虚構没入型『ソードアート・オンライン』
『ソードアート・オンライン』は、VRを用いて完全にゲーム世界の内部に入り込んで行うMMORPG(多数のプレーヤーが同時に一つの世界に参加するゲーム)の参加者1万人が、ゲーム開発者の策略によってゲームの世界から出られなくなるという話です。ゲームの参加者は、ログインしている間ずっと、HMDを装着してベッドに横たわり、意識を完全に失っている状態です。現実側からみれば、1万人もの人々が、同じ夢を共有しながら昏睡状態にあることになります。そして、ゲーム内で死ねば現実の身体も死にます。
虚構没入型の物語では、多くの場合、現実世界と虚構世界という二つの世界の虚実の価値が反転します。『マトリックス』のように、現実が実は虚構だったというものもあれば、『ソードアート・オンライン』のように、外に出られなくなることでゲーム世界が実質的に現実化するというものもあり、また、押井守の実写作品『アヴァロン』(2001年)のように、ゲーム世界でのみ生き生きと活動し、そこに入り浸り、ゲームによって得た報酬で生活が成り立っているというように、価値の問題として虚構世界の重みが増して現実化する場合もあります。
仮想的世界が、そこから外へ出られないことによって事実上現実となるとしても、そこが物理的な現実世界(あるいは、本当の?異世界)と異なる点が一つあります。それはあくまで技術的な異界であり、その世界が誰かによって人為的につくられ、管理・運営されているということです。つまり、仮想世界の現実性(そこから抜け出せないこと)を支えているのは、他者であり、あるいは何らかのシステムであるのです。
『マトリックス』においてそれは、人間に対して反乱を起こしたAIであり、『ソードアート・オンライン』においてそれは、ゲーム開発者の茅場晶彦であり、サーバを管理しているレクト社の須郷伸之です。他者やシステムの存在が、仮想世界の現実性を支えているのです。
だから、多くの虚構没入型の物語では、虚実反転のショックの効果の後は、虚構を現実化させている(虚構から出られなくさせている)他者やシステムとの闘いへと展開してゆく流れになります。主人公は、あるシステムに閉じ込められながら、そのシステムそのもの(あるいはその製作者や管理者)と戦うことになるので、主人公の勝利のためには、システム内にいながらシステムを超越するというパラドクスを創発する必要があります。
虚構であるはずのゲーム世界が現実化するということは、たんなる虚実の反転ではなく、虚構の虚構性(影響の限定性、選択可能性、遊戯性)が、この世界から失われてしまうことを意味します。出入りが自由であるはずのゲーム世界に閉じ込められ、死んでもリセット可能であるはずの世界で、死が死を意味するようになる。そうなると、今、さしあたっての現実であるこの仮想世界も、その外にあるはずの現実世界も、どちらもが現実となってしまします。虚構の次元が奪われるということです。だから、虚構没入型の物語によって生まれる状況は、この連載の動機である、フィクションの価値の低下と強い現実主義の台頭という状況と、近いものであるように思われます。虚構没入型の物語はそのような意味で、現在リアルなのかもしれません。
『ソードアート・オンライン』における、茅場と須郷という2人の「仮想世界の支配者」に対する戦いとは、だからフィクションの権利を奪還するための戦いともいえます。ゲームの遊戯性を取り戻すために、現実となったゲームが戦われるのです。登場人物たちは、閉じ込められ、必死でそこからの脱出を願ったゲーム世界に、ゲームが遊戯性を取り戻した後、性懲りもなくまた戻ってゆくのです。彼らは、遊戯であるゲームに再び戻ってゆくために、現実と化したゲームからの脱出を願うのです。
新しい空間と古い空間、さらに古い空間
アニメ版『ソードアート・オンライン』一期では、「ソードアート・オンライン(SAO)」と「アルヴヘイム・オンライン(ALO)」という二つのゲームが主な舞台となります。主人公たちは前者のゲーム(SAL)に閉じ込められ、ゲームをクリアすることでそこから脱出できたのですが、ヒロインの意識が戻らず、彼女はどうやら後者のゲーム(ALO)内に囚われているらしいということで、後半は、主人公がALOをプレイすることになります。そしてゲーム内で主人公は、ALOはSAOのシステムの流用によってつくられていることを知ります。二つのゲーム世界は、表面的には大きく異なっていますが、根本的にはつながっています。SAOはアーガスという会社がつくりましたが、アーガス社は解散し、その技術を受け継いだレクト社がALOをつくったのです。
