憲法学の散歩道 連載・読み物

憲法学の散歩道
第24回 道徳と自己利益の間

 
「憲法学の散歩道」第20回までの連載は、書き下ろし2編を加えて『神と自然と憲法と――憲法学の散歩道』と題し、装い新たに単行本となりました。単行本のあとがきはこちらからお読みいただけます(→あとがき)。2021年11月15日発売、みなさま、どうぞお手にとってください。[編集部]
 
 
 ジョゼフ・ラズはイスラエルの出身である。H.L.A. ハートの指導の下、博士号を取得してオクスフォード大学で長く法哲学を教え、現在はコロンビア大学とロンドン大学キングズ・コレッジの教授を務めている。2018年には、東洋のノーベル賞とも言われる唐奨(Tang Prize)の「法の支配」部門を受賞した。
 
 彼に「道徳と自己利益」という論稿がある*1。彼の論稿の多くがそうであるように、かなり屈曲した議論が展開されている。結論は、おそらく、多くの人にとって意外なものである。以下はその梗概である。
 
 ラズの議論に忠実な梗概であるよう努めてはいるが、必ずしも彼の表現や設例そのままを用いてはいない。そのため余計な、あるいは彼自身の意図から外れた含意が示唆されているリスクもあることをお断りしておきたい。
 

 
 人が意図的に行動するとき、つまり反射的な行動や夢遊中の行動などではないとき、人は理由にもとづいて行動する。他の選択肢よりも、ある選択肢が好ましいと考えるので、その選択肢をとる。人とはそういうものである。
 
 人が考慮すべき行動の理由は、通常、おおきく2種類に分かれると考えられている。道徳的な理由と自己利益にもとづく理由である。自己利益にもとづく理由は慎慮(prudence)にもとづく理由とも言われる。そう行動することで、自分の幸福(well-being)にどのような帰結がもたらされるかにかかわる理由である。
 
 しかも、道徳的な理由と自己利益にもとづく理由とは、しばしば衝突するとも考えられている。そうすることは自分のためにはならない。しかし、道徳的にはそうすることが求められる。そうしたことが、しばしば起こるものだと考えられている。
 
 自己利益に貢献するのは、たとえば、価値のある(あるいは意味のある)目標の達成や人間関係の構築・維持である。価値ある事業を成功させること、価値ある友人関係を取り結ぶことは、自己利益に貢献する。暴力組織にかかわりあってやたらに人を傷つけたり金品を強奪したりすることは、自己利益に貢献しない。
 
 ところで、道徳的な理由と自己利益にもとづく理由とがしばしば衝突するのはなぜかと言えば、人の行動を支える理由がおおきくこの2つに区別できるから、ということになりそうである。たとえば、自分だけの利益に貢献する行動は自己利益を理由としているが、自分以外の人々の利益に貢献する行動は道徳を理由としているとか。
 
 しかし、よく考えてみれば、両方の理由にもとづいて善い(good)と評価される行動は多い。病気になった母親の面倒を見ること、それは母親の利益になる。しかし、それは母親と自分との関係をより親密にし、自分の人生の質も向上させる。自分の日々の仕事をこなすこと、余暇に食事をしたり趣味のテニスをしたりすることも、いろいろな形で自分だけでなく、自分以外の人々の利益にも貢献している。
 
 とすると問題は、道徳的には善い行動であるが、自己利益には全くならない行動があるかである。
 
 たとえば、きわめて邪悪な人を殺害する道徳上の必要に迫られたとき、人を殺すことはとても嫌なことでそんなことはしたくないと考えるかも知れない。その行動は、自己利益には貢献しないのだろうか。感情の上ではしたくない行動であっても、結果としては自己利益には貢献しているのではないか。道徳上の強い必要に迫られて人を殺すとき、自分の人生はその道徳的義務を無視する場合より、より善い人生になっているのではないか。
 
 あるいは、自分の収入のうちいくらか(たとえば1万円)を慈善団体に寄付することは、道徳的には──supererogation(義務なき働き)ではあるが──善いことだが、自己利益には反しているのだろうか。しかし、慈善団体に寄付し、社会全体の利益に貢献することで、やはりあなたの人生はより善い人生になっているのではないだろうか。
 
