ジェンダー対話シリーズ 連載・読み物

《ジェンダー対話シリーズ》第9回 重田園江:日本で沈黙させられてきたことについて

 
 

《ジェンダー対話シリーズ》第9回は、重田園江さんの#MeTooです。私たちはある環境に適応し、そこでなるべくストレスのない状態を(意識的にも無意識的にも)模索しながら生きています。そしてその環境で生じる出来事に対し、主体的に自由意志によって対応して生きていると思っています。しかしその環境自体(の異常さ・特異さ)が、ある特定の言動へと人を強いていることもあるはずです。ある場所をあてがわれた人がどのように思考し、その場所の異常さが見えなくなっていくか、その場所の多くの人間に(結果的に)都合のよいふるまいをしてしまうか、胸に手をあてて考え込みました。【勁草書房編集部】

 

第9回 日本で沈黙させられてきたことについて

 
重田園江
 
 
 #MeToo ――。この運動は私たちの世界の見方、世界に向けての行動をどのように変えてきただろうか。#MeToo運動が爆発的に広がったきっかけは、ハリウッドの著名プロデューサー、ハーヴェイ・ワインスタインによる20年にわたる性暴力、レイプ、セクハラへの女性俳優たちからの告発であった。しかし実は、伊藤詩織のレイプ告発は、ニューヨーク・タイムズ紙上でのワインスタイン告発と、それにつづく一連の被害者への取材記事より前、2017年5月にすでになされていた。2015年4月に起きたこの事件は、2016年7月に刑事事件で不起訴となった。この件については、警視庁刑事部長(当時)の中村格による逮捕状執行停止の決裁が、政治的圧力によるものだという疑いが持たれてきた。中村が2012年から約2年半、菅官房長官の秘書官を務めていたことから、安倍政権から中村を通じて警察・検察に圧力がかけられたという疑いである。逮捕の取り止めと不起訴をめぐる疑惑は週刊新潮が2017年にキャンペーンを張って取り上げたが、2019年12月に加害者とされる山口敬之との間の民事裁判で山口が敗訴したことで、安倍首相の大写しがカバーの『総理』(2016)『暗闘』(2017)を共に幻冬舎から出版した山口と、中村、安倍、菅との関係が再び疑惑の的となっている。
 
 #MeToo運動に対して、私は当初戸惑い、どのように反応したらいいかわからなかった。おそらく、声を上げデモをする女性たちを、今も「遠くから見守って」いる人たちは多いのではないだろうか。ここ数年私がしてきたように。
 
 これまでの立ち位置を問い直す形で、私が真剣に#MeTooについて考えはじめたのは最近のことである。きっかけとして、この社会に厳然と存在する男女差別という「見えない壁」「ガラスの天井」にぶち当たったことによる無力感と怒りがあった。だが、それらは最近かつ最後のトリガーに過ぎない。むしろ私は、世界中で声を上げた勇気ある女性たちから、ゆっくりと、だが確実に影響を受けていたのだろう。それによって、これまでぼんやりと疑問に思い、不快に感じてきたいくつもの小さな経験や心のしこりが、一気に明瞭な輪郭を取り、#MeTooへの参画を促された。
 
 私が大学生だった1980年代、「社会科学系」学部に女子学生は少なかった。当時は就学人口増大と進学熱で大学が足りず、臨時定員増がなされていたため、私が通う学部の1学年の人数は1300人に達していたが、そのなかで女子は90人程度と極端に少なかった。こうした物理的人数の差によって、女子学生たちは孤立を強いられていた。顔見知りの何人か以外とつながりを持つことは難しく、生きにくさ、過ごしにくさを話し合える場もあまりなかった。大学には、女子は他大(主に特定の女子大)生しか入れないテニスやオールラウンドのインカレサークルが多数あり、私たちの存在はなんなんだろうと気分が悪かった。
 