つまり、ALOというゲームには、その製作者・管理者にも充分に把握できていない潜在的な層(古い層)が存在し、そのことが、SAOで経験を積んでいた主人公を助けます。つまり、この潜在期な層があることで、システムに属するプレーヤーでありながらそのシステムを管理する者に勝つ、ということが可能になるのです。そして、この仮想空間の重層化は、虚実一体型である『電脳コイル』にもみられるのです。
『電脳コイル』は大黒市という街が舞台ですが、ここでは特別行政区として半官半民で、行政の多くがメガマスという巨大なIT企業に委託されているようです。この作品の仮想世界は、没入型ではなく虚実一体型です。メガマスは、(物語内で)現実の大黒市の全体に、それとそっくりの電脳的な大黒市を(まるでプロジェクション・マッピングをするように)重ねています。それにより、交通の制御や信号機の管理など、様々な公共的管理を市の空間管理室で一括して制御することが可能になっているようです。
そしてこの仮想空間に、電脳メガネというウェアラブル・コンピュータによってアクセスすることで、架空の電脳ペットが路地を走り回り、セキュリティプログラムが空中を飛び回っているこの物語の世界が出現します。しかし、この電脳メガネを使用しているのはほとんどが小学生で、彼らは市の設定した仮想空間に小さなハッキングを仕掛けることで、ちょっとした魔法のような効果を発生させて遊んでいます(プログラムやハッキングが、暗号や術式と呼ばれます)。空間への違法介入をする小学生をセキュリティプログラムが追いかけ回す様はまるで鬼ごっこのようです。作品を観ていると、市は、まるで小学生たちの遊びのためにこの仮想空間を張り巡らしているようにさえ思えてきます。
しかし、この物語にあるのは、そのような気楽な要素だけではありません。この物語は、死に取りつかれた子供たちの話でもあるのです。
市の空間管理室は、古いバージョンの仮想空間を新しいバージョンの空間にアップデートする作業の途中ですが、この二つのバージョンの空間のズレから、様々なバグが発生しているようなのです。そのバグは、まるで、古い空間と新しい空間との隙間が冥界と通じていて、そこから様々な亡霊がこちらの世界に滲み出してくるかのように、ホラー的に表象されます。多くの子供たちはそれを恐れますが、大切な人との死別という出来事に遭遇し、それに心理的決着をつけることができていない一部の子供は、二つの空間の亀裂の向こう側にあると想像される死の世界へ方と惹きつけられてゆくのです。
メガマス社によってつくられている大黒市の仮想空間は、すでに倒産したコイルズという会社によって開発された技術を基礎としています。つまり、新しい空間と古い空間のどちらにも、古層としてコイルズの空間の記述が埋め込まれているのです。そして、メガマスのつくり出す仮想空間は虚実一体型のもので、行政にも利用されるような、現実と重ねられた開かれた空間なのですが、その元になるコイルズのつくった仮想空間は、心に傷を負った子供を癒すためのシェルターとして開発された、閉ざされた虚構没入型のものだったのです。
現実に開かれたものである新しい空間と古い空間があり、しかしその間にはバージョンの違いによる隙間があって、その隙間は、より古い、閉ざされた没入型の空間へと繋がっているという、仮想空間の製作者たちにとって意図せざる「世界の深さ(遠近法)」が、そこに成立してしまうのです。
とはいえ、二つの空間の隙間の奥にあるものは、冥界などではなく、人為的につくられた、技術的な仮想世界にすぎません。しかし、重層性や深さといったものは、どうしても人に、そのさらに奥、そしてその向こう側の存在を想像させてしまいます。そして、この作品が優れているのは、まさにそのような、人を誘惑し、その向こう側に何かがあると感じさせる「深さ」を、複数の仮想空間を重ね合わせることによってつくり出しているからだといえるでしょう。