憲法学の散歩道 連載・読み物

憲法学の散歩道
第22回 未来に立ち向かう──フランク・ラムジーの哲学

11月 16日, 2021 長谷部恭男

 
 
「憲法学の散歩道」第20回までの連載は、書き下ろし2編を加えて『神と自然と憲法と――憲法学の散歩道』と題し、装い新たに単行本となりました。単行本のあとがきもお読みいただけます(→あとがき)。2021年11月15日発売、みなさま、どうぞお手にとってください。[編集部]
 
 
 
 フランク・ラムジーは1903年2月22日に生まれ、1930年1月19日、26歳で死去した。死因はレプトスピラ菌(leptospire)の感染による多臓器不全であると推測されている*1。父親のアーサー・ラムジーは、ケンブリッジ大学モードリン・コレッジで数学を教え、副学寮長(President)も務めた。フランクの弟マイケルは、1961年に第100代のカンタベリー大司教となった。妹のマーガレットは、オクスフォード大学で経済学を教えた。
 
 フランクは、1920年秋、17歳でケンブリッジ大学トリニティ・コレッジに入学する。19歳になろうとする1921年暮れから翌年にかけて、チャールズ・ケイ・オグデンの示唆で、ルードウィヒ・ウィトゲンシュタインの『論理哲学論考』を英訳した。彼の訳は、ウィトゲンシュタイン自身の校訂を経て、オグデン訳として1922年、出版された。
 
 1924年、彼は21歳でキングズ・コレッジのフェロウに選出される。ジョン・メイナード・ケインズの企てた人事である。他のコレッジの出身者をフェロウとするのは、コレッジの学則からして例外であった。しかしフランクは、12対1の圧倒的多数で選考された。ケインズは、学則について面倒くさい解釈論を振り回しがちな法学者をコレッジのメンバーとすることに断固反対したと言われる*2
 

 
 1930年に死去するまでの短い研究生活で、フランク・ラムジーは、哲学、数学、経済学、意思決定理論等、さまざまな分野で第一級の業績を残し、その影響は現在でも廃れていない。
 
 哲学の分野で未公表のまま残された遺稿に、「全称命題と因果性General Propositions and Causality」がある*3。タイトルは、ラムジーの死後、彼の業績をまとめて論文集として編纂した友人のリチャード・ブレイスウェイト*4が附したものである。ただ、このタイトルでは、ラムジーの主張の内容は、ストレートに伝わらない。
 
 ラムジーは、全称命題と呼ばれるものには、2つの種類があるという観察から出発する。第一の種類は、単称命題の連言と等値である全称命題である。次の命題がその典型である。

(1)この本棚に並べられた本はすべて法律書である。

本棚に並べられた本にa, b, c,……と名前を付けていく。最後の本がtだとすると、命題(1)は、次の連言命題と等値である。

(2)aは法律書である、かつ、bは法律書である、かつ…… tは法律書である。

(1)および(2)が真であるか否かは、aからtまでの本を1つ1つ調べることで判明する。
 
 第二の種類の全称命題は、普遍命題である。自然科学の法則を含めた一般法則に相当する。たとえば、次の命題である。

(3)銅の棒はすべて、加熱されると膨張する。

この命題の真偽は、個別の銅の棒を1つ1つ調べることでは判明しない。過去現在未来に存在する無数の銅の棒に関する言明だからである。同じことは、

(4)すべての人は死ぬ。

についても言える。われわれは、自分自身を含めてすべての人が本当に死ぬかどうか調査して判定することはできない。100年後、200年後の人々はもとより、現に生きている人々に限ったとしても、すべての人が本当に死ぬかどうかを確認することはできない。ほかのすべての人をことごとく殺したとしても、自分自身が残っている。自分が本当に死ぬかどうかは誰が確かめてくれるだろうか*5
 
 かつてはラムジーも、普遍命題は無限に続く連言命題であると考えていた。1927年に公表された論稿「事実と命題」でラムジーは、「あらゆるxについてfxである」──記号であらわすと (x) fx──は、fx1かつfx2かつfx3かつ……という無限の連言命題と等値であるとのウィトゲンシュタイン氏の主張に同意すると述べる*6
 
