めんどうな自由、お仕着せの幸福――サンスティーン先生、熟議のお時間です! 連載・読み物

めんどうな自由、お仕着せの幸福
第4回:80年代パターナリズム論の光と影のなかで《瀬戸山晃一さんとの対話》

 

那須耕介さんがナッジやリバタリアン・パターナイズムをめぐって語り合う対話連載、今回は京都府立医科大学の瀬戸山晃一さんがご登場です。「三つ子の魂百まで」といいますが、「高校生の悩み、研究者まで」なのでしょうか。瀬戸山さんがじっくりと向きあってきた問いをお話しいただきました。【編集部】

 
 
那須耕介: 瀬戸山さんは、研究者を志されたときからずっとパターナリズム研究を続けてこられて、かなり早い時期、日本ではおそらくいちばん早く論文でサンスティーンの行動経済学に言及し、取り上げられていました。2001年頃でしたか。
 
瀬戸山晃一: はい。リバタリアン・パターナリズムという用語ができる前でした。
 
那須: サンスティーン自身が大々的に行動経済学と言い出したのは1997年頃からだったので、ほぼリアルタイムで紹介するとともに、当時から問題点も含めて指摘しておられました。まずはご自身の関心とからめて、リバタリアニズムないしリベラリズムの文脈でサンスティーンの議論をどう位置づけたらいいのかという話からうかがえますか。
 
■「パターナリズム」を検索したら「行動経済学」がヒットした
 
瀬戸山: サンスティーンとの出会いは、1998年の夏から渡米していたウィスコンシン大学のロースクール留学中です。1年で修士号だけ取って帰る予定が物足りなくなって、博士課程にも進めるプログラムに入り直して、「遺伝情報のプライバシー」の問題を研究していました。
 

瀬戸山晃一(せとやま・こういち) 1966年生まれ。京都府立医科大学教授。法と医療・生命倫理、研究倫理、法哲学(法理学)。著書に、『バイオエシックス~その継承と発展』(共著、川島書店、2018年)、『ドーナツを穴だけ残して食べる方法~越境する学問』(共著、大阪大学出版会、2014年)、『現代社会再考』(共著、水曜社、2013年)、『レクチャー生命倫理と法』(共著、法律文化社、2010年)ほか。
私の関心は一貫して、「パターナリズム」にあります。1983年にアレン・ブキャナンが「医療におけるパターナリズム」と題する論文で医師が癌を告知せずに患者に隠ぺいするなどの「強制的ではない、情報操作としてのパターナリズム」があるという議論をしたんですね。
 
遺伝診断が普及した現代では、「治療不可能な重篤な遺伝病を発症する場合は告知してほしくない」という人が一定数いる以上、「知らないでいる権利」も認めないといけないという議論もあって、パターナリズムと自律は必ずしも対立するものではありません。デレク・パーフィットの議論も、「将来の自己」のために「現在の自己」を制約するパターナリズムが正当化される場合もある。むしろ自律を補完し、人格的統合のために不可欠なものとしてパターナリズムをとらえるのが、クライニグで集大成された1980年代パターナリズム論の主流でした。現代の遺伝子情報開示の問題も私の中では、これらのパターナリズム論の延長線上にあったわけです。
 
留学中に、ウエストローというデータベースで「パターナリズム」を検索すると行動経済学の論文がいくつかひっかかってきた。「ビヘイビアル・ロー・アンド・エコノミクス(Behavioral Law and Economics)」とパターナリズムが一緒に出てきて「なんやろ」って読むと、サンスティーンとジョルスたちの1998年の論文でした。
 
那須耕介(なす・こうすけ) 1967年生まれ。京都大学教授。法哲学。著書に『多様性に立つ憲法へ』(2014年、編集グループSURE)、『現代法の変容』(共著、2013年、有斐閣)、共訳書に『メタフィジカル・クラブ』(ルイ・メナンド著、2011年、みすず書房)、『熟議が壊れるとき』(キャス・サンスティーン著、2012年、勁草書房)ほか。
那須: サンスティーンとジョルス、セイラーの3人で書いたものですね[Cass R. Sunstein, Christine Jolls & Richard H. Thaler, “A Behavioral Approach to Law and Economics,” 50 Stanford Law Review 1471 (1998)]。
 
