憲法学の散歩道 連載・読み物

憲法学の散歩道
第25回 「見える手」から「見えざる手へ」──フランシス・ベーコンからアダム・スミスまで

 
「憲法学の散歩道」第20回までの連載は、書き下ろし2編を加えて『神と自然と憲法と――憲法学の散歩道』と題し、装い新たに単行本となりました。単行本のあとがきはこちらからお読みいただけます(→あとがき)。2021年11月15日発売、みなさま、どうぞお手にとってください。[編集部]
 
 
 18世紀半ばに『法の精神』を刊行したモンテスキューは、当時のイギリスをモデルとして、自由を確保すべき国制について大要次のようなことを述べている。
 
 国の統治権力は立法・司法・行政の3権に分類できる。このうち2権以上を1つの国家機関が独占すると専制がもたらされ、人々の自由は失われる*1。そうした権力の集中を防ぐ必要がある。
 
 ただ、この消極的原理だけでは不十分である。立法作用は他の2権をコントロールすることができる。専制的な立法が行われないような仕組みが必要となる。
 
 モンテスキューによると、当時のイギリスでは、国王・貴族・庶民という異なる社会階層をそれぞれ代表する要素が議会に組み込まれており、3者すべてが同意したときにのみ新たな法律が制定されることとなっていた。相互に阻止する力を持つ3者は、協調して国政を前に進めざるを得ない。3者の抑制と均衡を通じて、人民の自由は確保される*2
 
 このように述べる『法の精神』の第11編第6章の末尾で、モンテスキューは、イギリス人が享有する自由は「極端extrême」なものであり、彼自身はイギリスを他国のモデルとして推奨しないとする。より穏健な形で国民の自由を保障する国家体制として彼が推奨するのは、君主政体を採用する当時のフランスである。
 
 モンテスキューは、政治体制を共和政体、君主政体、専制政体の3種に分類する。君主政体は、ただ1人が確固たる制定された法律によって統治する政体であり、専制政体は、ただ1人が法律も規則もなく、すべてを彼自身の意思と気まぐれで統治する政体である*3
 
 君主政体の本質を構成するのは、中間的な諸権力であり、典型的な中間権力は、貴族の権力である。モンテスキューによれば、君主政体では、貴族は各自の名誉を守ることを動機として行動し、その付随的結果として国王の権限拡張を抑制し、国民の自由を守る。これは、自由を守るために、国民1人1人が祖国への愛、真の栄誉への希求、自己放棄の精神等の徳を備えることを必要とする共和政体に比べると、より安上がりで効率的である*4
 
 これに対して、典型的な中間権力である貴族の権力が衰退したイギリスでは、立法・執行・司法の3権を分立させ、しかも異なる社会階級の利害を均衡させる立法過程を人為的に仕組むことで、国民の自由を確保せざるを得ない。権力の分立と均衡の仕組みが要請されるのは、イギリス社会のいびつさのためである。
 
 モンテスキューは、貴族の中間権力を持ち合わせないイギリス人が一旦自由を失えば、彼らは世界でもっとも隷属的な人民に成り果てるであろうと言う*5
 

 
 ところでなぜ、イギリスでは貴族の力がそれほどに衰退したのであろうか。この点に関する古典的な説明は、チューダー朝の歴代の君主が意図的に、そうした状況を作り出したというものである。
 
 フランシス・ベーコン(1561−1626)によると、土地の譲渡を制限し土地所有を広く臣民に行き渡らせたのはチューダー朝の開祖であるヘンリー7世の功績である。ヘンリー7世は独立自営農民層を強化し、囲い込みによって土地を収奪しようとする貴族や紳士層の活動を抑制した。その結果、国土や人口においてまさるフランスに対しても、イングランドは十分対応し得る兵士を確保することができた*6

イングランドが、領土と人口はフランスに比べてはるかに劣っているが(それにもかかわらず)、優勢(overmatch)であり続けているのは、イングランドの中間層(Middle People)がすぐれた兵士となり、フランスの農民はそうではないからである。
 この点で、ヘンリー7世の方策は深遠で称賛に値するものであった。標準的な農家のための農場と家屋を定めた。すわなち、一定の土地を維持させ、臣下が安楽で豊かに、他人に隷属せず暮らせるようにした。鋤を所有者の手にとどめ、ただの雇われ者とならないようにした。かくして、ウェルギリウスが古代イタリアに帰する性質──武力は強く土地の豊かな国土(Terra potens armis atque ubere glebæ)──を実現することができる。

