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『帝国日本の科学思想史』

 
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坂野徹・塚原東吾 編著
『帝国日本の科学思想史』

「序章 「帝国日本の科学思想史」の来歴と視角」(pdfファイルへのリンク)〉
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序章 「帝国日本の科学思想史」の来歴と視角
 
塚原東吾・坂野徹
 
第一節 「科学と帝国主義」をめぐる歴史研究 ― 先行研究と本書の来歴(塚原)
 本書は、故・金森修が編集した『昭和前期の科学思想史』(2011)、『昭和後期の科学思想史』(2016)、そして『明治・大正期の科学思想史』(2017)の続編として構想されたものである。これらの論集の企画・編集や多くの著作を通じて、日本の科学思想史研究をリードしてきた金森は二〇一六年に六一歳で早世したが、本書はその遺志を汲もうとするものである(1)。
 科学思想史とは何かという問題について、ここで金森の議論に屋上屋を重ねることはしないでおこう。ただし、これまで本シリーズがかかえる問題点として、時代区分として元号を採用していることや、日本という国家の枠組みを前提にその思想史が論じられること、そのような文化的な制約自体を問い直すための契機が希薄なことなどが指摘されてきた。
 むろん、これらはある意味で自明なことでもあり、また、たとえば元号を採用するのは歴史記述において便宜的なものと考えれば、それほど問題視すべきことではないという言い方も成り立つだろう。だが本書では、基本的に日本という国民国家を論じるときに想定される無前提な枠組みを問い直し、元号の代わりに「帝国」というキーワードを採用する。換言すれば、本書ではとくに「日本」が拡大し帝国となった時代に、科学技術をどのように見てきたのか、そのための制度をいかに設計してきたのか、そしてそれをどのように運用してきたのかを検証する。帝国としての日本は、科学技術についてどのような思想的な目標を持ち、いかなる思想的な課題に答えようとしていたのだろうか。こういった問題を考えるためには、さまざまな視角が必要となってくるだろう。そもそも膨張期の日本は、日本の歴史のなかで例外的な時期であると考えていいのだろうか。その時期に何か特有の思想的背景があって、それがこの膨張を支えたのだろうか。もしくは帝国日本は、いまだに継続する何かを持ち続けているのだろうか。また当時の思想は、科学技術そのものをどのように問うていたのだろう。さらに言うならば、元号で区切られる時代観や、現在の国家の枠組みを前提とした歴史観は、どのように問われるべきなのだろうか。
 最近では、ビッグ・ヒストリーやグローバル・ヒストリーなどと呼ばれる領域で、国民国家の枠組みにとらわれない、いわゆる一国史観を超えた歴史記述のスタイルが試みられている。そして、このような巨視的な立場から、しばしば近代的な科学技術は、ヨーロッパ世界の拡大や「近代」、そして帝国主義による世界の席巻と共=原因的であることが語られている(2)。それは「帝国主義」もしくは「帝国」と科学技術の関係性についてのまさに「ビッグ」で「グローバル」なまとめ方だと言ってもよいだろう。
 だが、このような大雑把な見方をする前に、科学史のディシプリンでは、古くより「科学と帝国主義」という研究分野がすでに成り立っていたことに注意したい。そもそも科学史の領域は広く、古代文明における天文学を研究したノイゲバウアーのテーゼには複数の文化における複数の科学という論点が含まれており、考古学的・文献学的な史料を駆使した研究を展開していた。そのうえで、ジョセフ・ニーダムらが中国科学史を中心に、非西欧科学史と呼ばれる領域を牽引してきた。この領域はインド数学史やアラビア科学史などを巻き込み、科学史のなかで重要な思潮を形成した。
 そして、これらの科学史の成果のなかには、西欧近代科学の成立と、その後のヨーロッパ社会の拡大、すなわち科学と帝国主義の関係を問う問題意識が含まれていた。ニーダムにより「なぜ中国で近代科学が生まれず、ヨーロッパでだけ生まれたのか?」という、いわゆるニーダム・クエスチョンが発せられ、それを契機に、近代科学のコンヴァージェンス・セオリー(科学史の収斂理論)、つまりは多くの文化による自然についての知の成果がヨーロッパ科学へ究極の収束・収斂をしているという考え方が主流となった。さらに近代科学の地球規模の伝播や普及という問題については、ジョージ・バサラによる近代科学の拡散論(三段階説)が提出され、きわめてヨーロッパ中心主義的で近代波及論的な歴史観が流布していった。
 しかし、こうした収斂理論や波及論的な歴史観は、やがて主にイギリス植民史を研究対象としてきたインドの科学史家たちから、激しい批判を受けることになる。彼らの強力な提唱のもとで植民地における科学史・技術史そして医学史などへの関心が高まり、近代科学の成立とは従属的発展の矛盾や知的搾取の結果でもあるとされ、ヨーロッパ中心主義的な近代西欧科学の成立というストーリーを再検討するべきであるとされた。ほぼ同時に、ダニエル・ヘッドリックによる征服と支配の技術史(主に経済史的アプローチによる技術の道具主義的アプローチ)などを経て、「科学と帝国主義」という領域は、さまざまな論争が行われる分野となった。
