憲法学の散歩道 連載・読み物

憲法学の散歩道
第7回 自然法と呼ばれるものについて

 
 
 A. P. ダントレーヴ*1は1902年、ヘクトール・パセリン・ダントレーヴ伯爵の四男として、スイス、フランスとの国境に近いピエモンテ州のアオスタに生まれた。トリノ大学で法学を修めた後、ロックフェラー財団の支援を得てオクスフォードのベルリオール・コレッジで学んだ。彼がオクスフォードで研究対象としたのは、神学者リチャード・フッカーである。1929年、イタリアに帰ったダントレーヴはトリノ大学の講師となり、メッシーナ、パヴィアでの教歴を経て、1938年にはトリノ大学教授となる。しかし、彼は教職を退き、故郷に帰ってレジスタンス運動に身を投じた。解放後の短期間、彼はアオスタの市長を務めている。
 
 1946年にオクスフォードから、モードリン・コレッジのフェローとして招かれた彼は、1948年にはシカゴ大学から自然法に関する連続講義を依頼される。連続講義は3年後、『自然法 Natural Law*2として刊行された。
 
 自然法というからには、神の創造した、人が理性によって感知し得る、事物の本性(nature)に即した、永遠に変わらぬ、違背することのかなわぬ、普遍の法が意味されている──ような気がする。古代ギリシャから──少なくともヘレニズム期のストア学派から──『ローマ法大全』やトマス・アクィナスを経て、ヴィトリア*3、グロティウス*4、ロック、ルソーを経由し、アメリカ独立革命およびフランス革命を支えた永久不変の自然法というイメージが、自分は信じるか否かは別として、すこぶる頭の固い誰かが必ず信じているに違いないものとして、想定されているのではないだろうか。
 
 ダントレーヴは警告を発する。

異なる著者が同一の表現を用いているというだけでは、相互のつながりがあることの証明にはならない。(中略)同じ表現が形式上継続していることは、決定的な要素ではない。同一の観念にきわめて異なる意味があてられ、全く異なる目的に仕えていることもあり得る。

 近代の自然法論者たちは、中世のスコラ学者や教会法学者の思想を曖昧模糊としたものとして排撃し、彼らこそが失われた純粋な自然法を回復したと主張した。

表現ぶりを除けば、中世と近代の自然法の観念の間に共通点はほとんどない(15)。

 とはいえ、相違を強調しすぎるのも問題である。ダントレーヴは、オクスフォードで指導を受けたA. J. カーライルから、政治理論で本当に新しいことは稀だと教えられたことを伝える。古いスローガンが繰り返し叫ばれる。新しさは、しばしば、強調点の違いにある。民主政、社会契約、自然法、これらの観念を古代ギリシャに遡ることはできる。
 
 しかし、アリストテレスの民主政の観念とジェファーソンのそれ、ソフィストたちの社会契約の観念とルソーのそれとは相当に違う。強調される点が変化している(58)。
 
 論者ごと、時代ごとに異なる自然法の観念を列挙し、整理し、相互の関連を明らかにする哲学的アプローチにも意味はあるが、それで十分とは言えない。何より、観念の区分や整理の仕方は立場や視点によってさまざまであってきりがない。多様な区分や整理がもたらす混乱は、自然法に対するヒューム流の懐疑論に手を貸すことになりかねない(17-18)。
 
 ダントレーヴは、歴史と哲学を融合することを提案する。自然法がどのような内容の理論であるかよりもむしろ、その時代、その環境でどのような役割を果たしてきたか、どのような問題点を解決しようとしてきたか、それに着目する必要がある。

自然法の実際の意義は、理論そのものよりも、その果たした役割に求められるべきである(35)。

 そうした作業を経ると、法哲学、政治哲学と言われるものが、実は「大文字で書かれた自然法」であることが分かる、とダントレーヴは言う(19)。
 
 自然法がそれぞれの時代や環境でどのような役割を果たしてきたかに着目するとは、どのようなことを意味するのだろうか。
 
 ダントレーヴは、『学説彙纂』冒頭で引かれた自然法についての諸家の見解を挙げ、これらの見解が相互に矛盾・抵触しており、そこから理路整然とした理論を構成することが至難であることを指摘する(28)。
 
