ジェンダー対話シリーズ 連載・読み物

《ジェンダー対話シリーズ》第2回 隠岐さや香×重田園江: 性 ―規範と欲望のアクチュアリティ(後篇)

 
 
重田 その上で、さっきの話に戻ると、固定観念に縛られると、どうも被害者をただの弱い者として見ちゃう。被害者を弱い者として見ちゃうということと、加害者を非常に強く見ちゃうというか、加害/被害を固定化して捉えるという話はあります。他方に佐々木氏のような人もいる。(自称)左翼系教員のセクハラ冤罪の主張については、牟田さんは「大学闘争のバリケード内においてさえ、セクハラ問題が提起されている」と書かれていて、これ、よく言ってくれたと思うんです。そういうことがあるんですが、逆にというか、他方にと言っていいのかわからないんですけども、セクハラにおいては、たとえば「こういうことされたんだからそれなりに埋め合わせしてほしい」と考える人もいれば、「いやな記憶は忘れて未来を考えたいから、いつまでもこのことにこだわり相手にかかわりつづけなくない」と思う人もいます。また、当事者はこれ以上事態を大きくしたくないと考えているのに、周囲の人たちが、おそらくそれ自体はセクハラとは無関係な自己利害に基づいて、ことさらに騒ぎ立てるといった例もあるようです。
 

[よい欲望と悪い欲望をわけられるか]

 
重田 こういういろんな例があって、では、例えばなんですけれども、くだらないことにかかわらないでさっぱり忘れるという人は、これは立派だね、よい欲望だよ、だけれども、埋め合わせを要求するのは悪い欲望だよというふうにして分けられるのか。別の例を出すと、かなり不適切な例かもしれませんけど、夫婦間での性欲はいい欲望だけれども、不倫するのは悪い欲望だって、分けられるのかということはあるわけですね。
 
で、これを例えば、ジョン・スチュアート・ミルという立派な学者――まあ、あの人も、夫がいる人のことをずっと好きでいて、それで人生が大分広がったらしいですけれども、この人は、「他者危害原理」という自由主義の原則を掲げています。これは、「政府や世論によって禁じることができるのは、他者に危害を与える行為だけである」というものです。こういう、他者に危害を加えなきゃいいという仕方で、よい欲望と悪い欲望を分けられるかというと、多分無理ですよね。では、どうやってよい欲望と悪い欲望というのを考えたらいいのか。そんなの、分けられないよって言えばいいのかというと、そこもわからなくて、例えば不倫バッシングって、これはここ数年、すごいですね。なんかLINEを盗み見て、それを週刊誌に載せるとか、犯罪じゃないのみたいなことをやっても、そこは訴訟にもならずうやむやに終わったし、何だったんだろうって思います。悪いことをした人がいるとして、違法に収集された証拠には証拠としての能力が認められないという刑事訴訟の基本原則、あるいはそういう形式と実質を分ける考え方を失うと、世の中がとても危険な方向に行くと思うのですが。
 
だから、LINEをさらすっていうのはやりすぎだろうと思うんだけれども、でも、その被害者の傷というのを考えると、加害者をかばえばいいかというと、そうではない。まあ、誰が加害者かということもありますけれどもね。仮に、不倫した人の夫とか、妻とかがいたときに、その被害を受ける人の傷というのは計り知れない。で、それに対して、バッシングやりすぎだから、そんなバッシングしなくていいよとも言えないしということで、ここは難しいんですよね。
 
しかも、誰が誰にどんな危害を加えたのか、よくわからない。だから、危害原理というのが何で言えないかというと、文春なんかがバッシングしたときに、文春の人は誰に危害を加えたことになるのか。被害者にとってはすっきりしたはずだとか言っている人もいる。実際はすっきりどころか大変だったと想像しますが。だから、なんかよくわからない。
 
つまり、性規範とか、性道徳においては正しい側というのが非常に難しいわけですよ。そもそも正義の領域とケアの領域って――さっきもちょっとケアという話が出ましたけれども――違うんだとかという話になると、やっぱりこれ、ミルの話と関係してきます。性やジェンダーに関わる事柄では、正義の領域とは違うものが絶対介在してきてよくわからなくなる。だけども、だからといってこれ、完全に私的な領域だと言えるかというと、どうもそうは言えない。例えばハラスメント問題というのは非常にポリティカルな問題だけれども、でもすごい私的な問題でもあって、現実に事件が発生する場は非常に私的な場所でもありうるわけです。そこで、なにがよいことで、なにがよくないことかって分けるのは非常に難しいということがあるわけです。だけども、基準が要らないわけじゃなくて、基準はやっぱりないといけなくて、「これはハラスメントで悪いんですよ」と言わなきゃいけないし、性道徳とか性規範って、なくていいものではないということもまた言えるわけです。
 