 さらに、ジェームズ・ハリントン(1611−77)がこの論陣に加わる。チャールズ1世が処刑され、共和制へと移行した後のイングランドで活動したハリントンによれば、「イングランドがフランスに対して武器をとって優勢(overmatch)であった真の理由は、財産が下層の階級にいたるまで配分されていたことによる」*7。イングランドの臣民が武器をとったとき、国王に対して優勢であったのも、同じ理由に基づく。
 
 ハリントンは、ヘンリー7世による独立自営農民の強化策やヘンリー8世による修道院の解散等、歴代のイングランド王のとった施策が、自作農および紳士層の保有財産を増し、貴族層の力を弱めたとする。貴族層は農民を従属させることができず、自前の兵力を用意することができなくなり、ただの宮廷人となって財産の費消に明け暮れる。かくして、「庶民院が君主に対して恐るべき存在として立ち現れ、君主は庶民院では青ざめざることとなった」*8
 
 人民の支配を恋愛関係であるかのように装ったエリザベス1世の治世の間は、人民と国王との対立は隠蔽されるが、聖職者*9に唆された国王チャールズ1世が人民と対決するにいたったとき、もはや徹底的に弱体化した貴族院は緩衝勢力とはならず、頼るものは軍しかなくなった*10。しかし、打ちひしがれた農民や貧民から組織される軍隊や外国人の傭兵で組織される軍隊では、自作農からなる民兵に太刀打ちはできない*11
 

 
 こうした古典的説明に異を唱えたのが、アダム・スミスである。彼の『国富論』は1776年に初版が刊行され、彼自身による最後の改訂版である第3版は、1784年に刊行された*12。『国富論』は、その第3編第3章「ローマ帝国没落後の諸都市の発生と発達について」で、近代初頭の商業と製造業の発達が次のような社会の変化をもたらしたとする*13

商業と製造業は、国民のあいだに、秩序とよき統治を、またそれとともに個人の自由と安全を、しだいにもたらしたのであって、以前の彼らは隣人とほとんど絶え間のない戦闘状態にあり、領主にたいしては奴隷的従属状態にあった。このことは、ほとんど注目されてこなかったけれども、商業と製造業がもたらしたすべての効果のなかでも、もっとも重要なものであった。ヒューム氏は、私の知るかぎり、これまでその点に注目した唯一の著作家である。

 スミスによると、商業も製造業も未発達な国では、大土地所有者(領主)たちは、自分の土地の生産物のうち、耕作者たちの生活維持に必要な分を超える大部分の生産物のすべてを、自身の邸宅での客の歓待に消費する。余剰生産物の量に応じた多数の従者や召使に囲まれて暮らしている。従者や召使は、そして耕作者たちも、領主に服従して暮らすしかない。
 
 このため領主は、必然的に、彼の領内に住むすべての人々に対して、平時の裁判官、戦時の指揮官となった。領主はみな、誰の不正に対しても全住民の総力を振り向けることができたし、国王を含めてほかには誰もそうすることはできなかった。
 
 こうして国王は全国に及ぶ司法権の行使をあきらめざるを得なかったし、地方の民兵の指揮も、各地方の民兵が服従する者(領主)に委ねざるを得なかった。地域ごとに司法権が分割されていた状態の起源が、封建法(the feudal law)にあるとするのは間違いである。
 
 徴兵権も、貨幣鋳造権も、統治のために条令を制定する権限も、すべて封建法なるものが知られる以前から、大土地所有者のものであった*14。封建法はむしろ、大土地所有者たちの専横を抑制するために導入されたものと考えられる*15
 
 ところが、封建諸制度によってはなし得なかったことを商業と製造業の気付かれぬ作用が次第に成し遂げていった。商業と製造業は、大土地所有者が彼の余剰生産物と交換可能なものを、従者や耕作者に分け与えることなく、自分だけで消費・享受できるものを提供した。
 
