昨年掲載した本連載にご登場くださった方々による書き下ろし単行本『ナッジ!? 自由でおせっかいなリバタリアン・パターナリズム』が、5月末に刊行となりました。そこで、編者である那須耕介さんと橋本努さんによる刊行記念対談を、2回にわたってお送りします。連載のはるか前からずっと本企画に携わっておいでながら、ずっと隠れて(?)いらっしゃった橋本さんが満を持してのご登場です。お二人は15年来の長いつき合いがある、同い年。北海道と京都を結ぶ、いまならではのビデオチャットで本書を振り返りつつ、コロナに見舞われた現状も含めてナッジについて語り合った内容を、どうぞお楽しみください。……やっぱりけっこう真面目ですけど、やっぱりなぜかおもしろいですよ。[編集部]
~ナッジと操作、習慣、福祉国家をめぐって~
「操作か自律か」の二択を疑う
那須耕介: 今回の対談にあたってこうして本になったものを読み返してみて、三つほどお話ししてみたいことがあるように思いました。一つはいくつもの章で明確に取り上げられている問題、もう一つはちょっと見えにくい隠しテーマ的な問題、そして三つ目はこの本では十分に論じきれなかった問題です。
■「いい操作」なら「いいナッジ」!?
那須: 一つ目はナッジが個人の自律を侵害するような「操作(マニピュレーション)」になるんじゃないか、という危惧です。これについては、私自身も含めて何人もの人が論じています。
ただそれとは別にずっと気になっていたのは、企画段階でいろいろ議論する中で、橋本さんがふと、操作ってそんなに重大な問題だろうか、という趣旨のことをおっしゃったことでした。たしか、「ほんとにいいナッジが考案されたら、それが操作的かどうかなんて、あまり気にならないんじゃないか」と。
橋本努: ナッジとして「いい操作」がありうるんじゃないか、という問題ですね。ちょっと挑発的に聞こえるかもしれませんが、いま、さまざまな場面でナッジが導入されている。
那須: 賛否両方ありますけどね。
橋本: 「ナッジ」というのは、なかなか日本語でいい言葉が見つからないですけれども、肘で他人の脇をつつくとか、他人の肩をポンと押すといった意味で、これは人間のコミュニケーション全般に関わる動作ですね。すこしおせっかいなんだけれども、そんなにいやなおせっかいというわけではない。そういう仕掛けというか政策に対して、いろいろな分野からの関心が集まっている。
もともとは、行動経済学者のテイラーと法哲学者のサンスティーンが共著で『実践行動経済学』(日経BP社)という本を著したことがきっかけで、「ナッジ」への関心が高まりました。それで、サンスティーンが来日したときに、那須さんは彼の論文を集めて、翻訳書を出しましたよね。
那須: 『熟議が壊れるとき 民主政と憲法解釈の統治理論』(勁草書房、2012年)ですね。これはサンスティーン先生自身に、彼の憲法理論関連の論文を自薦していただいた独自の論文集でした。
橋本: その後、私は雑誌『思想』に、リバタリアン・パターナリズムに関する論文を上下2回で掲載したことがあった。那須さんも論文を書いた。そういう背景があって、那須さんから今回、私にお声がけいただいたんですよね。
那須: ええ、そうでした。
橋本: ただ、それ以前に那須さんと私は、マニアックな音楽情報を交換し合うという音楽のつながりがありましたから、このお互いの音楽の好みの傾向が、ひょっとしたら関係しているかもしれませんが、その話はまたにして。
■「操作」が気になってしかたない人たち!?
那須: 僕が橋本さんにこの企画をもちかけたとき、橋本さんならナッジやリバタリアン・パターナリズムについて自分とは相当違う見方を示してくれるだろう、という思惑がありました。たとえばこの「操作」問題への関心の持ち方なんかは特にそうなんじゃないか。
概して法哲学者は、ナッジの「操作」性に対して過剰に警戒感をもちますよね。この問題になると突然忠実なリバタリアンになったかのように、「操作はよくない、ましてパターナリスティックな介入を当人に気づかれないように行うなんてとんでもない」と批判する。自分にもたしかにそういうところがありました。
でも、これはもしかすると“法哲学者”特有のバイアスかもしれない。いまでも「操作」批判自体は大事だと思うんですが、その際、自分は自律性や主体の概念について、かなり狭い見方に囚われてきたような気がするんです。
橋本さんと議論すればそういう部分がほぐされるんじゃないか、見えてなかった部分が見えてくるんじゃないかと思ったわけです。
橋本: ナッジというのは、行動経済学的にみてうまくいくからといって、「いい」わけではない。どんなナッジだったら「いい」のか。背後にある価値の問題、思想の問題を考えなければなりません。
■サンスティーンの前言撤回!?