 3世紀の法律学者、ウルピアヌスのものとされる言明は、以下の通りである(Digest, I.1.1)。

私法は3つの部分からなる。自然法(jus naturale)、万民法(jus gentium)、そして市民法(jus civile)である。自然法は、自然がすべての動物に教える法である。それは人間固有のものではなく、すべての動物に共通する。地上の動物、海の動物、そして鳥も含めて。自然法によって、われわれが婚姻と呼ぶ男女の結合、子作りと養育がもたらされる。野獣も含めて、他の動物もこの法を熟知していることを、われわれは正しく理解できる。万民法、つまり諸国民の法は、すべての人類が遵守する法である。それが自然法と同一でないことは容易に理解できる。自然法はすべての動物に共通するが、万民法は人類についてのみ共通している。

 ウルピアヌスの引用から数節後に、2世紀の学者、ガイウスの『法学提要』からの引用がある(I.1.9)。

法と慣習の下にあるすべての人々は、部分的には彼ら独自の法に、また部分的には人類すべてに共通する法を遵守する。各国民が自分たちのために定立する法は、その個別の都市(civitas)固有のものであり、市民法(jus civile)と呼ばれる。個別の市民社会(civitas)に固有のものだからである。これに対して、自然の理性がすべての人類の間に定める法は、人類すべてにより、同様に遵守され、万民法(jus gentium)と呼ばれる。すべての国家が遵守する法だからである。

 さらに、ウルピアヌスと同時代の学者、パウルスの言明が引用される(I.1.11)。

「法」ということばは、いくつかの意味で用いられる。法ということばがつねに衡平で善きものとの意味で用いられるとき、それは自然法(jus naturale)である。他方、ある市民社会(civitas)の全員、または多数の利益に適うものとの意味で用いられるとき、それは市民法(jus civile)である。

 並置されたこれら三者の言明は、容易には整合しない。ウルピアヌスは法を三分するが、ガイウスとパウルスは二分する。ガイウスの言う万民法は、パウルスの言う自然法と重なり合うように見える。他方、ウルピアヌスの言う自然法は、「自然の理性が定める」ものではなく、むしろ自然の摂理に対応している。弱肉強食の自然の摂理は、捕食される側にとっては、衡平で善きものどころではないであろう。
 
 さらに、4世紀の学者、ヘルモゲニウスは、万民法にもとづく制度として、戦争、諸国家の分立、王国の創建、私有財産、土地境界の画定、建造物の建設、売買・賃貸借等の商取引を挙げる(I.1.5)。暗黙の前提になっているのは、これらの制度が自然法にもとづくものではないということであろう。
 
 『学説彙纂』の編纂者は、その気があれば、これらの学説の間の明白な矛盾・抵触を排除することもできたはずである。なぜそうしなかったのか。
 
 ダントレーヴは、個別の学説の文字面にこだわるのはやめて、当時の法律家にとって、自然法や万民法がどのような役割を果たすものであったかに着目すべきだと言う。
 
 彼らにとって、自然法は体系化されたルール群ではなかった。むしろ解釈を通じ、事物の本性に即した標準的な場面で妥当する法を見出す際の範型──そうした場面で普遍的に妥当すべき衡平で善きルールは何かを指し示す観念であり、法学的構成物であった。すべての所有形態の起源には「自然な占有naturalis possessio」があり、すべての債務の背景には「自然な債務 naturalis obligatio」がある。自然債務は法的に執行されないこともあるが、それでも、あらゆる債務の前提となる観念である。ときに同一視されることもあった万民法とともに自然法は、実定制度を変転する──ときには標準から外れた──具体の状況に適応させるとともに、国を超える社会生活の規範を見出す手段となった(33)。
 
 『学説彙纂』に現れる自然法は、ストア派の哲学理論とも法哲学一般とも風馬牛である。また、自然法が実定法を超越し、衝突するときには実定法を無効化するとの主張は、『ローマ法大全』のどこにも見られないことを、ダントレーヴは指摘する(34)。自然法は実定法をその内在的な価値──衡平と善──にもとづいて体系的に理解し、具体の状況に適応した適切な回答を得るための解釈の道具であった。
 
 表現の同一性ではなく、果たした機能に着目すべきもう一つの例として、グロティウスの言明がある。
 
 グロティウスは、『戦争と平和の法』の冒頭部分で、人が他の動物と異なり社交性を有すること、つまり他の人々と共に平穏に暮らそうとする自然な傾向を有することを指摘する*5。この社交性からさまざまな正義の原則──他者の所有物に手を出さず、持ち主に返還する、約束を守る、過失によって他者に損害を与えたときは賠償する──が発生する*6。さらに、将来を見通しつつ人々の利益に適う健全な判断に従って行動すべきことが帰結する*7。そして、グロティウスによると*8

