い医療者であったし、アラブ・イスラーム世界でも、ユダヤ教徒とキリスト教徒の医師が人気があり数も多かった。しかし、医学の学術と教育の部分において、それぞれの地域における〈異教徒〉が活躍したのは、イスラーム世界に限定されている。本章が触れる著名なイスラーム世界の医学者においても、9世紀のアッバース朝の時代にバグダードで活躍したフナイン・イブン・イスハーク(d.873)はネストリウス派のキリスト教徒であるし、12世紀から13世紀の北アフリカやエジプトで活躍し哲学者としても知られたマイモニデス(1135-1204)はユダヤ教のラビであった。教育の機能を持っていた病院においても、ムスリムだけでなく、ユダヤ教徒やキリスト教徒の医師たちが併存していた。この違いの直接の原因は、ラテン・キリスト教世界の大学や病院のポストがキリスト教徒に限定されていたのに対し、アラブ・イスラーム世界においては、医学教師や病院医師などのポストに宗教的な限定がなかったせいである。

言語に関しては、ディミトリ・グタスの『ギリシア思想とアラビア文化』(2002)が取り上げた翻訳の問題が、近年の研究の進展と深化の1つの焦点となっている。イスラーム成立以前のアラビア語は、それ自身の伝統に医学の蓄積を持っていなかったため、学問的な医学の中心言語となるためには、他の言語で書かれたものをアラビア語に翻訳しなければならなかった。アラブ・イスラーム世界となった地域には、古代から継続した複数の宗教と複数の言語が存在し、翻訳が活発に行われていた。そのような多元的な運動の脈絡の中にアラブ・イスラーム世界での医学書の翻訳を位置づけると、これまでの単純な史観では見えない、多くの文明が交差した文明の十字路(ブローデル)において新しい独自の文明が立ち上がる時のありさまとイデオロギーが浮き彫りになる。「ギリシア医学が優れていたからアラビア語に翻訳された」とか「中世ヨーロッパにギリシア医学の遺産を伝えたことがイスラーム世界の医学の歴史的な意義である」と考えることは、あまりにもヨーロッパ中心的な史観に偏った見方である。本章はギリシア語も含めたさまざまな言語とアラビア語の関係に注目する。それは、アラブ・イスラーム世界の高度に発達した医学の形成を、それ自身の伝統と政治と文化の中に位置づける試みである。

 

イスラーム以前の医学の多元的な蓄積

 

預言者ムハンマド(d.632)が7世紀の初頭にイスラームの布教を始めた時期には、その拠点であったメッカなどの都市を除けば、アラビア半島は砂漠が広がる地域にベドウィンと呼ばれる遊牧民が暮らす地域であり、彼らの医療は口誦で伝達される単純なものであったため、アラビア語自体が持つ医学書の蓄積は著しく少なかった[1]。しかし、7世紀からイスラーム世界が地理的な拡大をはじめ、ムハンマドの存命中、正統カリフ時代(632-661)、ウマイヤ朝の時代(661-750)と急激に進展する中で、イスラーム世界は、エジプト、シリア、ペルシアなど、古代からの高度な文化が蓄積されて、それと同時に、後期古代から初期中世の政治と宗教に応じてそれらの文化が移動した地域を征服することとなった。イスラーム世界は、数世紀にわたる文化のるつぼを支配することになったといってもよい。そのるつぼの構造とダイナミズムをまず提示しなければならない。

この地域に大規模にギリシアの学問が持ち込まれたのは、マケドニアのアレクサンドロス3世(アレクサンダー大王)の帝国が建設された紀元前4世紀のことである。哲学者のアリストテレスを師に持つアレクサンドロス3世は、各地にギリシア文化をもたらし、広い地域でヘレニズム文化が形成された。その中で特別重要なのは、アレクサンドロス3世の帝国をエジプトにおいて引き継いだプトレマイオス朝のアレクサンドリアであり、紀元前3世紀には、ヘロフィロスやエラシストゥラトスたちが人体の解剖学を開拓していた(第1章参照)。この全盛時代の後にも、多くの医学書を集めた学院を持つアレクサンドリアは、ギリシアの哲学や医学が学ばれ教えられる重要な拠点であり続けていた。6世紀から7世紀にかけて、キリスト教徒の哲学者であるピロポノス(d.c.570)やアレクサンドリアのステパノス(fl.c.570-80s)などが、ガレノスの著作に注釈を加えた。ガレノスの著作のうち医学生が読むべき著作を十数点抜粋した医学教科書は、『アレクサンドリアの要約医学』と呼ばれて、後のアラブ・イスラーム世界の医学の発展に大きな役割を果たした。

