憲法学の散歩道 連載・読み物

憲法学の散歩道
第20回 『法の概念』が生まれるまで

 
 
 法史学者のブライアン・シンプソン(Alfred William Brian Simpson)は、1931年にイギリス国教会の牧師の末っ子として生まれた。1951年、オクスフォードのクィーンズ・コレッジに入り、法学を学んだ。1955年から73年まで、リンカーン・コレッジのフェロウを務める。その後、ケント大学教授、ミシガン大学教授等を歴任する。逝去したのは、2011年である。
 
 シンプソンの没後に刊行された著書に『『法の概念』に関する考察』*1がある。H.L.A. ハートの『法の概念』を批判的に考察した著作であるが、興味深いのは、ハートがオクスフォードの法哲学教授に就任するに至るまでの、イギリスの法哲学の歴史や、当時の大学における法学の状況に関する叙述である。
 
 ハートは大学卒業後、1932年から40年まで、租税・遺言・信託等を専門とする大法官部(Chancery Division)のバリスターとして働いた。大学で彼が修めたのは、古典文学・哲学(classical Greats)である。法学教育を全く受けなかったわけではない。Greatsで第一級(first)の成績を得た後、彼はチャールズ・マニング*2の指導の下で法学を学び、2つ目の第一級を取得しようとした。結局、半年ほどでそれはあきらめたが。
 
 バリスターになるための雑多な知識の詰め込みは、法学教育とは言いがたい。
 
 第二次大戦後の1945年、ハートはオクスフォードのニュー・コレッジのフェロウとなったが、彼の研究・教育のテーマは哲学であった。彼はJ.L. オースティン*3を囲む土曜午前の研究会の創設時からのメンバーである。
 
 1952年、オースティンのすすめもあって、ハートは法哲学講座の教授となる。彼の法哲学教授への就任は画期的とみなされ、約1世紀にわたる凋落状態からイギリスの法哲学を復活させたと言われている*4。ハート自身、1988年のインタヴューで、次のように述べている*5

1940年代、50年代のオクスフォードの法哲学は、ひどい状態だった。大きな原理原則もなく、大問題に立ち向かうこともなかった。

 法哲学講座の教授に就任するまで、ハートが公表した論文は3つ、書評が3つである。そのうち、法学に関係するものは1つだけであった*6。恐るべく少ない業績である。それでも彼が法学の主要な講座の教授に就任することができた背景には、当時のオクスフォードにおいて哲学者がきわめて高く評価されていたこと、哲学者たちにとって知的エリートである仲間内での評価こそが肝心であって、論文を公表することにさしたる意義が置かれていなかったこと*7、そして、当時のオクスフォードにおいて法学および法学者の評価が低かったことがある*8
 
 教授選考にあたってハートの推薦状を執筆したギルバート・ライル*9は、これまで馬鹿や悪漢(fools and knaves)が占めてきたこの教授職も、今や高潔な人格と知性を備える者が務めるべきときが来たと記し、ハートを困惑させたそうである*10。ライルはさらに、次のように述べる*11

私自身の見解を明らかにすべき一般的な論点がある。この国における法哲学は停滞している。長年にわたり、1~2の例外を除いて、哲学者の関心をそそるようなものは何1つ生み出されていない。法哲学は、ドイツ、スカンジナヴィア、そして合衆国では進展している──大いにとは言えないまでも、人目を惹くほどには。イギリスは法哲学の進展に貢献していない。私の主たる関心は、哲学のために何が必要かにある。

 問題は、哲学である。法学ではない。ハートの就任は、哲学者の間で歓迎された。ハート自身も、当時の法学教師たちを見下していたと言われる。ハートは、友人のアイザィア・バーリン宛ての手紙で、次のように述べる*12

法学の教師連の変わった点は、4~5人の例外を除いて、自分たちはバリスターのなりそこないで、ロンドンにいる本物たちの亜流だと考えていることだ。哲学者が自分たちのことを公務員か株式仲買人の見習いにすぎないと考えているようなものだ。そうしたわけで、裁判官たちに対する忌まわしい崇敬とおべっかがもたらされる。彼らがもっとも必要としているのは、自尊心だ。

 オクスフォード大学の法学教育は、平均以下の学生向けのものと考えられていた。シンプソンが同大学で教え始めた頃、高校教師からの推薦書で、こいつ(Snooks)はイマジネーションもないし、古典文学・哲学や歴史と取り組めるほどの能力もないが、記憶力はよいので法学の勉強には向いていると記されることは普通のことであったと、彼は述べている*13
 