 この領域での八〇年代の主要な論陣をみてゆくと、まずはロイ・マクロードの帝国科学の「移動するメトロポリス(moving metropolis)」理論と呼べるような議論がある。マクロードによると、植民地や帝国周辺部からの科学的情報を整理するのは、「ヨーロッパ帝国の科学の中心」(記述や計算の中心)であり、それはメトロポリタン(列強・宗主国の複数の首都)にある科学者共同体のネットワークのなかにあって、一国の中心と周辺という単純な上下関係ではなく、帝国の複数の中心を繫いだ網目状のマトリックスを構成しているという。そして、それらの科学者共同体の力関係は固定的なものではなく、同時に諸列強の間にある「移動するメトロポリス」でもあるというように、定常的な権力関係の下に斉一的にコントロールされたものではなく、その知的な重心は常に移動する性質のものであると考えられた。
 またマイケル・ウォーボーイズにより、第三世界の低開発の問題は帝国主義的な科学技術との連続性の下に再編成されているという主張がなされた。現在の開発主義と、帝国による科学技術の歴史の間には強い相互作用あるというのが、ウォーボーイズの主張であった。ウォーボーイズは科学技術と帝国の関係における構成主義的な立場も主張しており、それはまた、イギリス史の中で「英国性(Englishness)」や、概念としての「大英帝国らしさ(Britishness)」や「西側(the West)」といった概念が、植民地的拡大と並行して相互に形成(再構成)されてきたプロセスに注目しようとする思潮、いわゆる「新帝国史(New Imperial History)」の観点とも呼応したものであった。
 このようにマクロードやウォーボーイズの議論のなかでは、植民地問題を語る上でとらわれがちな、いわゆる中心―周縁という概念や、抑圧・被抑圧という二元論的なモデルを超えようという試みが打ち出された。九〇年に「科学と帝国主義」と題したユネスコ会議においておこなわれたパイエンソン論争(対パラディーノ・ウォーボーイズ)でこうした議論は頂点を迎えた(3)。
 これ以降も多くの議論がなされてきた。二〇〇〇年代になると、科学史のビッグ・ピクチャー(Big Picture)という概念をもって、科学史という領域全体を論じ直すべきであるとアンドリュー・カニンガムらが主張し始めた。さらにキーワードを列挙するなら、ブルノ・ラトゥールらの「科学の人類学」などに刺激を受け、知識生産の行われる「場(サイト)」の地理学的特徴に着目した「知の地理学」(リビングストン)などを検討する流れや、「ネットワーク」としてヨーロッパの拡大と科学技術を考えるべきであるという主張も登場した。さらに帝国における知識生産は、一方向的な拡散や浸透もしくは収奪や搾取ではなく、「知のサーキュレーション」(カピール・ラジ)であるとする立場もある。「現地人科学者(indigenous scientists)」という概念についても、従来はリソースのインフォーマント(informant)であったり、情報の収集者(collector)などと呼ばれたりしてきたが、科学の「土着化」において、現地の知識人階層は重要なエージェンシーを発揮する者たちであることから、単なる情報提供者というだけではない観点からの再検討が必要だという指摘もなされている。
 もちろん、これらは多くの論争を呼ぶものだった。そもそも「科学と帝国主義」は、多くが大英帝国主義的史観と呼べるアングロサクソン中心の歴史記述であるという批判も多い。それまでのイギリス中心主義にフランスが若干の反証例をだすという史学一般にみられるパタンがこの領域でも見られる。そこにオランダでの科学史研究から「科学と帝国主義」に関する新しい流れがみられることも、二〇〇〇年以降の科学史研究では注目すべき点である(4)。
 このような世界のアカデミアでの状況に対し、日本の科学史研究も呼応してきた。翻って顧みれば、六〇年代の日本にあって、当時の科学史家・技術史家が総力を挙げてまとめた『日本科学技術史大系』では、第七巻で中山茂が中心となって「国際編」(1968)を編纂しており、そこでは海外(外地)での科学技術史に注目していた。八〇年代後半になると、パイエンソンをはじめとする欧米の「科学と帝国主義」をめぐる議論の紹介も進められるようになった。
 また日本の歴史学では、科学技術のヒストリオグラフィーは、科学史プロフェションを除いて、長らく近代化論が主流であり、近代化論者たちにとっての絶好の栄養源であったのは、蘭学と蘭学者をめぐる物語であった。だがその実、蘭学とはオランダの植民地科学の生んだ歴史的な成果であり、またシーボルトら出島の医師・科学者たちも植民地科学者として再検討することが提唱された。その見地に立つなら、緒方洪庵・佐久間象山や伊藤圭介ら、日本史では往々にして近代化の英雄や「先駆者」として扱われてきた蘭学者たちは帝国主義の最前線をになう植民地科学者にとっての現地人コラボレーターであったという評価も成り立つ(塚原ほか:1996)。
