現実は変えられないという「現実主義」に抗するためにフィクションは意味をもち得るか、SFアニメで考える骨太フィクション論。
科学、技術の急速な発展をうけて、現実主義者は、フィクションは意味がないしくだらない、あるいは、無責任で害悪でさえあるという。それに対し、そのような態度こそがわたしたちの現実を堅く貧しくしているのだと反論することはできるのだろうか。名作SFアニメを題材に、フィクション、現実、技術について、深く検討する。本連載を大幅修正加筆し、2018年12月末刊行。
【ネット書店で見る】
古谷利裕 著
『虚構世界はなぜ必要か? SFアニメ「超」考察』
四六版判上製・304頁 本体価格2600円(税込2808円)
ISBN:978-4-326-85196-6 →[書誌情報]
虚の不透明性
建築家の柄沢祐輔は、現代日本の先鋭的な建築の実践には「虚の不透明性」とも言える特徴があると指摘しています(註2)。これはコーリン・ロウという建築批評家の『マニエリスムと近代建築』という本に書かれた「虚の透明性」という概念がもとになったものです。ロウは、ヴァルター・グロピウスによる「バウハウス校舎」のような、(文字通りに)透明なガラスのファサードなどを特徴的に用いた建築を「実の(リテラルな)透明性」と呼びます。それに対して、素材としてはコンクリートなど不透明なものを使いながら、構成的な層が複数折り重なることで、重層的な迷宮のような空間をつくり、そこを彷徨ううちに全体的な空間構成が徐々に理解され、それによって事後的に頭のなかで透明な空間がたちあがるようなル・コルビュジエの建築を、「虚の(フェノメナルな)透明性」と呼びます。そして、後者こそが、優れた近代建築の特徴だとしました。局所的な細部や迷宮を彷徨った後に、最後にその全体性が獲得され、そこに透明性が立ち上がるのです。
これに対し、現代日本の先鋭的な建築では、最初に一望的に全体が与えられ、その後に、最初に与えられた全体性に還元しきれない、具体的でローカルな空間が現れるのだと柄沢は主張します。柄沢はこのような特徴を、概念的な一望性と、身体的な局在性の二重性がある、と表現します。これは、《Google EarthやGoogle Mapsを用いれば私たちはどこに何があるかすべて概念としては把握できるが、そこに実際にたどり着くためには実際に長い物理的な障壁を乗り越えなくてはならない》という、現在のリアルな情報環境の、建築空間への投影でもあると主張します。ロウによる「虚の透明性」を反転させたかのようなこの特徴が、「虚の不透明性」と呼ばれます。
概念的な一望性とは、無限の可能性にひらかれたネットワークそのものの現れです。しかしそれと同時に、このわたしの身体を通じて経験されるローカルな具体的表情が、その場所ごとにその都度あらわれるのです。この二重性こそが重要である、と。わかりやすくいえば、一目でだいたいの建物の構造は把握できるのですが、実際に建築内の個々の場所に赴くと、全体としての構造のさまざまな切り口であるそれぞれの場の魅力的な固有性がその都度立ち上がって、そこから立ち去り難くなるということです。
柄沢によるテキストでは、西沢立衛の「森山邸」、藤本壮介の「T house」、妹島和世の「鬼石町多目的ホール」がその具体例として挙げられ、分析されていますが、「虚の不透明性」の最も特徴的な実例はなにより、テキストの筆者である柄沢祐輔自身の設計による「s-house」と言えるでしょう。
潜在的な視線のネットワーク
「s-house」(註3)は狭小住宅と言える規模の建築です。半階分ずつずれながらペアになる2階建てのユニットが二つ組み合わされて、基本的に同型の空間が(屋上を含めて)2×2×3として12回反復されています(部屋は8室)。バス・トイレ部分以外は垂直な壁はなく、空間を仕切るものは部屋ごとに半階ずれる高さの違いです。壁のかわりにあるのは、高さが半階ずれる隣室への階段と、高さの違いをつなぐ交差する傾斜(上ってゆく床と下ってくる天井)です。壁がないだけではなく廊下もなく、拡張された踊り場のような8つの空間は、高さのみで仕切られ(壁がない)、階段のみで繋がれています(廊下がない)。ドアはなく、いたるところにヴォイド(空隙)があり、あらゆる場所から別のあらゆる場所が見渡せるかのようになっています。
