現実は変えられないという「現実主義」に抗するためにフィクションは意味をもち得るか、SFアニメで考える骨太フィクション論。
科学、技術の急速な発展をうけて、現実主義者は、フィクションは意味がないしくだらない、あるいは、無責任で害悪でさえあるという。それに対し、そのような態度こそがわたしたちの現実を堅く貧しくしているのだと反論することはできるのだろうか。名作SFアニメを題材に、フィクション、現実、技術について、深く検討する。本連載を大幅修正加筆し、2018年12月末刊行。
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古谷利裕 著
『虚構世界はなぜ必要か? SFアニメ「超」考察』
四六版判上製・304頁 本体価格2600円(税込2808円)
ISBN:978-4-326-85196-6 →[書誌情報]
ヴァーチャル・リアリティ
ヴァーチャル・リアリティ(Virtual Reality)は、通常では仮想現実と訳されますが、それは本来、「実在はしていないが、効果や機能として実在していると同等とみなせるもの」を意味します。
ヴァーチャル・リアリティという言葉が初めて公的な場で使われたのは1989年のテクスポ(Texpo)`89でのことでした。カリフォルニア州のベンチャー企業、VPLリサーチ社がそこで提案した未来の電話システム「RB2(Reality Built for Two)」のプレスシートに、《Virtual Reality arrives !》という言葉があります。そこには、この技術はコロンブスの米大陸発見に匹敵する、とまで書かれています。
RB2は、アイフォンと呼ばれるゴーグル型ディスプレイと、データグローブと呼ばれる手袋型デバイスからなります。ゴーグルを被り、手袋をはめることで、利用者はコンピュータ・グラフィックで描かれたシンプルな仮想空間の部屋に入り込みます。そしてその部屋に、電話回線で繋がった遠方の通話相手が人型の物体として現われ、相手と会話をしたり握手をしたりできるのです。この段階では、握手といっても触感はなく、身振り上のことでした。
ヴァーチャル・リアリティ(以下、VR)という言葉が誕生したのはこの時ですが、VR的な技術や装置はそれよりも前から存在していました。仮想世界に入るためのHMD(Head Mounted Display/頭部搭載型のディスプレイ)は、50年代にすでに考案されており、様々な試行錯誤の後、1968年にユタ大学のイヴァン・サザランドにより、現在のHMDの原型となるゴーグル型のディスプレイ(「究極のディスプレイ」)が考案されています。
また、1963年には、「センソラマ(Sensorama)」という装置が、商業的な娯楽機械としてモートン・ハイリグによって開発されています。これは、立体映像、音響、風、振動、匂い、など様々な感覚刺激を駆使して、バイクに乗っている疑似体験を構成するという装置でした。この装置はコンピュータではなく、主に映画の技術によってつくられていました。
さらに、1974年には、ビデオアーティストのマイロン・クルーガーにより、「ビデオ・プレイス(Video Place)」という装置がつくられます。これは、コンピュータ・グラフィックスと、カメラによって映し込まれた人間とが、ビデオ映像のなかで相互作用することができる装置でした。ここでは、人が疑似体験をするというより、ビデオ映像というメタ空間を介して、人とCGという異質な空間にある存在のインタラクションが可能になるというもので、作者のクルーガーは人工現実感(Artificial Reality)という言葉を使っていました。
大学での研究、商用の娯楽装置、アート作品と、それぞれ異なる分野でVRのパイオニアであるサザランド、ハイリグ、クルーガーの3人が、VAの父と呼ばれています(サザランドは、「スケッチパッド」という、コンピュータで三次元的に絵を描く技術の研究により、コンピュータ・グラフィックスの父とも呼ばれます)。つまり、VAはその初期から、インターネットのような一つの(一まとまりの)技術というより、様々な分野の、様々な技術の寄せ集めによって成立しているものだといえるのです。
人間がどのようにしてリアリティ(現実感)を構成しているのかを問う研究分野としてのヴァーチャル・リアリティもまた、工学、心理学、脳科学などを横断するものとなっているようです。それは、いかにすれば「脳(心)」を巧妙に騙す(現実だと思わせる)ことができるのかを、様々なやり方で探ることを通じて、「脳(心)」のあり様を探求するものといえるでしょう。人の脳をうまく騙せる技術なら何でもありというわけです。
VRはその始まりから、技術的であるだけでなく、アトラクション的であり、アート的であり、興行的なものでもあったのです。だから、フィクションとの親和性も高く、その意味で、仮想現実という訳語は的を射ているということもできるでしょう。
フィクション内での、VRの三つの型