瀬戸山: そのときはまだリバタリアン・パターナリズムという用語は使っていませんでした、たしか。行動経済学の知的洞察の具体的な含意のリストのなかに、「パターナリズムの再評価」も入っていたんですよ。
 
■これまでの経済学の前提をいじる
 
瀬戸山: その論文のおもな関心は、伝統的な「法と経済学」を再構築しようという目論見にあった。伝統的な法と経済学はいわゆるホモ・エコノミクス、つまり合理的人間行動モデルを想定していて、パターナリズムの余地がないんですよね。
 
だけど行動経済学は、人間が本性的にもっているいろんなバイアスを実証的に暴き出して、認知心理学の洞察を経済学に取り入れる。実験をすると、たしかに人は従来の経済学が想定している合理人モデルではないような行動をする。たまたま不規則的、イレギュラーに逸脱するのではなくて、一定のパターンがあると法哲学会の年報で2003年に紹介しました。「なるほどなぁ」と思って。
 
那須: はい。
 
瀬戸山: いろんなバイアスがわかってきた。たとえば、原発事故があると過度にその危険性を見積もるけれど、ふだんのもっと危険な病気や肥満のリスクは低く見積もる「利用可能性ヒューリスティック(Availability Heuristics)」とか。90年代後半くらいにはこれを根拠に法規制や社会保障政策が提言されるようになってきたんです。
 
私は、行動経済学の斬新な知的洞察をつかってパターナリズムをリベラリズムのなかから捉え直したらどうか、と法哲学会の年報(瀬戸山晃一「自己決定の合理性と人間の選好:Bhavioral Law & Economicsの知的洞察と法的パターナリズム」『法哲学年報2002 宗教と法:聖と俗の比較法文化』(2003年))に発表しました。その頃は、リベラリズムのなかでパターナリズムがどれくらい正当化されるかに、私の問題意識があったんですね。
 
サンスティーンはもっともっと大胆で、リバタリアンともパターナリズムは両立するんだと、2003年の論文で主張してきました。でも、そこまでは関心がなかったんですよ。私、リバタリアンじゃなかったので。
 
那須: ふふふ。
 
瀬戸山: 2004年に帰国して、できたばかりの「法と経済学会」で行動経済学の発表をしたのですが、やっぱり反発がありました。一言でいえば「学問としてどうか」みたいな感じでしたね。それはわかるんです。法と経済学が立脚している前提をいじるので、理論的な鋭さがにぶるわけですよ。そうこうするうちに日本に「行動経済学会」ができましたが。
 
■医療政策、医学研究への関心
 
那須: リベラリズムの枠内でのパターナリズムの正当化、という理論的な問題に興味をもつ人は少なくないですが、瀬戸山さんの場合、最初からもっと具体的な制度や政策の設計にもご関心があったように思うのですが。
 
瀬戸山: 患者さんの行動分析とか、医療政策にも行動経済学が使えます。サンスティーンも医療政策に言及しているように、実際の政治で使われてきている。
 
たとえば臓器移植のドナー(提供者)を増やすために、ドナーになる要件として明示的同意を求めるオプトイン方式から、推定的同意のオプトアウト方式に切り替える、とか。日本でも2009年の臓器移植改正法で部分的に取り入れているんですよね。「やだ」と意思表示をしないかぎりは、提供の意思があるとみなす推定同意のオプトアウト方式に。ただ、日本は家族の承諾が必要なので完全なオプトアウトではないけれど、臓器ネットの統計によると提供者が改正法導入後数年で7倍くらいに増えました。でも全体の臓器提供者は増えていないんですよ。心臓死からの提供が減ったので。
 
那須: むしろ、先に医療倫理や政策に関心があって、そこからパターナリズムの問題に進んだ、ということでしょうか?
 
