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『思考の自然誌』

 
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マイケル・トマセロ 著
橋彌和秀 訳
『思考の自然誌』

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※『道徳の自然誌』のたちよみはこちらからどうぞ⇒【「第一章 相互依存仮説(冒頭)」「訳者解説」】


序文
 
 本書は、『心とことばの起源を探る─文化と認知』(The Cultural Origins of Human Cognition)の続編─というよりはもしかしたら前日譚─にあたるものだが、少しばかり違ったテーマに焦点を当てている。一九九九年〔邦訳は二〇〇六年〕に出版した前著で取り扱ったのは「ヒトの認知の独自性はどこにあるのか?」という問題で、その答えは「文化に」だった。ヒトはひとりひとりが、さまざまな、他の種では見られないくらい強力な認知スキルを発達させる。これは、ヒトが、慣習的言語を含む文化によって生み出されたあらゆる類いの事物や行動慣習の真っただ中でおとなになるから、そしてもちろん、それらをマスターするのに不可欠な文化学習のスキルを備えているからにほかならない。出会ってゆくさまざまな事物や慣習をひとりひとりが内面化し、内面化されたものたちが、世界とのあらゆる認知的インタラクションを媒介するのだ、ということを論じた。
 本書で取り扱う問題も、あまりかわり映えはしない─「ヒトの思考の独自性はどこにあるのか?」。その答えもかわり映えがなくて、「ヒトの思考が根本的に協力的なものである点に」というものだ。しかし、かわり映えのしない問いとかわり映えのしない答えで、まったく異なる本ができあがってしまった。一九九九年の本は単純明快なものだった。当時、我々が手にしていた類人猿とヒトとの比較データがわずかなものだったためだ。そのおかげで、「他者を、志向性を備えた行為者とみなしているのはヒトだけで、これがヒトの文化をもたらしているのだ」というようなことが言えたのだ。しかしいまとなっては、事情がもっと複雑であることが分かっている。大型類人猿は、志向的行為者としての他者について、かつて考えられていたよりもはるかに多くのことを認識しているようだ。しかし、にもかかわらず、ヒトで見られるような文化や認知を備えてはいない。本書で紹介する数多くの研究に基づくなら、決定的な違いは、ヒトが、「他者を「志向性を持つ行為者」として理解している」だけでなく、「他者とともに知恵を集め、協働的な問題解決に関わる個々の行為から複雑な文化的制度に至るまで、志向性の共有(shared intentionality)を伴うあらゆる行為をなす」点にありそうになってきた。つまり、問題の焦点は、いまや「伝達プロセスとしての文化」というよりは「社会的協調プロセスとしての文化」へと移行しつつある─そして実際のところ、我々がここで論じるのは、「ひとりひとりが、協働採食というごくシンプルな行為において他者との相互調整をおこなって暮らしていた初期の進化的ステップこそが、現生人類の文化を可能にした」ということなのだ。
 焦点を「思考」に絞りこむ、ということは、本書が、「ヒトが、ごく近縁な他の霊長類たちがとらないようなやり方で志向性の共有をおこなうこと」を、すでに他で論じてきたように述べるにはとどまらないことを意味する。加えて、そこに含まれる内在的な思考プロセスを検討することになる。このような思考プロセスのありようを描き出すには─特に、ヒトの思考プロセスと類人猿の思考プロセスとの違いを見極めるには─、認知表象、推論、自己モニタリングという、思考プロセスの構成要素となるプロセスそれぞれの特性をあきらかにする必要がある。志向性の共有仮説において主張するのは、これら三つのプロセスはすべて、ヒト進化の過程において、鍵となるふたつのステップを経て変容してきた、ということだ。変容は、どちらのステップについても、より協力的な生活様式をヒトが選択せざるをえないような社会的インタラクションや組織の大幅な変化の一部として起こった。ヒトは二度にわたって、生き残り繁栄する上で、さまざまな協働的(つまりは文化的)行為において他者と行動を協調し、協力的(つまりは慣習的)コミュニケーションにおいて志向状態を協調させるためのあらたなやり方を見出すことを強いられた。このことが、ヒトの思考のあり方を、二度にわたって変容させたのだ。
 本書を書き上げることができたのは、言うまでもなく、多くの研究機関や皆さんのサポートがあったおかげだ。ピッツバーグ大学科学哲学センター(ジョン・ノートン、所長・特命セミナーリーダー)には、二〇一二年春、集中して執筆に取り組める落ち着いた半年間のホストとなってくださったことにお礼を申し上げる。この滞在期間中、今回の企ての中核をなす多くのトピックについて時間をかけて議論してくれたボブ・ブランダムの寛大さからは特に多くを得た。この半期中、有益な議論を何度もさせていただいた同大心理学部のセリア・ブラウネルとカーネギー・メロン大のアンディ・ノートンにも感謝する。同じ年の夏に、ジム・コナントとセバスチャン・レドゥルのオーガナイズでおこなわれたベルリンでのSIAS夏期セミナー「二人称─比較からの諸展望」において、本書のテーマを発表させていただいたこともたいへん有益だった。これらの出会いのおかげで、本書をよりよいものにすることができたと思っている。
 原稿本体については、さまざまな章に目を通し、とても有益なフィードバックを与えてくれたラリー・バーサロウ、マッティア・ガロッティ、ヘンリケ・モール、マルコ・シュミットに感謝したい。とりわけ、リチャード・ムーアとハネス・ラコッツィの二人は、ほぼ初稿段階の原稿全体に目を通し、内容・表現の両方に関して、鋭いコメントと提案を数多く返してくれた。最終段階の原稿に対して有益なコメントとご批判を数多くくださったハーヴァード大学出版局のエリザベス・クノールと三名の匿名査読者にもお礼を申し上げる。
 最後に、いちばん大切な謝辞を。すべての過程を通じて、常に詳細な批判コメントと示唆とを与えてくれた、妻、リタ・スヴェトローヴァに感謝する。数多くのアイディアが彼女との議論を通してより明確になり、文中の分かりにくかったくだりも、彼女の文学的な目によって、少なくとも以前よりは、明快になった。
 