 多くの私大社会科学系学部では、3年生になると「ゼミ」がはじまる。私が所属したゼミには17人が参加したが、女子は私1人だった。一つ上も一つ下も女子は1人ずつだった。こうした圧倒的な数の差にはすでに慣れてしまっており、とくに困ったとも嫌だとも思わなかったが、就活を経て入社した会社でも女子の「総合職」は1人で、紆余曲折を経て大学講師となったときにも、所属学科で初めての女性教員だったことは、いま考えると異様な状況だ。
 
 そしてこれらの経験によって、私自身「一般的な女性」と自分との違いを知らず知らず内面化しており、自分は選ばれた特別な存在だと心のどこかで線を引くようになっていた。これによって私は、女性の連帯から遠ざかってしまい、その重要性を長い間真剣に受け止めてこなかった。職場には「一般職」の女性がたくさんいた時代で、彼女たちはほぼ全員短大卒で、制服を着て朝から各部署のメンバーにお茶を入れていた。これらはとてもおかしなことだが、根本的に疑問に思う暇もなく「男性並みに」残業のある職務に忙殺された。男が作った社会の理不尽な線引きに、無自覚にしたがっていたことになる。私の1年前に入社した総合職の女性の先輩(この人も1人だった)は、「私たちはコウモリだ」と男性社員と女性社員のどちらにも入れない極端なマイノリティである自分たちを表現していた。これは彼女が自分のアイデンティティを守るためのことばだったのかもしれない。だがいま考えれば、私たちはコウモリではない。人間であり、そして女性である。
 
 話を戻すが、ゼミでは先生も同級生も気を遣ってくれたため、当初からそれほどの居心地悪さはなかった。夏休みになり、3・4年生でゼミ合宿に出かけた(千葉県の茂原市だったと記憶している)。夜になると宴会が行われるのは普通のことだが、しばらくして1人の同級生から、外に出て海を見に行かないかと誘われた。とくに行きたかったわけではないが、強く誘われて酔っていたこともあり外に出た。こっちこっちと手を引っ張られて連れて行かれたのは、おそらく護岸工事のために海辺に置いたままになっていたパワーショベルかなにかの建築用車両の中だった。変だなと思ったときにはもう遅く、その男子学生がいきなり抱きついてきた。驚いて逃げようとしたが力もあり強引で、かなり気持ち悪いことをされた。死んでも許さないという思いで抵抗したところようやく離れたが、暴行を諦めると今度は「絶対誰にも言わないで」と懇願してきた。その懇願の仕方がとても不快で、だったらこんなことするなよと呆れかえり1人で宿に帰ったが、結局そのことは誰にも言わなかった。
 
 これまで、そのとき起きたことの細部を文章で表現する機会が一度もなかったので、この作業自体かなりの苦痛を伴うことにいま気がついた。もっと深刻な身体的暴力やレイプ被害を受けた人たちが、何十年もトラウマに苦しみ、場合によっては部分的に記憶が欠落してしまうのも無理ないと思う。
 
 私は最近まで、そのときすぐに被害を周囲に話さなかったことを、あまりに情けない加害者への温情のようなつもりでいた。しかし本当にそうだったのだろうか。私には、男性ばかりの環境で自分がそういう扱いを受けたことを知られたくないという思いがあったはずだ。そういう目で見られたくないというのだろうか。ただし、周囲の学生たちが信じないだとか加害者の味方をするだとかは考えなかったし、実際先生をはじめ女性を陥れるような雰囲気は一切なく、訴えたら真面目に取り上げてくれただろうといまも思っている。では、自分は強いし傷ついていないと思い込みたいがために、上から目線で相手を憐れむふりをして被害を訴えなかったのだろうか。そのときの心理について、自分のことであっても断言することはできない。だがいまになって、それほど深刻ではないと考えたのか言い聞かせたのかわからないが、沈黙によって相手を「無罪放免」してしまうという心理機制と行いが、日本中で、世界中で反復されているのではないかと想像すると腹立たしい。
 
