「人は意味なしで生きていけるか?」とクンデラは問うた
19世紀中盤、ダーウィンが『種の起源』を発表し、人間の存在が相対化された。神に選ばれた絶対の存在ではなく世界に存在するすべての生物のワンオブゼムであると。この時、キリスト教的宇宙において「意味」が解体された。人間以外の生物が生きていくために意味は必要ない。しかし前回のスペンサーと優生学の回で見たように、人は意味が無化された世界で正気を保って生きていくことはできるのだろうか? 「意味」を巡るシリーズの最終回は、チェコの小説家ミラン・クンデラの名作『存在の耐えられない軽さ』を取り上げようではないか。
「われわれがすでに一度体験されたことが何もかももう一度繰り返される」というニーチェの永劫回帰の概念の引用からこの物語は始まる。もしすべてのことが永久に繰りかえされるとしたら、自分のひとつの行動の責任の重さは限りなく重くなる。つまり永劫回帰を生きるのはすべてが意味を持つ「重い」人生だ。反対に自分の人生が一回限りであるならばどんなに悲しみや喜びを感じたとしても、それはすぐに立ち消えてしまう。どんなに重大に感じることでもそれは一回限りの意味がない「軽い」人生だ。
人生は「重い」のか、それとも「軽い」のか?――これがクンデラの設定したテーマだ。無限の意味に押しつぶされるのか、それとも無意味の気まぐれを飛翔し続けるのか?
テーマは概念的だが、物語自体は生々しいラブロマンスである。「重い人生」を生きるのは女主人公のテレザ。「軽い人生」を生きるのは男主人公のトマーシュ。田舎でウェイトレスをしていたテレザは、出張でたまたま彼女の働く食堂を訪れたトマーシュと出会う。テレザは運命の愛を信じ、家族を捨て首都プラハに住むトマーシュの家へと転がり込む。プレイボーイのトマーシュにとっては、行きずりの女を家に泊めることなどなかったはずなのに、テレザの必死さに何かを予感し、彼女とパートナーとなることを決める。
「結婚」は重い世界のテレザにとっては未来永劫続く運命であり、軽い世界のトマーシュにとってはたまたまの一時的契約にしか過ぎない。トマーシュは結婚した後も他の女と浮気を繰り返し、運命の愛を信じるテレザは浮気に傷つきながらも夫を愛し続ける。
そんなある日チェコスロバキアの民主化運動「プラハの春」が引き金となり、旧ソ連がチェコスロバキアを占領する事件が起こる。リベラルな知識人である外科医のトマーシュは一時スイスへ亡命を試みるものの、外国に行きたくないテレザに寄り添うかたちで、社会的地位を奪われ掃除夫となり、最後は夫婦で田舎に逃げ延びトラック運転手となる。
トマーシュは世界に意味を求めない。自分の地位にも愛にも意味を求めず、ひとつの仕事、ひとりの女は自分の知的欲求を満たすひとつの経験でしかなく、そこに優劣も必然もない。これはダーウィンの進化の概念と同じような世界観だ。リベラルな知性をたゆまず育んだ結果、トマーシュは意味に縛られない軽やかな存在となった。
反対にテレザにとってはトマーシュがすべてなのである。彼の人生における自分のウェイトを少しでも重くすること、彼にとって一番特別な存在になること。それがテレザにとっての「生きる意味」なのだ。運命はあるという先入観を疑うことなく、世界を相対的に見ること、自分が変わることに必要な知性を彼女は持ち合わせない。すべての事象を自分の世界観に沿って解釈する。これはダーウィン以前のキリスト教世界の人間のあり方だ。
しかし『存在の耐えられない軽さ』で最後に勝つのは、テレザ=重さなのである。テレザの束縛によりトマーシュは亡命することも叶わず、都会から追い出され、慣れない肉体労働で消耗して老いた存在となる。そうして男性的魅力を失い浮気できなくなったトマーシュを、テレザは独占することに成功する。他の誰も見向きもしない存在にして「運命の人」を支配することで、彼女は自分の人生に勝利する。
……と書くとテレザが酷薄な女のように思えるが、実際酷薄で身勝手な存在として描かれるのはトマーシュだ。田舎のトラック運転手まで身を落としたトマーシュは、しかしその中でかつて味わったことのなかった安息を見出す。テレザと二人で、政治からも恋愛からも解放され、心安らかな日々を送る。そして最後は運転中に崖から落ち、テレザとともにトラックに押しつぶされて死ぬ。そう。軽さのなかで無意味な人生を生きた男は、重みに押しつぶされて幸せな最後を迎えるのだ。
その「重み」は、愛という「意味」と言い換えてもいい。陳腐を嫌ったトマーシュだが、運命の愛という俗悪な概念を受入れ、そこに後悔はなかった。最後に愛は勝ち、それは陳腐だったが、救いでもあった。
さて。この連載のタイトルは「燃えよ本」であるからして、クンデラももちろん炎上している。この小説はフランスで執筆された。キャリア初期、旧ソ連占領下の閉塞したプラハの社会を描いた『冗談』がきっかけでソ連政府に目をつけられ、フランスに亡命せざるを得なかった。社会主義体制のチェコスロバキアで、クンデラは「呪われた作家」だったのだ。著作は発禁処分となっていた。
『存在の耐えられない軽さ』は、ラブロマンスを装いつつ、人間社会や政治の無慈悲さを描き出している。軽さを生きること、すべてのことが「たまたま」であると相対化して捉えることができるのは強い者、優れた者だ。それは知識人であり都会人であり男性のトマーシュであり、大国のソ連である。いっぽう、弱い者、虐げられた者とは、教養がなく田舎の土地に縛られた女性のテレザであり、小国のチェコスロバキアだ。自分が虐げられること、追放されること、存在を否定されることが「たまたま」であると納得できるわけがない。弱さのなかでそれでも生き抜くために、人生には自身の存在の「重さ」と生きる「意味」が必要なのだ。
生物の世界は、意味もなく生と死が繰り返される「軽さ」の世界だ。しかし人間はその軽さに耐えられない。だからどうしようもなく意味を求めて、愛し合ったり憎しみあったりする。クンデラは因果律に縛られずに世界を俯瞰する近代的な「精神」を持つと同時に、チェコスロバキアという土地に根ざしたローカルな「身体」に縛られる存在だ。その二重性が「重さ」と「軽さ」の葛藤と、20世紀文学の金字塔を生み出した。
もし僕がクンデラに会うことができたら聞いてみたいことがある。チェコスロバキアの民主化に肩入れするならトマーシュの「軽さ」が勝つはずなのに、なぜ運命に縛りつけられるテレザの「重さ」を勝たせたのか?と。
クンデラはきっと無言で微笑むだけだろう。
*ミラン・クンデラ『存在の耐えられない軽さ』は千野栄一訳(集英社文庫、1998年)と 西永良成訳(河出書房新社、2008年)で読めます。
《バックナンバー》
[第0回]ご挨拶
[第1回]逃避としての読書、シェルターとしての書店
[第2回]「たまたま」のレトロスペクティブ ① 粘着ダーウィン、意味を破壊する
[第3回]「たまたま」のレトロスペクティブ ② スペンサーは本当に弱肉強食を唱えたのか?粘着ダーウィン、意味を破壊する