橋本: むかし、サンスティーンは最初、リバタリアン・パターナリズムの政策アイディアとして、結婚制度の民営化という、斬新な提案をしました。これはおもしろいですね。政府が結婚を認定するのではなくて、教会やNPO(非営利組織)によって、自由に多様に結婚を認定してもらう。そうすれば、同性愛者の結婚という問題を解決できる、というわけですね。斬新です。しかしその後、サンスティーンはこのアイディアを取り下げてしまった。
那須: 彼は2017年のEcon Journal Watch誌に「私がとても後悔している発言(The Statements I Most Regret)」という記事を書いたのですが、そこで「公的な結婚制度にかけがえのない価値を認めている人は無数にいるのだから、その廃止は大きな損失だ」と述べています(注:https://econjwatch.org/articles/the-statements-i-most-regret)。
橋本: サンスティーンは自分のアイディアを撤回してしまったので、何がリバタリアン・パターナリズムのコアにあるのか、これがよくわからなくなった。そこで考えるべき問題は、「どんなタイプのリバタリアン・パターナリズムだったらいいのか」ということです。たとえば、人の「自律」を助けるようなナッジ政策だったらいいのかどうか。
■自律を助ける干渉だってあるんじゃないか!?
那須: 今回自分の原稿(『ナッジ!?』第2章)では熟慮的自律と統合的自律という表現を使ったんですが、前者の、自分の熟慮と意志による徹底的な自己支配だけを自律とみなすなら、自分が意志しなかったことを外から干渉されて行うことは、定義上、自律の欠如だということになる。
僕は以前から「自立」と「自律」とは別問題だろう、判断や行動に際して他人に依存することと、その人が自律しているかどうかとは直結しないんじゃないかと考えてきました。それで今回、無意識の行動も含めたふるまい全体の首尾一貫性がその人の「自分らしさ」を形作っていて、その「自分らしさ」をゆがめない、ということが「自律」の核なんじゃないか、という統合的自律の考え方を出してみたわけです。
橋本: そういう「自律」を支援するためだったら、ナッジ政策で操作してもいいということですね。
那須: ええ。そうすると、外からの干渉がその人の自律を助けることも十分ありうるわけですから。いつのまにか自分を見失ってしまった人が、他人から「君らしくないよ」って言われて「あ、そっか」って気づくこともある。そういう干渉は、自律を支えたり促したりすることの範疇に入るだろう。この観点に立てば、ナッジの操作性にあまり過剰に反応しなくていいのかもしれない。
橋本: リバタリアン・パターナリズムは、もともとパターナリズムに対する批判として出てきた。たとえば、シートベルトの着用義務は、パターナリズムです。あるいは原付バイクに乗るときはヘルメットを着用しなければならないというのもパターナリズムです。そこには選択の余地がない。
■パターナリズムのバージョンアップ!?
橋本: しかしこうした強制的な法律よりも、もっといい方法はないのか。これがリバタリアン・パターナリズムの着眼点です。
たとえば、もし自分で自分に生命保険をかけるなら、シートベルトをしなくてもいい、という政策はどうでしょう? シートベルトをしないと、交通事故が起きたときに、自分がケガした際の治療費は巨額になりますね。リスクが大きすぎる。
事故に巻き込まれたとき、たとえ相手が悪くても、相手には賠償を請求しないで、すべて自分が加入した生命保険で負担する。そういう生命保険に入っておけば、シートベルトをしないという選択(オプション)を認めることかできる。そういうオプション(選択肢)を認めてもいいんじゃないかな。
もちろん、こうした仕組みがうまくいくかどうかはわかりませんけれども、リバタリアン・パターナリズムというのは、なんとか知恵を絞って、新しい制度を提案しようとします。パターナリズムを強制しない仕組みです。そういう発想力におもしろさがあると思うんですね。
那須: 制度設計に関わる人の選択肢を増やしただけではなくて、これまで制度設計に縁がなかった人にもその可能性を開いた、というところがありますね。
■「押しつけがましくないおせっかい」、プリーズ!?