 嫌な思いをすることや、損をしたという思いをすることは、心情的には苦痛であるかも知れない。しかし、だからと言って、それが自己利益に貢献していないことにはならない。それに、邪悪きわまる人間を殺したとき、慈善団体に寄付をしたとき、何の満足感も覚えないものであろうか。
 
 道徳的理由と自己利益にもとづく理由を峻別することができないとすると、道徳と自己利益とが衝突するという「常識」的な見解にも疑問が投げかけられることになる。
 

 
 道徳的理由と自己利益が決して衝突しないというわけでもないであろう。さまざまな理由は衝突するものである。しかし、道徳的理由と自己利益にもとづく理由とが衝突するとしても、それは具体の状況に応じてたまたま衝突するのであって、必然的に衝突するわけではない。
 
 われわれが意図的に行動するとき、その行動は理由に支えられている。さまざまな理由が相互に衝突することは当然あり得る。そのとき、人は他の理由を打ち消す理由、あるいはもっとも強い理由に支えられた行動を選択する。そうした行動をとることは、道徳に反することでも、自己利益に反することでもないであろう。
 
 そうした考慮を経て選択された行動は、最終的には、自分が欲しない行動ではあり得ない。そうしたくないという理由はあったかも知れないが、その理由は、結局は、より強い理由によって打ち消されるか、打ち消されないまでもより強い理由に劣後した──つまり、より強い理由によって優越された──理由である。そうしたくないという理由は、最終的には、自分の行動を決定づけることができなかったことになる。
 
 最終的に選択された行動は、自分がそうしたいという行動であるはずである。
 

 
 具体例を挙げてみよう。私は自動車を保有しているとする。今週末、私はその自動車で近くの観光地に出掛けることができる。他方、自分の友人が重病で伏せっている彼の息子を見舞いに行くために、その自動車を貸すこともできる。友人は他に自動車を用意する術がないようである。
 
 こうした選択に直面したとき、私が考慮すべきなのは、いずれの選択肢がより強い理由によって支えられているかである。考慮の結果、私が友人に自動車を貸したとすれば、その選択はより善い選択であり、結果として私の人生をより善いものとする選択である。それは私の自己利益にかなっている。かりに、観光地にとても行きたいと思っていたとしても。自己利益が犠牲に供されているとは言えない。
 
 道徳的理由と自己利益との間に決して衝突が起こらないというわけではない。自己利益によりよく貢献する選択肢とそうでない選択肢との間での選択が迫られることがある。
 
 大学に入って自分の能力を開花させる選択肢と、飢餓に苦しむ遠隔の地で運転手としてボランティア活動をする選択肢とでは、前者の方が自己利益にはより貢献する。しかし、道徳的理由に支えられた後者の選択肢の方が、より強い理由によって支えられていると私は考えるかも知れない。そのとき、道徳的理由は自己利益により貢献する選択肢とは別の選択肢をとる決断を迫ることになる。とはいえ、その選択肢も自己利益に貢献しないわけではない。
 
 別の例を挙げてみよう。ジェーンが直面している選択は、やりがいのある仕事に就くために遠い街に赴くか、それとも一緒に暮らしてきたパートナーとすごすために、この地にとどまりつづけるかである。パートナーが共に遠い街に赴くことは不可能である。ジェーンは結局、その仕事を引き受けることをあきらめるかも知れない。それは彼女の(ある種の)自己利益を損なうことになる選択肢である。しかし、パートナーとの絆を保つことは、彼女の人生の主要な意味をなしている。そうした選択をすることも、理由のある、合理的な選択である。それは彼女の全体としての自己利益にかなっているはずである。
 

 
 こうした設例から分かることは、自己利益は、独自に行動を支える理由にはならないことである。人が選択にあたって考慮するのは、理由である。自己利益そのものではない。どのような行動、どのような生き方に意味があるか、価値があるか、それを指し示すさまざまな理由が考慮の対象となる。人生の幸福と言われるものは、価値のある生を生きることである。
 
 道徳的理由は、自分が大事だと考える目標やキャリアや人間関係を犠牲とするよう要求することがある。また、キャリアと人間関係の間に衝突が起こることもある。価値をめぐるさまざまな相互に衝突する理由の中に、道徳的理由もある。そうした理由をめぐる考慮の結果、キャリアや人間関係が犠牲となることもあり得る。しかし、自己利益が犠牲となるわけではない。そうした選択も、もっとも強い理由によって支えられているはずであり、それは結果として、人生をより善いものとする選択のはずである。
 