 いつの世も、すべては自分たちのために、他人のためには何も残さず(All for ourselves, nothing for other people)というのが、主人たちのさもしい格率である。余剰生産物のすべてを自分で消費する手段を見つけた彼らは、他の誰ともそれを分かち合おうとはしなくなった。1対のダイアモンド入りバックルやそれと同様に下らないものと、1000人の1年分の生活資料に相当するものとを交換し、それと同時に、1000人の人々に及ぼすことのできる勢力と権威のすべてを手放したのである。
 
 大土地所有者たちの個人的支出が増えるにつれて、彼らの従者や借地人の数は減少していった。農地は囲い込まれて拡大され、あるいは借地人に土地保有を長期間保証する見返りに地代を受け取るようになった。他方、商工業者たちは、大土地所有者の支払う対価で生計を立てたが、彼らは特定の領主の支払いに依存してはいないので、独立して生活することができる。
 
 こうして借地人が独立し従者が解雇されてしまうと、大土地所有者はもはや全土にわたる司法権の執行を妨げたり、平和を攪乱したりすることができなくなった。彼らは、子どもの遊び道具にふさわしい装身具や飾りと引き換えに生得の権利(birth-right)を売り払い、都市の富裕な市民や商人と変わらぬ存在になった*16
 
 注目すべきことは、こうした変化が、公共の福祉に奉仕しようとの意図を全く持たない2つの社会階層の行動から生じたことである。
 
 大土地所有者は子どもじみた虚栄心を満足させようとしただけであるし、商人や職人も自分たちの利益を考えていただけである。自分たちの利得を図ろうとする行動がどんな大変革をもたらすことになるか、誰も全く意識してはいなかった*17
 

 
 スミスは、商業と製造業の発達が法の支配と平和な社会秩序をもたらしたこの変化に注目した唯一の著作家はヒューム氏であるとする。スミスと長年にわたる親友であった哲学者のデイヴィッド・ヒュームである。
 
 ヒュームは、『英国史』*18第4巻の補遺で、チューダー朝下の社会の気風の変化について、次のように述べる*19

[豪勢な歓待に散財するという]古の遺風が残されていたとはいえ、貴族たちは次第に、優雅な趣味を身につけていった。とりわけ、多くの建造物、すっきりした、巨大な、あるいは壮麗な建築物が、王国に光彩を添えるものとして建設された……こうした支出先の転換は、芸術や工芸を促進したと考えるのが合理的である。他方、かつての豪勢な歓待は、悪徳や無秩序、煽動や無為をもたらした。
 他の贅沢として、この時代、華美な衣装が増え始めた。女王はそれを抑制するよう王令を発することを考えたほどであった。とはいえ、彼女自身の示した例は、この王令の趣旨に沿ってはいない。……
 古来からの歓待の縮小と従者の削減は、国王の権限伸張にとって好都合であった。大貴族たちの抵抗を不可能とすることで、法の執行が促進され、裁判所の権限が拡張された。ヘンリー7世の置かれた状況と彼の性格には、王権を伸張させた多くの特殊な要因があった。そうした要因は、彼の後継者たちにも見られる。宗派の闘争を経て獲得された、教会の首長としての地位は、もっとも重要な王権である。しかし、この当時を通じて作用した、時代の気風(manners of the age)こそが、一般的な要因であり、それはかつては国王にとって手に負えなかった貴族層の富と影響力を縮減していった。贅沢な暮し振りは、古来の貴族たちから巨大な富を奪い去った。新たな支出先は職人や商人の生きる糧となり、彼らは自分自身の努力の成果によって独立して生きた。貴族は、かつては配下の者たちへ限りなく威勢を伸張することを当然としていたが、もはや、商人に対する顧客の影響力ほどしかその手に残されてはおらず、それは政府にとって危険なものではあり得なかった。土地所有者たちはまた、人手よりは金欲しさに、もっとも利潤が上がるようにと土地の用途を転換し、土地を囲い込んだり、小規模な農地を大規模な農地へと集積し、かつては政府を転覆したり近隣の領主に対抗するために召集されていたが、今は不要となった人手を解雇した。こうして都市が拡大した。中間層は富裕となり力をたくわえた。実際には法と同視し得る君主は、絶対的に服従されるようになった。同様の要因から、庶民層の特権にもとづく新たな自由の見通しがもたらされはしたが、それでも貴族層の没落と庶民層の勃興のはざまで、君主はこうした状況の恩恵を被り、ほとんど絶対的な権威を手中にした。

