めんどうな自由、お仕着せの幸福――サンスティーン先生、熟議のお時間です! 連載・読み物

めんどうな自由、お仕着せの幸福
番外編2:『ナッジ!?』刊行記念・編者対談(後編)「「小さなおせっかい」の楽園と活動的生」

 
昨年掲載した本連載にご登場くださった方々による書き下ろし単行本『ナッジ!? 自由でおせっかいなリバタリアン・パターナリズム』の編者である那須耕介さんと橋本努さんによる刊行記念対談2回目は、前回の「操作(マニピュレーション)」という不安の先にある議論を繰り広げます。話は当然、国家構想まで行き着きます。このテーマの広がりと深さをぜひ味わってください。[編集部]
 
 

「小さなおせっかい」の楽園と活動的生(後編)
~ナッジと操作、習慣、福祉国家をめぐって~
習慣形成の促進、政策構想力の活性化

 

 
那須耕介: 批判されることの多い「操作」的なナッジには、「あらかじめ尋ねられたら拒絶したかもしれないことでも、いつの間にか受け入れてしまう」という面がありそうです。このことは今日二つ目の問題、この本ではあまり前面に出てきてませんが、あちこちに潜んでいるように思える問題に関わります。
 
それは、ナッジが目指すのは行動の誘導なのか習慣の形成なのか、っていう問題なんです。どっちを狙うかによって、ナッジの内容も変わってくるんじゃないか。若松良樹さんの章(『ナッジ!?』第1章)はちゃんとこの問題に触れているんですが、そこではナッジによる習慣形成の可能性には否定的ですね。
 
■ナッジを受容するとき、僕らに何かが起こっている!?
 
那須: たしかに従来示されてきたナッジの例の多くは、トイレにハエのステッカーを貼るとか、道路にスピード・バンプを描いてブレーキを踏ませるとか、特定の場所で一定の行動をとらせられたらそれで十分だというものが多かった。でも、肥満や喫煙の問題や環境問題に対応しようとするナッジは、単なるその場その場の行動の誘導ではなくて、長期的な習慣の形成や維持を目指す必要があるはずです。
 
橋本さんがおっしゃったように、複数のオプションを示してその中で選ばせるようなナッジ(サンスティーンは「能動的選択 active choice」と呼んでます)、あるいは特定の行動への習熟を求めるようなナッジを与えると、当人にとって一定の負担になる分、個々の選択肢について吟味が加えられて、そのうちの一つを自覚的に引き受けるというプロセスが起こる。主体的な関与とか力能感、愛着といったものが習慣形成に役立つのだとしたら、能動的選択ナッジはそういうはたらきをもつかもしれない。川上浩司先生の「不便益」論にはそういう観点が出ているように思います。橋本さんの「アスリート・モデル」(『ナッジ!?』第6章)も、その一種なんじゃないでしょうか。
 
橋本努: 私が「アスリート・モデル」と呼んでいるのは、どんなリバタリアン・パターナリズムがいいか、についての私なりの答えです。
 
例として、マルハナバチのナッジというものがあります(注:https://www.futurity.org/bees-pollen-plants-flowers-2372952/)。
 
マルハナバチは、集める花粉の供給量がどうも少ないと感じたら、その植物の葉をかじるんですね。するとその植物は、おそらく生命の危機を感じるのでしょう。早く開花して花粉を生産するのです。反対に、葉をかじられなかった植物は、そうではない。マルハナバチはつまり、葉をかじるというナッジによって、花粉の生産量を調整しているわけです。この葉をかじる姿が、人間が他人の脇を肘でつつくような動作に似ているんですね。それでナッジと呼ばれる。
 
ただ、人間がその植物の葉をちぎっても、それほど早くは開花しないようで、どうもマルハナバチは葉をかじるときに、なにか化学物質を出しているのかもしれません。
 
■本質はおしりかじり虫!?
 
橋本: このマルハナバチの例は、NHKの「みんなのうた」で話題になった「おしりかじり虫」に似ているでしょう。おしりかじり虫にかじられると、なぜだかみんな活性化して、元気になるんですね。だからみんなでおしりをかじりあおうという、そういうコミュニケーションが一つのユートピアとして描かれます。不可能ですけれどもね。
 
那須: はっはっは。それはいい!
 