 
訳者あとがき
 
 本書はTomasello, M.(2014). A Natural History of Human Thinking. Harvard University Press の邦訳である。邦題は『思考の自然誌』としたが、原題に“human thinking” とある通り、ここでの議論の中心となるのは「ヒトの思考」、あるいは「ヒト的な思考」の自然誌・進化的起源である。
 著者であるマイケル・トマセロについては改めて紹介する必要もないだろう。ヒトの乳幼児および大型類人猿を対象に、さまざまな行動実験の手法をもちいながら、言語に始まり、社会的認知や社会的学習、協力、コミュニケーションといったプロセスとその起源に関して、発達・進化・文化の視点を見据えた実証的な研究を世界的に牽引してきた。一九八〇年にエモリー大学に着任後、一九九八年からは二〇年間に渡ってドイツ、ライプチヒのマックス・プランク進化人類学研究所の共同所長を務め、現在はデューク大学のジェームス・F・ボンク特別教授としてアメリカに戻っている。
 本書の『(ヒトの)思考の自然誌』というタイトルは一見地味に映るかもしれない(いや、どう見ても地味だろう)が、実はここには、チャールズ・ダーウィン以来脈々と続いてきた研究の到達点のひとつが、控えめに示されていると言える。この点について少しだけ述べておきたい。
 近年のトマセロは、理論的関心の焦点がshared intentionality「志向性の共有」であると繰り返し述べており、本書は、この「志向性の共有」というアイディアについて体系的に論じた最初の著書と位置づけることができる。トマセロの著書として本書の前作にあたる『ヒトはなぜ協力するのか』(橋彌和秀訳、勁草書房)は、スタンフォード大学でのシンポジウムをもとに編まれた本で、トマセロの基調講演に加え、四名の演者の講演へのコメントがまとめられたものだった。ヒト乳幼児と大型類人猿との比較研究を主軸としながら、「まず協力的に振る舞い、相手の反応によって対応を振り分ける」「他者に同調するだけでなく、他者にも同調を求める」といった、発達の早期から見出せるヒト特異的な行動傾向から生じる協力の起源を、他の演者のコメントも取り込みながら論じたものだった。
 上記の本の翻訳が上がった際に、ご報告を兼ねて数理生物学者の巌佐庸先生にお送りしたところ、丁寧なお返事をいただいた。感想を読ませていただきながら特に印象に残ったのが「私は社会生物学者なもので、心の中でどのようなメカニズムで意思決定をしているかというところはブラックボックスにして理解していましたが、心理学(認知科学)の方は、それをきちんと考え実験をしておられることに敬服しました」とコメントしておられたことだった。
 翻ってみると、『思考の自然誌』という、本来的に個体に終始するプロセスに焦点を当てたタイトルの意味は、まさにこの点にあるように思う。協力も、コミュニケーションも、ヒトの専売特許ではない。少なくとも自然科学の文脈において、社会性の生物が見せる食物分配や教示行動、粘菌がおこなう個体間の組織化を協力と呼ばない理由はないし、鯨類や鳴禽類の音声交換を(言語とみなす理由もないが)コミュニケーションとみなさない理由もない。個々の行動が究極的には個体の利益に帰着可能であることも共通している。しかし、それぞれの種が(たとえば)協力を実現しているからといって、個体が協力を実現する基盤となるシステムが同一とは限らないのだ(収斂進化を思い出すことができる)。
 種ごとの内的メカニズムを超越して、協力という現象そのものの一般原理をあきらかにすることの重要性は強調してもしすぎることはないが、この作業と並行して、協力を可能にする個体の内的メカニズム(あるいはソフトウェア)を種ごとにあきらかにすることも、重要な課題となる。自然科学は、理論的にも方法論的にも、この問題を取り扱えるだけの道具立てを、特に二〇世紀後半から現代にかけて、着々と整えてきたのだ。本書において「ヒトの思考」を取り扱うというのは、協力を可能にするヒトの個体それぞれの内的システムにアプローチすることであり、そのメカニズムの特徴を「志向性の共有」から生じるものとして描き出すことが主軸だった。この意味においての「(ヒトの)思考の自然誌」というタイトルなのだと思う。