 さらに、二〇〇〇年代以降、科学技術と帝国を主題とした著作として、日本では『岩波講座:「帝国」日本の学知』全八巻(2006)や、坂野徹・愼蒼健編『帝国の視角/死角』(2010)、酒井哲哉・松田利彦編『帝国日本と植民地大学』(2014)、沢井実『帝国日本の技術者たち』(2015)、辛島理人『帝国日本のアジア研究』(2015)、ジョルダン・サンド『帝国日本の生活空間』(2016)、若林宣『帝国日本の交通網』(2016) などの刊行が相次いでいる。本書の編者の一人である坂野が近年精力的にすすめる人類学やフィールドワークと帝国主義の関係についての著作も、この分野の活性化を促している(坂野:2005 ; 2016)。英語圏での研究も盛んであり、近年ではHiromi Mizuno(2009)、Aaron Moore(2013)、Yang Daqing(2010)、Janis Mimura(2011)らの仕事が出色である。また、EASTS(East Asian Science, Technology and Society : An International Journal)誌などでは、東アジアの科学と帝国主義についての特集号が組まれるなど、さまざまな角度から取り組まれている(5)。
 科学と帝国主義をめぐって、本書の編者のひとりである塚原は、愼蒼健、瀬戸口明久、金凡性らとともに日本の植民地帝国大学に関する科学史研究を進めた。そこでは日本の高等教育システムが、従来のような「七帝大」ではなく、京城帝大(現・ソウル大)と台北帝大(現・国立台湾大)を含む「九帝大」であったこと、そして旅順工科大学や満洲医科大学を含む、「外地」の大学が、日本の帝国の拡大のなかで、科学技術研究を担った様相が分かってきた(塚原:2006, Tsukahara 2007)。
 だがこのプロセスで、東アジアにおける研究上の同僚たちとの間に横たわる大きな「ズレ」として確認されたのは、一九四五年前後をめぐる「連続性」についてであった。端的に言うなら、日本の歴史家は、一九四五年にある非連続性を想定してしまうが、それは京城帝大の歴史を語る韓国の歴史家にも、また台北帝大の歴史を検討する台湾の歴史家にも通じないという現実に直面したということである。日本の歴史記述においては、一九四五年を一つの区切りにすることがある種の前提となっているが、韓国においては朝鮮戦争とその後の国家の再編が、台湾においては国民党の統治やアメリカの影響が、より輻輳的な歴史記述を必要としていたのである(6)。
 この一九四五年前後の連続性と非連続性を問題化してみるなら、タカシ・ニシヤマ(西山崇)のEngineering War and Peace in Modern Japan, 1868︲1964(2014)と、山本義隆の著作『近代日本一五〇年:科学技術総力戦体制の破綻』(2018)は、好対照をなしている。ニシヤマ(Nishiyama :2014)は日本の戦時における航空技術史を検討し、戦後にその技術的遺産がどのような連続性を持ったかについて、高速鉄道技術(なかでも新幹線の建設)に生かされたことを指摘している。戦時技術の戦後における軍民転換については河村豊(2017)も、レーダーやマイクロ波について詳細な分析を行い、軍民融合論(スピンオフ・セオリー)について「成功モデル説」「影響説」「条件作り説」などというパタンが見られることを指摘している。
 それに対して山本は、明治以来の富国強兵政策には強い持続性があり、第一次世界大戦を契機とした科学技術の本格的な制度化を経て、いわゆる総力戦体制は戦後にも継続していたものであるとして、近代日本における科学技術の一貫性をその軍事的特徴にあるとしている(山本:2017)。山本の論旨の基調は科学技術の体制化論をとる廣重徹(1973)を継承したものだが、ニシヤマが戦争による断絶(「不連続面」)の存在と「平和の技術」の出現を論じたのに対し、山本は国家による科学技術に通底する軍事的性格の強烈な「連続性」を強調している。
 この「連続性」をめぐる議論は、単に日本における戦時技術の「戦後」への継続を意味するだけではない。世界史的に見るなら、植民地科学や帝国の科学技術が、第二次世界大戦後に姿形を変容させながら生きながらえていることも忘れてはならないだろう。たとえば大英帝国と国連やさまざまな国際機関の関係が、ある種の連続性を持つものととらえられること、そのなかで科学技術に関係する機関が大英帝国主導で形成されてきていることなどは、ベネット(2011)らが論じているとおりである。つまり大英帝国の科学を担った人材や組織・制度は、競争と再編を繰り返しながら、第二次世界大戦後には、国連やさまざまな国際機関(たとえばユネスコやユニセフ、そして世界保健機関(WHO)や世界気象機関(WMO)など)へと再編成をされてきたという意味での「連続性」を指摘することができる。
 イギリスの帝国と科学のシステムはそもそもイギリスの博物学者ジョセフ・バンクスの作ったものであったが、そこから大きく飛躍した「大英帝国の科学の世界システム(British World-System of Science)」は、大陸系の科学者や科学制度を駆逐しながら、二〇世紀にその最盛期を迎える。そこでの英国の「国家」としての役割と、「科学の文化」を共有した英国の科学者のネットワークの発展がある。それはコロニアルでインペリアルな世界大の科学技術システムという体制化された秩序が、非植民地諸国の独立運動や世界的な非同盟運動の高まりと冷戦の緊張感のなかで、ポスト・コロニアルな状況下で、国連によって合意形成と国際的承認をとりつけたかたちで再編成されたシステム、いわゆる「UNレジーム」へと変容してきたものだと考えていいだろう。