 この件をいまごろ書き留めようと思ったのは、心境の変化を促されるいくつかのきっかけがあったからだ。一つは、数年前にこの人物が性犯罪で逮捕されたことである。そのときは「やっぱり」と思う反面、ゼミ合宿の一件から30年近くが経っており、いろいろな意味で驚いた。これに加えて、カトリックを震撼させている長年にわたる性虐待問題について知る機会があった。アメリカやスペインで当事者に取材した複数のドキュメンタリーで、教会が加害者に厳格な処分や資格剥奪を行わず、別の教区や勤務地への異動を繰り返したため、彼らは新たな赴任地で多くの性虐待犠牲者を生んだという事実が指摘されていた。被害者やその親が教会に被害を訴え出ると、逆に脅されたり口外を強く止められたりといった卑劣なやり方が反復されていた。ボルティモアでは隠蔽のための修道女殺人まで起こっている(ライアン・ホワイト監督 ‘The Keepers’)。
 
 このような深刻な件と自分の過去の一件を比較する気はなかったのだが、ふと思ったことがある。それは、もし私があのとき声を上げていたら、同級生に連れ出され、襲われたと告発していたら、その後の事態は何か変わっていただろうかということだ。性犯罪に関して、再犯や累犯の多さが指摘されている。冒頭に挙げたレイプ裁判でも、先例を作ること、同じような被害にあった人たちに影響を与えることの重要性を、判決後の会見で伊藤さんが繰り返し強調していた。女性は黙ってなどいないと示すことで、つづく犯罪を未然に防ぐことができるかもしれないのだ。性犯罪被害は自分1人の問題ではなく、社会的な問題であり、女性や弱者への構造的な差別や支配の問題である。
 
 しかし、そんな簡単なことを自分の体験と結びつけて考えられないほど、私は古い時代の窮屈で抑圧された状況に縛られたままだった。私はずっと、自分が沈黙させられたとは思っていなかった。自己決定と自由意志の下、相手への悪影響をかわいそうに思ってなにも言わなかっただけだと考えてきた。本当にそうだろうか。つねに「女子は1人」という環境に置かれ、それを当然だと受け入れることで居場所を作ってきたことが、なにか関係していないだろうか。ゼミに、職場に、女性が1人しかいないことは、決して当然のことではない。これはおかしなことなのだ。制服を着た「短大卒」の一般職の人たちと区別された条件で働くことで、1人だけ「コウモリ」になることは異常なことなのだ。こんなバカげた状況を作り出し、男性たちが既得権益を必死に守りながら女性を活躍させているふりをしている間に、日本は30年を無駄にした。その結果、日本の男女平等指数は大変なことになっている。
 
 奇妙なことを奇妙だと思うことができない環境に身を置くことで、自分自身をだまし、ごまかしてきたのではないか。男性たちの「あなたは特別」という態度やふるまいに満足し、調子に乗って罠にはまったのではないか。思い出してみれば、その後も2回レイプ未遂の経験がある。いずれも相手の自宅で、いわゆる「友達レイプ」の試みだったので、例によって不可能と分かった途端に誰にも言わないでと懇願され、私は共通の友人知人にそのことを言わなかった。またしても沈黙したのだ。いや、させられたのだろうか。高校生のときは満員電車で制服女子は例外なく痴漢にあったし、中学生のときはいつも同じ場所に潜んで手当たり次第女子生徒に嫌がらせをする露出症の男がいた。就活では政府系金融機関の面接で、「私を男性として口説いてみて」と要求された。そのときの面接官の口調はとても自然で、私はおかしいとも思わずに口説き文句を真剣に考えたのだが、あれは一体なんの試験だったのだろう。どのような意味で職務に関係するのだろう。それらを差別であり一方的暴力であるとも気づかず、いままで沈黙してきた。この30年、私はなにをしていたのだろう。
 