ヒュームによると、「ベーコン卿やハリントンやその他の権威から人が一般に何を想像しようと、ヘンリー7世の法はイングランドの国制に関するこの大規模な変革に対してほとんど貢献をしていない。……時代の気風の変化(change of the manners)こそが、貴族たちの力を弱体化させ統治を変革した、隠れた主要な原因である」*20
 
 特定の為政者たちの意図的な施策の結果ではなく、自身の利益を追求する行動の意図せざる帰結として、平和で秩序だった市民社会が形成されたというわけである。各自の利己的動機こそが原因であり、政治権力の配分と社会秩序のあり方は、その結果として生まれた上部構造にすぎない。自分自身の利益のみを意図する人々は、「他の多くの場合と同様、ここでも、見えざる手(invisible hand)に導かれて全く意図していなかった帰結を促進することになる」*21
 
 スミスの分析はより詳細ではあるが、その大筋はヒュームの議論の跡をなぞったものである。
 

 
 ヒュームは生前、不信心者(infidel)として悪名が高かった。ある日、彼がエディンバラのオールド・タウンとニュー・タウンを隔てる沼地を通っていたところ、狭い通路から沼地にすべり落ちてしまった。肥満体の彼は自分で抜け出すことができず、近くにいた漁師のおかみさんたちに助けを求めた。彼女らは、邪悪な不信心者のヒュームであることに気付き、「主の祈り」を暗唱したら助けると言ったところ、ヒュームはたちどころに暗唱してみせ、首尾よく救出されたとのことである*22
 
 ヒュームの立場は、無神論というより不可知論である。神が存在しないという決定的な証拠はない。しかし、神の存在を論証しようとする典型的な議論、たとえば自然界の精妙な仕組みから至高の設計者の存在を推論する議論や因果関係を究極まで遡ったときに想定される第一原因として神の存在を措定する議論等は、いずれも神の存在の論証に成功していない*23
 
 ヒュームは駐仏イギリス大使の秘書としてパリに滞在していたおり、啓蒙主義哲学者として著名なドルバック男爵邸を訪れた。徹底した無神論者にはまだ出会ったことがないとヒュームが述べたところ、ドルバックは居並ぶ列席者の人数を数えるようヒュームに促した上で(18人いた)、「悪くない、ここに15人いますよ。残りの3人はまだ迷っているところだ」と応じたそうである*24
 
 ヒュームは1776年8月25日に65歳で逝去した。彼の死が近いとの知らせは英国全土に伝わり、果たして彼が最後までその懐疑主義を貫き通せるか、悔い改めぬ者に相応しく苦悩と絶望のうちに死ぬのではないか等と人々は噂した*25。ともかく自分は天国に行きたいという利己心が、多くの人々の信仰心を支えているものである。
 
 スミスは、ヒュームによる短い自伝*26を出版元であるウィリアム・ストローンに送る際、ヒュームの平静で、周囲に対する配慮にあふれた最期の日々を描く書簡*27を添えた。自伝と書簡は、1777年に公刊された。
 
 スミスは書簡の中で、ヒュームの哲学上の見解については賛否両論があり得るだろうが、彼の人柄と行状についての評価はほぼ一致するとし、ヒュームは「生前も死後も常に、完璧な賢明さと有徳の理想に、おそらくは人の生来の弱さが許すかぎりで、限りなく近づいた」と評して、世の憤激を買った。かつてグラスゴー大学の道徳哲学講座教授として青年たちに道徳を教えていたスミスが、不信心者を褒め讃えるとは、というわけである。
 