 短期的には自己利益を犠牲とする選択が行われるように見える場合もある。自分の能力を開花させてくれる大学への進学をあきらめて、遠隔の地で飢餓難民のためにボランティアの運転手として活動する選択のように。そこでは、自己利益は犠牲とされているのではないだろうか。
 
 この問題は、より広く長い目で見る必要がある。なぜそうした選択が行われるのかと言えば、人が何を選択すべきかを考慮するときは、その時々の短期的利益のみを考慮するわけではなく、より長い目で、おそらくは自分の人生全体にとって、その選択が自分の生をより意味のあるもの、より価値のあるものとするかを考えるからである。短期的には自己利益を犠牲としているように見える選択も、もしそれが合理的な選択であるならば、人生全体をより豊かな価値あるものとする選択となっているはずである。
 
 結局のところ、いつも、より意味のある選択、より価値のある選択をわれわれはする。それを自己利益と呼んで悪いわけではないが、そう呼ぶことにさしたる意味はない。相互に複雑に入り組んだ、ときには衝突する、さまざまな価値の間の選択をわれわれはしている。価値をめぐる選択は、結果として自身の自己利益に影響を与える。私が大切にする目標を達成し、大切にする人間関係を維持することは、多くの場合、その意図せざる結果として自己利益に貢献する。私の人生を幸せな人生にする。それだけである。
 
 愛し合う夫婦がその関係を大切にすることは、夫婦の自己利益に貢献するだろう。しかし、夫婦は自己利益に貢献するからという理由で愛し合うわけではない。親は子が自立してうまくやっていくことを望むだろうが、その望みをかなえるために、子が自立してうまくやっていくよう手助けするわけにはいかない。それはself-defeatingである。子が自立するという目的も結果も損なうことになる。そんなことはそもそもできない。
 
 もっとも、長い目で人生全体を見渡したときの自己利益を大切にすることに全く意味がないわけでもない。それを大切にすることは、何がより意味のある選択であり、より価値のある選択であるかを慎重に考慮するよう促すことになるだろうし、意味のある目標を達成したり、意味のある人間関係を維持したりするためのさまざまな技術をみがくよう促すことにもなるだろう。
 
 ただ、そうした視点を備えることに大いに意味があるとまでは言えないし、他のすべての価値を支えているわけでもない。所詮、長い目で見たときの自己利益は、価値をめぐるわれわれの多くの選択の結果としてもたらされる。人生は思い描いた通りにはならないものである。人生の終わりに、結果について落胆することも十分あり得る。やりがいのある仕事をあきらめ、パートナーと共にすごす決断をしたことが間違いだったと後悔することもあり得る。それは後になって分かることである。自己利益だけを念頭に置く人生は、ナルシシズムの一種である。意味や価値のくり抜かれた萎縮した人生である。
 
 自己利益を大切にすることとは別に、人として普通にすごす──正常に機能する──ことの価値はある。意識があり、普通の身体と性格と生命とを備え、合理的に行動する人であることの価値である。理性に照らして生きることには、それ自体、価値がある。
 
 「人々がときに、彼らの自己利益(幸福)に反してでも道徳的理由にもとづいて行動するのはなぜか」という問いに対する答えは、結局のところ、単純である。人々は理由にもとづいて行動する。自身の利益にかなうか否かにかかわらず、適切な理由(adequate reason)に支えられた行動をとろうとする*2。自身の利益に反するにもかかわらず、行動を支える決定的な理由となるものの中には、道徳的理由も含まれる。それだけである。とくに不思議はない。
 

 
 この「道徳と自己利益」という論稿では、ラズの道徳哲学の特徴である価値の多元性や多元的な価値が相互に比較不能であり得ることが正面から議論の対象となってはいない。それでも、人の行動が理由に支えられていること、さまざまな理由が相互に衝突すること、より強い理由に人は従うべきであることは、前提とされて議論が進む。自己利益は独自には行動の理由とはならないという結論は「常識」とは異なるものであるが、自然な結論であるように思われる。
 