橋本: で、サンスティーンのリバタリアン・パターナリズムの本質は、こうしたおしりかじり虫的なところにあるんじゃないか。大人の理性よりも、子どもを動かす源を突き止めて、それを政策的にやってしまおうという発想です。なにかうまくナッジすれば、人々はもっと活動的になる、と。
 
たとえば子どもに対して、鬼を登場させて、「悪い子どこだ?」と怒って、恐怖による超越的な権威をかざす方法もあります。これはよくない。これは権威主義です。もっと子どもがわくわくする環境を作って、日常活動を活性化させる。そういう方法があるはずです。
 
私が引き受けている「成長論的自由主義」というのは、戯画的に表現すれば、こういう感じですね。
 
じゃあレジ袋をどうするか。レジ袋を有料にして、そのイラストに、おしりかじり虫を採用するというのはどうでしょう。「環境にやさしい生活をしないと、おしりをかじられるよ」みたいなコピーを加えて。こんな感じで、いろいろなアイディアを出して、人々をある方向に活動させる。そういう政策のアイディアです。
 
■活動的生(ヴィタ・アクティヴァ)!?
 
那須: それは以前αシノドスに書いた文章の冒頭で、エヴリン・グレニーという打楽器奏者のエピソードを通じて私が言いたかったことです(αシノドス vol.259 2019.1.15)。『タッチ・ザ・サウンド』という映画の中に、太鼓を叩いたことのない聾唖の女の子にグレニーが叩き方を教える印象的なシーンがある。彼女はその子に、力任せに叩いちゃダメ、太鼓の中に潜んでいる音を引っ張り出すように優しく叩くのよ、という。グレニー自身が重度の難聴者なので、余計にそのことに自覚的になれたんじゃないかと思うんですが、楽器そのものに潜んでいる特性、持ち味を引き出すための力の加減が大事なんだ、ということを強調するわけです。
 
相手が人間のときにはなおさら、相手の自発性を引き出すようにして働きかける工夫がなければ、我々の人間関係はあっという間に行き詰まってしまう。腕ずくで、あるいはお金や正論の力で他人を屈服させられないとき、それでも他人に一定の行動を求めるにはどんな工夫がいるか。ナッジの基本にはこの課題に応じるものがあるだろう。そう書いたら、橋本さんが即座に、それが活動的生(ヴィタ・アクティヴァ)ということなんだ、といってくださって、とてもうれしかった。
 
橋本: 「活動的生モデル」というのは、私の「アスリート・モデル」の別名なんです。那須さんは、そういう操作がいい操作だと考えるんですね?
 
那須: どんな個人もつねに完成し自足したものとして扱わねばならない、それがその人の自律性を尊重することだ、とかたくなに考えるなら、その人におせっかいに働きかけて何かを引き出そうとすることは全部余計なことだという話になる。
 
でも実際には、人はあちこちに綻びと伸びしろのある不完全な生き物で、自分のこともよくわかってない部分をいっぱいもっている。あなたにはこんないいところがあるよ、って他人から言われてはじめてなるほど、と気づく部分もある。人から働きかけられてはじめて自分らしさが発揮できる、ということだってあるんじゃないか。だとすれば、そういう働きをもつのがいいナッジ、いい「操作」なんじゃないでしょうか。
 
■フェイスブックのおせっかい!?
 
橋本: たとえば、新型コロナウイルス(Covid-19)の問題が拡大してから、フェイスブックは「フェイクニュース」ばっかり読んでいるという、そういう生活習慣をもった人に対して、権威的なWHO(世界保健機関)のニュースを流すという情報操作を行うようになった。
 
これはかなり恣意的な操作ですけれども、フェイクニュースばかりみていたら自律的な判断力が失われるから、そういうことがないようにしようというわけですね。まあおせっかいですが、自律的な行動の支援にはなるかもしれません。
 
一方で、フェイクニュースはすべて禁止すべきだという考え方もあります。でもそうすると、かえって私たちの自律的な判断力は、養われないかもしれませんね。フェイクニュースは自由に流してもらっていい。表現の自由は確保する。でも、その影響力を最小限に抑えるという、そういうナッジの仕方がいいのではないか。かなり操作的ですけれどもね。どう思われますか?
 
那須: 福原明雄さんの章(『ナッジ!?』第7章)では、自律を妨げるナッジとそうでないナッジとをどう見分けるか、という問題が扱われています。福原さんの場合は、単なる情報提供なら自律を侵害するわけじゃないけれど、何らかの規範的指図を含むナッジは自律侵害的だという。その線引きの仕方に議論の余地はあるけれど、何らかの線引きが必要だ、というのはその通りでしょう。
 
橋本: 福原さんはリバタリアンの立場から、リバタリアン・パターナリズムを批判しています。氏の立場からすれば、自律支援というのはやっぱり温情的で、それは介入を正当化する理由にならない、と考えるんじゃないかな。新型コロナウイルスの問題に際して、WHOの情報を提供するだけならOK、そういう情報操作はOKとみなすかな。どうだろう?
 