瀬戸山: 最初は批判的な問題意識からパターナリズム研究に入ったんですよ。個人的なことですが、子どものころ祖父が肺がんになったんですけど、当時は本人に末期がんを告知せず、本人以外の家族はみんな知ってることに対することに疑問を抱いたり。父親も急死し、「生とは何か」「死とは何か」を思春期に考えるようになりました。
 
高校もアルバイト禁止とかパーマ禁止とか校則がうるさくて、自己決定と自由の問題に関心をもったんです。パターナリズムという言葉は知らなかったんですけど、「あれやっちゃいけない。これやっちゃだめ」「なんで?」「あなたの将来のため。勉強しなさい。やればできるんだから」と。シンガーソングライターになりたくて、バンド活動とその費用のための新聞配達の日々のなかで、校則は俺の夢を追求する自由への制約として疑問に思う問題意識のめばえになりました。
 
那須: ふふっ。
 
瀬戸山: そこで「自由とは何か」「何のための規制なのか!」という問題意識ができて、法学部に進んで山田卓生先生の『私事と自己決定』(日本評論社、1987年)を読んだり、脳死や安楽死の問題をゼミで議論してレポート書いたりとかして、ますます医療の問題に関心をもって、「あ、パターナリズムなんだ。自分がこだわってきたものは」と気づいたんです。親の価値観や社会の価値観を「あなたのため」と押しつけているんじゃないか、とか。
 
でも、法学を勉強していくと気づくのですが、いろんなところにパターナリズムに基づく規制は組み込まれていますよね。本人の同意や承諾を違法性が阻却(免除)される抗弁(根拠)として認めないような嘱託殺人罪とか、法規制の根拠にもなっている。パターナリズムでないと説明できない規制が現代社会ではあふれかえっている。労働法や消費者保護法や社会保障法などは端的にそうですよね。そこで、どこまでのパターナリズムが認められて、どこからがダメなのか、自由制約の原理を批判的に考える法哲学における規範的な議論につながってくる。
 
那須: なるほど。
 
■80年代パターナリズム論の転回
 
瀬戸山: 批判的なところから研究に入ったんですけど、政策論にも関心があって論文を読んでいくと、「必要なパターナリズムはあるな」と思いはじめました。特に医療倫理学の分野などでは、パターナリズムと自己決定が対立するようにみんな捉えているけど、とくに80年代の英米のパターナリズム論は……。
 
那須: 大きな転換があった。
 
瀬戸山: ええ。むしろ個人の自律を達成するためには一定のパターナリスティックな介入も必要だとか、自己決定と自律の区別とか、そういう議論が出てきて視野を広げられました。
 
それらの議論の延長上でどうするかというときに、人間像の捉え方が認知心理学やその洞察を取り入れた行動経済学ではちがうとわかり、バイアスを取り除くパターナリズムや、リベラリズムのなかから正当化できるパターナリズムはどこまでかとか、70年代の議論とは別な方向を探ってきました。医療現場ではケアなどパターナリスティックな配慮はすごくたくさんあるので、とくに医療との関係でのパターナリズムの捉えなおし、そして遺伝子情報の開示の問題が今後はより重要になると思ったんです。
 
那須: なるほど。ぼくは、サンスティーンらを通じてパターナリズムの問題に接近しようとして、守備範囲というか、パターナリズムの概念自体が広がっていたことに驚きました。
 
単なる「自己危害の防止」から「自己利益の増進」にまで射程を広げていくでしょう? 「そのままでもあなたの状態は特に悪くならないかもしれないが、こうすればもっと利益が得られますよ」と、誘導なり、強制なりを与えていく。
 
リベラリズムの枠内で本人の自己決定を尊重するという考え方は、もちろん捨てるわけにはいかない。でも、サンスティーンは「人間はそもそも自律的な存在ではありません。特定の人が例外的に自律性を失った状態に陥るのではなくて、むしろ四六時中、私たちはいろんなバイアスに引きずられてまちがいを犯す生きものだから、理屈上はあらゆる人があらゆる場合にパターナリスティックな干渉の対象になるんです」と言っているように思えたんですね。
 