 コレッジの創設者や元同僚の縁者、スポーツ選手、中東のどこかの首長の息子が、学力不足ながら、法学専攻の学生として入学することも間々あった。毎週チュートリアルで課される作文に関して、教科書の記述をそのまま書き写す──盗作である──ことが伝統となっていたコレッジもあったと伝えられている*14。他方で、ハート自身の経歴が示すように、バリスターになるために大学で法学教育を受けることは不可欠ではなかった。ソリシターになるには徒弟修行で足り、大学教育は不要であった。
 
 当時、ブレイズノーズ・コレッジで法学を学んでいたウィリアム・トワイニング*15は、ハートの講義について、次のように語っている*16

ハートは魅力的で、知的な風貌を備え、物腰がぎこちなく穏やかな声をしていた。話はきわめて明晰だった。私は彼の講義ノートをまだとってある。私の記憶にある光景は、皺くちゃな服を着た人物が試験棟(the Examination Schools)の講義室のテーブルに座っている姿である。部屋は聴衆で一杯だった。テーブルの下に彼の両足が見えており、話をしながら彼は片方の靴下を引っ張り上げていた。講義が進むにつれて、彼は靴下をいじりながら、さらに横に傾いてゆき、ついにはほとんど水平になった頭がテーブルの上に少しだけ見えているようになったが、それでも講義は明晰に聞こえたし、テーブルの下での活動はさらに明確でかつ目を惹くものとなった……私は知的にも視覚的にも魅惑された。まず分かったことは、「法とは何か」等という法哲学の古典的な疑問に正確な意味合いはなく、それらは間違った形で提起されているということである。私はすぐにハートの教授就任講演(‘Definition and Theory in Jurisprudence’)を読んだ。ハートの基本的な概念分析の方法を最初に表明したものだ。私は衝撃を受け、魅了され、改宗した。

 その後、トワイニングは突如として法学の猛勉強を開始し、第一級の成績を取得した*17
 

 
 ハートが就任した法哲学講座は、もともとはコーパス・クリスティ・コレッジが1867年に設置したthe Corpus Professorship of General Jurisprudenceと呼ばれる講座であった。設置時の教授候補としては、ヘンリー・メイン*18が念頭に置かれていた。いわばメイン個人のために(ad hominem)設置された講座である。メインが着任したのは1869年である。講座に関する規定は、教授の任務を次のように定める。

教授は法の歴史と種々の国々に関する比較法について講義と教育を行うものとする。それに加えて、教授自身が適切と考えるならば、法一般の諸原理および彼が望ましいと考える主題に関する他の事柄を扱うこともできる。

 想定されていた主要な担当分野は法史学と比較法であったことが分かる。法一般の諸原理に関する仕事は、附加的なものとされている。加えて、毎年28夜、コレッジに宿泊することも求められていた*19
 
 メインの講義はさして人気のあるものではなかったようである。彼は1878年に辞職し、ケンブリッジ大学のトリニティ・ホールの学寮長となった。その後この講座は、フレデリック・ポロック、ポール・ヴィノグラドフ、カールトン・ケンプ・アレン、アーサー・グッドハート等が受け継いだ。その間に講座は、コーパス・クリスティ・コレッジからユニヴァーシティ・コレッジに移っている。
 
 ハートが就任したときも、法史学と比較法が主要な担当分野であるとの規定は変わっていない。1968年にハートが辞職し、ロナルド・ドゥオーキンが後任として着任した際、規定は次のような同語反復的な定めへと修正された*20

法哲学教授は、法哲学について講義と教育を行うものとする(The Professor of Jurisprudence shall lecture and give instruction in Jurisprudence)。

 ドゥオーキンは、オクスフォード大学ではじめて法哲学を教えるよう求められた教授であった。
 

 
 ハートの『法の概念』は、彼の教授としての講義内容をまとめたものである。法史学や比較法に関する記述は、ほとんど含まれていない。
 
 同書の第V章第3節「法の基本要素」は、前近代社会における法と近代社会における法とを対比させている*21。前近代社会における法は、人々に責務を課す1次ルールのみからなり、人々の間の慣行として徐々に成立し、確立し、その中には次第に衰退していくものもある。こうした前近代社会のルールについては、何がそうしたルールにあたるのかについて、しばしば不確定性が生じ、また、社会環境の変化に適時に対応することができず、しかも違背に対する制裁が十分に制度化されていないために、実効性の確保が難しい。
 
