憲法学の散歩道
第3回 通信の秘密

About the Author: 長谷部恭男

はせべ・やすお  早稲田大学法学学術院教授。1956年、広島生まれ。東京大学法学部卒業、東京大学教授等を経て、2014年より現職。専門は憲法学。主な著作に『権力への懐疑』(日本評論社、1991年)、『憲法学のフロンティア 岩波人文書セレクション』(岩波書店、2013年)、『憲法と平和を問いなおす』(ちくま新書、2004年)、『Interactive 憲法』(有斐閣、2006年)、『比較不能な価値の迷路 増補新装版』(東京大学出版会、2018年)、『憲法 第8版』(新世社、2022年)、『憲法学の虫眼鏡』(羽鳥書店、2019年)、『法とは何か 新装版』(河出書房新社、2024年)ほか、共著編著多数。
Published On: 2020/2/3By

 
 モーシェ・ベン・マイモン(英語名:モーゼス・マイモニデス)は、著名なユダヤ神学者・哲学者である。
 
 1138年*1、イスラム支配下のスペイン・コルドバに生まれたマイモニデスは、1148年、同地がイスラムの過激な解釈を奉ずるアルモハッド派に奪取されたことを契機に、一族とともにコルドバを離れ、モロッコを経て地中海を船でパレスチナへと渡り、1166年にはファーティマ朝の支配するエジプトに居を移す。1171年にファーティマ朝はアイユーブ朝に取って替わられた。貿易商として一族の生計を支えた弟ダーヴィドがインド洋で水死したのち、マイモニデスは1204年に逝去するまで、アイユーブ朝の宮廷医として一族の生計を支え、そのかたわら、同地のユダヤ人コミュニティの指導者として活動した。
 
 哲学に関する著作としては、『迷える者のための導き』が知られている*2。本書冒頭の第Ⅰ部序(I: Introduction)における彼のことばは、迷える者でなくとも困惑させられる。

本書のあらゆる読者に、神の名にかけて厳命する。本書の内容については、私に先立つ著名な賢者によることばそのままによる律法の説明および論評を除くほか、他の誰にも論評したり説明したりしないように。私以外の著名な賢者による言明を除くほか、読者が本書から理解したことは、他の誰にも説明しないように。また、早まって私に反駁しようとしないように。私が何を言わんとしているかについての読者の理解は、私の意図に反しているかも知れないのだから。

つまり『導き』は秘儀であり、その内容は世に伏せられている。読者は、内容を正しく理解したか否か、常に自問するよう迫られている。かりに正しい理解を得られたとしても、読者は誓約に縛られて、それを他言することができない。『導き』は広く読まれることを意図した著作ではない。限られた、秘儀を伝えられるにふさわしい読者にのみ読まれるべき著作である。
 
 『導き』の当初の読者として想定されたのは、マイモニデスの弟子で、修学の中途でエジプトを離れざるを得なくなったジョゼフ・ベン・ジューダである。
 
 ジョゼフは、マイモニデスの指導の下、数学、論理学、天文学を修めたが、律法の秘儀については十分な理解がなく、困惑に陥っていた。『導き』の献辞が明らかにしているように、『導き』はもともと、迷いを解くために、マイモニデスからジョゼフへ、順次送られた書簡から構成されている。
 
 『導き』は「迷える者」、神の与えた律法と知を授ける哲学の双方を学んだ結果、困惑するに至った者のみを読者として想定している。自身の得た知に従って律法を捨て去るべきか、それとも律法を厳守して知に背を向けるべきか、苦悩を続ける者を読者として想定している。
 
 律法の隠された意味を明らかにし、「迷える者」を精神の危機から救うことが、『導き』の使命である。
 

 もしそうした使命を持つ著作が、想定された読者を超えて世に広く流布するなら、深遠な知を理解し得ないにもかかわらず、十分な叡知と理解力があると自負してやまない大多数の読者からは、いわれのない非難を受けることになるであろうし、さらには真の知を探求する哲学を不倶戴天の敵とみなす宗教的・政治的権威からの抑圧や攻撃を被ることになる。
 ↓ ↓ ↓
 
つづきは、単行本『神と自然と憲法と』でごらんください。

 
憲法学の本道を外れ、気の向くまま杣道へ。そして周縁からこそ見える憲法学の領域という根本問題へ。新しい知的景色へ誘う挑発の書。
 
2021年11月15日発売
長谷部恭男 著 『神と自然と憲法と』

 
四六判上製・288頁 本体価格3000円(税込3300円)
ISBN:978-4-326-45126-5 →[書誌情報]
【内容紹介】 勁草書房編集部ウェブサイトでの連載エッセイ「憲法学の散歩道」20回分に書下ろし2篇を加えたもの。思考の根を深く広く伸ばすために、憲法学の思想的淵源を遡るだけでなく、その根本にある「神あるいは人民」は実在するのか、それとも説明の道具として措定されているだけなのかといった憲法学の領域に関わる本質的な問いへ誘う。


【目次】
第Ⅰ部 現実感覚から「どちらでもよいこと」へ
1 現実感覚
2 戦わない立憲主義
3 通信の秘密
4 ルソー『社会契約論』における伝統的諸要素について
5 宗教上の教義に関する紛争と占有の訴え
6 二重効果理論の末裔
7 自然法と呼ばれるものについて
8 「どちらでもよいこと」に関するトマジウスの闘争
 
第Ⅱ部 退去する神
9 神の存在の証明と措定
10 スピノザから逃れて――ライプニッツから何を学ぶか
11 スピノザと信仰――なぜ信教の自由を保障するのか
12 レオ・シュトラウスの歴史主義批判
13 アレクサンドル・コジェーヴ――承認を目指す闘争の終着点
14 シュトラウスの見たハイデガー
15 plenitudo potestatis について
16 消極的共有と私的所有の間
 
第Ⅲ部 多元的世界を生きる
17 『ペスト』について
18 若きジョン・メイナード・ケインズの闘争
19 ジェレミー・ベンサムの「高利」擁護論
20 共和国の諸法律により承認された基本原理
21 価値多元論の行方
22 『法の概念』が生まれるまで
あとがき
索引
 
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About the Author: 長谷部恭男

はせべ・やすお  早稲田大学法学学術院教授。1956年、広島生まれ。東京大学法学部卒業、東京大学教授等を経て、2014年より現職。専門は憲法学。主な著作に『権力への懐疑』(日本評論社、1991年)、『憲法学のフロンティア 岩波人文書セレクション』(岩波書店、2013年)、『憲法と平和を問いなおす』(ちくま新書、2004年)、『Interactive 憲法』(有斐閣、2006年)、『比較不能な価値の迷路 増補新装版』(東京大学出版会、2018年)、『憲法 第8版』(新世社、2022年)、『憲法学の虫眼鏡』(羽鳥書店、2019年)、『法とは何か 新装版』(河出書房新社、2024年)ほか、共著編著多数。
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