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『フィラデルフィアの精神』

 
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アラン・シュピオ 著
橋本一径 翻訳、嵩さやか 監修
『フィラデルフィアの精神 グローバル市場に立ち向かう社会正義』

「訳者あとがき」と「附録 フィラデルフィア宣言全文」(pdfファイルへのリンク)〉
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訳者あとがき
 
 国際労働機関(ILO)による一九四四年の「フィラデルフィア宣言」は、「労働は商品ではない」ことを確認した文書として、とりわけ労働法の分野において、その重要性が近年とみに再認識されている宣言である(1)。本書はこの宣言が、労働問題という枠組みを超えて、一七八九年のフランス人権宣言や、一九四八年の世界人権宣言などと並ぶような、人権の発展の歴史におけるメルクマールであることを示そうとした書物である。
 その重要性とはとりわけ、人権をめぐる議論の中に「身体」を導入した点にあると言えるだろう。フランス人権宣言で「生まれながらに」平等であるとされた人間は、本書の「はじめに」で著者が指摘するように、「純粋な理性的存在」であり、「身体」を持たない法的な擬制[フィクション]であった。しかし、産業の発展に伴い劣悪化した労働環境は、このような虚構的な存在を仮定するだけでは、人間の平等性が担保できないことを明らかにしてしまった。
 こうした状況を受けて、労働者の「身体」を保護する目的で、一九世紀末にヨーロッパで発明されたのが労働法である。「健康の保護」や「栄養の提供」を語るフィラデルフィア宣言は、二度の大戦の反省をふまえて、労働法の理念を世界に向けて改めて問い直したものにほかならない。
 本書にも巻末に附録として掲げられているこの宣言の文章を一読すれば、その今日性が少しも失われていないことにお気づきいただけるはずだ。「一部の貧困は、全体の繁栄にとって危険である」(第一条c)との力強い断言に触れると、本書でも言及される「マタイ効果」すなわち「富める者はますます富み、貧しい者はますます貧する」という状況が一段と進行しているように見える現代のグローバル社会は、むしろこの宣言から後退しているようにも見受けられる。こうした状況にあって本書は、単にフィラデルフィア宣言の理念への回帰を唱えるのではなく、このような「戦後の規範的な成果」が、「ここ三〇年来の国内・国際政治を支配するウルトラリベラルなドグマ」によって、いかに解体されてきてしまったのかを、鮮やかに分析してみせる。
 その解体をひとことで要約するなら、フィラデルフィア宣言が見出した「身体」が、「全体的市場」の中に、再び雲散霧消していく過程であると言える。市場が「自発的な秩序」によって支配されると考える市場原理主義者たちにとって、個人は「契約当事者という粒子」でしかない。しかしながら、そのような虚構が成立するのは、国家のお膳立てにより、市場のための法的な枠組みが整えられている場合のみである。リベラルの伝統にしても、このような法の支配の必要性自体に疑問を付したことは決してなかった。本書の著者の言う「大転換」が生じたのは、冷戦の終結後である。共産主義の破綻とは、単に東側諸国が資本主義のイデオロギーに取り込まれて消滅したことを意味はしない。西側諸国もまた、国家を単なる「道具」と考えるマルクス主義的なイデオロギーを取り込み、市場中心主義をより徹底させることができたのである。粒子状の契約当事者たちが国境を超えて自由にコミュニケーションするフラットな世界という虚構が、これによりいっそう強化されることになった。
 ソビエト連邦のシステムが自らの正当性の根拠としていたのは、法の支配ではなく、「社会主義における共通の生の規則」であった。あらゆる世界を市場に変えるフラットな空間という虚構を支えるのも、「法律」ではなく、科学的であるとされる「法則」である。このような世界を支配する規則とは、「科学的な基盤を持つ規則」を除けば、あとは各人が「自分で自由に決められる規則」だけである。これにより引き起こされたのが、「福祉国家の民営化」という事態である。こうして社会保障が骨抜きにされ、その恩恵は「一番それを必要としてない者」によって食いものにされるだろう(本書第二章参照)。
 「自分で自由に決められる規則」とは、言い換えるならば、昨今の日本でもさかんに唱えられる、「自己責任」ということにほかなるまい。共産圏の解体以後の欧州の状況を主として語っているはずの本書の記述が、しばしば日本の状況を語っているようにも読めるのは、決して偶然ではない。よく指摘されるように(2)、一九四六年に公布された日本国憲法が、とりわけその労働法規において、フィラデルフィアの精神を受け継いでいることは明らかだからである。だとすれば今日の日本での改憲論議は、フィラデルフィア精神の息の根を止めようとするグローバルな動きと連動するものだということになる。とかく近視眼的になりがちな改憲論議を、グローバルな視座に置き直してみることは有益であろう。
 日本の置かれた状況の解明にも示唆を与えてくれる本書の分析が目指すのは、「大転換」すなわち「ウルトラリベラル革命」以前の状況を取り戻すことではもちろんなく、グローバル化がもはや不可逆的な条件となった今日において、ありうべき新たな社会正義を模索することである。言い換えればそれは、かつて労働法が国家という枠組みの中で成し遂げていた「身体」の保護を、国境を超えて達成することだ。たとえば知的所有権の保護を担保するトレーサビリティなど、グローバル企業を守るためなら、国際的なネットワークはすでに整備されつつある。なぜそれを、労働者や消費者の「身体」の保護に用いることができないのだろうか。アラン・シュピオの問いかけは、高邁かつ具体的である。
     *
 〈法権利〉という訳語は、法と権利を同時に意味するDroit という語のニュアンスを表すことを意図したもので、聞き慣れない用語ではあるものの、前著『法的人間 ホモ・ジュリディクス』に引き続き採用している。監修の嵩さやか先生には訳文の全体に目を通していただき、主に法学関係の用語について指導を仰いだが、なおも誤訳や誤解が残っているとすれば、その責はもちろんすべて訳者にある。訳文の一部には、訳者のもとに集まってくれた学生諸君らとの自主ゼミの成果が反映している。全員の名をここに挙げることはできないが、記して感謝したい。厳しいスケジュールの中、本訳書の完成にこぎつけることができたのは、『法的人間』に引き続いて編集を担当してくださった勁草書房編集部の鈴木クニエさんの尽力のおかげである。この場を借りて深く感謝を申し上げる。
 