ここで問題にしたいのは、VRの歴史でもVRの現在でもありません。現実世界のVRが問題というより、VRという技術(様々なデバイス)がフィクションにどのような影響を与えているのかということを問題にしたいのです。あるいは、フィクションにおいてVRという技術がどのように現われているのかということが問題なのです。そこで、まずフィクション内に置かれたVRの性質を、現実における技術的な違いではなく、フィクション内における現実と虚構との関係の仕方の違いによって分類したいと考えます。つまりここでは、拡張現実(Augmented Reality)、複合現実(Mixed Reality)などという現実的なVR技術の区別とは別の、フィクションのあり方に沿った分類を用いて考えます。
フィクション内のVRのあり様には、次の三つの型があると考えられます。①虚構没入型、②虚実一体型、③多重フレーム型、です。
虚構没入型とは、文字通り、現実とは別の世界にVR技術を用いて完全に没入するという形の物語です。これは、フィクションにVRが使われる時のもっとも一般的なパターンといえるでしょう。この場合、現実と虚構とは二つの別の世界であり、その間にはっきり区切りをつけることができます。代表的な例としては、アニメではありませんが映画『マトリックス』(1999年)があります。主人公が現実だと思っていた世界は、実は仮想世界にすぎませんでした。これとは逆のパターンとして、『ソードアート・オンライン』(2012年、2014年)や『オーバーロード』(2015年)など、ヴァーチャルなオンラインゲームの空間に没入したままログアウトできなくなる、というものがあります。外に出られない以上、仮想の空間こそが主人公にとって実質的には現実となります。虚構から遊戯性や参加、不参加の自由が消えてしまうのです。
注意すべきなのは、たとえば『ビューティフルドリーマー』などとは違って、夢と現実の対立が問題ではないということです。ここでは、現実と虚構との価値の逆転が起こっているのです。幸福な夢の世界への逃避ではなく、現実が、こちら側からあちら側へ、あちら側からこちら側へと移動したということです。すべてではありませんが、多くの虚構没入型の物語では、現実だったものが虚構へ、虚構だったものが現実へと、世界の反転が生じます。
次の虚実一体型とは、VR技術によって、現実のなかに区別が難しい形で虚構の次元が混じり込むというものです。少なくとも、デバイスを使用している限りは、現実と虚構とが同じ平面で連続的に成立しているという状態になります。これにより、世界(現実)は魔法化します。技術的な魔法により、ファンタジーの世界ではなく、我々が住んでいるのと地続きの、現実的な世界の設定のなかでも、そこに物理法則とは異なる要素を付け加えることも可能になります。虚構没入型では、まったく別の世界へと没入するため、登場人物は、多くの場合こちらの世界とは別の身体を、そして別のアイデンティティをもってあちらの世界へ移動しますが、虚実一体型においては、こちらの世界と地続きであちらの世界があらわれるため、(「魔法使い」になってスペックは上昇するとしても)基本的には同じ身体、同じアイデンティティが維持されることが多いでしょう。
この型として最も成功した作品として『電脳コイル』(2007年)が挙げられるでしょう。電脳メガネという高度なウェアラブル・コンピュータを通して世界を見ることで、電脳空間へのハッキングが、あたかも物理空間における魔法のように現われます。
三つ目の多重フレーム型でも、現実と虚構とが重ね合わせられるのですが、虚実が連続的に一体化するのではなく、異なるフレームにおいて、多平面的に重ねられます。わかりやすい例が今流行っているポケモンGOです。プレーヤーは、現実の街を歩いてポケモンを探しますが、ポケモンの存在はスマホの画面や震動を通してしか確認できません。虚実一体型の『電脳コイル』では、電脳ペットのデンスケが実物の犬と変わらずに空間内を走り回るので見分けがつきませんが、ポケモンGOにおいては、同じ場所でも、ポケモンが、いる(フレーム内)/いない(フレーム外)、あるいは、見える(フレーム内)/見えない(フレーム外)、という二つの状態が同時に意識され、実在する物とは区別されるでしょう。
多重フレーム型は、虚構への没入度はもっとも低いといえるでしょう。しかしここには、没入とは別のリアリティが生じます。杖を使うと杖の先までが自分になる、車を運転していると車体の幅までが自分になる、といったような、間に道具を介することで生じる(直接性とは異なる)間接性によるリアリティがあらわれます。VRでは重要な要素として、没入感とインタラクション性が挙げられますが、虚構世界と私とのインタラクションにおいて、その間にあるデバイスの存在が意識されるのです。虚構への没入は、デバイスへ向かう集中として生じます。つまり、使用者のデバイスへの集中度によって、虚構世界への没入の度合いがグラデーション的に変化します。
多重フレーム型の重要な作品として『ロボティクス・ノーツ』(2012~2013年)が挙げられます。この物語では、「ポケコン」と呼ばれる、スマホであり、タブレットPCであり、ゲーム機でもあるようなデバイスと、「居ル夫。」と呼ばれる、現実と虚構世界とを結びつけるアプリケーションが重要な位置を占めています。
では、個別にもう少し詳しくみていきましょう。