 「連帯」について研究してきた立場からすると、これはとても情けないことだ。自分を特別だと言い聞かせて性被害に沈黙し、それを男女の区別なく自己主張し自立して働くための賢さと知恵だと勘違いしていた。ついでに告白すると、ずっとフェミニズムが嫌いだった。フェミニストは女であることにかえって縛られているように思えたし、もっと自由に性別に関係なく研究し文章を書きたいと考えていた。つまり、私の個人としての自由は女性同士の連帯とは両立しないと思っていたわけだ。だがこれは、とても愚かな勘違いではないだろうか。フェミニストが自由でないとか、男が/女が、とカテゴリーに括ることがかえって人を不自由にするといったもっともらしい言い方は、厳然たる女性差別と暴力犯罪の被害・加害の一方性を考えるとき、単なる罠でしかない(ただし、トランスジェンダーの問題はこれとは別に語らなければならない)。
 
 連帯とは、自分の痛みと他者の痛みとの間に共通点を見出し、つながることで傷を癒そうとする試みのことだ。誰もが被りうるよくないこと、不慮の災難に、同質性と差異の両方の要素を持った人々が集合して立ち向かうことだ。沈黙し傍観してきた私のこれまでのふるまいは、自由と連帯が相反するかのような選択だった。自由と連帯は相反するどころか、連帯の先にだけたしかな自由と独立があることは、連帯の思想史を通じてよく分かっていたはずなのに。#MeTooとは、現代における連帯の力強いあり方なのだ。
 
重田園江(おもだ・そのえ) 東京大学大学院総合文化研究科博士課程単位取得退学。明治大学教授。政治思想、ミシェル・フーコー研究。著書に、『ミシェル・フーコー:近代を裏から読む』(筑摩書房、2011年)、『社会契約論:ホッブズ、ヒューム、ルソー、ロールズ』(筑摩書房、2013年)、『統治の抗争史:フーコー講義1978-79』(勁草書房、2018年)、『隔たりと政治:統治と連帯の思想』(青土社、2018年)など。

重田園江著作
 
『連帯の哲学Ⅰ:フランス社会連帯主義』
(勁草書房、2010年)
 
聖人にもエゴイストにも徹しきれない私たちが共に生きていくための可能性としての連帯。異なる環境や立場に置かれた人々が納得できるルールと社会をどう構築すればいいのか。そのひとつの答えがここにある。
 
 
『統治の抗争史:フーコー講義1978-79』
(勁草書房、2018年)
 
独特な用語や思考の跳躍にあふれたフーコーの講義を把握するには、読み手もある深さに達する必要がある。講義で言及される文献の読解、概念の研究史の確認を通し、核心的な発言の周囲にその思考が形をなすまでのプロセスを配置、大きな流れと主要概念を理解する。フーコーを「使う」のではなく、より深く「読む」ための必読書。

 
》》ジェンダー対話シリーズ・バックナンバー《《
第8回 家族の「きずな」を哲学する──私たちをつなぐものはどこにある?(下)
第7回 家族の「きずな」を哲学する──私たちをつなぐものはどこにある?(中)
第6回 家族の「きずな」を哲学する──私たちをつなぐものはどこにある?(上)
第5回 愛・性・家族のポリティクス(後篇)
第4回 愛・性・家族のポリティクス(前篇)
第3回 息子の『生きづらさ』? 男性介護に見る『男らしさ』の病
第2回 性 ――規範と欲望のアクチュアリティ(後篇)
第1回 性 ――規範と欲望のアクチュアリティ(前篇)
 
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「ジェンダーとかセクシュアリティとか専門でも専門じゃなくてもそれぞれの視点から語ってみましょうよ」というスタンスで、いろいろな方にご登場いただきます。誰でも性の問題について、馬鹿にされたり攻撃されたりせず、落ち着いて自信を持って語ることができる場が必要です。そうした場所のひとつとなり、みなさまが身近な人たちと何気なく話すきっかけになることを願いつつ。