 この世界大の科学技術体制の再編成(大英帝国システムからUNレジームへ)に並行する、日本での呼応(帝国日本の科学技術体制からアジアのサテライト帝国のそれへの再編)の好例としては、戦後のODAをばねにした日本の東南アジアへの「開発」への進出の基盤となる科学技術が、帝国日本の科学技術体制からの連続性を持つものであるということがあげられる。アーロン・モーア(Moore :2013, モーア:2015)はこれを大日本帝国の「総合技術」との連続性を持つものであると考え、植民地期の朝鮮・満洲でのダム建設や、日本工営と久保田豊の業績の詳細な分析を通じて、堅実にそして鋭く指摘している。
 ここで日本帝国の科学と帝国主義に関連する、ひとつの例を挙げておきたい。台湾のケースで、ポール・ギルロイが示すようなハイブリッド概念が適応された試みとして、科学と帝国主義という研究の枠組みで、日本にも関与する点から最も鮮明に示したのは、ロー・ミンチェン(Lo Ming-Cheng)による、日本植民地期の台湾人医師の社会史の研究である(Lo 2002;ロー:2014)。いわゆる「専門家の社会学(Sociology of Profession)」をはじめとする社会学の概念を使用し、ローは日本植民地期の台湾人医師の社会的アイデンティティーの変遷を歴史的に跡づけている。ローは、台湾での自治運動や文化運動が盛んに行われ台湾に独自の市民社会の萌芽が見られた一九二〇年代、満洲事変から全面的な日中戦争に入る三〇年代の市民的運動の崩壊期、さらに四〇年代にさしかかり太平洋戦争期のいわゆる皇民化運動のなかで徹底した弾圧と統制が敷かれる時代という三つの段階での台湾人医師の置かれた社会的諸条件を詳細に分析している。そして台湾人医師の変遷するアイデンティティーを検証し、それを輻輳的で複雑な植民地的な「ハイブリッド」であるとしている。
 ローの卓越したところは、いわゆる「同質性の帝国」である日本帝国で、台湾の被植民者である医師たちが示す「ハイブリッド性(Hybridity)」が、内面に抵抗と適応の襞を深く刻み込んでいるものであることを剔抉した点である。例えば皇民化時代に、台湾人医師たちは、日本の帝国主義的な拡大にほぼ全面的に動員されていた。その際彼らは満洲や中国での戦線に動員されていただけではなく、東南アジアの前線展開にさえも投入されていた。つまりそれまでの被植民地のエリート専門職という立場から、日本帝国主義拡大のための尖兵の一翼を担うことを余儀なくされる立場となっていた。しかしそのために彼らを、単なる日本帝国主義による動員による戦争協力者、帝国主義へのコラボレーターと断罪するのは、あまりに単純である。そのような単純化に陥るのではなく、ローが詳細なインタビューや資料から明らかにしたのは、このような戦争協力に動員されるなかで台湾人医師たちのアイデンティティーの拠り所となったのが、「医学の近代性」という概念であったということである。つまり、植民地における医学は、帝国主義の尖兵という役割を含む多様な役割を付与される中で、彼らが一縷の望みを繫いだのは「医学の近代性」という概念であって、それは植民地国家への抵抗の萌芽さえ胚胎するものであったという。
 ハイブリッド性をめぐっては、このように日本帝国主義の文脈でも、豊かな歴史的分析が可能であるだろう。そもそもイギリス系の帝国主義の歴史分析で盛んに用いられる概念であるが、今後も朝鮮・満洲などを含めた日本帝国主義と科学の関係性において、さらに日本国内での帝国と科学技術の関係についての思想史を試みる際には、より詳細かつ微妙な感受性を持った研究が期待され、本書がそれに、何らかの形で資することを望んでいる。
 
第二節 本書の構成と視角(坂野)
 次に、本書の構成と各章の内容を概観する。
 第一章(岡本拓司「戦う帝国の科学論 ― 日本精神と科学の接合」)は、帝国日本の版図がもっとも拡大した一九四〇年代前半、文部大臣をつとめた橋田邦彦(生理学者・医学者)らが唱えた「日本科学」をめぐる議論に焦点を当てたものである。筆者は、日本の国体や日本精神のうえに「日本科学」樹立を目指す橋田らの科学論を日本科学論と呼び、橋田のみならず、日本科学論を支えた文部省全体の科学への姿勢や、文部省周辺の他の論者の言説を丁寧に読み解いていく。科学思想史と銘打つ本書のなかでも、もっとも思想史的性格の強い論考である(7)。
 戦前の科学思想については、ロシア革命後に勢力を拡大したマルクス主義科学論や、新カント派の影響を受けた田辺元や石原純の科学論が比較的知られている。一九三〇年代後半以降は、高度国防国家の建設に向けて、大河内正敏や宮本武之助、松前重義らも科学論・技術論を唱えていたが、もうひとつの有力な「官許」の科学論が、橋田邦彦らが提唱した日本科学論であった。
 筆者によれば、学生の思想問題との関係から、文部省では自然科学の強調に抵抗が強かったという。文部省が一九三二年に設立した国民精神文化研究所などでも、科学の検討へ向けた努力が始まるが、当初、自然科学に関する議論は弱かった。そこで日本文化のなかで科学を論じる道を開いたのが、橋田邦彦にほかならない。東京帝大の医学部教授とはいえ、当初、必ずしも有名ではなかった橋田だが、三七年に第一高等学校校長(東大医学部教授と兼任)、さらに四〇年には近衛内閣の文部大臣に就任する。こうして、日本科学論は同時代の科学研究にも一定の影響を与えるようになり―本論によれば、湯川秀樹も含め、現場の多くの科学者にとって、「迷惑」と感じさせるようなものだったようだが―、橋田の「科学する心」という言葉は、四〇年代前半には世間に広く知られるようになった。