那須: 先日、「郵便投票は不正の温床だ」という趣旨の米国大統領のツイートに、ツイッター社が事実確認のためのリンクを付記して話題になりましたよね。これが単なる情報提供ということですむのかどうか。少なくともその情報提供の背後には、大統領の発言はおかしい、誤解を招く、という批判の意図があるし、多くの人は実際これを虚偽情報の発信に対する警告と受け止めたわけです。
 
このような対応の是非について、自律尊重型リベラルの態度は確かに割れているように見えます。表現の自由をめぐる論争でも似たようなことが起こっていますね。
 
かつてリベラル左派といえば「不正な言論」の判定者役を政府や大企業に求めることには慎重で、むしろ広い議論を通じた世論の中での淘汰に期待する立場をとってきたのですが、近年では差別的な発言、ヘイトスピーチについては政府の規制、巨大企業の自主規制に肯定的な立場をとる人が増えてきているといいます。
 
橋本: リベラル左派というのは、もともと、経済についてはパターナリズム(温情主義)で、政治や文化については徹底的な反政府・反権威のリバタリアンですね。リバタリアン・パターナリズムと似ているようにみえますが、でもぜんぜん違う。ただ、リベラル左派も変容している。「新しいリベラル」という立場があるとすれば、それはおそらく、リバタリアン・パターナリズムの知恵を積極的に取り入れたものになるでしょう。
 
■ナッジで経済再開!?
 
橋本: ところでいま、新型コロナウイルスの問題で、経済を再開させてよいのか、経済活動の自由を認めると、感染拡大の第2波・第3波が来るのではないかという、そういう心配がありますね。経済活動を自由にするためには、多くの人がスマホにアプリをインストールして、GPS機能やBluetooth機能でもって濃厚接触者をたどれるようにする必要がある。感染経路を特定して、クラスターをつぶすことができれば、次の感染拡大のリスクを抑えることができます。でもこのやりかたは、多かれ少なかれプライバシーを犠牲にしてしまいます。
 
どちらの政策がいいでしょう? つまり、一方には、人々のプライバシーを確保するけれども、経済活動の自粛をお願いするという政策がある。他⽅には、⼈々の⾏動や接触をたどることができるアプリを半強制的にインストールしていただいて、それでもって経済活動の自由を再開するという政策がある。いずれも感染の拡大を防ぐための政策です。
 
那須: 日本でも大阪府がいち早く導入しましたよね。ヨーロッパで導入されたものも、よくみるとそれぞれやり方がかなり違うそうです。
 
橋本: リバタリアン・パターナリズムの発想を素朴に具体化すると、まずGPS機能で行動をたどることができるアプリを強制的にインストールしていただいて、あとから「オプトアウト」の選択肢を設ける、ということになる。これはしかし、ほぼ強制に近いですね。
 
むしろインストールすれば、何かポイントが溜まるとか、新型コロナに関する有益な情報にアクセスできるとか、別の誘因を設けてもいいのではないか。
 
私の「アスリート・モデル」であれば、「憧れの他者」たちが、アプリのインストールに賛同して宣伝する、という方法が考えられます。たとえばアスリートたちが、「オリンピックの開催を目指して、活動を再開しよう」といった宣伝をする。このような考え方に人々が賛同して、約8割の人たちがアプリをインストールすれば、自由な経済活動を再開できるでしょう。あるいは、マスクしてマラソンするよりも、このアプリをインストールしたスマホを携帯してマラソンしよう、という訴えも、ありうるかもしれません。こうした検討はすべて、「どんなナッジがいいのか」という価値の問題にかかわります。
 
■左右はもはや見分けられない!?
 
那須: コロナ対策に関してはいっそう、従来の右派と左派の区別が通用しなくなってきたように思います。
 
右派の中にも左派の中にも追跡アプリの強制インストール政策に賛成する人と反対する人とが入り混じっている。政府の対策に「有事」における強い政策、即効性や確実性を求める立場と、スウェーデン方式のような「平時」と変わらない不確実だけど謙抑的で緩やかな対応を支持する立場とがあって、これが右派は前者、左派は後者、というような単純な振り分けにはなってませんね。コロナ問題をきっかけに政治的党派のシャッフルが起きてるような気がします。
 
ちょうど、19世紀に自由市場の性質や意義をめぐって生じた意見対立が右派左派の党派性のもとになったのと同じように、いまはたとえばインターネットの規制と自由をどう考えるか――これは成原慧さんの章(『ナッジ!?』第3章)で論じられていますが――、あるいはコロナ対策をどう考えるか、という問題をめぐって、政治的な党派性の再編が始まっているのかもしれませんね。
 
橋本: たしかに、右派と左派の対立が見えにくいですね。それでいうと、リバタリアン・パターナリズムというのは、右派の要素と左派の要素をうまく組み合わせる発想をもっている。たんに中道的な妥協点を探るのではなくて、右と左を結合するような独創的な政策アイディアを出して、それでもって新しい社会の方向性を示すという知恵です。
 
■統治システムの再構想!?
 