なおかつ彼は、パターナリスティックな観点なしに制度設計は不可能だ、という。
 
瀬戸山: 是非はともかくとして、パターナリズムは、すでに埋め込まれている。
 
■歯止めを失ったパターナリズムと「ケア」
 
那須: 是か非かの問題ではなくて、不可避なんだ、実はよいパターナリズムと悪いパターナリズムとを見分けて選ぶほかはないんだというような議論にして、一気に話を広げてしまった。その結果、歯止めをかけるのが難しくなっている。かつては「パターナリズム」の前には必ず「悪しき」がついて、「なるべく抑えておきましょう」というニュアンスがあったのが、80年代に「個人の自律のためにこそ介入が必要なんだ」という考え方が生まれて、このピンホールからダムが決壊を起こすようにして、パターナリズムの可能性がいっぺんに広がっていった。その最後の一撃をサンスティーンが加えたのかなと感じています。
 
瀬戸山: おっしゃるような捉え方もあるかと思います。あと、日本では、求められる「善きパターナリズム」論はケア論に吸収されて、そこで議論されているところもあったと思います。
 
那須: あー、なるほど。
 
瀬戸山: 私は、ケアの行き過ぎはパターナリズムに他ならないと思っています。ケアという言葉はきれいで限度がないので、どこまでが必要なケアで、どこからが余計なお節介なのかを吟味するには、やっぱりパターナリズム論の視角が必要だと思うんですよね。
 
医療のリハビリもパターナリズムですよね。認知症にならないための高齢者対策も非常にパターナリスティック。パターナリズムの研究会では社会福祉が専門の方もいたので、アドボカシーの理論も議論されていました。80年代のパターナリズム論を法学や社会福祉の観点で研究してきているパターナリズム研究会でサンスティーンのリバタリアン・パターナリズムの議論や医療政策論などを少しずつ紹介してみたんです。そうすると、従来のパターナリズム論は、規制の主体である国家と規制客体である個人の関係や、医師と患者の関係などで論じられることが主であったので、リバタリアン・パターナリズム論は、個人の選択や行動に着目し、選択の自由の観点から制度を設計するといった議論にまでその射程を大きく拡大するので、「それはパターナリズム論に入れてほしくない」という反応もありました。
 
■ブレーキはあるのか?
 
瀬戸山: 一挙に議論の射程がひろがったんですよね。以前は「国家vs.個人」だった。国家がどこまで個人の自由に介入するかにフォーカスがあったけれど、サンスティーンは政府もまちがう可能性があるという。だからリバタリアン・パターナリズムなんですよね。どんな設計でもまちがいはあるから、離脱する自由を残しておくことによって政府のまちがいを是正するチャンスが組み込まれている、ということだと思うんです。
 
それと、大屋雄裕先生がやられているアーキテクチャですよね。初期状態(デフォルト)も含めてどういう制度設計が望ましいのかみたいな政策論に入ってくる。シートベルト着用の刑法的強制、という伝統的なパターナリズムではなくて、広い医療政策やいろんな日常に組み込まれているパターナリスティックな配慮まで議論が進んでいっちゃった。それに抵抗を感じる人たちももちろんいると思うんですよね。
 
那須: なるほど。
 
瀬戸山: ただ、伝統的なパターナリズム論に対するリバタリアン・パターナリズムが投げかけてくる知的なインプリケーションもあると思うんです。そのあたりは私も研究者としてやらないといけないところです。
 
那須: そこはぜひともお願いします。サンスティーンの議論には、ありとあらゆるものがパターナリズムに見えてしまうような視点を提供するところがあります。その洗礼を受けた後では、「国家vs.個人」の古典的自由主義の素朴な枠組みに頼らずに、制度設計全体の役割とか、デフォルト・ルール設定の意義を考えていかなければならない。そのとき、あらためて「パターナリズムにどこでどういうかたちでブレーキをかけるか、その根拠は何か」を見定めにくくなっているんじゃないでしょうか。
 
瀬戸山: ブレーキですか……。サンスティーン自身は、リバタリアン・パターナリズムのなかにブレーキが組み込まれているというんですよね。離脱できる余地があるし、ワンクリックで簡単に抜けられるように離脱のためのコストはかからないわけだから。理論的にはそこに仕掛けがある。リバタリアンはそれで説得できていると考えているかもしれないけど、実際には、離脱させられないことがあるんですよね。
 