 ここでさらに注目すべきは、日本科学論が前提とする「科学の性格がそれに携わる人間の性格によって決定される」(「良い科学は良い人間のものである」)という発想が形を変えて戦後の民主主義科学者協会(いわゆる民科)による国民的科学の提唱へと受け継がれたという指摘だろう。これは、戦後の科学(思想)史に対しても、書き換えを求めるものだと思われる。筆者のさらなる議論が待たれるところだ。
 続く第二章(アルノ・ナンタ「帝国日本と台湾・朝鮮における植民地歴史学」)は、帝国日本が台湾を統治下に置いた一八九五年から、帝国が崩壊した一九四五年までの台湾・朝鮮における植民地歴史学の展開を「帝国の装置」として捉え返そうとする論考である。
 筆者によれば、日本の植民地における「学術装置」と人文科学の歴史は、近年、日本、韓国、台湾で多様な観点から検討されているが、その大部分が限定された課題を対象とするものにすぎない。換言すれば、植民地台湾と朝鮮における研究機構の歴史は、それぞれ別個に検討されており、植民地帝国日本における歴史学全体の様相を捉える視点に欠けている。かくして本章は、先行研究をふまえつつ、植民地帝国日本の歴史学が全植民地に応用された一つのシステムを構成したことを明らかにしようとする。さまざまな論点を含む論考だが、本章の指摘でとりわけ重要なのは、以下の三つだろう。
 第一に、朝鮮王朝時代の歴史叙述(史記)において重要だったのは、前の王朝の歴史を「閉じる」ことであった。だが、日本の植民地統治にともない、こうした「分裂的な史記」という手法に終止符が打たれ、「同一民族」が活躍する「一線上の歴史」という語り方が据えられた。これにより、朝鮮の歴史は、王朝の権力交代を正当化するためのものではなくなったが、一方、「独立国家」朝鮮がもはや消滅した以上、歴史学はそれを正当化することになった。しかもまた、こうした一国史としての朝鮮史という見方は、(目的こそ違うとはいえ)朝鮮の独立運動家も共有するものとなった。
 第二に、以上のことは大清帝国の一周辺地域だった台湾にもある程度当てはまるが、植民地台湾の歴史学に特徴的なのは、まず台湾原住民を対象とする人類学とのあいだで役割分担があったことである。しかも、歴史学においては台湾島の歴史自体への関心は薄弱で、むしろ台湾におけるヨーロッパ(オランダ、スペイン)および日本の植民地統治の歴史に関心が集中した。
 第三に、このように朝鮮と台湾の植民地歴史学には違いもあったが、一方、これらの事業は、日本国内の東洋史学や東京帝大史料編纂所の活動と一体化した一つのシステムをなしていた。つまりは「日本の植民地歴史学を研究することは、近代日本の歴史学の歴史を捉え返すことでもある」という。
 本章の議論については、朝鮮史、台湾史、さらには日本史を専門とする研究者から異論も出るかもしれない。だが、人文科学史研究という立場から、植民地台湾・朝鮮と宗主国日本の歴史学をひとつのパースペクティヴのもとで描いた意欲的な試みであることは確かである。筆者の出身国であるフランスやアメリカなどでは、近年、科学史研究者が人文諸科学の歴史も扱うようになっている。だが、考古学や人類学の歴史も研究してきた編者(坂野)のみるところでは、日本ではそうした試みはいまだ少数にとどまっている。日本でも史学史を含む人文・社会学史にまで科学史研究者が積極的に取り組むようになることを期待したい。
 第三章(塚原東吾「帝国のローカル・サイエンティスト ― 気象学者・中村精男、小笠原和夫、藤崎咲平」)は、和辻哲郎『風土』(一九三五)などの帝国日本における空間イメージ形成の背景となる気象学や地理学の展開を科学思想史の観点から考えようとしたものである。本章で分析の俎上に乗せられるのは、中村精男(第三代中央気象台台長)、小笠原和夫(台北帝大助教授)、藤原咲平の三名の研究者だが、特に藤原の生涯とそのユニークな思想について、細かい検討が加えられている。
 藤原咲平は中央気象台台長(第五代)をつとめ、数多くの啓蒙的著作から「お天気博士」としても知られた、二〇世紀前半の日本を代表する気象学者である。だが、同時に、藤原は、あらゆる自然現象を「渦巻」で解釈しようとする奇妙な自然哲学を唱え、さらに大気の現象と社会の現象をパラレルに考える「気象学的社会観」(オールメテオロロギー)によって戦争も正当化していった。藤原によれば、たとえば雷雨は内乱であり、低気圧は国家間戦争、台風は世界大戦に相当することになる。
 本章は、中村、小笠原を含む日本の気象学・地理学の展開を「ローカル・サイエンス」「帝国の科学」の歴史という観点から分析したうえで、さらに藤原の思想を「コンボルーション論(内発的なものによるレボルーションの回収)」や「サブ・サテライト(衛星帝国主義)論」によって、「関係論的な見方」のなかに位置づけようとする。筆者によれば、「外部の科学革命(レボルーション)の成果が、他の文化圏に接受される際には、在来のものをひっくりかえす(Re-)のではなく、外からの刺激を受けて、内在的な思想要素が巻き込む(Con-)ように外発性の思想的課題を内部に取り込む」のだという。また、「帝国の構造」は「日本のような地域帝国においては、やや複雑な構造」をもち、藤原の「ローカル・サイエンス」は「アジアの被支配地域に対しては、あくまでも抑圧的な中心としてふるまった」のであり、彼の「渦巻理論」や「オールメテオロロギー」のような「迷走」もこうした観点から位置づけられるのだという。