 スミスは、彼が『国富論』でイギリスの全商業システムに加えた激しい批判の10倍もの罵詈雑言を、亡き友人ヒューム氏の死に関して彼が執筆した「私には全く無害と思われる紙切れ1枚a single, and as, I thought a very harmless Sheet of paper」のために被ったと述べている*28。それでも、スミスがヒュームに関する見解を撤回することはなかった*29
 

 
 『国富論』にあらわれる「見えざる手」は、「神の見えざる手」と言い換えられることが多い。しかしスミスは、神を篤く信仰する学者ではなかった。
 
 20代はじめの若きスミスは、オクスフォードのベルリオル・コレッジに遊学中、邂逅以前のヒュームの強い影響の下、「哲学的探究を指導し方向づける諸原理 The Principles Which Lead and Direct Philosophical Enquiry」*30と題する論文を執筆した。採り上げられている論点の1つに、宗教の起源がある。
 
 スミスによると、未開状態の人類は、彗星、日蝕、雷鳴等の恐るべき不可思議な自然現象に直面して、心の平安を得るため、何か見えざる力が背後で働いていると考えた*31。説明のつかない現象は、まずは個別の見えざる存在(invisible beings)の恣意によるものと考えられた。次第に生活の安定と余暇を得た人々は、さらに推測をたくましくして因果関係の鎖をたどった末、世界のすべてを創造し、一貫して統御する唯一の神の観念へと到達した*32
 
 神は心の安定を得ようとした人々のイマジネーションが産み出したものである。神が世界を創造したわけではない*33
 
 『国富論』でスミスが示唆する「見えざる手」は、不可思議な現象を説明するためにアドホックに措定されたものではない。人々の利己的動機にもとづく因果関係が詳らかに説明されている。神とは無関係な手と考えるべきであろう。神に替わって、個々人の意思や行動と無関係に歴史を動かす見えざる力が措定されている。
 

*1 しばしば誤解されることがあるが、モンテスキューが述べたのは、立法・司法・行政の3権が厳格に分離されるとともに、それぞれが1つの国家機関によって独占的に行使されるべきだということではない。モンテスキューの描いた国制モデルでは、行政権を司る国王は、立法拒否権を通じて立法作用に関与する。
*2 Montesquieu, De l’esprit des lois, tome I (Flammarion 1979 [1748]) 294−304 [I.XI VI ‘De la Constitution d’Angleterre’]; see Charles Eisenmann, ‘La pensée constitutionnelle de Montesquieu’ in his Écrits de théorie du droit, de droit constitutionnel et d’idées politiques (Éditions Panthéon 2002).
*3 Montesquieu (n 2) 131 [I.II.I].
*4 Ibidem 147−48 [I.III.V].
*5 Ibidem 140 [I.II.IV].
*6 Francis Bacon, ‘Of the True Greatness of Kingdoms and Estates’ in Francis Bacon, The History of the Reign of King Henry VII (Brian Vickers ed, Cambridge University Press 1998) 249−50 [Essay, XXIX]. See also ibidem 65−67.
*7 James Harrington, The Political Works of James Harrington (JGA Pocock ed, Cambridge University Press 1977) 688. 本文で引用したベーコンの文章は、ほぼそのまま、1656年に刊行されたハリントンの主著 The Commonwealth of Oceanaの序文で引用されている(ibidem 157−58)。もっとも、ヘンリー7世はPanurgus、イングランドはOceanaと言い換えられている。
*8 Ibidem 197−98. ここでハリントンは、ベーコンの『ヘンリー7世治世史』の記述を下敷きにしている(see Bacon (n 6) 65−66)。See JGA Pocock, ‘Historical Introduction’ to Harrington (n 7) 57-58.
*9 チャールズ1世治下でカンタベリー大主教であったウィリアム・ロード(William Laud)を暗に指している。
*10 Harrington (n 7) 198.
*11 Ibidem 442−43. ポーコックは、間接税で給与をまかなわれたニューモデル・アーミーは、理念の世界に生きるハリントンにとって反証とはならなったと言う(Pocock (n 8) 59)。
*12 Adam Smith, An Inquiry into the Nature and Causes of the Wealth of Nations, 2 vols (RH Campbell, AS Skinner, and WB Todd eds, Liberty Fund 1981); 邦訳『国富論(一)~(四)』水田洋監訳、杉山忠平訳(岩波文庫、2000−01)。邦訳はスミスの生前最後に刊行された第5版を底本としている。
*13 Smith (n 12) vol I 412; 邦訳(二)235頁。訳に忠実には従っていない。
*14 Smith (n 12) vol I 413−15; 邦訳(二)235−39頁。
*15 Smith (n 12) vol I 417; 邦訳(二)240−41頁。
*16 Smith (n 12) vol I 418−21; 邦訳(二)241−45頁。
*17 Smith (n 12) vol I 422; 邦訳(二)247頁。
*18 David Hume, The History of England, from the Invasion of Julius Caesar to the Revolution in 1688, 6 vols (Liberty Fund 1983 [1754−62]).
*19 Hume (n 18) vol IV 383−85.
*20 Ibidem 384−85.
*21 Smith (n 12) 456; 邦訳(二)303頁。「国内で生産できる品物の外国からの輸入にたいする制限について」と題された第4編第2章にあらわれる表現である。
*22 Dennis C Rasmussen, The Infidel and the Professor: David Hume, Adam Smith, and the Friendship That Shaped Modern Thought (Princeton University Press 2017) 152.
*23 Don Garrett, Hume (Routledge 2015) 312−13.
*24 Rasmussen (n 22) 125.
*25 Ibidem 199.
*26 ‘My Own Life’.
*27 ‘Letter from Adam Smith, LL.D. to William Strahan, ESQ.’. ヒュームの自伝(‘My Own Life’)とスミスの書簡は、David Hume, Essays, Moral, Political, and Literary (Revised edn, Eugene F Miller ed, Liberty Fund 1987 [1741−77])の巻頭に収められている。
*28 Rasmussen (n 22) 223.
*29 Ibidem 228.
*30 Reproduced in Adam Smith, Essays on Philosophical Subjects (WPD Whitman and JC Bryce eds, Liberty Fund 1982). 『諸原理』はスミスの死後、刊行された。
*31 Smith (n 30) 48−49.
*32 Ibidem 112−14.
*33 Rasmussen (n 22) 43.