那須: この話は今日最後のテーマ、福祉国家の話に関わるように思います。この本では十分論じきれなかったことでもあるんですが、サンスティーンという人は、個別の政策だけでなくて、これからの福祉国家の包括的な設計図、憲法構想を描きなおしたいと思っている人です。法制度全体を社会全体の中での権限・権利と責任の配分、再配分の仕組みとしてとらえなおし、活用していこうという発想ですね。たとえば今回の大屋雄裕さんの章(『ナッジ!?』第4章)は、民主制に焦点を絞りながら、その意図をはっきり受け継ぐ形で書かれています。
 
橋本: そうですね。民主主義を立ち上げるという場合、まず私たちは、社会全体を、君主制と貴族制と民主制の三つの要素からなる「共和制(リパブリック)」として理解したほうがいい。そしてそのなかの一つの要素として、民主主義を機能させる。そういうアイディアが、リバタリアン・パターナリズムにあるように思います。「共和制」という枠組みで考えると、リバタリアン・パターナリズムがやろうとしていることの、正当な位置が見えてくるかもしれません。
 
那須: これまで多くの人は、福祉国家を古典的な自由主義国家の中途半端な修正版としてとらえてきました。ほぼ百年続いてきた行政国家化の現象もまだ例外的な現象とみなされているところがあるし、憲法上の権利としての社会権も本来的な権利としての自由権に後から付け加えられた周辺的な権利のように扱われる。
 
サンスティーンはこういう構図全体を刷新しようとしているんじゃないでしょうか。憲法上の権利もその他の法律上の権利も、すべて個人と組織・機関の権能・権限として社会の中でどう配置していくか、という観点からとらえる。そして橋本さんが指摘されているとおり、一種の社会厚生主義的な視点からその最適なバランスの取り方を考える。
 
いわゆる19世紀末に生まれてきた福祉国家を、自由主義国家のヴァリエーションの一つと考えるのではなく、むしろ古典的自由主義国家も含みこむより包括的な統治システムとして再構想しようとしているんじゃないかという気がしています。
 
橋本: これまで福祉国家といえば、スウェーデン・モデルという発想がありましたね。もちろんいまでもありますが、北ヨーロッパでうまくいっている福祉国家の運営方法を学んで、それを日本に導入しようという発想です。知識人のなかでも頭のいい人たちが、諸外国に学んで、それを啓蒙して導入するというパターン。しかしこういうやり方は、だんだん通用しなくなってきた。
 
■新しい福祉国家のシステム!?
 
橋本: それでいま、たとえばOECD(経済開発協力機構)のような国際組織が主導して、さまざまな国でナッジ政策の実験をしてもらうようになりましたね。しかもその実験の数が、膨大なんですね。OECDは、それらの実験のダイジェスト(要約)を、一つの報告書にまとめあげていくという仕事をしています(『世界の行動インサイト』明石書店)。私たちはそうした報告書を通じて、各国のうまくいった実験から学ぶようになった。これはつまり、行政のグローバルな再編が起きていると思うんです。
 
こうなってくると、私たちは先進的な福祉国家に学ぶというよりも、自国のなかでナッジ・ユニットを作って、それでいろいろなナッジを提案できる国になることが目標になる。
 
これはつまり、政策ブレーンの再編が起きているんですね。すぐれた他国に学んで、その内容を上から導入するというのではなく、個々の場面で、政策のアイディアをたくさん提案できるような人材になることが、あらゆるレベルの公務員・関係者に求められている。
 
政策は上から降ってくるわけではない。自分たちでチームを作って、知恵を絞らなければならない。そして世界中の人たちとコミュニケーションしていく。これが新しい福祉国家のシステムだと思うんですよ。あるいは「建設的(コンストラクティヴ)なリベラリズム」の発想、といっていいかもしれません。
 
那須: 政策実験やそのアイディアをめぐる情報交換の単位が、おそらく国家ではなく自治体とか都市になってきているんだろうと思うんです。よそからもらってきた政策、制度のお手本を国家単位で共有して、「この通りやればいいですよ」というのではなく、都市単位、自治体単位の情報、アイディアの交換というレベルに話が政策構想の舞台が移ってきている。ナッジという手法はこの状況に合った共通のプラットフォームのような役割を果たしているのかもしれませんね。
 