たとえば、最近の私の仕事にかかわる研究への規制について取り上げると、近年の指針の改正や2018年春から施行された臨床研究法における規制の多くは被験者保護のための本人の同意の有効性や制約など、パターナリスティックな規制なんです。20以上、臨床研究の説明項目があって、それを被験者は全部理解して、同意しないといけない。
 
那須: 去年、ぼくも手術だなんだで、たくさんの書類にサインしました(笑)。
 
瀬戸山: 臨床研究だと通常の治療の場合よりもパターナリスティックな要件が強いんですよ。被験者保護のためにパターナリズムがいろんなところで組み込まれていて、被験者がいらないといってもダメなんです。厚労省の薬の認可もそうですよね。まだ日本では承認されていない薬だけど、アメリカでは承認されている。いちかばちかでやってみたいという人でも、いまの日本の制度だと保険診療ではアクセスできません。そこには患者を守るためのパターナリスティックな理由もかなりあるわけです。
 
そういう意味で、むしろリベラリズムはサンスティーン以上にもっとパターナリスティックになると思うんですよ。たとえばいまの日本の皆保険制度は離脱の自由(オプトアウト)を認めたら、制度自体が成り立たなくなりますよね。
 
那須: はい。
 
瀬戸山: 一定の強制力があってはじめて制度として成り立つものは、サンスティーンの理論を取り入れると崩壊してしまう。それに、「離脱できる」といっても、たいてい、サンスティーンがいうようほど簡単には離脱できないように思います。
 
保険をやめるために、書類に多くを記入する手続きを求めるとか。そういうコストをあえてかけることで、本人が真剣に考えたか、チェックすることもありうる。そうやってもっと強いパターナリズムにいく可能性があります。サンスティーンのように必ずしもリバタリアン・パターナリズムに立脚しなくとも、サンスティーンがよりどころとする行動経済学のバイアスやそれに基づく人間行動に関する洞察の理論を利用してより強いパターナリズムに誘導することもできる。
 
那須: そうですね。
 
瀬戸山: ジャンクフードを好む米国人は、このままだと肥満で死にますよね、だからリバタリアンみたいに離脱可能性にこだわらないで、本人が離脱できないような強い規制をかけましょうという、ハード・パターナリズムを主張するサラ・コンリーの議論も2013年頃に出てきています。そういう議論にも行動経済学の洞察は使えるので、その怖さはあります。
 
■隠れ蓑としてのパターナリズム
 
那須: なるほどね。医療の世界の特殊性かもしれないですけれど、なんていうか、賭け金が非常に高い……、サンスティーンいうところの過誤費用(選択を間違ったときの代償)が高いから、本人がいいといっても、パターナリズムの介入を弱めないという前提で物事が動くわけですね。
 
医療制度の設計の場合、患者に対するパターナリズムの問題と、医療従事者、医者、看護師に対するパターナリズムの問題が錯綜してきますよね。医療上の失敗の責任を誰が負うかというときに、それがまるごと医者に返ってくると、いまは訴訟コストも絡んでたいへんなことになる。だから、患者がいくら「自分は実験台になってかまわない」と言っても「ダメです」ということにしている。パターナリズムの構図の複雑化ですよね。国家vs.個人ではなく、あいだにいる人間の行動もパターナリスティックにコントロールしていく。
 
瀬戸山: 研究倫理もまったく同じで、いわゆる被験者保護がまず言われます。でも、ほんとうに本人のための被験者保護かどうか。薬の承認のための臨床試験の審査をする治験審査委員会の委員をしていて感じることがあるのですが、被験者保護のために、病床の重病の患者に30頁から時には70頁以上にも及ぶ患者説明文書を読ませること自体が苦痛や過度の負担になってはいなかと。私が読むのに数時間かかるものを、患者さんが病床で読むのは相当苦痛ですよね。
 
那須: ははは。
 
瀬戸山: だから、ほんとに被験者のためかというとそうでもない。なにかというと、研究の内容やリスクを理解した上での同意取得が求められ、被験者保護がしっかりしていないと「医療、医学研究への不信」という、より大きな価値が損なわれるわけですね。そこにまたパターナリズムがひきあいに出されています。
 