 筆者自身も認めるように、以上の指摘は本論では十分に展開されておらず、あくまでも問題提起に終わっている。だが、これらは、今後、帝国日本の科学(思想)史を考えるための有効な分析ツールとなるだろう。また、アジア全域を対象とした帝国日本の気象学の歴史は、近年、新たな視点からの成果が次々と現れる注目すべき領域となっている。筆者の問題提起を受けて、帝国日本の気象学史に関するさらなる研究の深化を期待したい。
 第四章(宮川卓也「植民地朝鮮の新旧暦書をめぐる相克 ― 民衆時間に対する帝国権力の介入」)は、植民地朝鮮において編纂された暦書に着目し、太陽暦の採用と普及過程、さらにはその背景にある政治社会的意味を考えようとした論考である。ここで、筆者が念頭に置いているのは、九〇年代後半以降盛んになった植民地近代化をめぐる議論である。
 筆者によれば、これまで「大韓帝国から植民地期まで朝鮮半島の時間制度の変遷過程を追いかけ、暦の変化が朝鮮の政治的・社会的変動のなかで進められたこと」を明らかにした研究はあったものの、韓国併合後も「生き残った」陰暦の編纂やその背景を分析した研究は存在しない。かくして筆者は、大韓帝国期(一八九四―一九〇五)、統監府期(一九〇五―一〇)、朝鮮総督府期(一九一〇―四五)の三期にわたって、暦書の記述の変遷や編暦業務に関わる科学的制度(気象観測所など)の整備、さらには同時代の新聞などに現れた民衆の時間意識を丁寧にたどっていく。
 本章で注目されるのは、当時、一般に市販されていた暦書そのものを細かく読み解いていく筆者の手さばきである。そして、暦書や朝鮮で発行された新聞などの分析から、朝鮮における帝国権力による「時の近代化」が民衆の生活規範への直接的な介入であった一方、それが必ずしも徹底しえなかったことが明らかにされる。すなわち、総督府は一九三〇年代末には朝鮮の陽暦化を徹底するにいたったが、実のところ、植民地解放後の六〇年代まで、旧暦にもとづく民衆の時間意識は残り続けたのであった。
 本章の特筆すべきところは以下の点にある。まず暦書という、科学と一般民衆のあいだに位置し、従来、科学史家があまり扱ってこなかった資料に焦点を当てたこと、その結果として、科学(思想)史と民俗学、民衆史学を架橋するような分析をなしえたことである。新たな科学(思想)史研究の可能性を感じさせる論考だろう。
 さらに、第五章(金凡性「植民地朝鮮における温泉調査 ― 知のヒエラルキーをめぐって」)は、植民地朝鮮の温泉調査に焦点を当てた論考である。植民地朝鮮を題材にし、しかも温泉調査という、従来、科学史家があまり扱ってこなかったテーマを取り上げたという点で、前章と共通する性格をもつといってよい。
 筆者は、まず科学知には「有用性」と「妥当性」という二つの顔があると指摘し―一九一〇年代の日本における温泉調査においては、前者を森鷗外、後者を長岡半太郎が重視していたのだという―、こうした観点から植民地朝鮮の温泉に関する知の実践を検討していく。本章で中心的な分析対象となる人物は、東京帝大地質学科を卒業後、朝鮮総督府技師として朝鮮半島で温泉に関する地質学的調査を進めた駒田亥久雄という人物である。筆者によると、駒田は当初、朝鮮から世界に向けて「温泉学」という学問を発信しようとしていた。現実には、彼の温泉調査はローカルな調査活動に終始し、温泉コンサルタント的なものにとどまったが、朝鮮の温泉というフィールドは、主に駒田によって帝国大学の知識生産システムへと包摂されていったのだという。そのうえで、本章では、植民地朝鮮の行政当局や鉄道事業者などが温泉に関する知を利用・発信していくプロセス、さらに温泉に含まれる放射性物質に関する科学知識が検討されていく。
 筆者によれば、科学研究における「中心」と「周縁」をめぐる問題は、地理的・政治的な次元に還元できるものではなく、知識生産の分業システムにおけるヒエラルキーの問題として分析する必要がある。現実には、「知の権威」よりは「権力の知」を優先せざるをえなかったものの、駒田が目指したのは、「温泉学」の確立によって、世界の中心に立つことだったのである。
 第六章(坂野徹「帝国を船がゆく ― 南洋群島調査の科学思想史」)は、戦前、国際連盟の委任統治地域として日本の統治下にあったミクロネシアで実施されたフィールドワークを、科学思想史的観点から考えようとしたものである。すなわち、本章では、(一)一九一四年の日本海軍による現地占領直後、実施された「南洋新占領地」の視察、(二)一九二九年、単身ミクロネシアにわたった土方久功(彫刻家、アマチュア民族誌家)がおこなった長期の民族誌調査、(三)一九四一年、今西錦司(生態学者)に率いられ、京都帝大の学生たちが実施したポナペ島調査という、三つの学術調査が比較検討される。
 これらの調査は、それぞれ「将来の植民地経営のための基礎調査」、「土人の仲間入り」を夢見ながらの調査、「熱帯探検の足ならし」および「学生の訓練のための調査」と、実施時期も性格も異にするものであったが、いずれも帝国日本によるミクロネシア統治の展開を反映していた。そして、本章が注目するのは、これらの学術調査を可能にした「本土」とミクロネシアの島々を結ぶ船舶航路の存在である。ミクロネシアへ向かう研究者たちは、船で移民が帝国の海域を移動するかたわらで調査を実施し、彼らはそれぞれのフィールドワークにおいて、帝国内における人びとの移動が現地社会にもたらす影響を目にすることになった。その意味で帝国日本のミクロネシア調査は、帝国内の人口移動をめぐる調査研究でもあったというのが本章の結論である。