 ラズの屈曲した道徳哲学の議論とかかわりあうことは、自分自身を含めて、人の生き方を省みる新たなパースペクティヴを与えてくれる。それは行動や選択の仕方、価値ある生き方とは何かについて、考えを深めることにつながる。ラズの議論とかかわりあうことには、十分で適切な理由がある。
 
 もっとも自分自身の人生をより善いものにしてくれることが、その理由であるわけではない。それは、せいぜい、たまたまの結果である。価値あるものとかかわりあうことには価値がある。それだけである。
 

 
 と、ここで終わってもよいのであるが、若干短めのようなので、もう1篇、ラズの論文を紹介したい。「ハリネズミの価値の統一性」という論文である*3。ロナルド・ドゥオーキンの追悼論集に収められたもので、内容は、ドゥオーキンの著書『ハリネズミの正義』*4の書評である。
 
 ドゥオーキンは、この書物で、価値多元論に対抗して価値の統一性(unity)、あるいは価値の統一的理解を目指すべきことを擁護している。価値が統一的であることと、価値の統一的理解を目指すべきこととは、後述するように、異なっている。
 
 価値の統一性は価値の唯一性、つまり単一の価値のみがあるという主張とは異なる。多様な価値があることを前提とするからこそ、価値の統一性を語ることに意味がある。もっとも、価値多元論を擁護したアイザィア・バーリンは、価値一元論者が価値の唯一性を主張するとは考えていない*5。価値の統一性を語るドゥオーキンは、バーリンからすればまぎれもなく価値一元論者である*6
 
 ハリネズミという比喩は、バーリンの『ハリネズミと狐』*7を典拠とする。「狐はたくさんのことを知っているが、ハリネズミはでかいことを1つだけ知っている」というアルキロコスの詩の断片を手掛かりとしたエッセイである。ハリネズミと狐の対比は、価値一元論と価値多元論の対比とは、必ずしも一致しない。価値多元論というでかいことを1つだけ知っているハリネズミの存在を想定することは、決して困難ではない。ただ、ドゥオーキンがハリネズミを価値一元論者の象徴として想定していることは明らかである。
 

 
 ラズの「ハリネズミの価値の統一性」は、彼自身が認めるように*8、かなり屈曲した議論を展開する。しかも、彼がこの書評論文でしていることは、彼自身のことばによれば、ドゥオーキンの「見解を、結局は彼の見解に適合しないことが判明する仕方で解釈すること」である*9。ラズは2つの解釈を示しているが、いずれもドゥオーキン自身はしりぞけたであろう見解だというわけである。
 
 以下では、それぞれの解釈を第1モデル、第2モデルと呼ぶ。「解釈」のままで通すと、第2モデルで登場するドゥオーキン特有の「解釈」概念と紛らわしくなる。
 
 ラズの示す第1モデルは、ドゥオーキンは価値の統一性を語るとき、さまざまな価値が客観的に相互関連・相互依存の状態にあると主張しているというものである。ドゥオーキンはたしかに、『ハリネズミの正義』の各所で、「諸原理と諸理念が相互に関連し依存し合う秩序 interconnected and interdependent system of principles and ideas」について語る*10。言い換えると、価値に関する諸命題・信念は、1つの命題・信念が客観的な真理であることを他の命題・信念が根拠付け、それらをさらに他の命題・信念が根拠付け、さらにそれらを別の命題・信念が根拠付ける……という形で相互に関連し、依存し合っている*11
 
 ところが、ドゥオーキンは、こうした客観的相互関連・相互依存の関係が成り立っているという論拠を提示していない。彼が述べているのは、そうした関係が成り立っていない理由が分からないというものである*12。まことに心許ない。
 
 ラズが示す第2モデルは、諸価値の関係が客観的にどうであるかは別として、あらゆる人には、諸価値を統一されたものとして解釈する責務があるというものである*13。その責務を最善の形で実現するものこそ真正の解釈である。つまり、責務を果たす解釈という活動を通じて、はじめて真の価値が構成される。この解釈に対応する叙述も、『ハリネズミの正義』の中には見られる*14

われわれはそれと意識することなく、抽象的な概念を他の諸概念との関係において解釈する。つまり解釈は諸価値を統合する。われわれが道徳的責務を果たすことができるのは、われわれの行う具体的な解釈が全体として整合性(integrity)を実現し、真正の意味で受容する価値のネットワークの中で、各解釈が相互に支え合うようになる、その限りにおいてである。われわれがそうした解釈のプロジェクトの遂行に挫折する限りにおいて──完璧に遂行することは不可能であろう──われわれは真正な信念からはずれて行動しており、完全な形で責務を果たしてはいない。