今まで述べたことのすべては、邪悪の極みなしには想定し得ないことではあるが、たとえ神が存在しないとしても、あるいは神が人事に全く関心を持たないとしても、なお妥当する。

 このグロティウスの言明は、宗教改革後の激烈な宗教戦争がもたらした深刻な懐疑主義に沈むヨーロッパ世界で、理性のみにもとづき、人間一般に妥当する社会生活の枠組みを構築しようとしたそのあかしとして、しばしばとりあげられる*9
 
 ただその一方で、ダントレーヴが指摘するように(53)、このグロティウスの言明は彼の独創ではなく、スペインの後期スコラ学派の議論からの借用であり、そこに革命的なものは全くないとする論者もいる。中世以来の自然法の強靱な伝統に寄り添っていただけ、というわけである。
 
 たしかにフランシスコ・スアレス*10は、次のように述べている*11

自然法は立法者としての神に由来するものではない。なぜなら、自然法は彼の意思に依存しておらず、その帰結でもないから。神は、自然法に関しては、命令したり禁止したりする上位者として行動してはいない。グレゴリウス*12によれば、かりに神が存在せず、あるいは神が理性を用いることなく、あるいは神がものごとを正しく判断しなかったとしても、それでも正しい理性にもとづく同一の指令──たとえば、嘘をつくことは悪い──が人の心に宿り、つねに人を得心させる。

 ダントレーヴは、ここでも先例をただひたすら遡ろうとする歴史家たちは、学説はその文字面ではなく、精神によって判断されるべきことを忘れていると言う(54)。
 
 自然法を理性の要請とするグロティウスの定義に、たしかに革命的な点はない。しかし彼の議論の要点は、それぞれ特定の宗派に依拠する神学論争が説得力を失いつつある時代において、ある法体系に、宗派の争いを超える新たな説得力を付与することにあった。つまり彼は、神学的前提から、とりわけ絶対的主権者としての神という観念から、独立した法理論が成立可能であることを証明した(55および71-72)。ダントレーヴは、グロティウスのいくつかの言明を援用する。

私が第一に努めたことは、自然法に属するこれらの事柄の証明を、何人たりともその判断に暴力を加えることなしには否定し得ない確実な諸観念に関連づけることであった。かの法の諸原理は、適切に考察するならば、われわれが外界の事物を誤ることなき感覚で捉えるのとほとんど同様に、明白にして自明であるから*13
 
自然法は変更不能であって、神でさえそれを変えることはできない。神の力は無限ではあるが、無限の力も及び得ない事柄がある。矛盾することなしには意味をなさない命題によってしか記述し得ない事柄がそうである。たとえば、神でさえ2×2が4でないことにはできないように、神は本来的な悪を悪でないことにはできない*14
 
私が現代のすでに起きた、あるいはこれから起こりそうな論争に関心を向けていると考える者は、私を不当に扱っている。数学者が現実の物体から抽象化された図形を考察するように、私も法を扱うに際して、いかなる個別の事実にも関心を寄せてはいないと断言できる*15

 神への信仰から切り離された、人であれば誰でも備わる理性にもとづく、純粋に理論的な論証が目指されていたことが分かる。
 
 同一の表現が使われていたかもしれない。しかし、その表現を通じてグロティウスが切り拓いたのは、イエズス会士のスアレス*16が予想もしなかった全く新しい世界──根底的に異なる価値観を抱く人々が、理性に基づいて平穏かつ公平に社会生活を送ることのできる世界である*17
 
 ダントレーヴは1970年に『自然法』の第2版を刊行し*18、その際、3篇の論文を新たに加えた。そのうちの1篇は、H.L.A. ハート『法の概念』*19の書評である。
 
 彼が着目するのは、『法の概念』の第IX章第2節「自然法の最小限の内容」である(192)。ハートはここで、人間の傷つきやすさ、大まかな平等性、限られた利他性、資源の稀少性など、人間の社会生活を条件づけているいくつかの、おそらくは不変の特質を挙げ、こうした諸特質を無視しては、実効的な法体系はそもそも維持し難いであろうことを指摘する。このため、法も道徳も、こうした諸特質を理由とする一定の内容を含むであろうことが示唆される。
 
