ジェンダー対話シリーズ 連載・読み物

《ジェンダー対話シリーズ》第1回 隠岐さや香×重田園江: 性 ―規範と欲望のアクチュアリティ(前篇)

 

[自立した女性から愛され女子と性の商品化へ]

 
重田 で、それが、北原さんによると、愛される、「愛され女子」みたいなことを言うようになってすごい変わってきちゃった。そこで、なんか強い女というか、女の自立みたいなことを言っていたのが、急に男の人の視線が入ってきて、「愛される」に変わってきちゃった。これはとんでもないことだ彼女は言うんですけれども、私はその「愛される」に変わってから後はあまりよく知らなくて、もう現役を引退して、別に愛されなくてもいいやと思って今まで生きているんですけれども、その「愛される信仰」みたいなのが出てきたと。

それと、これは書いてなかったけれども、私が思ったのは、その「愛される」の時期と同時に、さっきの『anan』の写真みたいに男の裸を愛でる文化というのが出てきて、これは腐女子の何かと関係しているのかしていないのかわからないんですけれども、やたら男の裸を愛でるとか、それに熱狂する女性たちが社会的に目立つというか認知されはじめるということもあって、愛されると男の裸の関係はどうなっているのかなということも思ってます。
 
で、とりあえず80年代から90年代というのはざっくりとこれで、2番目が2000年代以降なのかなと思っています。ここは北原さんの本からは離れるんですが、最近は「エロメン」とか言いますよね。一徹とかムータンとか。そういうエロメンだとか、あと、女性向けの性に関するいろんなグッズもそうだし、北原さんとかもそういうショップをやっていますけども、そういうものとか、女性向け○○という、女性にとっての性的対象の商品化ということが非常に進んでいっているのがこの数年だ、というふうに思っています。2010年代に入ってから。ここで言っている商品化というのは、以前言われた援助交際などで自らの性を商品にするという議論での話と違って、というかもっと広くて、女性が消費者になる性や、あとで話しますが婚活や女子力など、女性が自らを磨いて商品価値を高めるといった意味で使っています。
 
そのなかで、描写がそんなにハードじゃなくてソフトなものを――女性が商品として買うものというのはソフトじゃないとだめということで――、まあ、ハードな女性もいるんだろうけれども、わりとソフトな、女性にも受け入れられる性みたいなものが出てきているのが、2000年代以降、とくにこの5年ぐらいじゃないかなと思っています。
 
で、それとともに「婚活」という言葉が出てきて――「婚活」っていつできた言葉かと思ったら、山田昌弘という、パラサイト・シングルとかとかいろんな言葉の発案者が「婚活」という言葉もつくって、2007年11月の『アエラ』が初出だったらしいんですけれども――「婚活市場」というふうな言い方がされるようになりました。これ(パワポ資料)は日本結婚相談所連盟という団体が、未婚者の数がこれぐらいだとか、結婚情報サービスに興味のある方が600万人いる、すごい巨大な市場だから、この人たちに対して市場を広げようみたいな話をしているわけです(http://www.point45.jp/appeal/)。今は60万人しか利用していないって、60万人も利用しているのかって思いますけども、そういう形で、性とか、結婚とかも含めた、市場化というのがやっぱり出てくるのが2010年代のような気がしていて、これは新自由主義の言説とか、そういうものの影響もあるかもしれないんですけれども、「市場」とか「商品」という言葉を抵抗なく受け入れるようになっていて、こんな形で性の領域の語りや実践が変わってきているのかなと思っています。きちんと分析はできていませんが、性の領域への商品や市場モデルの浸透は、商品化=労働力として自分を売ることのあり方の1つとして性の商品化がある(たとえば援助交際)、という時代から、人間の活動のあらゆる事柄が、商品や市場の言語で理解され語られる時代への変化を映しているのかもしれません(注:このことについては、ミシェル・フーコーが1979年のコレージュ・ド・フランス講義(『生政治の誕生』筑摩書房、2008年)で「人的資本」の説明の中で言及しています)。
 
で、では、女子というか女性というのはどう商品化されているかというときに、例えば「女子力」という言葉、これは2009年新語・流行語大賞にノミネートされたらしいんですけれども、この女子力診断というのがこんな感じであります(http://koigaku.machicon.jp/judge/10643/)。10問のQ&A方式で女子力が診断できるらしいです。どうでしょうね。結構、低い人も多いかな。私かなり低いです。毎日きちんと化粧している人って、いるんですかね。部屋の掃除をするとか、すてきなお店を見ると胸が高鳴るとか。こんな感じで、すてきな恋をしてみたい、今までの恋もすてきだったって、何だこれって感じですけども。ためしに全部「イエス」にしてみたんですけれども、診断がなんか壊れているんですよ。で、おまえは女子力上げるの無理だからせめて男子力を上げろって書いてあって、私が壊れているのか診断が壊れているのか知りませんけれども、こんなふうになっているわけです。
 