 こうした弱点を克服するために、近代社会では1次ルールに加えて、1次ルールに関するメタ・レベルのルール、つまり2次ルールが誕生する。何が当該社会のルールであるかを判別するための認定のルール、ルールの変更が必要となった際にその手続等を定める変更のルール、そしてルールの違背がなされたか否か、違背であるとしていかなる制裁が適切であるかを定める裁判のルールである。2次ルールの中でも認定のルールは、裁判官を中心とする公務員集団の事実上の慣行として成立する。それが完全に成文化されることはあり得ない。
 
 前近代社会と近代社会の法のありようを対比させるこのハートの議論は、広く知られている。しかし、ハートは、前近代社会の具体例を全く援用していないことをシンプソンは指摘する。マリノフスキーやエヴァンズ-プリチャード等による文化人類学の諸文献はすでにあらわれていて、エヴァンズ-プリチャードはオクスフォードの同僚であったにもかかわらず、それらへの言及はない*22
 
 1次ルールと2次ルールの組み合わせとして近代的な法秩序を説明しようとするハートの姿勢は、比較法に対する彼の関心の欠如と裏腹である。世界のどこであれ、近代的な法秩序である以上は、1次ルールと2次ルールとの組み合わせとして説明できる。インドや東アジアやイスラムの法をそれぞれ個別に調査・研究する必要はない。
 
 シンプソンはこうした隣接領域への無関心は、当時のオクスフォードの研究者に共通していたとし、『オデュッセイア』に登場するキュクロプス*23と同様の、それぞれの洞窟に閉じこもって隣人に無関心でいる態度だとしている*24。中には、キュクロプスと同程度に奇怪な研究者もいた*25
 
 ハートの関心は哲学にあり、法はその素材にすぎなかった。『法の概念』には、イギリス特有のコモン・ロー(判例法)に関する詳しい分析さえない。法の歴史も他国の法のありようも、彼の関心を惹くものではなかったのであろう。
 
 シンプソンは、「狐はたくさんのことを知っているが、ハリネズミはでかいことを1つだけ知っている」というアルキロコスの詩の断片に即して、ハートはハリネズミであったとする*26。ハリネズミと狐の対比は、アイザィア・バーリンが取り上げたことで有名となった。バーリンの説明は、二重螺旋状に複雑に入り組んでいる。

一方には、いっさいのことをただ1つの中心となるヴィジョン、1つの体系──それは多かれ少なかれ一貫し明確に表明されるが──それを通じてものごとを理解し考え感じるような人々、単一の普遍的な組織原理を通じてのみ、彼らの存在と彼らの言っていることが意味を持つような人々がいるが、他方では、しばしば無関係でときには互いに矛盾する多くの目的、関連しているとしても事実上のもので、何らかの心理的ないし生理的な理由でのみ関連しており、いかなる道徳的、美学的な原則によっても関係づけられない多くの目的を追い求める人々がいて、両者の間には、大きな裂け目が存在している*27

 前者がハリネズミ、後者が狐である*28。ハートが主著『法の概念』で述べている1つの「でかいこと」は、法ではなく、法秩序である。
 
 『法の概念』は、「法とは何か」という問いかけから始まる。ハートは、「法」について類と種差による定義を与えることでこの問いに答えることはできないとする。「法」が属するとされる類自体を理解することにも、同じ程度の困難が待ち構えている。また、「法」ということばの用いられる標準的な事例を指し示すことでこの問いに答える──問題を解消する──こともできない。「法とは何か」と問いかける人々も、このことばが用いられる標準的な事例のことは、とうに承知しているはずである。
 
 それなのに、彼らを「法とは何か」という問いかけへと駆り立てるものは何か。それは、次の3つの論点だとハートは言う──①法とは威嚇に裏付けられた命令にほかならないのか、②法と道徳とはどのような関係にあるのか、③法を構成するとされるルールとは一体何なのか*29。ハートがその後に行っているのは、法という概念そのものを解明したり、その定義を提供したりすることではなく、これら3つの論点に即して法秩序のありようを解明することである。
 

 
 『法の概念〔第3版〕』の拙訳は、2014年12月にちくま学芸文庫として刊行された。この年、私は前の大学を定年前に退職して、現在の大学に移った。ハートも法哲学教授職を定年前に退職しているが、彼のそのときの理由は、法哲学に貢献することがもはやできなくなったから、というものであった。シンプソンは、これが大学を早期退職すべき理由となるのであれば、あらゆる大学は無人の荒野へと変貌を遂げるだろうと述べる*30
 