[窮屈な性/生の新しい形式を創りだす性]

 
重田 で、これは「おわりに」なんですけれども、時間の関係で、女性の欲望をターゲットにする市場とか、性をめぐる二重道徳といった話をちょっと今日はできなかったんですけども、ここまで話してきたようないろいろな事情から、性について論じることも難しくなるし、性について自由であることが非常に難しくなって、なんかどんどんやせ細っていっちゃっていて大変なんじゃないの、今、性が大変なんじゃない、やせてて、というようなことを思います。今日の話をあれこれ作りながら、性に関して、私たちは窮屈なんじゃないか、どんどん窮屈にしているんじゃないかということを思いました。
 
この、性に関して窮屈だということを思ったときに、やっぱり、私がいつも参照するというか、アルファでありオメガでもあるのは、ミシェル・フーコーで、彼が言っていることというのは、性に関することは、クリエイティヴィティというか、創造とか、性的なスタイルを常につくり変えていくということをしなきゃいけないし、そうできるんだよと言っているんですね。
 
で、この引用は私が勝手に日本語に訳しているんですけれども、すごくいい引用だから、みんな、味わって家で読んでくださいということで持ってきたんですけれども(後掲資料)、この性、セクシュアリティというものが、やっぱりどんどんやせ細っていっている、いかざるを得ないというのをなんか現状として感じて、すごく私たち、性に関して窮屈だよね、いっぱい性的なものが溢れているけれども、窮屈だよねって、これは多分、フーコーが、『性の歴史』の第一巻、『知への意志』というのを書いたときに思っていたことだと思うんですね。それは全然変わっていないのかもしれません。
 
だから、今も窮屈なままで、彼が直感した状況は変わっていないんだなと思うのと、最初に戻ると、女性の性にかかわる――女性のという言い方ではなく、生命倫理や出生前診断とかにかかわる議論というのは全く、20年前と比べて、進んだどころか退行しているような感じもしているということです。
 
すみません、私も10分ぐらいたっぷりオーバーしてしまって長くなりましたが、以上で終わります。どうも、ご清聴ありがとうございました。
 
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☆資料
M・フーコーへのインタヴュー Le Gai Pied, No. 25, avril 1981, pp.38-39.

「警戒しなければならないのは、ホモセクシャルの問いかけを「私は誰なのか?私の欲望の秘密はなにか」という問題へと結びつけてしまう傾向です。それよりよいのは「ホモセクシュアルを通じて、どんな関係が作られ、発明され、さまざまに展開し、変化させられるのか」という問いかけです。自分自身のうちに性の真理を発見することが問題ではなく、多様な関係へと到達するために自らのセクシャリティを用いることが重要です。おそらくこれが、ホモセクシュアリティは欲望の一形態ではなく、欲望することができる何かであるということのほんとうの意味なのです」。
 
「1人の男性と彼より若い女性との間では、制度が年齢の差異を受け入れやすくします。女性は制度を受け入れ、それを機能させます。では相当年が離れた男性同士の場合はどうでしょう。意思疎通のためにどんな既存のコードがあるでしょう。二人はお互いに丸腰で、型にはまった言葉も持たず、相手に近づくためにどんな動きをすればいいのか、何もわからず向き合うことになります。形のない関係を一から十まで発明しなければならないのです」
 
「〔ホモセクシュアルについて〕法や自然に反する性的行為を想像することで人々が不安になっているわけではないのです。人と人が愛しはじめるということ、それが問題なのです。制度が不意をつかれてしまうからです」。
 
「性の選択、性的な行為―ミシェル・フーコーへのインタヴュー」
Salmagundi, No.58/59, Fall 1982-Winter 1983, p.19

「ホモセクシュアルにとっては、最高の愛の瞬間は恋人がタクシーで去るときなのです。行為が終わり、青年が去ったあと、彼の身体のぬくもり、どんな笑顔だったか、声の感じなどを思い出すのです。ホモセクシュアルにとっては、行為の先取りよりも追憶の方が決定的に重要だということです。…ただ、これは非常に具体的でリアルな話であって、ホモセクシュアリティの本質などにはまったく関係ない事柄です」

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「ジェンダーとかセクシュアリティとか専門でも専門じゃなくてもそれぞれの視点から語ってみましょうよ」というスタンスで、いろいろな方にご登場いただきます。誰でも性の問題について、馬鹿にされたり攻撃されたりせず、落ち着いて自信を持って語ることができる場が必要です。そうした場所のひとつとなり、みなさまが身近な人たちと何気なく話すきっかけになることを願いつつ。