 第七章(泉水英計「米国施政下の結核制圧事業 ― BCGをめぐる『同化と異化のはざまで』」)は、一九五〇年代前半、米国施政下の沖縄(琉球)でおこなわれた結核制圧事業の展開を、同時期の日本やアメリカの結核対策と比較しながら検討した論考である。本章が目指すのは、琉球における結核制圧を単なる成功譚にとどめず、「違う物語」を提示することである。第四章と同様、筆者は、「差別や抑圧、暴力、搾取といった経験をもって植民地状況を特徴付ける」ポストコロニアル論と、「植民地支配がもたらした近代化の利点を無視すべきでない」と考える植民地近代化論の論争を念頭に置いている。
 米国施政下に置かれた琉球では、結核制圧事業の責任者であったギルバート・ペスケラ(軍医中佐)が、日本とは異なり、BCG接種を導入せず、在宅療養の拡充によって結核制圧に成功したことで知られる。こうしたことから、ペスケラは「琉球結核制圧の恩人」とも呼ばれ、さらに琉球での結核対策の歴史をふまえて、科学史家の常石敬一が日本国内でのBCGによる結核対策への批判もおこなっている(常石:2011)。だが、筆者は、こうした琉球における結核制圧をめぐる成功譚の妥当性を問うべく、アメリカ本国、琉球、さらには韓国における結核対策を、アメリカや沖縄の医療史に関わる多様な資料を徒渉しながら分析していく。
 本章が最終的に導き出す結論は、以下の二点である。まず琉球における結核対策の眼目があくまでも米軍将兵の感染防止にあり、その意味で「究極的には利己的なもの」であったこと。しかも、琉球の結核制圧事業には、BCGの対照試験というもうひとつの目的があったこと。詳細は本論を参照してほしいが、周到な論理構成をもつ論考である。筆者のもともとの専攻は文化人類学だが、国や地域の枠をこえて学知が移動するプロセスを描き出す本章の記述からは、科学史家、医学史家が学ぶところは大きいはずだ。
 最後を飾る第八章(藤原辰史「トラクター・ルイセンコ・イタイイタイ病 ― 吉岡金市における諸科学の統一」)は、農学の分野では、一般に農作業の機械化を促進したことで知られる吉岡金市という研究者の生涯と思想を検討した論考である。
 だが、吉岡の仕事は、いわゆる進歩的農学者という枠組みに収まるものではなく、戦前、満洲の農業に期待をかけ、戦時中には戦争協力の発言もみられる。そして、戦後は農学・経済学・医学の博士号を取得するだけでなく、イタイイタイ病の原因を病理学的に突きとめ、さらに科学史上悪名高いルイセンコの「ミチューリン農法」の熱烈な支持者でもあった。本章は、こうした吉岡のユニークな足跡を追いながら、彼の農学、経済学、医学を貫く科学思想を明らかにしようとする。筆者によれば、吉岡金市は、「不況、戦争、公害に苦しめられる農村で共に住民たちと働き調査して大企業や国家の横暴に対しその人々の尊厳を守ろうとしただけでなく、その只中で諸科学を統合させ、大学を頂点とするアカデミズム総体に立ち向かい、主流と異なる科学を作り上げようとした」人物であった。
 本章は、まず吉岡金市が岡山県立高松農学校、宇都宮高等農林学校、京都帝大農学部(農林経済学科)で学ぶ一方、彼が幼少期を過ごした岡山での土地をめぐる経験と愛着が、彼の現場中心主義の基盤になっていることを確認する。そのうえで、「農業機械化の理論構築」「ソ連のスターリニズムに根ざした総合的農学の構築」「公害の領域横断的な研究」の三点に焦点をあてながら、吉岡の言説と活動の展開を丁寧にたどっていく。吉岡金市とは、学問の専門化が進む時代にあって、自然科学と社会科学の「統一」あるいは「総合」に敢えて挑戦した人物にほかならない。しかも、その「統一」は、彼の能力の高さと激しい努力によって「現場」からなされたが、「現場」の「悲劇」こそが「統一」を促したのであった。そして、さらに筆者は、吉岡が農学思想のうえで批判対象とした横井時敬―日本における農学の創始者であり、農本主義者である―との比較を試みている(8)。
 吉岡金市の可能性と限界性とを見極めようとする本章の筆致は熱く、繊細である。おそらく近いうちに、筆者自身による包括的な日本農学史に関する研究が登場し、そのとき本当に吉岡は現在に蘇ることになるだろう。そのときを楽しみに待ちたいと思う。
 

(1)本書の企画にいたる経緯については、「あとがき」参照。
(2)たとえばユヴァル・ノア・ハラリ(2016)第一五章「科学と帝国の融合」など。
(3)ニーダム、バサラ、ヘッドリクからパイエンソン論争に至る二〇〇〇年ころまでの科学と帝国主義をめぐるヒストリオグラフィーについては、塚原(2001)を参照。
(4)二〇〇〇年から一四年ころまでの科学と帝国主義をめぐるヒストリオグラフィーやネットワーク・サーキュレーションなどのコンセプト、オランダ科学史の動向などは塚原(2014)を参照。
(5)EASTS 誌での特集号は、たとえば、EASTS, vol. 1-no. 2, 2007(Colonial Sciences in Former Japanʼs Imperial Universities, with Guest Editor :Togo Tsukahara)、EASTS, 2017, vol. 11-no. 4.(From Postcolonial to Subimperial Formations of Medicine : Taiwan and Korea, with guest editor Howard Chiang)などがある(Tsukahara :2007 ; Chiang : 2017)。