 しかし、1929年の「全称命題と因果性」で、ラムジーは立場を変えた。いくつかの理由がある*7
 
 第一に、無限に続く連言命題は表現する──表現し切る──ことができない。
 
 第二に、われわれは普遍言明を無限に続く連言命題として使用することはない。われわれが連言命題として使用するのは、(1)のように対象が限定された全称命題だけである。
 
 第三に、普遍命題は、われわれが知っていること、知ろうとすることを超えている。それが真であるか否かをわれわれが直接に知ることはない。
 
 第四に、確実性の程度(degree of certainty)が問題となるのは、個別の事実または個別の事実の集合についてである。無限の事実について人が確実な信念を持つことはあり得ない。
 
 要するに、(x)fx としてあらわされた普遍命題は、連言命題にとてもよく似てはいるが、連言命題としては語り得ないものである。「語り得ないものは語り得ない」とラムジーは言う*8
 
 言い換えれば、「普遍命題」は命題ではない。「普遍命題」が命題であり、かつ、真であり得るためには、ウィトゲンシュタインが『論理哲学論考』で主張したように、それは個々の事実と対応する──個々の事実の像(picture)である──要素命題から構成されるものでなければならないが、「普遍命題」は要素命題(またはその連言)に還元されることはない。「普遍命題」はそもそも命題ではない*9
 
 では、それは何であろうか。ラムジーがここで見せるのは、プラグマティスト的転回である*10
 
 ラムジーは、理論的な構成や整合性にかまけて、人間の現実を忘れるべきではないと考える。全称命題の姿形をした一般法則を要素命題に還元することはできない。しかし、そうした一般法則は、われわれの思考を単純化してくれるだけではなく、われわれの思考の不可欠の構成要素でもある。われわれが称賛したり、非難したり、または討議したりするとき、一般法則にもとづいて思考せざるを得ない。
 
 「すべての人は死ぬ」という一般法則から「ドナルド・トランプは死ぬ」という単称言明を抽き出すとき、われわれは個別の事実に関する信念を述べてはいない。われわれは、一般法則からいつもそう推論するという態度が表明されている*11。同じことが、科学法則や因果法則についても当てはまる。
 
 それらは、われわれが問題に出会って判断を下すための、未来に立ち向かうためのルール(の体系)である*12。われわれは、そうしたルール(の体系)を信認(trust)している*13。一般法則から抽き出された個別の事実に関する判断は、命題としてあらわされる。それは事実に照らして真偽が判定される*14
 
 一般法則は命題ではない。事実とは対応しない。しかし、一般法則として示される信念は、評価の対象とはなる。すべての人は死ぬと私は信じている。その証拠を挙げることもできる。ただし、私が知っている限りで過去の多くの人々が死んだことは、すべての人が死ぬことを証明しはしない。
 
 ウィトゲンシュタインが指摘するように、帰納に論理的正当化はあり得ない*15。毎日、東から日が昇ってきたことは、明日以降も東から日が昇ることを論理的に帰結しない。しかし、帰納的推論抜きで人はこの世界を生きることはできない。それは人の思考の不可欠の要素である。
 
 人がすべて死ぬことを心得ている私は、自動車を運転するときも歩行者をはねないよう慎重に運転する*16。ビルの屋上から飛び下りることも、人を突き落とすこともしない。すべての人が死ぬわけではないと考える人もいるかも知れないが、そうした人と私の判断の違いは純粋に主観的な、単なるすれ違い──「私はアイスクリームが好き」「私は嫌い」──ではない。2つの信念は衝突している。
 

 
 ラムジーの分析は、他の「命題」にも及ぶ。「pならばq」という仮言命題は、pが真であり、qが偽である場合にのみ偽となると、論理学の入門書では説明される*17。したがって、たとえば、

(5)日本列島が大きな鯰に支えられているならば、2+2=4である

は真である。前件(日本列島が大きな鯰に支えられている)は偽である。このことだけからして、(5)は真である。ただ、この命題の問題点は、前件(日本列島が大きな鯰に支えられている)と後件(2+2=4)の間に全く何の関係性もないことである。こうした「論理的」分析にどのような意味があり得るだろうか。
 
 ラムジーは、「pならばq」は、pに遭遇したときはqと判断するという判断のルールを示しているはずだと考える*18。それが現実に生きる人間の論理である。日本列島が大きな鯰に支えられていると私が考えることがない以上、(5)は何の役にも立たない命題である。
 