橋本: それからもう一つ、リバタリアン・パターナリズムのおもしろさはどこにあるのかというと、人間の欲望の「あいまいさ」に気づかせてくれる点です。
たとえば那須さんの章に出てくる婚活ナッジについて考えてみると、昔はだいたい、近所におせっかいな人がいて、結婚相手を紹介するというコミュニケーションがあった。「もういい年なんだから」とか「だれかいい人いないの?」とか言って、結婚を気遣ってくれた。それはすこし押しつけがましくて、前近代的な温情主義という面があった。いまはしかし、こういうおせっかいなコミュニケーションは、ずいぶん減りましたね。
ところが人々はしだいに、政府に少子化対策を求めるようになってきた。子育て支援や、それ以前の婚活を支援すべきだと主張するようになってきた。「温情主義はいやだ」と拒否していたけれども、今度は政府に温情的なことを求めるようになった。
ある調査によると、結婚したいと思っている若者たちの割合は、減っていないようですね。でも、お付き合いしている人の割合は、ずいぶん減っている。すると人は、誰かにいい人を紹介してもらいたいとか、押しつけがましくない仕方でナッジしてもらいたいと思うようになる。
この「押しつけがましくない仕方でナッジしてもらいたい」という欲望は、自律の理念からは説明できないかもしれませんね。あるいはストレートな温情主義や権威主義の理念でも説明できない。どうも人間の欲望というのはあいまいで、自律と依存の二分法では説明できない要素がある。私はそこに、「自己陶冶」の次元があると思うんですね。
那須: 婚活ナッジの話は、もっといろんな使い方ができたかもしれませんね。
かつては近隣や職場のような典型的な親密圏の周縁に、一種の準親密圏的な人間関係がそれなりに機能していた。結婚のことでも、子育てのことでも、いわゆるおせっかいな人たちが声をかけてくることがあったわけです。でもいまは、そういう準親密圏的な部分が極端に薄くなって、赤の他人同士の希薄なつきあいと、べったり濃厚に世話をやきあう親密な関係とに二極化している。この問題とナッジへの関心とは、切っても切れない関係にあると思う。
親密ではないけれど赤の他人ともいえない人同士が、どの程度、どんなかたちで興味をもちあい、小さなおせっかいをやきあえるのか、それをもう1度考え直すところに来ているような気がするんです。近所で虐待が起きてないか、お互いが配慮しあうのも、見方によっては一種の「監視」ですよね。でもそれさえ遠慮するのがプライバシーを尊重するリベラルな態度だ、というのはどこかおかしいんじゃないか。そういう気分と、ナッジへの関心の高まりとは、どこかでつながっているような気がするんです。
■ナッジで気軽に政策実験!?
橋本: ナッジというのは、自律を支援するナッジもあれば、そうでないナッジもある。で、「いいナッジ」というのは、自律を支援するものなのか。私は別のもっといいナッジの方向性があるんじゃないか、と主張しているんです。
たとえば最近、この新型コロナウイルス(Covid-19)の問題が拡大しているあいだにも、政府はいろいろなナッジ実験をしています。経済産業省は2020年3月27日、レジ袋が必要な場合、あるいは不要な場合に、あるカードをレジで提示するというやり方で、どの程度までレジ袋を減らすことができるのか、いろいろなパターンで実験した結果を公表しています。
レジ袋が必要な方は、①「海洋汚染の写真付きのカード」を提示する、②「諸外国の規制状況を記したカード」を提示する、③「レジ袋が必要な方はこのカードを提示してください」と書かれたカードを提示する、あるいは④「レジ袋が不要な方はこのカードを提示してください」と書かれたカードを提示する。以上の四つのパターンで実験した結果、①のパターンが、レジ袋を最も減らす効果があったようです。
しかしこういう実験は、アイディアしだいのところがあって、別のもっといいカードを提案できれば、もっといい成果が上がったかもしれませんね。
たとえば別の実験で、コンビニのミニストップと千葉市が提携して、レジ袋が必要な人には、千葉市が指定する「指定可燃ごみ袋(10リットル)」を8円で買ってもらう、という実験をしたようです(3月2日から5月31日まで)。
那須: あまり指摘されてないけれども、ナッジ論の功績の一つは社会実験、政策実験への敷居を大きく下げたことでしょう。お金もかからない、強制するわけでもないので、比較的手軽にいろんなアイディアを実行に移して、効果も確かめられる。経済学的なツールと組み合わせれば、どの手法をとれば最適の選択に近づけるのかを数字でも示せる。
■ナッジの切り札じゃない使い方!?