(6)植民地帝国大学の研究の継続として、愼蒼健を代表とする科研費共同研究「帝国日本の知識ネットワークに関する科学史的研究」(二〇一二―一五年度)はネットワーク・アプローチをとりながら、意識的に一九四五年前後の連続性と非連続性を問題化することにつとめた。本書に収録された塚原、金凡性、泉水英計、宮川卓也らの研究はこ愼科研の協力の枠内で行われたものでもある。さらにこの研究協力では台湾人医師の朝鮮留学についての陳姃湲(2013)の仕事があり、また愼は満洲医科大学に注目した研究を準備中である。
(7)故・金森修もかつて橋田邦彦の科学論を分析したことがあり(金森:2004)、その意味で本論には金森へのオマージュという意味合いも込められている。
(8) 筆者自身の横井論は、藤原辰史「横井時敬の農学」(金森:2017)を参照。
参考文献
(邦文)
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金森修(2004)『自然主義の臨界』勁草書房。
金森修(2011)『昭和前期の科学思想史』勁草書房。
金森修(2016)『昭和後期の科学思想史』勁草書房。
金森修(2017)『明治・大正期の科学思想史』勁草書房。
辛島理人(2015)『帝国日本のアジア研究 ― 総力戦体制・経済リアリズム・民主社会主義』明石書店。
河村豊(2017)「『軍民融合論』登場の現状を踏まえた戦時・占領期科学の分析」塚原東吾・愼蒼健編『軍事研究の歴史における戦前・戦後の技術の連続性を考える』神戸STS研究会、一一―三八ページ。
酒井哲哉ほか(編)(2006)『岩波講座:「帝国」日本の学知』全八巻、岩波書店。
酒井哲哉・松田利彦(編)(2014)『帝国日本と植民地大学』ゆまに書房。
坂野徹(2005)『帝国日本と人類学者 ― 一八八四―一九五二年』勁草書房。
坂野徹・愼蒼健(編)(2010)『帝国の視角/死角 ― 〈昭和期〉日本の知とメディア』青弓社。
坂野徹(編)(2016)『帝国を調べる ― 植民地フィールドワークの科学史』勁草書房。
沢井実(2015)『帝国日本の技術者たち』吉川弘文館。
ジョルダン・サンド(天内大樹編)(2016)『帝国日本の生活空間』岩波書店。
陳姃湲(2013)「植民地で帝国を生き抜く ― 台湾人医師の朝鮮留学」松田利彦・陳姃湲編『地域社会から見る帝国日本と植民地 ― 朝鮮・台湾・満洲』思文閣。
塚原東吾・篠田真理子・綾部広則・柿原泰・杉山滋郎ほか (1996)「科学史の側面から再検討したフィリップ・フランツ・フォン・シーボルトの科学的活動 ― 植民地科学、ベーコニアン科学、フンボルティアン科学とシーボルトの科学的活動との関係についての試論」『鳴滝紀要』第6号(シーボルト記念館)二〇一―二四四ページ。
塚原東吾(2001)「科学と帝国主義が開く地平」『現代思想』二九巻一〇号、一五六―一七五ページ。
塚原東吾(2006)『科学と帝国主義 ― 日本植民地の帝国大学の科学史』皓星社。
塚原東吾(2014)「展望:「科学と帝国主義」研究のフロンティア ― ネットワーク・ハイブリッド・連続性などの諸コンセプトについてのノート」『科学史研究』二七一号、二八一―二九二ページ。
常石敬一(2011)『結核と日本人 ― 医療政策を検証する』岩波書店。
廣重徹(1973)『科学の社会史 ― 近代日本の科学体制』中央公論社。
山本義隆(2018)『近代日本一五〇年 ― 科学技術総力戦体制の破綻』岩波新書。
ロー・ミンチェン(塚原東吾訳)(2014)『医師の社会史 ― 植民地台湾の国家と民族』法政大学出版。
ユヴァル・ノア・ハラリ(柴田裕之訳)(2016)『サピエンス全史(上・下)』河出書房新社。
若林宣(2016)『帝国日本の交通網 ― つながらなかった大東亜共栄圏』青弓社。
(欧文)
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Howard Chiang (2017) “From Postcolonial to Subimperial Formations of Medicine : Superregional Perspecitves from Taiwan and Korea.”, in EASTS, vol. 11-no. 4, pp. 467︲468.
Yang Daqing (2010) Technology of Empire : Telecommunications and Japanese Expansion in Asia, 1883︲1945, Harvard UP.
Ming-cheng Lo (2002) Doctors within Borders : Profession, Ethnicity, and Modernity in Colonial Taiwan, California UP.
Janis Mimura (2011) Planning for Empire : Reform Bureaucrats and the Japanese Wartime State, Cornell UP.
Hiromi Mizuno (2010) Science for the Empire : Scientifi 
 
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