先ほど出た政策実験の活性化という話も同じところから出てきている。福祉行政が最終的には我々の日常生活の細部に介入していかざるをえない側面をもつ以上、具体的な政策の構想もなるべく実施の現場に近いところで進められる必要があるのでしょう。
 
そういう意味では政策実験の単位もどうしても小規模化せざるをえないし、そこでできる実験ということになると、大きな財源や権限がなくてもできることは何か、ということになってくる。ナッジ的な手法はこの条件にうまくフィットしてるんだと思います。
 
 
【対談の〆にby那須耕介】 これまでの話をさらっとおさらい、という軽い気持ちでのぞんだ対談でしたが、もちろんそんな簡単には終わりませんでした。私と橋本さんの立ち位置の微妙な違いだけでなく、橋本さんの挑発的な問題提起の射程の大きさも、垣間見てもらえたのではないでしょうか。でも橋本さん、今度はもっと気楽に(思いっきりマニアックな)音楽の話でもさせてくださいね〜。
 
 
――『ナッジ!?』編者による刊行記念対談、いかがでしたか? 新型コロナウイルスの世界的感染爆発が進行するなか、ナッジもリバタリアン・パターナリズムも私たちの生活と切り離せない存在になっています。そして便利さとややこしさの共存する、魅力的な手法や概念でもある。そこでは根本から考える機会が折に触れ必要なはずです。この連載や『ナッジ!?』がそのお役に立てますように。[編集部]
 
 
プロフィール
那須耕介(なす・こうすけ) 1967年生まれ。京都大学教授。法哲学。著書に『多様性に立つ憲法へ』(編集グループSURE、2014年)、『現代法の変容』(共著、有斐閣、2013年)、共訳書に『自己責任の時代』(ヤシャ・モンク著、みすず書房、2019年)、『メタフィジカル・クラブ』(ルイ・メナンド著、みすず書房、2011年)、『熟議が壊れるとき』(キャス・サンスティーン著、勁草書房、2012年)ほか。
 
橋本 努(はしもと・つとむ) 1967年生まれ。北海道大学大学院経済学研究院教授。経済社会学、社会哲学。著書に『帝国の条件』(弘文堂、2007年)、『自由に生きるとはどういうことか』(ちくま新書、2007年)、『経済倫理=あなたは、なに主義?』(講談社、2008年)、『自由の社会学』(NTT出版、2010年)、『解読ウェーバー プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』(講談社、2019年)、編著書に『現代の経済思想』(勁草書房、2014年)、訳書にR・メイソン『顕示的消費の経済学』(名古屋大学出版会、2000年)ほか。
 
 
2020年5月刊行!
那須耕介・橋本 努 編著
『ナッジ!? 自由でおせっかいなリバタリアン・パターナリズム』http://www.keisoshobo.co.jp/book/b510211.html
ISBN:978-4-326-55084-5 四六判・264ページ 本体2,500円+税
 
それは「支援」なのか「操作」なのか? 強制にも説得にも頼らない社会改革の新技術とその思想を、気鋭の論者たちが問いただす!
※本書の「はじめに」と「おわりに」をたちよみ公開しています。→【こちらでご覧ください】
 
 


《「めんどうな自由、お仕着せの幸福」バックナンバー》
第1回:連載をはじめるにあたって《那須耕介》
第2回:なぜいま、民主制の再設計に向かうのか《大屋雄裕さんとの対話》
第3回:ぼくらは100点満点を目指さなくてもいい?《若松良樹さんとの対話》
第4回:80年代パターナリズム論の光と影のなかで《瀬戸山晃一さんとの対話》
第5回:熟議でのナッジ? 熟議へのナッジ?《田村哲樹さんとの対話》
第6回:サンスティーンという固有名を超える!《成原慧さんとの対話》
番外編1:「小さなおせっかい」の楽園と活動的生(前編)《『ナッジ!?』刊行記念編者対談》
番外編2:「小さなおせっかい」の楽園と活動的生(後編)《『ナッジ!?』刊行記念編者対談》

めんどうな自由、お仕着せの幸福

About The Author

サンスティーンとセイラーが広めた「ナッジ」という考え方、そのベースにあるリバタリアン・パターナリズムという理論。この視点を中心に、自由や幸福、社会制度、私たちの生活をめぐって、京都大学教授の那須耕介さんが「いま、ちゃんと話を聞くべき人びと」に会いに行ってきました。