背後にあるより大きい利害や隠れた価値観をパターナリズムの名の下に押しつける、そこに「うさんくささ」があると思うんです。被験者保護あるいは患者保護というけれど、そこでもし何かが起きたら患者さんがどうかなるというだけでなくて、医療訴訟の問題もありますし、さらには医療不信につながる。そういう、より大きい価値が背景にある。その信頼性を損なわないために、目の前にある被験者保護を徹底するためにパターナリスティックな理由のひきあいがある。真の目的は、医療に対する信頼性の維持にあるともとらえられるわけです。
 
那須: たしかに。パターナリズムというけれど、実態は厚生主義(この場合、干渉される当人の福利よりも、社会全体の利益を増進しようとする立場)のモラリスティックな強制ではないか、ということですね。
 
サンスティーンは、リバタリアン・パターナリズムは理論上、個々人にとってもっとも望ましい形にカスタマイズしたナッジを提供できるという。あくまでも個人の厚生の改善を目指すんだといっていますが、政府の公共政策としてはありえないでしょう。むしろ社会全体の厚生の最大化を考えて、一人一人の行動を、あたかも当人が自分で選んだかのような体裁を整えながら誘導していく。それがいちばん安上がりです。「パターナリズム」なんてほんとうは隠れ蓑なんじゃないか、というのがぼくの危惧であり、パターナリズム全般に対する直観的な最初の反発です。
 
瀬戸山: なるほど、そのような危惧もありますね。
 
那須: 「おまえのためだ」というけれど、それはあなたが思っている「おまえのため」にすぎない。
 
瀬戸山: それをより巧妙にね。
 
■あとから振り返って評価される「自己決定」
 
那須: パターナリズムの基本的な問題性はたいして変わってないけど、話が大きくなった分、見えにくくなっている。「個人の自律性ってなんですか」とか、「個人の合理性ってなんですか」ってこと自体を、かつてのような素朴なかたちで話を進めるわけにはいかなくなっていることはたしかですが。
 
瀬戸山: 自己決定を尊重するひとつの理由は本人の利益ですね。とくに医療の現場ではもうひとつ、自己決定の結果を背負うのは誰かが問題になります。
 
「自己決定は重要です」といわれているけれど、なぜ重要なのか。たとえば、重度障害新生児の治療停止をするかどうかで、親の意向を尊重するか。新生児の意向は聞けない。結局は親が育てていくのか、公的なお金でフォローするのか。制度によっても意見は分かれます。多くの場合、自己決定がよかったかどうかは本人にもわからない。誰にもわからない場合があります。どういう治療方針がよかったか。結果的によかった悪かったはいえます。でもそのときの判断が正しかったかどうかはわからない。後悔することもありますよね。であるならば、結果を背負うことになる本人とそれを介護やケアする家族の自己決定を尊重したほうがいいんではないか。医療従事者は「そのあと」を背負いません。なので、背負うのは誰かという視点も重要だと最近、思っています。
 
那須: 当人の判断能力の問題と、判断の権限の配分の問題とは必ずしも一致しない。能力の方だけ見れば、過去の判断の良し悪しが、遡及的に、その都度判断されることはけっこうあると思うんですよ。
 
瀬戸山: ありますよね。
 
那須: その瞬間は間違った判断をしたんじゃないかと思えることを、あとから考えて、「私はいまの自分の状態に満足しているから」と、遡って「あのときの選択は正しかった」と判断する、いうのはあることですよね。
 
瀬戸山: 逆もあるかも。
 
那須: 逆の方が多いかもしれませんが(笑)。
 
瀬戸山: 短期的にはよかったとか。でも長期的には、とか。
 
那須: 判断能力の評価はそんな風に時間の幅の中で変わってしまう。その問題と、いまの判断の権限、責任の配分の問題、「誰がどういうかたちでその結果を背負うのか」という問題とは別物だけど、実際にはこの2つが何重にもからみあってるというか……。そういうなかで再構成されているものとして「判断の合理性」をみないと、現実の人生のなかの選択の合理性は評価できないんじゃないでしょうか。
 