那須: もう一つ指摘できるのは、ナッジを最終的な政策的切り札として使うのではなく、その手前の、政策的なオプションを探るためのパイロット的な実験の方法として使う、という発想ですね。
よく知られた例を挙げると、街頭犯罪を抑制するために、取り締まりを強化するだけではなくて、街路に花壇をおいたり、落書きを消したりすることが人びとの行動にどう影響するかをみる。
一つひとつが切り札になるわけではないけれど、それぞれの効果を測りながらその組み合わせ、取捨選択を考えていく。自分たちのオプションを知る、広げるためのツールとしてナッジが使われることが多いように思います。OECD(経済開発機構)の本(『世界の行動インサイト』明石書店)に紹介されているナッジの例も、ほとんどがそういう実験事例でしたよね。
■「操作的」なんて、なんの批判にもならん!?
橋本: これまでの政策では、こうしたリバタリアン・パターナリズムの発想はなくて、「厚生主義」vs「リバタリアン」vs「市民社会」という三つどもえの構図で議論してきたと思うんです。
いわゆる行政サイドは、厚生主義の考えに基づいて、プラスチックごみを減らすためには、石油やプラスチック製品に対する課税を強化すればいいと考えた。しかしこれは課税という、きわめてシンプルな発想で対応しようとするので、アイディア不足なんですね。
この行政サイドの厚生主義に対して、リバタリアンたちは反対してきた。リバタリアンというのはいわば市場原理主義者で、プラスチックごみが環境を破壊しているという考え方をそもそも疑っている。
第三の勢力として、政府にも市場にも与しない「市民社会派」の人たちがいる。たとえば生活協同組合などですが、ある市民グループが率先して、環境を破壊しない生活を実践する。プラスチックごみを出さない生活をする。そしてその啓蒙的な生活スタイルを、今度はフォロワーたちが真似て採用する。そういう市民的な啓蒙実践でもって、環境破壊を防ごう、政府に頼らないで問題を解決しよう、というわけですね。しかしこうした考え方では、なかなか問題が解決しないんですね。
そこでリバタリアン・パターナリズムという発想が出てきた。問題の解決のために、新しい政策アイディアを提起する人たちが現れた。その背景には、この場合は「リサイクル運動」という、市民と行政の連携による環境主義の思想がありますけれどもね。このリサイクルの考え方をさらに練っていくかたちで、リバタリアン・パターナリズムが現れた。
ナッジが操作的であると批判する人もいるけど、では従来型の厚生主義、従来型のリバタリアニズム、従来型の市民社会論は、どうなのか。リバタリアン・パターナリズムのほうがうまく対応できるんじゃないか。それが操作的だと批判している場合ではないんじゃないかと。
■どうしたらナッジが受け入れられる!?