 1961年の原著初版の刊行から半世紀以上をすぎても、『法の概念』はいまだに法哲学の主要なテキストであり続けている。いまだに真剣な議論と検討の対象となる。これに匹敵し、置き換わる本は、ドゥオーキンもラズも書いていない*31。簡単には成し遂げることのできない事績である。ちくま学芸文庫の翻訳も、2019年7月の時点で、累計発行部数が12000である。5年足らずで発行部数が1万を超える法哲学の書籍は、そうあるものではない。現在にいたるまで、ハートの業績は私自身の知的活動の源泉であり続けている*32
 
 

*1 Brian Simpson, Reflections on ‘The Concept of Law’ (Oxford University Press 2011). シンプソンは、ミシガン大学ロースクールでの経験について、理念としては教授と学生との活発な議論を通じた教育が目指されていたはずではあるが、実際には1クラス約90人の学生を相手に教授が大部分の時間、一方的に話をしていて、学生はコンピュータでひたすら教授の話を記録している。たまに教授に指名されたときの回答として頼りになるのは、Nutshell等のアンチョコ本である。学生同士の勉強会もあるが、多くの勉強会は試験対策のものだと指摘している(ibidem, 188)。
*2 Charles Manning (1894-1978)は、南アフリカ出身で、1924年から30年まで、ニュー・コレッジのフェロウ。その後、ロンドン大学政治経済学校(LSE)の国際関係論の教授職を1962年まで務めた。
*3 John Langshaw Austin (1911-1960)は、オクスフォードで哲学を教えた。日常言語学派のリーダーと目され、言語行為論を創始したことで知られる。
*4 Oxford Dictionary of National Biographyオンライン版におけるトニー・オノレ(Tony Honoré)の表現である。
*5 Quoted in Simpson (n 1) 34.
*6 ‘The Ascription of Responsibility and Rights’, Proceedings of the Aristotelian Society, New Series, vol. 49 (1948-49) 171-194である。
*7 アイザィア・バーリンは、J.L. オースティンを囲む1930年代の研究会について、次のように述べる。「われわれ[オクスフォードの哲学者]は、自分たちのことしか念頭になかった。われわれが説得しようとした人々は、敬愛すべき同僚だけであった。見解を出版物として公表すべきだという圧力は存在しなかった」(Isaiah Berlin, ‘J.L. Austin and the Early Beginnings of Oxford Philosophy’ in his Personal Impressions (Expanded edn, Henry Hardy ed, Princeton University Press 2001) 144-45)。
*8 Simpson (n 1) 34-35. マイケル・ザンダーは、イングランドでは法学のような実用的学問は大学教育に相応しいほどにはリベラルでない──専門的でありすぎる──との固定観念が長年にわたって支配的であったことを指摘する。ローマ法や法哲学・法史学は大学教育に相応しいが、会社法や租税法や労働法は相応しくないというわけである(Michael Zander, The Law-Making Process (8th edn, Hart Publishing 2020) 461)。
*9 Gilbert Ryle (1900-1976)は、オクスフォード大学で哲学を教えた。主著に『心の概念The Concept of Mind』がある。ハートの『法の概念The Concept of Law』のタイトルは、この本にならっている。
*10 Isaiah Berlin, ‘Letter to Charles Webster on 2 February 1957’ in his Enlightening: Letters 1946-1960 (Henry Hardy and Jennifer Holmes eds, Chatto & Windus 2009) 568. 教授選考委員の1人はカールトン・ケンプ・アレンで、講座の前任者でもあった。彼はハートの選任に反対したと考えられている。
*11 Simpson (n 1) 32.
*12 Quoted in Nicola Lacey, A Life of H.L.A. Hart: The Nightmare and the Noble Dream (Oxford University Press 2004) 157. コリングウッドによれば、classical Greatsの目的は専門の哲学者を育てることではなく、哲学の重要性を心に刻んだ卒業生を政界、官界、法曹界等に送り込むことにある(RG Collingwood, An Autobiography (Clarendon Press 1939) 17)。
*13 Simpson (n 1) 65.
*14 William Twining, Jurist in Context: A Memoire (Cambridge University Press 2019) 22.