で、この商品化のされ方というのが、見て笑っちゃうけど、結構今、多いじゃないですか。こういうのを見るとなんか、アイデンティティとして、私たちが80年代にやっぱり、お立ち台で踊るということは(私はしてませんでしたが)、アイデンティティとして女の強さみたいなことを求めていた時代だったのに対して、今は行動やからだのパーツを、ぶつ切りで捉えるんですよ。こま切れの行動やパーツの集積として、女子力を測っていくというような、そういう傾向が結構あるんじゃないかという気がします。これも「ポスト・アイデンティティの時代」なのかどうかわかりませんが、「私の同一性」の希求からは離れた発想だと思います。
 

[パーツ化された女性の欲望の承認]

 
重田 何でしょうね、この女の子のままでいたいみたいのって結構容認されていて、私ぐらいの年のおばさんでも、例えば携帯を見ていると「40代、この肌びっくり!」みたいな広告とかがやたら出てきて、「48歳がここまでできた」とかって、なんで私の年をピンポイントで当ててくるんだっていう広告って多いです。こういう、エステとかネイルとかそういうところから女子力を上げる、みたいなところで、女性の「いつまでも若くきれいでありたい」というような欲望がすごく今容認されている反面、肝心なところでの性規範は変わっていないという印象をもっている女性は非常に多いと思うんです。それで、この変なところと肝心なところに関してちょっとクローズアップしてみたいと思います。
 
で、この変なところというのがこれね、愛され女子、「愛され女子プロジェクト2016」というページを見てみたんですけども、漢方とかヨガとかも入っていてある意味おもしろいんですけれども、一言では、「見えないところのケアも抜かりなし、に女子は尊敬のまなざし」だそうです(http://summerseve.jp/aisare/special/01/)。これはなんか、男子向けなのか、女子向けなのか、誰向けなのか知らないけれども、愛され女子になるための欲望はかなりくだらないところまで容認されている。エステとかネイルとか脱毛とか。大学生の女子で脱毛通っている人多くてびっくりしますよ。
 
で、「愛され女子は知っている。世界で一番幸せなおうちセックス」とか、何ですかね、これ。「脱ごぶさた女子」って、ちなみにここにごぶさた女子ってどれぐらいいるんでしょうね。いっぱいいるとかって言ったらセクハラになっちゃうんで、言えないですけれども。こういうことは容認されるんですよ。だから、ある部分での、パーツ化された形での、男性に望まれる女子みたいなのと市場や商品化がくっついたような欲望というのは広範に容認されている。
 

[もちろん容認されない女性の欲求もある]

 
重田 その一方で、例えば、電通の女性社員が1年目で過労死しちゃったという事件がありました。今あわてて残業時間上限を法制化しようと言っていますが、その議論もお粗末すぎて、繁忙期月100時間って、過労死ラインで堂々と法制化するなんておかしいと思わない感覚が理解できないです。でも今日はその話ではないので戻すと、このときの彼女のツイッターがネット上にあがっていて、これはすごく象徴的だなと思ったので持ってきたんですけれども、部長との会話というので、「君の残業時間の20時間は会社にとって無駄だ」とか、「会議中に眠そうな顔をするのは管理ができていない」とか、「髪ボサボサ、目が充血したまま出勤するな」とか。彼女はそれに対して「充血もだめなの?」とツッコミを入れています。さらに、「男性上司から女子力がないだの何だのって言われるの、笑いをとるためのいじりだとしても我慢の限界である」とつぶやいています。「おじさんが禿げても男子力がないと言われないのはずるいよね、鬱だ〜」って書いてあるんですけれども、これはたしかにそうなんです。私、これから、禿げているおじさんに「男子力がない」って言ってみようかなって思います(笑)。これはもう本当にひどい話で、つまり、女性の承認欲求というか、女性の欲求・欲望というのが、ある枠の中でだけは許容されているんだけれども、それの外に出た途端に、全く容認されず、容赦なく攻撃される。
 
ヒラリー・クリントンさんが「ガラスの天井」ということを言ったんですけれども――ちょっと関係ない話になって、こんな話をしている場合じゃないんですが――彼女が最後に敗北を認めた演説というのの抜粋が新聞に載っていたじゃないですか。あれを見たとき、私、すごい腹が立ったんですけども、何に腹が立ったかというと、彼女が女性に対してエールを送っている部分だけが切り取られた内容なんですよね。そうじゃないことを、彼女はいっぱい言ったはずなんですよ。だけど、彼女は女性で、ガラスの天井があった。それをいつか、誰かが突き抜けてねと言ったところだけをストーリーにして語る。これがとても腹が立った。
 