瀬戸山: ですよね。
 
■デフォルトに潜むメッセージ性
 
那須: でも、パターナリズム論は、いちばんシンプルには全部その瞬間瞬間で判断ができるとしている。
 
瀬戸山: 米国の法学者カール・シュナイダーは、医療で患者本人のためにインフォームド・コンセントを押し付けて徹底しすぎることは、「自己決定を本人のために強要し、かえってパターナリスティックだ」という議論もしている。自己決定を放棄したり決定を他人にゆだねる自由を認める自己決定論もあり得るし、自己決定をしないという余地を認めないようなやり方もあって……。あえて自己決定させて失敗を体験させるようなパターナリズムもありうるので、自己決定とパターナリズムの対立、という表面的な図式から次の段階にいきましょうねと、80年代以降のパターナリズムをやっている人はそう思っているんです。でも、その共有はまだ日本ではできていません。
 
那須: サンスティーンはほんとに切れる人で、結果次第で自己決定への評価も変わるということも考慮に入れて、そういう試行錯誤に人を誘導する制度も設計できる、という。ただ、「自分は試行錯誤至上主義的なリバタリアンではない。現実には受け容れがたい試行錯誤、まちがいもある。そんな失敗まで許容する試行錯誤は誰も歓迎しないでしょ」と。彼は徹底して制度設計者の観点から試行錯誤の幅もコントロールしていこうという発想なんでしょうね。
 
瀬戸山: そうですよね。ひとつ、気を付けてみておかないといけないことは、人間はデフォルトに引きずられますよね。現状維持バイアスというやつです。制度があるとおかしいと思わない。たとえば、授業で死刑制度の是非について留学生と日本人学生とディスカッションさせると、死刑が廃止されたヨーロッパの国からの留学生は、死刑制度の問題点を強く主張し反対するのに対して、死刑制度が存続している日本で生まれ育ってきた日本人学生は、死刑制度に賛成の者が多い。死刑制度に反対する留学生は、凶悪犯罪の抑止効果が証明されていないことのみならず、合理的な理由があれば国家は国民の命を奪ってもよいというメッセージを死刑制度は暗に投げかけていることになり問題であると主張する。デフォルトから人々が無意識に影響を受ける怖さがあると思うんですよ。
 
また、いま医学教育、とりわけプロフェッショナル教育では、「隠れたカリキュラム」という概念が注目されています。
 
たとえば、大学の公式のカリキュラム以外のところで、先輩や周りの慣行などから無意識に刷り込まれていく隠れたカリキュラムの悪い影響に注目が集まっています。実習などで先輩医師が、医療倫理等で患者や家族の自己決定とインフォームド・コンセントが大事と学ぶけれど、忙しい医療現場ではそんなことやってられないとぼやくと、その教育効果の方が公式の授業での教育効果よりも強い影響を行動に与えてしまうというものです。現状というデフォルトが当たり前となり、本来はそこに問題があってもそれに気づく感覚が麻痺してしまう。感受性がなくなる。規範的な感受性とか倫理的な感受性とかを麻痺させる機能がデフォルトにはあることに留意しておく必要がある。
 
隠れたカリキュラムは、反対に良い方向に影響を与えるように機能する場合もあります。
 
医学部の先生方に倫理研修会をどれくらい頻繁にやって、どれくらい義務づけるか、というのもそうです。「忙しい教授をこんなに拘束するのか、Eラーニングで済むのではないか」と反発されることもあるんですが、そこで伝えられる知識のみではなく「これだけ負担をかけてまでやっているのは、それだけ重要だからだ」というメッセージによる意識改革につながるわけです。研修会の知識の理解度とか、提供度合いとかに関係なく、「教授にも義務づけられている」というメッセージを学内に送れます。それだけいま倫理研修が重要で、責任ある委員会が多く多忙な教授でも受ける必要があるという効果がある。「医学研究や医療の信頼維持のために必要だ」ということを共有するとはそういうことだと思うんですよね。
 