 
 
》》》バックナンバー
第21回 道徳対倫理──カントを読むヘーゲル
第22回 未来に立ち向かう──フランク・ラムジーの哲学
第23回 思想の力──ルイス・ネイミア
第24回 道徳と自己利益の間
《全バックナンバーリスト》はこちら⇒【憲法学の散歩道】
 
 
憲法学の本道を外れ、気の向くまま杣道へ。そして周縁からこそ見える憲法学の領域という根本問題へ。新しい知的景色へ誘う挑発の書。
 
2021年11月15日発売
『神と自然と憲法と 憲法学の散歩道』
長谷部恭男 著

3,300円(税込) 四六判 288ページ
ISBN 978-4-326-45126-5

https://www.keisoshobo.co.jp/book/b592975.html
 
【内容紹介】 勁草書房編集部ウェブサイトでの連載エッセイ「憲法学の散歩道」20回分に書下ろし2篇を加えたもの。思考の根を深く広く伸ばすために、憲法学の思想的淵源を遡るだけでなく、その根本にある「神あるいは人民」は実在するのか、それとも説明の道具として措定されているだけなのかといった憲法学の領域に関わる本質的な問いへ誘う。
 
本書のあとがきはこちらからお読みいただけます。→《あとがき》

長谷部恭男

About The Author

はせべ・やすお  早稲田大学法学学術院教授。1956年、広島生まれ。東京大学法学部卒業、東京大学教授等を経て、2014年より現職。専門は憲法学。主な著作に『権力への懐疑』(日本評論社、1991年)、『憲法学のフロンティア 岩波人文書セレクション』(岩波書店、2013年)、『憲法と平和を問いなおす』(ちくま新書、2004年)、『Interactive 憲法』(有斐閣、2006年)、『比較不能な価値の迷路 増補新装版』(東京大学出版会、2018年)、『憲法 第7版』(新世社、2018年)、『法とは何か 増補新版』(河出書房新社、2015年)、『憲法学の虫眼鏡』(羽鳥書店、2019年)ほか、共著編著多数。