つまり、われわれ自身が諸価値を統合するからこそ、諸価値は統一される。もともと統一されているからではない。諸価値の統合は解釈を通じて行われる。解釈は、これまでわれわれが生きてきた歴史によって拘束されている。全体が整合しているだけでなく、われわれ自身が生きてきた歴史に照らして自然だと感じる解釈でなければならない*15

道徳的責務を果たそうとする人々は真理の獲得に挫折するかも知れないが、しかしそれを希求すべきである*16

挫折することがあるからと言って、責務を果たす義務を免れるわけではない。こうした視点からすれば、ドゥオーキンが価値相互の衝突や比較不能性を否定しようとするのも*17、最初から価値の衝突や比較不能性があると決めてかかることが、解釈者としての責務を十全に果たすことを阻害するからだということになるであろう。なぜ価値相互の衝突が存在し得ないのか、なぜ価値相互の比較不能性が否定されるのか、その論拠をドゥオーキンは示していない*18
 

 
 不思議に思われるのは、なぜラズが第1モデルを示しているかである。たしかに、いずれのモデルがドゥオーキンの立場であるか、決め手はないように見える。しかし、『法の帝国』の末尾のページで示されたプロテスタント的解釈観になじみのある読者であれば*19、ドゥオーキン自身がいずれの立場をとっていたかという問いに対する回答としては、第2モデルが適切だと考えるであろう。
 
 もちろん『法の帝国』のテーマは法哲学であり、『ハリネズミの正義』のテーマは道徳哲学である。しかし、実定法の権威を否定するドゥオーキンからすれば、法的判断はすべて道徳判断に還元される。法の世界と道徳の世界は一続きの地平である。『法の帝国』の解釈観を道徳の世界全般に拡張したのが『ハリネズミの正義』であると考えるのが、自然な理解の流れである。
 
 それなのになぜ第1モデルをわざわざ掲げて、しかもドゥオーキンがどちらの立場をとったか判然としない、どちらでもないのではないかという結論にラズは立ち至っているのか。
 
 ここからは推測するしかないが、第2モデルからすると、価値の統一性はきわめてあやふやな議論となる。ドゥオーキンの解釈観にコミットする人は、そうした解釈活動を通じて諸価値の統一を目指すべきだということになるが、そうでない人にとってはそうではない*20
 
 しかも、ドゥオーキン流の解釈活動は、とりあえずは、当の本人にとっての統一された価値体系をもたらすだけで、それが他の人も共有する価値体系である保証はない。当人にとって、解釈の結論として特定の信念を抱くべき理由があることは、その信念の客観的な真理性をその理由が支えていることを保証しない*21。つまり、第2モデルが第1モデルと同等の機能を果たすことはない。客観的に見れば、価値が深刻に分裂している状況は十分に可能である。これでは、ドゥオーキンは、ハリネズミの皮をかぶった狐だということになりかねない。
 
 同僚であったドゥオーキンの追悼論集の巻頭論文で、彼が力説した価値の統一性がこうした結末に至ると言い切ることには、ラズとして逡巡があったのではなかろうか。言い切らないためには、2つのモデルのうち、いずれがドゥオーキンの立場であったか判然としないと言わざるを得ない。
 
 価値の統一性がその名に値する、真に価値あるものであろうとするならば、第1モデルを前提とせざるを得ない。その場合は、第2モデルにおいて提唱される、自分の責務を果たす解釈活動を経て到達し得る統一された価値体系は、同時に、客観的な諸価値の統一的な体系にもなっていることになる。そうであってこそ、その解釈活動は責務を果たす解釈活動だということになるはずである*22。第2モデルの存立は、第1モデルに依存している。ラズはそう考える。
 