*15 William Twining (1934- )は、ロンドン大学ユニヴァーシティ・コレッジで長く法哲学を教えた。証拠法に関する著作も多い。
*16 Twining (n 14) 19.
*17 Ibidem 20-21. トワイニングは、ハートは7年間バリスターとして働いた末、その仕事が嫌になったのだと言う(William Twining, Karl Llewellyn and the Realist Movement (2nd edn, Cambridge University Press 2012) 407)。トワイニング自身、法曹学院(the Inns of Court)に直感的な反感を抱いていた。彼がアメリカで師事したカール・ルウェリンは、有能な法律家であることに誇りを持ち、法の実際の働きに深い関心を寄せる学者で、それはトワイニングにとって新鮮だったと語る(ibidem 408)。
*18 Sir Henry Maine (1822-1888)は、比較法および法史学の専門家。主著の『古代法Ancient Law』における、「身分から契約へ」という標語で知られる。
*19 Simpson (n 1) 21.
*20 Ibidem 24.
*21 ハート『法の概念〔第3版〕』長谷部恭男訳(ちくま学芸文庫、2014)155頁以下。
*22 Simpson (n 1) 171-73.
*23 「ここには評議の場たる集会も定まった掟もないし、彼らは高い山岳の頂きにある、空ろな洞窟に住み、それぞれ自分の妻子は取り締まるけれども、他とは互いに全く無関心で暮らしている」『オデュッセイア(上)』松平千秋訳(岩波文庫、1994)第9歌(105-115)。
*24 Simpson (n 1) 157-60.
*25 Ibidem 121-22. シンプソンの挙げる具体例はあまりに奇怪なので、ここで紹介するのが憚られる。
*26 Ibidem 124-25. もっともシンプソンは、ハリネズミが知っていることは1つだけではないと言う。彼の友人の庭では、野外コンロの裏手にハリネズミが棲んでいたが、毎夕与えられるミルクを飲むために出現し、それからナメクジ獲りに出掛けていた(ibidem, 124)。
*27 Isaiah Berlin, ‘The Hedgehog and the Fox’ in his Russian Thinkers (Henry Hardy and Aileen Kelly eds, Penguin 2008) 24; 邦訳『ハリネズミと狐』河合秀和訳(岩波文庫、1997)7-8頁。邦訳に忠実には従っていない。
*28 バーリン自身は、ハリネズミと狐の分類について、額面通りには受け取らないようにと警告している。どちらでもない人もいるし、両方である人もいる(Ramin Jahanbegloo, Conversations with Isaiah Berlin (Phoenix Press 1993) 188-89)。
*29 ハート(n 21) 29頁以下。シンプソンは、ハートは実際には、この3つの論点に加えて「法が法秩序を構成するとはいかなる意味においてか」という4つ目の論点を取り上げていると言う(Simpson (n 1) 87)。
*30 Simpson (n 1) 15. ハートは教授職を退いた後、ジェレミー・ベンサムの著作集の編纂にたずさわった。1973年から5年間、ブレイズノーズ・コレッジの学寮長を務めている。
*31 Simpson (n 1) 187-88 and 206.
*32 最近の例として、Yasuo Hasebe, ‘Constitutional Revolution, Legal Positivism, and Constituent Power’ in Richard Albert (ed), Revolutionary Constitutionalism: Law, Legitimacy, Power (Hart Publishing 2020)がある。

 
 
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第1回 現実感覚
第2回 戦わない立憲主義
第3回 通信の秘密
第4回 ルソー『社会契約論』における伝統的諸要素について
第5回 宗教上の教義に関する紛争と占有の訴え
第6回 二重効果理論の末裔
第7回 自然法と呼ばれるものについて
第8回 『ペスト』について
第9回 「どちらでもよいこと」に関するトマジウスの闘争
第10回 若きジョン・メイナード・ケインズの闘争

長谷部恭男

About The Author

はせべ・やすお  早稲田大学法学学術院教授。1956年、広島生まれ。東京大学法学部卒業、東京大学教授等を経て、2014年より現職。専門は憲法学。主な著作に『権力への懐疑』(日本評論社、1991年)、『憲法学のフロンティア 岩波人文書セレクション』(岩波書店、2013年)、『憲法と平和を問いなおす』(ちくま新書、2004年)、『Interactive 憲法』(有斐閣、2006年)、『比較不能な価値の迷路 増補新装版』(東京大学出版会、2018年)、『憲法 第7版』(新世社、2018年)、『法とは何か 増補新版』(河出書房新社、2015年)、『憲法学の虫眼鏡』(羽鳥書店、2019年)ほか、共著編著多数。