シリアにおいては、アレクサンドロス3世の征服とは別の経路でギリシア医学が導入され、シリア語に訳されると同時に、西のペルシア地域にギリシア医学を中継する拠点となった。シリアで重要な役割を果たしたのは、ビザンティン帝国における宗教論争の結果、キリスト教が東方諸教会と呼ばれるいくつかの教派に分裂することであった。451年のカルケドンの公会議は、キリストは神性と人性の2つの本質を合わせて持つという説を正統として認め、大主教ネストリウス(d.c.451)が唱えた2つの性質は分離されているという説や、キリストは神性のみしか持たないという単性論の説は異端とされ、その教派は批判と迫害の対象となった。後者の教派はシリアのアンティオキアに拠点を作り、シリア正教会となった。シリア正教会のキリスト教徒たちは、多くのギリシア語の著作をシリア語に翻訳した。医学においては、セルギウス(d.526)という単性論の教派に属するキリスト教徒が、アレクサンドリアを訪れて医学と哲学を学び、アレクサンドリアのギリシア医学をシリア語に翻訳した。また、シリアには『シリアの医学の書』と題されて20世紀初頭に初めて編集され出版された書物があり、この手稿の成立年代の推定は学者によって大きく異なり、6世紀から13世紀まで広がっている。いずれの時期に成立したにせよ、この書物は多元的なものであり、第1部はガレノス医学、第2部はオリエントに伝来する占星術と数秘術、第3部はシリアの民間療法と魔術にかかわるものであった。

ペルシアにおいては、古くから存在したゾロアスター教と、カルケドンの公会議で追われたもう1つの教派であるネストリウス派キリスト教が、ギリシア医学を取り込んだテキストの形成に重要な役割を演じた。ペルシアの地域には、紀元前6世紀から広く信じられていたゾロアスター教、アレクサンドロス3世の征服に伴ってもたらされたヘレニズムの文化、そしてカルケドンの公会議の後にペルシア領内に移住したネストリウス派のキリスト教徒たちが多元的な宗教と文化の背景を作っていた。これを背景にして、サーサーン朝ペルシア(226-651)は、多元的な翻訳と文化と学問の融合を後援した。また、サンスクリット語で書かれたインドの医学書のアユールヴェーダもペルシア語に訳されており、コスモポリタンな環境が作られていた。このコスモポリタンな文化後援を、のちのアッバース帝国は模範とした。10世紀に成立したゾロアスター教の経典であるデーンカルト(Denkard)は、人間の霊魂と身体、そして疾病と医学についての長い章を含み、そこにはギリシア医学の影響が明らかにみられる。また、9世紀のゾロアスター教の司教であるザードスパラム(Zadsparam, fl.9th century)の書物の抜粋では、四体液説などのガレノス医学の影響が鮮明にみてとることができる。

以上に見たように、のちにアラブ・イスラーム世界となる地域には、多くの言語で書かれた医学書を、複数の宗教の教徒がそれぞれの言語に翻訳する背景があった。古代からのギリシア医学の蓄積に加えて、キリスト教やゾロアスター教などの宗教や、ギリシア語、シリア語、ペルシア語などの多様な言語が、多元的な文化を形成していた。このような地域を含んで7世紀以降に成立することになるアラブ・イスラーム世界は、宗教と言語がダイナミックに動く世界であり、自らが引き継いだ他言語の医学を自らの言語で表現する必要があった。

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鈴木晃仁

About The Author

すずき・あきひと  静岡県生まれ。静岡県立清水東高等学校卒、1986年、東京大学教養学部教養学科科学史・科学哲学専攻を卒業、同大学院総合文化研究科地域文化研究(イギリス文化)に進学、1992年にロンドン大学ウェルカム医学史研究所で博士号を取得した。博士論文は啓蒙主義時代イングランドの精神医学思想史を主題とし、指導教官はロイ・ポーターであった。その後、ウェルカム財団医学史研究所リサーチ・フェロー、アバディーン大学研究員などを経て、1997年に慶應義塾大学助教授となり、2005年から慶應義塾大学経済学部教授。