 ダントレーヴが提起する疑問は、「自然法の最小限の内容」の実践上の帰結についてである。「自然法の最小限の内容」を無視した実定法が存在したとしても、ハートの立場からすれば、それも実定法である。当該社会の認定のルールに照らして、実定法として認定される限り。しかし、それは従うべき法と言えるのだろうか。ファシスト国家の裁判官が、そうした法の適用を拒否したとき、それは実定法ではあるが適用を拒否されるべきものだとあえて言うべきなのだろうか(202)。パルチザンの闘士であり、カトリック教会の権威にも敢然と立ち向かったダントレーヴの心意気が感じられる。
 
 ただここで、ダントレーヴは、ハートの法理論が果たすべき「役割」を見誤っているように思われる。ハートが少々誇張した表現を使って『法の概念』のはしがきで述べているように、彼の狙いは、法の「記述的社会学」を遂行することであった*20
 
 「自然法の最小限の内容」は、それを無視する法体系は、法体系として存立することが事実上至難であるという社会学的事実を指摘するための理論である。彼の言うルールの「内的側面」なるものも、第三者から見たとき、行為者や評価者が法や規範を内的側面から使用することがある、というだけである。また、彼の言う実定法の妥当性(validity)は、当該社会において「実定法」と(法律家集団に)みなされているという、やはり社会学的事実を示しているにすぎない。実定法であることと、それに拘束力があるか否かとは、ハートの法理論では全く別の問題である。
 
 ファシズム国家の裁判官が、心底厭わしいルールであるがゆえに、実定法ではあるがその適用を拒否すると宣言することはあり得る。裁判官も裁判官である以前に一人の人間であるから。ハートの社会学的な実定法観念からすれば、そこに何の矛盾も困惑もない。
 
 ハートの弟子であるジョゼフ・ラズが指摘したように*21、実定法は自分には権威がある、裁判官を含めて人々を拘束すると「主張する」ものである。しかし、その権威主張をどこまで額面通りに受け取るべきかは、裁判官を含めて実定法の名宛人が個別具体の場面で決めることである。
 
 幸いにして、現在の日本の憲法典は幾多の基本権条項を含む。基本権条項を手掛かりにして、衝突をあからさまにすることなく、道徳的要請を勘案して実定法の刃先を丸めたり、刃渡りを縮めたりすることができる。合憲限定解釈とか部分的違憲判断と言われる解釈技術である。そうした日常的な法的実践も、ハートの法理論と矛盾するわけではない。
 
 自然法の実定法に対する優位を語る人々が、実際に意図しているのは、個々人の実践理性が究極的には実定法の権威主張に優越するということであろう。それはその通りである。実定法は個々人の実践理性の営みを簡易化するための道具である。便利な道具ではあるが、場合によっては使えないこと、使いにくいことがある。例外的な状況では、たとえばファシスト国家の実定法体系に対する忠誠義務が人の心の中で包括的に解除され、パルチザン運動に身を捧げることもあるだろう。
 
 しかし、それを自然「法」の優位として語るべきなのだろうか。
 

 
 カントが独特の不透明な語彙と論理で説明するように、人は実践理性にかかわる判断をするにあたって、ルール本位で論理を進める傾向がある。「嘘はつくべきではない」とか、「困っている友人がいたら助けるべきだ」とか。人の実践的思考の枠組みは、そういう風にできあがっている。しかも、誰もがあるルールに従うべきだし、そのことを誰もが承知していると想定したとしても、そのルールは成立し得るという「定言命法」の要請にかなうルールでなければならないことも、人は心得ている。そうしたルールに思いあたったとき、それは自然の「法」だと人は考えがちなのであろう。
 
 しかし、カント自身が認めるように、そうしたルールは、各人について主観的にしか決まらない「格率 Maxime」にとどまる。唯一のルールがすべての人に対しておのずと妥当するわけではない。だからこそ、誰もが各自の実践理性の機能する射程を等しく限定し合うものとして承認する客観的な法の体系が必要となる*22。それなくしては、平穏な社会生活は成り立ち得ない。各人がそれぞれ正しいと信ずるルールを思うがままに執行し始めれば、そこに現出するのは、ホッブズ的な万人が万人と戦う自然状態である。
 
 ところが、平穏な社会生活をもたらしてくれるはずの客観法の体系も、所詮は人が作り出すものである。人間というねじ曲がった素材から真っ直ぐなものを切り出すことはできない。すべての人が遵守すべき客観的な法秩序は、結局は、その実現を目指して永遠に努力を続けるべき理想にとどまる。理想から離れた現実の世界では、実定法秩序の権威要求を額面通りに受け取るべきか否かにつき、最後は個々人の実践理性が答えを出すしかない*23
 