話を戻すと、そこからどこに行くかというと、もうその枠の中でなんとか承認欲求を満たしているというのことが現実なのでしょう。それで、次に持ってきた『奥様は愛国』(北原みのり、朴順梨、河出書房新社、2014)という本、なかなか衝撃的です。これも北原さんが関わっている本なんですけれども、ベビーカーを押してヘイトスピーチをやっている奥様たちについての話とかが出てくるんですけれども、これを見ると、枠の中での欲求の解消の仕方が、やっぱり、ある種の線引きと、その線引きの向こう側の人に対して、それをバッシングするということに簡単に陥りがちだということを思わされるような振る舞いで、それを指摘したかったので、出しておきました。戦争と愛国が結びついた場合の男女の役割についての定型的思考と実践は、さまざまに分析されてきたと思いますが、それが一部のナショナリストの政治活動や言論の中で、そのまま反復されていると思います。
 
 

次回は、隠岐さん、重田さんの話を受けて、藤田さん、宮野さんのコメントにつづき、フロアを交えての熱いトークが繰り広げられます。来週公開予定の後篇をどうぞお楽しみに。[編集部]
*元になったイベントは、2016年12月9日に東京大学駒場キャンパスで行われた「「性」―規範と欲望のアクチュアリティ―」(報告:隠岐さや香、重田園江、コメンテーター:藤田尚志、宮野真生子、司会:筒井晴香)です。なお、本イベントの文字書き起こしは、科学研究費基盤研究(C)「フランス現代哲学における主体・人格概念の分析(愛・性・家族の解体と再構築を軸に)」研究課題番号:16K02151(研究代表者:藤田尚志)の助成を受けています。また、ウェブでの掲載にあたり、ナカニシヤ出版様、東京大学UTCP様、梶谷真司先生のご協力を得ました。記して感謝申し上げます。

 


 
【登壇者プロフィール】
 
隠岐さや香 東京大学大学院総合文化研究科博士課程満期退学。博士(学術)。名古屋大学教授。18世紀科学技術史研究。著書に『科学アカデミーと「有用な科学」:フォントネルの夢からコンドルセのユートピアへ』(名古屋大学出版会、2011年)、「コンドルセの社会数学:科学と民主主義への夢想」(金森修編『合理性の考古学』東京大学出版会、2012年)など。

重田園江 東京大学大学院総合文化研究科博士課程単位取得退学。明治大学教授。政治思想、ミシェル・フーコー研究。著書に『連帯の哲学Ⅰ:フランス社会連帯主義』(勁草書房、2010年)、『ミシェル・フーコー:近代を裏から読む』(筑摩書房、2011年)、『社会契約論:ホッブズ、ヒューム、ルソー、ロールズ』(筑摩書房、2013年)など。

筒井晴香 東京大学大学院総合文化研究科博士課程満期退学。博士(学術)。東京大学UTCP上廣特任研究員(~2017年3月)。東京大学大学院医学系研究科医療倫理学分野特任研究員。心の哲学、社会科学の哲学、脳神経倫理学、ジェンダー研究。著作に「「脳の性差」と「自然」」(藤田尚志・宮野真生子編『性―自分の身体ってなんだろう?』(『愛・性・家族の哲学 第2巻』)ナカニシヤ出版、2016年)など。

藤田尚志 東京大学大学院人文社会系研究科博士課程満期退学。博士(哲学、リール第三大学)。九州産業大学准教授。フランス近現代思想、アンリ・ベルクソン研究。編著に、シリーズ『愛・性・家族の哲学』1~3巻(宮野真生子と共編、ナカニシヤ出版、2016年)。現在、「けいそうビブリオフィル」にて、『ベルクソン 反時代的哲学』を連載中(近刊)。

宮野真生子 京都大学大学院文学研究科博士課程単位取得満期退学。福岡大学准教授。日本哲学史、九鬼周造研究。著書に『なぜ、私たちは恋をして生きるのか−−「出会い」と「恋愛」の近代日本精神史』(ナカニシヤ出版、2014年)、編著に、シリーズ『愛・性・家族の哲学』1~3巻(藤田尚志と共編、ナカニシヤ出版、2016年)など。

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「ジェンダーとかセクシュアリティとか専門でも専門じゃなくてもそれぞれの視点から語ってみましょうよ」というスタンスで、いろいろな方にご登場いただきます。誰でも性の問題について、馬鹿にされたり攻撃されたりせず、落ち着いて自信を持って語ることができる場が必要です。そうした場所のひとつとなり、みなさまが身近な人たちと何気なく話すきっかけになることを願いつつ。