二〇一九年四月
橋本一径
 

(1)たとえば二〇〇八年の『労働法律旬報』(No. 1663=1664)における特集「グローバル下の労働と労働法の未来」を参照。
(2)たとえば以下を参照。吉岡吉典『ILOの創設と日本の労働行政』、大月書店、二〇〇九年、二六頁。
 
 
附録
国際労働機関の目的に関するフィラデルフィア宣言

 
 国際労働機関の総会は、その第26 回会期としてフィラデルフィアに会合し、1944 年5 月10 日、国際労働機関の目的及び加盟国の政策の基調をなすべき原則に関するこの宣言をここに採択する。
 
1
 総会は、この機関の基礎となっている根本原則、特に次のことを再確認する。
(a)労働は、商品ではない。
(b)表現および結社の自由は、不断の進歩のために欠くことができない。
(c)一部の貧困は、全体の繁栄にとって危険である。
(d)欠乏に対する戦は、各国内における不屈の勇気をもって、継続的かつ協調的な国際的努力によって遂行される必要があり、そこでは労働者および使用者の代表者が、政府の代表者と同等の地位において、一般の福祉を増進するための自由な討議および民主的な決定に参加していなければならない。
 
2
 永続する平和は社会正義を基礎としてのみ確立できるという、国際労働機関憲章の宣言の真実性が、経験によって充分に証明されたと信じて、総会は、次のことを確認する。
(a)すべての人間は、人種、信条または性にかかわりなく、自由および尊厳ならびに経済的保障および機会均等の条件において、物質的福祉および精神的発展を追求する権利をもつ。
(b)このことを可能ならしめる状態の実現は、国家政策・国際政策の中心目的でなければならない。
(c)国家ならびに国際の政策および措置はすべて、特に経済的および財政的性質をもつものは、この見地から判断することとし、この根本目的の達成を促進するものであり、妨げないものであると認められる限りにおいてのみ、是認されることとしなければならない。
(d)この根本目的に照らして国際的な経済・財政政策および措置をすべて検討し、審議することは、国際労働機関の責任である。
(e)国際労働機関は、委託された任務を遂行するにあたり、関係のあるすべての経済的・財政的要素に考慮を払って、自らが適当と認める条項を、その決定および勧告の中に含めることができる。
 
3
 総会は、次のことを達成するためのプログラムを、世界の諸国間において促進することが、国際労働機関の厳粛な義務であると承認する。
(a)完全雇用及び生活水準の向上。
(b)自らの技能や知識を最大限に提供でき、一般の福祉に最大の貢献をすることができるという満足の得られる職業への、労働者の雇用。
(c)この目的を達成する手段として、すべての関係者に対する充分な保障の下に、訓練のための便宜、ならびに雇用と定住を目的とする移民を含む労働者の移動のための便宜を供与すること。
(d)すべての者に進歩の成果の公正な分配を保障し、また最低生活賃金による保護を必要とするすべての被用者にこの賃金を保障することを意図した、賃金・所得・労働時間その他の労働条件に関する政策。
(e)団体交渉権の実効的な承認、生産能率の不断の改善に関する経営と労働の協力、社会的・経済的措置の準備と適用における労働者と使用者の協力。
(f)社会保障措置を拡張して、必要のあるすべての者に対する基本収入と、包括的な医療給付を与えること。
(g)あらゆる職業における労働者の生命および健康の充分な保護。
(h)児童の福祉および母性の保護のための措置。
(i)充分な栄養、住居ならびにレクリエーションおよび文化施設の提供。
(j)教育および職業における機会均等の保障。
 
4
 この宣言に述べた目的の達成に必要な、世界の生産資源の一層完全かつ広範な利用は、生産と消費の増大、急激な経済変動の回避、世界の未開発地域の経済的・社会的発展の促進、一次的生産物の世界価格の一層大きな安定の確保、高い国際貿易量の維持のための措置を含めた、効果的な国際・国内行動によってこそ確実になることを確信し、総会は、国際労働機関が、この偉大な事業ならびにすべての人民の健康、教育および福祉の増進に対する責任の一部を委託される諸々の国際団体と、充分に協力することを誓約する。
 
5
 総会は、この宣言に述べた原則があらゆる場所の人民に充分に適用できるものであることを確認し、それをいかに適用するかは各人民の社会や経済の発達段階を充分に考慮して決定すべきであるとしても、まだ依存状態にある人民にも、すでに自治に達した人民にも、それを漸進的に適用することが文明世界全体の関心事であることを確認する。
 
◆アラン・シュピオの前著『法的人間 ホモ・ジュリディクス』の「あとがきたちよみ」はこちら →【あとがきたちよみ/『法的人間 ホモ・ジュリディクス』】
 
 
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