 こうした循環する問題状況を自然「法」の優位として語ることは、道具にすぎない「法」や「ルール」に過剰な役割を割り振ることになるように思われる。
 
 ダントレーヴ自身が指摘するように、役割を見定めることが肝心である。
 

*1 Alexander Passerin d’Entrèves (1902-1985). トリノ大学教授を長く務めた。1967年から71年まで国際法哲学・社会哲学学会会長。
*2 Natural Law: An Introduction to Legal Philosophy (New edn with an introduction by Cary J. Nederman in 1994, Transaction Publishers [1st edn, 1951]). 初版の邦語訳が久保正幡の訳で岩波書店から1952年に刊行されている。以下では、1994年版の頁数を丸括弧内に表記する。久保正幡訳には、必ずしも従っていない。
*3 Francisco de Vitoria (1492–1546). スペインの神学者・法学者。
*4 Hugo Grotius(1583-1645). オランダの法学者。国際法の父。
*5 Hugo Grotius, The Rights of War and Peace, Book I (Richard Tuck ed, Liberty Fund 2005) 79-80 [Preliminary Discourse VI].
*6 Ibidem, 86 [Preliminary Discourse VIII].
*7 Ibidem, 87 [Preliminary Discourse IX].
*8 Ibidem, 89 [Preliminary Discourse XI]. なお、彼の自然法論は『捕獲法論』でより詳細に展開されている。この点については、拙稿「国際紛争を解決する手段としての戦争の放棄」『日本とブラジルからみた比較法 二宮正人先生古稀記念』(信山社、2019)所収参照。
*9 Richard Tuck, Philosophy and Government 1572-1637 (Cambridge University Press 1993) 197-98.
*10 Francisco Suárez (1548-1617). 後期スコラ学派を代表する神学者の一人。1564年にイエズ会に入会。セゴビア、アルカラ、サラマンカ、コインブラ等で教えた。
*11 Francisco Suárez, Selections from Three Works (Thomas Pink ed, Liberty Fund 2015) 209 [‘A Treatise on Laws and God the Lawgiver’, II.VI.3].
*12 Gregory of Rimini (circa 1300-1358). アウグスティノ修道会の修道士。
*13 Grotius (n 5) 111 [Preliminary Discourse XL].
*14 Ibidem, 155 [Book I, chapter 1, X.5].
*15 Ibidem, 132 [Preliminary Discourse LIX].
*16 Francisco Suárez(1548-1617) スペインの神学者、法学者。
*17 See also Knud Haakonssen, Natural Law and Moral Philosophy: From Grotius to the Scottish Enlightenment (Cambridge University Press 1996) 29.
*18 Natural Law: An Introduction to Legal Philosophy (2nd edn, Hutchinson & Co 1970).
*19 H.L.A. Hart, The Concept of Law (3rd edn, Oxford University Press 2012 [1st edn, 1961]).
*20 Ibidem, vi.
*21 Joseph Raz, The Morality of Freedom (Clarendon Press 1986) chapter 4.
*22 ここでの「客観的」という形容詞にも、当該社会のメンバーの誰もが尊重すべきものといった相対的な意味合いしかない。フランスではフランスの法に従い、カナダではカナダの法に従い、日本では日本の法に従う。それが求められる。
*23 以上については、さしあたり、拙著『憲法の円環』(岩波書店、2013)第4章「カントの法理論に関する覚書」参照。

 
 
》》》バックナンバー
第1回 現実感覚
第2回 戦わない立憲主義
第3回 通信の秘密
第4回 ルソー『社会契約論』における伝統的諸要素について
第5回 宗教上の教義に関する紛争と占有の訴え
第6回 二重効果理論の末裔
第7回 自然法と呼ばれるものについて
第8回 『ペスト』について
第9回 「どちらでもよいこと」に関するトマジウスの闘争

長谷部恭男

About The Author

はせべ・やすお  早稲田大学法学学術院教授。1956年、広島生まれ。東京大学法学部卒業、東京大学教授等を経て、2014年より現職。専門は憲法学。主な著作に『権力への懐疑』(日本評論社、1991年)、『憲法学のフロンティア 岩波人文書セレクション』(岩波書店、2013年)、『憲法と平和を問いなおす』(ちくま新書、2004年)、『Interactive 憲法』(有斐閣、2006年)、『比較不能な価値の迷路 増補新装版』(東京大学出版会、2018年)、『憲法 第7版』(新世社、2018年)、『法とは何か 増補新版』(河出書房新社、2015年)、『憲法学の虫眼鏡』(羽鳥書店、2019年)ほか、共著編著多数。