国の制度設計自体がひとつのメッセージになる。いいものだといいけれど、隠された意図や政治的な意図が制度のデフォルトに組み込まれたときに、感覚が麻痺してしまって一般の人が気づかない、その怖さはあると思うんですよ。
 
那須: なるほど。
 
瀬戸山: いい例かわかりませんが、臓器移植のドナーを明示的同意から推定同意にしたとき、生死を決める場面で「デフォルトで同意があるとみなすのはいかん」という意見がある。自己決定権を骨抜きにすることにつながるからという議論です。それへの反論もあるんですよ。「いや」と言わないかぎりは取っていかれるので、かえって真剣に考えるようになるという主張です。
 
那須: 同じ制度設計に対して――、
 
瀬戸山: 評価が別れるんですよ。
 
那須: ですね。ただし、実際社会のなかでどういう効果をもつか、なかなか読めないところありますよね。
 
瀬戸山: 読めないですね。
 
■「うさんくささ」を解剖する
 
那須: サンスティーンは、そこは「法の表出的機能」と言っていました。暗黙の同意として、いつの間にか無反省に内面化してしまう。望ましい習慣を生むこともありうるかもしれないけど。研修の場合はそうですよね。
 
でも、逆によろしくない効果をもつこともある。でもサンスティーンは「両方の可能性がありますね」というだけで話を終えてしまう。じゃ、「いいように機能させるためにはどうしたらいいですか」とか、あるいは「隠れたカリキュラムのようなものの悪しき効果をどういうかたちで抑えるか」という話が、不十分なんじゃないでしょうか。
 
瀬戸山: 伝統的な「法と経済学」からリバタリアン・パターナリズムが、うさんくさく思われるのはそこだと思うんです。どんな風にも使えて、はっきり解がでない。どっちにもうまい具合に利用される可能性がある。
 
那須: まさにそういうところです。最初は、いろんなふうに使えて面白いと思うんですね。ただ、何にでも使えるということは、正当化論としては役に立っていない、ということです。カムフラージュ的に補強しているにすぎなくて、実際はみんなが直感的にいいと思ったことをやっているだけになるなんじゃないか。
 
瀬戸山: もし、行動経済学なりリバタリアン・パターナリズムの理論を使って、まったく逆の政策を推進するような実験をやれたら、面白いかもしれないですね。
 
那須: それ面白い! ぜひ(笑)。経験的な検証は法哲学者がついついおろそかにしがちなので、「こういうことを見ないと理論としても不完全なんだ」という話をしたいんです。サンスティーンは非常にできる人なので、新しい視点が出てくると簡単に取り込んじゃう。でも、それは理論としてもまずいとはっきり言ったほうがいい。それを補う視点がどういうところに出てくるかも非常に重要な課題ですから。
 
[2018年8月31日、京都府立医科大学にて]
【対話の〆に by 那須耕介】今回はほんとに盛りだくさんでした。でも当日瀬戸山さんはもっともっとお話しくださったのでした。ぜんぶ載せられなくて残念。サンスティーン先生ののアイディアが具体化されるとどうなるのか、現場での事例との照合を怠るわけにはいきませんね。こういう切実な問題を前にするとつい答えを焦ってしまいますが、わかりやすい答えに飛びつくのは危険、というのも今回の話のキモでした。じわじわと問題を掘り下げるしつこさが必要です。
 
――次回も、どうぞお楽しみに。
 

《バックナンバー》
第1回:連載をはじめるにあたって《那須耕介》
第2回:なぜいま、民主制の再設計に向かうのか《大屋雄裕さんとの対話》
第3回:ぼくらは100点満点を目指さなくてもいい?《若松良樹さんとの対話》
第4回:80年代パターナリズム論の光と影のなかで《瀬戸山晃一さんとの対話》

めんどうな自由、お仕着せの幸福

About The Author

サンスティーンとセイラーが広めた「ナッジ」という考え方、そのベースにあるリバタリアン・パターナリズムという理論。この視点を中心に、自由や幸福、社会制度、私たちの生活をめぐって、京都大学教授の那須耕介さんが「いま、ちゃんと話を聞くべき人びと」に会いに行ってきました。