 トマセロとは研究上の方向性が異なるが、言語学者であるスティーブン・ピンカーは、二〇〇四年に、著書How the Mind Works?(邦題は『心の仕組み』上・下、椋田直子訳、ちくま学芸文庫)の中で、「我々が知らないこと」は問題(problems)と謎(mysteries)に分けることができ、前者(問題)は、現時点で解決法がはっきりしなくとも洞察や知識の蓄積によって目指すものの手掛かりを得ていくことが可能であるのに対し、後者(謎)は、びっくりして途方に暮れながら眺めることができるだけだ、というチョムスキーの指摘を引きながら、「心」をめぐる「謎」は、(「心的イメージ」から「愛」に至るまで)「問題」へとアップデートされてきた、と述べていた。
 心の重要な一角を占めるプロセスと言える思考も、謎とすら意識されないところから、謎として対象化され、そして問題へとアップデートされてきた。本書以降のトマセロの論考の進展と、関連領域のデータの蓄積は、ピンカーが著書のタイトルに掲げた“How” の問いを超え、“What is the mind?”(「心とは何か」)、そして、こころの進化的適応価そのものを自然科学の問題として取り扱おうとすることの宣言のようにも思える。
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 本書における訳語の選択については、joint/shared attention の訳語として「共同/共有注意」を採らず「注意の接続/共有」とした一方でjoint goal は「共同のゴール」と訳出する等、読者には困惑される方もいらっしゃるかと思う。たとえばjoint のニュアンスひとつとってもたとえば「共同」(あるいは「接続」)という単一の述語に落とし込むことは原理的に困難であり、結果として統一的な訳語を採らず部分的にこのような「不安定な」訳語を選択させていただいたことをご了承いただきたい。このような部分については索引でご確認いただくことができる。本邦訳を入り口にしてこの分野の研究に興味を持っていただけた方が、原著や、トマセロたちの研究チームのものをはじめ一連の原著論文を辿っていただけることがあれば、翻訳者としてはこの上ない喜びだ。
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 文筆家、批評家であり名翻訳家でもあった吉田健一のエッセイ「翻訳論」は、「翻訳は一種の批評である」という一文から始まる。では批評とはなにか、それは創造的な活動でありうるのか、と彼の論は展開していくのだがそれはここでは置くとして、冒頭の台詞を時々拠り処にして思い出していた。この翻訳が、トマセロの原著の批評として機能していることを願うばかりだ。
 ここ二年の間にトマセロさんとお会いする機会が二回あった。二〇一八年に新学術領域「共創的コミュニケーションのための言語進化学」(岡ノ谷一夫代表)が主催した“Evolinguistics 2018” のために家族で来日し、東京と京都で一連の講演をこなされた際には、シンポジウムのひとつ(Intention Sharing and Language Evolution「意図共有と言語進化」)に一緒に登壇させていただいた。その後、ハンガリーのブダペストで開催されたBCCCD(Budapest CEU Conference on Cognitive Development)2020 でもお会いした。昼食時に会場近くの大聖堂の前の通りを歩いているトマセロさんとすれ違って、「世界中の色々な所で会えるって、なんか面白いですね」「次はどこで会うんだろうね」と、立ち話をしたのが二〇二〇年の一月はじめのことだ。この文章を書いているのは二〇二〇年の初秋だが、春以降に大きく変わった世界の情勢を経てみると、記憶の中の風景の現実感が薄れてしまう気すらするが、それでも、邦訳の公刊をトマセロさんにようやく報告ができて、肩の荷が下りる思いだ。
 偏に私の不徳の致すところで翻訳作業が大幅に遅れてしまった。北海道医療大学の松本由起子先生には、お忙しい中、第四章及び第五章の一部の下訳をお引き受けいただき、多大なご協力を賜った。本当にありがとうございました。九州大学持続可能な社会のための決断科学センターの井上裕香子先生(現・高知工科大学)には訳文へのコメントをいただいた。もちろん最終的な責任は訳者にある。多くの方にお礼とお詫びをしなくてはならないが、特に、本書の姉妹編である『道徳の自然誌』の訳者である中尾央先生、勁草書房編集部の土井美智子さん、永田悠一さんには大変なご心配とご面倒をおかけしたことをお詫び申し上げるとともに、的確な訳語の整理やアドバイスに感謝いたします。
 
二〇二〇年一〇月二〇日
橋彌和秀
 
 
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