 われわれがpという信念を抱き、それにpならばqという一般法則を当てはめてqという結論を信念として抱くとき、そこで機能しているのは、無限の連言命題ではなく、個別の事実に関する判断を抽き出すためのルールである。さまざまな証拠によって支えられているとき、それは適切な信念であり、それをあらわすルールとなる。pが真でqが偽のときにのみ偽となる仮言命題が使用されているわけではない。
 
 不適切な信念が抱かれることももちろんある。
 
 人々がみな、苺を食べると腹痛を起こすと信じているとしよう*19。人々は、そのため、決して苺を食べようとしない。このときも、「苺を食べると、腹痛を起こす」という一般法則は、事実を示してはいない。それは人々の信念(の体系)から導かれる判断のルールである。ラムジーは、そうした信念の確実さ──ラムジーは「確率」と言う──を知るためには、人々は実験をするべきだ、つまり苺を食べるべきなのだと言う。実験を重ねた結果として人々が信じるようになるものをプラグマティストの哲学者パースは真理と呼んだことを、ラムジーは指摘する*20
 

 
 ラムジーが属したサークルの1つに「ケンブリッジ懇談会the Cambridge Conversazione Society」がある。「使徒たちthe Apostles」とか、単にthe Societyと呼ばれることもあった。著名な使徒として、ケインズ、バートランド・ラッセル、G.E. ムーア、リットン・ストレイチー、レナード・ウルフ、E.M. フォースターを挙げることができる。
 
 会合ではいつも、予め設定されたテーマでペーパーが読み上げられる。1925年2月28日にラムジーが会合で読み上げたペーパーが、ブレイスウェイト編の著作集に収められている*21。この年の8月に、彼は結婚を控えていた。
 
 彼は冒頭で、使徒たちの間で懇談の対象となり得る、第一級の重要性を持つテーマは、もはや存在しないと言う。われわれ使徒は、知るに値するのは科学(science)だけだとの結論を得ている*22。ところが、われわれの大部分は科学については素人だ。情報を交換することはできるだろうが、有益な討議は無理だ。可能なのは学習すること、それだけである。
 
 懇談のテーマとして想定できるものとして、科学、哲学、歴史、政治、心理学、美学がある。科学、歴史、政治は専門家だけが有益に討議することができる。非専門家は話を聴くだけだ。
 
 哲学も素人にとっては、技術的になりすぎた。しかも、現代のもっとも偉大な哲学者──ウィトゲンシュタイン──によると、哲学とは問題を探究する学術理論の総体ではなく、病に陥った人々を治癒する活動にほかならない。論理学を核心とする技術的な哲学以外に、人と自然の関係、道徳の意味を論ずる哲学もあると言われるかも知れないが、これらは真剣に取り組もうとするならば、結局、科学か技術的哲学か、あるいはナンセンスに還元される。
 
 ラムジーは、ラッセルの直近のパンフレット『私が信ずること』*23を例として取り上げる。ラッセルはこの本で、自然哲学と価値哲学を論ずる。自然哲学でラッセルが主として論ずるのは、現代の物理学、生理学、そして天文学である。それを討議できるのは、相対性理論、原子論、生理学、そして数理論理学の十分な知識のある人だけである。おそらく、ラッセルの挙げる論点の中で唯一討議可能なテーマは、星々と人との物理的な大きさの差異であろう(ラムジーはペーパーの末尾でこの論点を取り扱う)。
 
 価値哲学に関してラッセルが述べるのは、人々は何を欲求するか、それはいかにして満たされるかである。つまり、それは心理学に還元される。ラッセルの価値哲学には異論もあり得る。しかし、神学にも客観的倫理学にも、真の研究対象が欠けていることをわれわれは理解している。そして、本格的な心理学について討議し得るほどの専門知識をわれわれは持ち合わせていない*24
 
 美学についても、われわれが議論するとき実際にしているのは、各自の心理的な感覚経験を突き合わせているだけで、すれ違いに終わっている。ある美術作品が別の作品より善いか否かを議論することはできない。
 
 かくして、本当に議論すべきテーマは残されていない。科学の進展と宗教の衰退がこうした状況をもたらした。かつての一般的問題群はすべて、技術的問題かナンセンスと化した。
 