「s-house」の内部の景観はまるでエッシャーの「階段の家(House of Stairs)」を思わせるもので、同一構造の反復という空間の効果が、交差する傾斜やあらゆる場所が見渡せる視覚的な開けのよさによって増幅され、狭小住宅でありながら、構造が無限に反復するかのような錯覚を覚えます。このような感覚は、常に自分がいる「ここ」に対応する複数の「そこ」との関係を意識に上らせ、「ここ」という感覚を相対化させるのですが、同時に、すぐ目の前に見える空間へも、上昇と下降を繰り返す複雑な経路を経なければ到達できないので、身体的な運動を通じて、「ここ」と「そこ」との距離や分離も、同時に意識させられます。
あらゆる場所からあらゆる場所を見渡せるかのような感覚は、逆向きに考えれば、「ここ」にいるわたしを見ることのできる、あらゆる場所からの潜在的な誰かの視点を意識させることにもなります(それは主に上や下からやってきます)。この家に暮らす「わたし」を想定してみると、日々、さまざまな場所から、さまざまな別の場所を見ているはずです。ならば、今、ここにいるわたしが、さっき、あそこにいてここを見ていた時のわたしの視線を意識するかもしれず、昨日、向こうからここを見ていたわたしの視線を思い出すかもしれません。ならば、明日、あっちからここを見ているかもしれないわたしの視線を思い出すことも……。
「ここ」からどこでもが見えるし、どこからでも「ここ」は見える。わたしの身体が移動すれば、当然「ここ」も移動します。そして「ここ」がどこであろうと、どの「ここ」もまた(異なる角度、異なるフレーミングで)どこでもが見えるし、どこからも見られるのです。厳密にそうではないとしても、少なくともそのような感覚が得られます。ならば、その都度異なる固有の「ここ」が、今は「ここ」ではないが「ここ」でもあり得た別の「ここ」たちと、それぞれが個別でありながら同等のものとして響き合っているような、「ここ」たちによる複雑なネットワークが、わたしの頭の中で形づくられるということもあるのではないでしょうか。
筆者が「s-house」を訪れた時、筆者がリビングにいて、家主が「コーヒーでもいれましょうか」ということになりました。キッチンはリビングと同じ高さで、隙間からすぐそこに見えているのですが、半階上って書斎を通り、そこから半階降りてようやくキッチンにたどり着くのです。そして、その家主の動きがすべて見えています。見えてはいますが、高さが半分ずれているので、動いている人はフレームによって枠づけされた別の位相にいる感じにもなります。そして、キッチンで作業する姿も、隙間から別の区切り方で見えます。動いている人の姿は、舞台の上の俳優のようであり、フレームが切り替わるのでモンタージュされた映画の登場人物のようであり、同時になぜか、自分自身の動きを自分で外から見ているかのようにも感じられたのです。
「ここ」にいるわたしが常に、「そこ」にいた(かもしれない)わたしからの潜在的視線を感じているのならば、今、ここにいてそこの他者Xを見ている視線もまた、他の多数の潜在的視線と同等であり、そこに動く人物を「わたし」であるかのように見出すこともあるのではないでしょうか。そして、あなたをわたしであるかのように見る視線は、わたしをあなたとして見る視線をも導くかもしれません。
空間の構造が、無限の可能性にひらかれたネットワークそのものの現れのようにあり、しかしそれと同時に、このわたしの身体を通じたローカルな具体的表情(経験)が、その場所ごとにその都度あらわれる。この二重性によって、さまざまな潜在的な視点が互いに反映しあうかのような、一種のアウト・オブ・ボディ・エクスペリエンス(幽体離脱)ともいえる感覚が、「s-house」において立ち上がってくる。「s-house」においてこのような感覚が立ち上がるということは、わたしたちはそもそも潜在的にそのような感覚をもっていて、それがたとえば「入れ替わり」のような物語を受け入れる時の感覚的基盤としてあるのではないでしょうか(註4)。