 そうした解釈活動があり得るか否かは、なお残された問題である。諸価値が本当に統一されているかも含めて。
 

*1 Joseph Raz, ‘Morality and Self-Interest’ in his Engaging Reason: On the Theory of Value and Action (Oxford University Press 1999).
*2 ある選択を合理的なものとして理解可能(説明可能)とする事情があれば、それは十分な理由(sufficient reason)である。それぞれ十分な理由によって支えられた選択肢は、複数あることが通常である。それらの理由のうち、他の理由によって打ち消されない理由は、適切な理由(adequate reason)である。適切な理由が1つだけであれば、判断には困らない。しかし、それぞれ適切な理由に支えられた複数の選択肢に直面することも少なくない。そうした場合、それらの理由(選択肢)は比較不能(incommensurable)である。
*3 Joseph Raz, ‘A Hedgehog’s Unity of Value’ in Wil Waluchow and Stefan Sciaraffa (eds), The Legacy of Ronald Dworkin (Oxford University Press 2016). この論文については、学界からの反応を含めて、濱真一郎氏による詳細な紹介がある。濱真一郎「ハリネズミの復権」思想1166号(2021年6月号)113頁以下。
*4 Ronald Dworkin, Justice for Hedgehogs (Harvard University Press 2011).
*5 Isaiah Berlin, ‘The Lessons of History’ in Joshua L Cherniss and Steven B Smith (eds), The Cambridge Companion to Isaiah Berlin (Cambridge University Press 2018) 265−68.
*6 ラズは、ドゥオーキンの議論を価値多元論の一種としているが(Raz (n 3) 5-7)、この位置づけはミスリーディングである。
*7 バーリン著『ハリネズミと狐──『戦争と平和』の歴史哲学』(河合秀和訳、岩波文庫、1997)。
*8 Raz (n 3) 3.
*9 Ibidem.
*10 Dworkin (n 4) 116.
*11 Raz (n 3) 9.
*12 Dworkin (n 4) 117.
*13 Raz (n 3) 16.
*14 Dworkin (n 4) 7.
*15 Ibidem 108.
*16 Ibidem 113.
*17 Ibidem 90−96.
*18 Raz (n 3) 14.
*19 Ronald Dworkin, Law’s Empire (Hart Publishing 1998) 413. ドゥオーキンのプロテスタント的解釈観とその根本的な問題点については、さしあたり、拙著『憲法の理性〔増補新装版〕』(東京大学出版会、2016)第15章「法源・解釈・法命題」参照。
*20 Raz (n 3) 20.
*21 Ibidem 11.
*22 Ibidem 21.

 
 
》》》バックナンバー
第21回 道徳対倫理──カントを読むヘーゲル
第22回 未来に立ち向かう──フランク・ラムジーの哲学
第23回 思想の力──ルイス・ネイミア
第24回 道徳と自己利益の間
《全バックナンバーリスト》はこちら⇒【憲法学の散歩道】
 
 
憲法学の本道を外れ、気の向くまま杣道へ。そして周縁からこそ見える憲法学の領域という根本問題へ。新しい知的景色へ誘う挑発の書。
 
2021年11月15日発売
『神と自然と憲法と 憲法学の散歩道』
長谷部恭男 著

3,300円(税込) 四六判 288ページ
ISBN 978-4-326-45126-5

https://www.keisoshobo.co.jp/book/b592975.html
 
【内容紹介】 勁草書房編集部ウェブサイトでの連載エッセイ「憲法学の散歩道」20回分に書下ろし2篇を加えたもの。思考の根を深く広く伸ばすために、憲法学の思想的淵源を遡るだけでなく、その根本にある「神あるいは人民」は実在するのか、それとも説明の道具として措定されているだけなのかといった憲法学の領域に関わる本質的な問いへ誘う。
 
本書のあとがきはこちらからお読みいただけます。→《あとがき》

長谷部恭男

About The Author

はせべ・やすお  早稲田大学法学学術院教授。1956年、広島生まれ。東京大学法学部卒業、東京大学教授等を経て、2014年より現職。専門は憲法学。主な著作に『権力への懐疑』(日本評論社、1991年)、『憲法学のフロンティア 岩波人文書セレクション』(岩波書店、2013年)、『憲法と平和を問いなおす』(ちくま新書、2004年)、『Interactive 憲法』(有斐閣、2006年)、『比較不能な価値の迷路 増補新装版』(東京大学出版会、2018年)、『憲法 第7版』(新世社、2018年)、『法とは何か 増補新版』(河出書房新社、2015年)、『憲法学の虫眼鏡』(羽鳥書店、2019年)ほか、共著編著多数。