 
 これで終わり、というわけではない。ラムジーは、ラッセルが提示する、宇宙と人間の規模の差異という論点に立ち戻る。ラッセルは宇宙の巨大さと人間の微小さを引き比べて、悄然としている。ここで問題となるのは、ラッセルの本のタイトル──「私が信ずること」──にもかかわらず、何を信ずるかではなく、何を感ずるかである。
 
 ラムジーは、他の使徒たちと違って、天空の巨大さに向き合っても、劣等感を抱くことはないと言う。星々は巨大だ。しかし、星々は考えたり、愛したりはできない。私が感銘を受けるのは規模ではなく、思考し愛する能力だ。
 
 私の世界は遠近法で構成されている、その前面を占めるのは人間であり、星々は3ペンス硬貨くらいにしか見えないとラムジーは言う。時間も同じだ。いずれ宇宙は冷え切り、すべては死滅する。しかしそれは随分と先の話で、現在価値に割り戻せば、ほとんど意味がない。遠い未来の宇宙が無に帰すからといって、現在の世界の価値がそれだけ失われることはない。私の世界の前面を占める人間を、私は興味深く、概して素晴らしいと思う。今現在の世界は、愉しくわくわくする世界だ。

世界は悄然とさせるものだとあなた方は考えるかも知れない。私はあなた方をかわいそうに思うし、あなた方は私を軽蔑する。私にはそうする理由があり、あなた方にはない。あなた方が私を軽蔑する理由があるとすれば、あなた方の感覚が事実に対応しており、私の感覚はそうではないときだけだ。私の感覚もあなた方の感覚も、事実と対応してはいない。事実自体は善でも悪でもない。ただ、事実はあなた方を悄然とさせ、私をわくわくさせるというだけだ。私が、あなた方をかわいそうに思うことには理由がある。わくわくすることは悄然とすることより愉しいことだし、さらにそれは、あらゆる活動に関して善いことだから*25

 

 
 事実と対応しない感覚についても、われわれの人生への向き合い方についても、善し悪しの評価をすることは可能である。ラムジーは、倫理的価値判断は意味をなさない(nonsensical)とする情緒主義者ではなかった*26
 
 ブレイスウェイトは、ラムジーの人柄について、次のように述べる*27

 彼は、仲間すべてにすばらしい影響を与えた。人の長所を認め、謙虚で、人生の楽しみを増した。座をしらけさせるような人間ではなかった。彼ほど悪意のない人間には出会ったことがない……愚か者だと思われる人々を遠ざける才能を持ち合わせていたが、目立たぬようにそうすれば、やたらと怒りを買うこともない。

 ラムジーが短く、しかし幸福な生涯を送ったことが分かる。
 
 