那須: 操作的なナッジが受け入れられる理由には、いくつか考えられます。一つは、干渉を受ける人が実際に支払うコストがごくわずかな場合。大した負担でないからかまわないよ、というのが一つですね。
もう一つはナッジの目的、政策の狙いに異論がない場合。プラスチックごみを減らすことについて誰も反対してないときには、その手段も受け入れられやすい。サンスティーンは非常に巧妙で、なるべく異論のなさそうな目的ばかり例に選んで議論を進めてきましたよね。
橋本: なるほどコストが安くて、目的に異論がなければ、操作的でも受け入れられますかね。
那須: でも他方、同性婚の推進のような社会を二分するような目的を掲げて結婚の自由化(法律婚制度の廃止)を論じたことについては、最初にお話ししたとおり、当人が結婚した後、これを撤回するはめに陥っています。
三つ目は、ナッジされる側がする側を信頼している場合。政府への信頼が厚いときにはそのナッジも受け入れられる可能性が高いし、その逆なら操作への警戒も強まるでしょう。
最後は――これは今日二つ目の主題にもかかわるんですが――ある種の事後承認、遡及的な受容の可能性です。被干渉者の習慣や行動規範がナッジによって変化して、その結果、ナッジそれ自体を受け入れてしまう。そういうケースもありうると思うんですよ。
操作の問題には、こういう遡及的な受容をどう考えるかっていう問題が含まれている。もともと社会的な合意もないし、前もって尋ねたら賛成したかどうかわからないような干渉について、実際に操作的なナッジが行われた結果、我々の行動だけでなく、習慣や行動規範まで変わってしまった場合、我々はこの新しく身についた習慣や行動規範、ライフスタイルに基づいてそのナッジを肯定的に評価するかもしれない。これはやはり洗脳、調教に類することで、すべてよろしくない、ということになるんでしょうか。
橋本: まあリバタリアン・パターナリズムというのは、個々の事例でうまくいったりいかなかったりするわけで、うまくいかないケースも結構あるわけですけれども。
うまくいったとして、それが洗脳とか調教になるのかどうかですが、そうならないように、いくつかのオプションを加える、という方法はどうでしょう。たとえばレジ袋を減らす場合、通常のレジ袋は10円にして、その他にも50円のレジ袋を用意して、こちらはその90%を献金に回す。いくつかの選択肢があれば、私たちはレジ袋とその背後にある問題について、反省的に考えるだけでなく、みんなで議論するようになると思うんですね。どういうかたちで選択肢を提示するのか。これは言い換えれば、どんなリバタリアン・パターナリズムがいいのか、という問題です。選択肢が多ければいいというわけではないですけれども。
――以下、刊行記念対談《番外編2》へつづきます。近日公開、どうぞお楽しみに。[編集部]
プロフィール
那須耕介(なす・こうすけ) 1967年生まれ。京都大学教授。法哲学。著書に『多様性に立つ憲法へ』(編集グループSURE、2014年)、『現代法の変容』(共著、有斐閣、2013年)、共訳書に『自己責任の時代』(ヤシャ・モンク著、みすず書房、2019年)、『メタフィジカル・クラブ』(ルイ・メナンド著、みすず書房、2011年)、『熟議が壊れるとき』(キャス・サンスティーン著、勁草書房、2012年)ほか。
橋本 努(はしもと・つとむ) 1967年生まれ。北海道大学大学院経済学研究院教授。経済社会学、社会哲学。著書に『帝国の条件』(弘文堂、2007年)、『自由に生きるとはどういうことか』(ちくま新書、2007年)、『経済倫理=あなたは、なに主義?』(講談社、2008年)、『自由の社会学』(NTT出版、2010年)、『解読ウェーバー プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』(講談社、2019年)、編著書に『現代の経済思想』(勁草書房、2014年)、訳書にR・メイソン『顕示的消費の経済学』(名古屋大学出版会、2000年)ほか。
2020年5月刊行!
那須耕介・橋本 努 編著
『ナッジ!? 自由でおせっかいなリバタリアン・パターナリズム』http://www.keisoshobo.co.jp/book/b510211.html
ISBN:978-4-326-55084-5 四六判・264ページ 本体2,500円+税
それは「支援」なのか「操作」なのか? 強制にも説得にも頼らない社会改革の新技術とその思想を、気鋭の論者たちが問いただす!
※本書の「はじめに」と「おわりに」をたちよみ公開しています。→【こちらでご覧ください】
《「めんどうな自由、お仕着せの幸福」バックナンバー》
第1回:連載をはじめるにあたって《那須耕介》
第2回:なぜいま、民主制の再設計に向かうのか《大屋雄裕さんとの対話》
第3回:ぼくらは100点満点を目指さなくてもいい?《若松良樹さんとの対話》
第4回:80年代パターナリズム論の光と影のなかで《瀬戸山晃一さんとの対話》
第5回:熟議でのナッジ? 熟議へのナッジ?《田村哲樹さんとの対話》
第6回:サンスティーンという固有名を超える!《成原慧さんとの対話》
番外編1:「小さなおせっかい」の楽園と活動的生(前編)《『ナッジ!?』刊行記念編者対談》
番外編2:「小さなおせっかい」の楽園と活動的生(後編)《『ナッジ!?』刊行記念編者対談》