憲法学の散歩道 連載・読み物

憲法学の散歩道
第10回 若きジョン・メイナード・ケインズの闘争

 
 
 
 1914年6月28日、オーストリア=ハンガリー帝国の皇太子、フランツ・フェルディナントは、6年前に同帝国に併合されたボスニアのサラエヴォで暗殺された*1
 
 彼の暗殺を企て実行に移したセルビア人たちはすべて10代で、腕利きの暗殺者ではなかった。1人が投げた爆弾は皇太子の車のトランクで跳ね返って後続の車両を破壊した。フェルディナントはしかし、視察を継続すると言い張る。彼の車両のチェコ人の運転手はサラエヴォの街並みに不慣れで、道を間違えた。戻ろうとして運転手が車両を止めたのは、ちょうどテロリストの1人の面前であった。彼は皇太子を射殺し、夫人に重傷を負わせた。
 
 暗殺直後の国際世論は、オーストリアに好意的であった。しかし、オーストリアはすぐには行動を起こさない。フランスの大統領レイモン・ポワンカレがロシアを公式訪問中で、彼が無事に帰国するまで様子を見る必要があった上、オーストリア政府とハンガリー政府の間で合意を取り付けるのに手間取った。
 
 オーストリアがセルビアに最後通牒を送ったのは、ほぼ1月遅れの7月23日である。国際世論はすでに鎮静化しており、オーストリアの最後通牒は、開戦の口実として受け取られた。セルビアは、暗殺事件の捜査にオーストリアが関与するとの条件を主権の侵害として拒否し、オーストリアは7月28日、セルビアに宣戦を布告した。
 
 ドイツのヴィルヘルム2世は、オーストリアの最後通牒は単なる外交上の手管だと理解し、また、フランスとロシアに戦争準備は整っていないと考えていた。事態を重大視するには及ばないことになる。他方、セルビアを支持するフランスとロシアは、イギリスが三国協商にもとづいて両国を支持すると宣言すればドイツは開戦を思い止まるだろうと考えたが、他国の戦争への関与を望まないイギリスのアスキス内閣はそうした宣言を拒否する。フランスで平和運動を率いたジャン・ジョレスは7月31日に暗殺される。
 
 7月29日のロシアによる部分的動員に対して、ドイツは、動員を解かなければドイツも動員をかけると伝える。対抗して7月31日、ロシアは総動員をかけた。こうすれば戦争は防げるはず、戦争は起こらないはずという各国の思惑が、相手方の想定外の対応によって、むしろ誰もが望んでいない開戦へと各国を誘導することになる。
 
 ドイツ軍参謀本部が伝承していたシュリーフェン・プランは、仏露両国との戦争が勃発したときは、まずフランス軍を急襲して壊滅させ、とって返してロシアを攻撃するという戦略であった。この戦略への固執は、クラウゼヴィッツの格言とは逆に、政治を戦争の手段とすることになる。
 
 ドイツはベルギーを経由してフランスを攻撃しようとし、8月1日、ベルギーに対して軍の通過を妨害しないようにとの最後通牒を発する。中立国であるベルギーがこの要求を受け入れるはずはなく、ドイツのこの行動はイギリスを対ドイツ開戦へと向かわせる。ドイツは、自国にとって軍事的脅威ではあり得ないベルギーをフランス攻撃の単なる道具として扱おうとしている*2
 
 ドイツは8月3日、フランスに宣戦を布告し、4日、ベルギーに侵攻した。同日、イギリスはドイツに宣戦を布告した。
 

 
 第1次大戦の勃発時、ジョン・メイナード・ケインズ*3は、無名の経済学講師であった。
 
 彼は知り合いの財務省官僚から、8月3日(月)に財務省で会うことができないかとの手紙を受け取る*4。手紙は8月1日(土)に出されていた。ケインズは、義理の兄の運転するオートバイでロンドンへ向かう。
 
 財務省が直面した事態は、イングランド銀行の金保有量の大幅な減少である。
 

 当時の世界は金本位制である。各国の通貨は金貨、または一定量の金と兌換可能な紙幣であった。中央銀行の保有する金の量が低下したときは、公定歩合──中央銀行が市中の銀行に資金を貸し出す際の金利──を引き上げる。預金や社債の利子も上がる。人々は利得を期待して金への兌換をひかえる。他方、金利が上がれば、小売商や生産者にとっては経営のための借金のコストがかさむ。金の保有量が回復した中央銀行は金利を低下させる。市中の経済活動は上昇に向かう。
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つづきは、単行本『神と自然と憲法と』でごらんください。

 
憲法学の本道を外れ、気の向くまま杣道へ。そして周縁からこそ見える憲法学の領域という根本問題へ。新しい知的景色へ誘う挑発の書。
 
2021年11月15日発売
長谷部恭男 著 『神と自然と憲法と』

 
四六判上製・288頁 本体価格3000円(税込3300円)
ISBN:978-4-326-45126-5 →[書誌情報]
【内容紹介】 勁草書房編集部ウェブサイトでの連載エッセイ「憲法学の散歩道」20回分に書下ろし2篇を加えたもの。思考の根を深く広く伸ばすために、憲法学の思想的淵源を遡るだけでなく、その根本にある「神あるいは人民」は実在するのか、それとも説明の道具として措定されているだけなのかといった憲法学の領域に関わる本質的な問いへ誘う。


【目次】
第Ⅰ部 現実感覚から「どちらでもよいこと」へ
1 現実感覚
2 戦わない立憲主義
3 通信の秘密
4 ルソー『社会契約論』における伝統的諸要素について
5 宗教上の教義に関する紛争と占有の訴え
6 二重効果理論の末裔
7 自然法と呼ばれるものについて
8 「どちらでもよいこと」に関するトマジウスの闘争

第Ⅱ部 退去する神
9 神の存在の証明と措定
10 スピノザから逃れて――ライプニッツから何を学ぶか
11 スピノザと信仰――なぜ信教の自由を保障するのか
12 レオ・シュトラウスの歴史主義批判
13 アレクサンドル・コジェーヴ――承認を目指す闘争の終着点
14 シュトラウスの見たハイデガー
15 plenitudo potestatis について
16 消極的共有と私的所有の間

第Ⅲ部 多元的世界を生きる
17 『ペスト』について
18 若きジョン・メイナード・ケインズの闘争
19 ジェレミー・ベンサムの「高利」擁護論
20 共和国の諸法律により承認された基本原理
21 価値多元論の行方
22 『法の概念』が生まれるまで
あとがき
索引
 
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長谷部恭男

About The Author

はせべ・やすお  早稲田大学法学学術院教授。1956年、広島生まれ。東京大学法学部卒業、東京大学教授等を経て、2014年より現職。専門は憲法学。主な著作に『権力への懐疑』(日本評論社、1991年)、『憲法学のフロンティア 岩波人文書セレクション』(岩波書店、2013年)、『憲法と平和を問いなおす』(ちくま新書、2004年)、『Interactive 憲法』(有斐閣、2006年)、『比較不能な価値の迷路 増補新装版』(東京大学出版会、2018年)、『憲法 第8版』(新世社、2022年)、『法とは何か 増補新版』(河出書房新社、2015年)、『憲法学の虫眼鏡』(羽鳥書店、2019年)ほか、共著編著多数。