*1 Cheryl Misak, Frank Ramsey: A Sheer Excess of Powers (Oxford University Press 2020) 424−25. 彼の名は、邦語では「ラムゼイ」と表記されることもあるが、原語の発音により近いのはラムジーである。
*2 Ibidem 179.
*3 Reprinted in Frank Ramsey, Philosophical Papers (DH Mellor ed, Cambridge University Press 1990) 145−63. general proposition は、直訳すると「一般命題」であろうが、ラムジーがこの論稿で検討の対象としているのは、全称命題である。なお、勁草書房から本書の邦訳『ラムジー哲学論文集』伊藤邦武・橋本康二訳(1996)が刊行されている。
*4 Richard Braithwaite (1900-90) は、キングズ・コレッジのフェロウ(1924−90)。ケンブリッジ大学のナイトブリッジ道徳哲学教授を務めた(1953−67)。
*5 関連してラムジーは、同じ1929年に執筆された論稿「哲学」で、「われわれは斑点(patch)を無限の点の集合として定義することはできない」と言う(Frank Ramsey, ‘Philosophy’ reprinted in Ramsey (n 3) 4)。
*6 Frank Ramsey, ‘Facts and Propositions’ reprinted in Ramsey (n 3) 48−49. 科学法則をあらわす普遍命題が無限の連言命題と等値であるというテーゼは、カール・ポパーの反証主義の出発点でもある。
*7 Ramsey (n 3) 145−46.
*8 ウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』の6.53「語り得ること、つまり自然科学の命題以外は語らぬことto say nothing except what can be said, i.e. propositions of natural science」が意識されている。ラムジーはさらに続けて「語り得ぬものは、口笛で表現することもできない」と言う(Ramsey (n 3) 146)。ウィトゲンシュタインは、口笛の名手であった。
*9 ラムジーは、命題は事実と対応する像であるというウィトゲンシュタインの理論を丸ごと受け入れたわけではない。真の命題が事実と対応することは理解できる。しかし、偽の命題は何と対応するのか(偽事実か?)、選言命題はいかなる事実と対応するのか(選言的事実か?)、理解は困難である(Frank Ramsey, ‘Critical Notice of L. Wittgenstein’s “Tractatus Logico-Philosophicus”’ reprinted in his The Foundations of Mathematics (Richard Braithwaite ed, Routledge and Kegan Paul 1931) 278-79)。
*10 Nils-Eric Sahlin, The Philosophy of F.P. Ramsey (Cambridge University Press 1990) 106; Misak (n 1) 404. ラムジーは、プラグマティズムの父と呼ばれるパース(Charles Sanders Peirce, 1839−1914)の著作に親しんでいた(Misak (n 1) 143−44)。ウィトゲンシュタインが後期哲学において遂げたプラグマティスト的転回は、ラムジーの影響によるものと見る余地がある(ibidem, 364−66; cf. Ludwig Wittgenstein, Philosophical Investigations (3rd edn, GEM Anscombe trans, Blackwell 1976) §81)。
*11 Ramsey (n 3) 146.
*12 Ibidem 149.
*13 Ibidem 150.
*14 Ibidem 159.
*15 『論理哲学論考』6.3631。
*16 Cf. Misak (n 1) 405.
*17 たとえば、近藤洋逸・好並英司『論理学入門』(岩波書店、1979)31−34頁。『論理哲学論考』5.101参照。
*18 Ramsey (n 3) 156−57.
*19 Ibidem 161.
*20 Ibidem.
*21 Frank Ramsey, ‘Epilogue’ in Ramsey (n 7) 287−92; Ramsey (n 3) 245−50. ‘Epilogue’は、ブレイスウェイトが附したタイトルである。
*22 前注8で引用したウィトゲンシュタインの言明(『論理哲学論考』6.53)参照。
*23 Bertrand Russell, What I Believe (Routledge 2014, first published in 1925) 6−9.
*24 ラムジーは1924年3月から10月までウィーンに滞在し、フロイトの弟子の1人、テオドア・ライク博士の精神分析を受けている(Misak (n 1) 162−70)。
*25 Ramsey (n 3) 250.
*26 Misak (n 1) 219−20.
*27 Quoted in Margaret Paul, Frank Ramsey (1903−1930): A Sister’s Memoir (Smith-Gordon 2012) 184.

 
 
憲法学の本道を外れ、気の向くまま杣道へ。そして周縁からこそ見える憲法学の領域という根本問題へ。新しい知的景色へ誘う挑発の書。
 
2021年11月15日発売
『神と自然と憲法と 憲法学の散歩道』
長谷部恭男 著

3,300円(税込) 四六判 288ページ
ISBN 978-4-326-45126-5

https://www.keisoshobo.co.jp/book/b592975.html
 
【内容紹介】 勁草書房編集部ウェブサイトでの連載エッセイ「憲法学の散歩道」20回分に書下ろし2篇を加えたもの。思考の根を深く広く伸ばすために、憲法学の思想的淵源を遡るだけでなく、その根本にある「神あるいは人民」は実在するのか、それとも説明の道具として措定されているだけなのかといった憲法学の領域に関わる本質的な問いへ誘う。
 
本書のあとがきはこちらからお読みいただけます。→《あとがき》

長谷部恭男

About The Author

はせべ・やすお  早稲田大学法学学術院教授。1956年、広島生まれ。東京大学法学部卒業、東京大学教授等を経て、2014年より現職。専門は憲法学。主な著作に『権力への懐疑』(日本評論社、1991年)、『憲法学のフロンティア 岩波人文書セレクション』(岩波書店、2013年)、『憲法と平和を問いなおす』(ちくま新書、2004年)、『Interactive 憲法』(有斐閣、2006年)、『比較不能な価値の迷路 増補新装版』(東京大学出版会、2018年)、『憲法 第7版』(新世社、2018年)、『法とは何か 増補新版』(河出書房新社、2015年)、『憲法学の虫眼鏡』(羽鳥書店、2019年)ほか、共著編著多数。