憲法学の散歩道 連載・読み物

憲法学の散歩道
第26回 『アメリカのデモクラシー』──立法者への呼びかけ

 
 
 アレクシ・ドゥ・トクヴィルは、ノルマンディーの貴族の家系に生まれた。両親はフランス革命時の恐怖政治下で投獄され、ロベスピエールの失脚がなければ処刑されるところであった。父親は王政復古後の体制で各地の県知事(préfet)を歴任した。
 
 トクヴィルは、3人兄弟の三男として1805年に生まれ、パリ大学で法律を学んだ。1827年には、陪席裁判官(juge auditeur)に任命されている。司法官としての彼の経歴は、1830年の7月革命で中断される。
 
 神の摂理により、フランスにおける権威のすべては国王の一身に存すると前文で宣言する1814年憲章に代わって、1830年憲章は、フランス人の王(Roi des Français)は即位に際し、両院合同会議において、憲章の遵守を誓うものとした(65条)。権力の重心は、王から代議院へと移った。
 
 やむなく新体制への忠誠を誓ったトクヴィルは、しかし、自費でアメリカの行刑・監獄制度の視察に赴きたいと上司に願い出た。彼は同僚のグスタヴ・ドゥ・ボーモンとともに、1831年9月ニューヨークに到着し、約9カ月間、アメリカ各地を視察した。
 
 アメリカ訪問の成果である『アメリカのデモクラシー』は、第Ⅰ巻が1835年に、第Ⅱ巻が1840年に出版された。アメリカでの見聞は、彼の信念を揺るがした。デモクラシーは可能であり、必然である。
 

 
 トクヴィルは、第Ⅰ巻の序の終わり近くで、「注意深く吟味する読者は、本書全体を通じて、いわばそのすべての部分を結びつける1つの根本思想(pensée mère)があることに気付くであろう」と述べる*1。根本思想は、平等へと向かうあらゆる社会の傾向である。
 
 同じ序で、トクヴィルは、この700年間、大事件と言い得るもので、平等化に貢献しないものはなかったと言う*2。十字軍も対英戦争も、火器や印刷術の発明も、宗教改革もアメリカの発見もそうである。
 
 とりわけフランスでは、歴代の国王が平等化を積極的に推し進めた。かつては貴族が王権に対抗して人民の自由を確保したこともあったが、国王は貴族の地位を低下させるために平民を引き立て、貴族の力を削いで宮廷の飾り物とした。
 
 平等化は各人の意思に反して、またはそれとは意識しないまま進行した。人々は神の手の盲目の道具(aveugles instruments dans les mains de Dieu)として働いた。平等の漸進的な発展は、神の摂理(fait providentiel)である*3。抗うことはできない。可能なのは、それに順応することだけである*4
 
 社会の平等化は政治のあり方をも変える。封建制は破壊され、さらに君主政もそれを支える貴族の権力とともに打倒される。平等化へと向かうデモクラシーの進展を押しとどめることはできない。そうである以上、デモクラシーを鍛え上げ、その信念を活気づけ、気風(mœurs)を純化し、活動を制御し、経験に即した知識と真の利益を認識させること、時と所、人と状況に即して統治のあり方を適応させること、それが今日、社会の指導者に課せられた第一の任務である*5

全く新しい世界には、新たな政治学が必要である*6

 アメリカ社会の検討が必要となるのもそのためである。アメリカは、トクヴィルの言う平等化を目指す巨大な社会変革がほとんどその極限にまで達している国である*7。フランスと異なり、アメリカでは民主的変革が単純かつ円滑に進んでいる。遅かれ早かれフランスもアメリカと同様の状況に到達する。トクヴィルがアメリカ社会を検討したのは、フランス人にとって役立つ教訓を得るためである*8
 
 フランスがアメリカと全く同一の社会と政治体制になると決まったわけではない。彼は、アメリカの諸制度は民主的国民が採用する唯一の制度でもなければ最善の制度でもないとする*9。しかし、アメリカの経験から得られるものは大きいはずである。
 
 ホッブズやルソーは、人がすべて平等な自然状態から出発した。彼らにとって社会の階層化は、人々が結集して政治社会を作り出した後に生まれたものである。トクヴィルはそうは考えない。歴史は階層化した不平等な状態から、すべての人が平等となる状態へととどまることなく進展している。人の行うことのすべてが、本人の意思とは無関係に平等化を推し進める。それは神の摂理である。
 
 「神の見えざる手」という言い回しは、表面的なことば遣いからするかぎり、アダム・スミスではなく、トクヴィルにこそ相応しい。
 

 
 ホッブズは神が存在する確証はないと考えた。「人の死後の状態について自然に得られる知識は何もない。信仰の違背への報いが何かについてはなおさらだ。……ただそれを超自然的に知り得た人々を知っている人たちを知っているという人々のことばにもとづく信仰があるにすぎない」とホッブズは言う*10
 
 ルソーに至っては、宗教はつまるところ政治の道具だと述べている*11。もともと宗教は各国の基本法(憲法原理)と同一であった。国家と国家の戦いは、神々の戦いでもある*12
 
 トクヴィルは宗教をどう見ていたのであろうか。彼は、アメリカ人の宗教心が、アメリカのデモクラシーを支えていると言う。唯一神の下に各人が独立かつ平等であると主張するプロテスタンティズムがデモクラシーと親和的であることは明らかである*13。しかし彼は、カトリシズムでさえ、デモクラシーと親和的であることを指摘する。聖職者の下、すべての平信徒は平等に扱われるからである*14
 
 さらにトクヴィルは、アメリカの宗教がキリスト教特有の社会道徳を行き渡らせている事実を指摘する。確固たる道徳心が、人々が自由に活動する平等な社会生活を支えている。政治の絆が弱まる共和政においてこそ、信仰によって支えられた道義の絆の必要性は高まる*15。「専制は信仰なしですませることができる。自由な社会はそうはいかない」*16
 
 1840年に刊行された第Ⅱ巻でも、トクヴィルは宗教上の信仰心について語っている。彼によると、神と人の魂、そして神と同胞に対する義務について確固たる観念を抱くことは、人が社会生活を送る上で必要不可欠である。理性のみによって確固たる判断にいたる能力は、多くの人々には欠けている。大衆にも分かりやすい形で明確に、生きる上での問題を解決すること、それが宗教の役割である。このため、国の宗教が破壊されると、人々は懐疑に取りつかれ無気力状態に陥ってしまう。信仰のない人は隷属状態に陥る。自由であるためには、信仰が必要である*17
 
 トクヴィルは、社会生活や政治体制を支える宗教の社会学的機能について語っているようである。それは神への信仰が正しいか否かとは直結していない。
 
 彼は、人が生きる上で信仰は不可欠だと考えていた節がある。60年そこそこの人生での不完全な喜びが人を満足させることはない。あらゆる存在者(tous les êtres)の中で人間だけが生存への嫌悪と同時に生存への飽くなき執着を示す。生きることを軽蔑しつつも、無を恐れる。こうした矛盾する本能が人の心をやむことなく来世へと向かわせ、宗教がその導きとなる。希望がそうであるのと同様、宗教は人にとって自然なものである*18
 
 しかしこれも人にとっての信仰の必要性を説いているにすぎない。信仰の内容が真実であるか否かに関わる議論ではない。
 

 
 トクヴィルは、『アメリカのデモクラシー』の第Ⅰ巻第1部で、ニューイングランドにおける地域共同体(township)の自治の重要性について語っている。
 
 トクヴィルによると、人々が集まれば自然に生まれるのが地域共同体である。したがって、地域共同体はいかなる国にも存在する。しかし、地域共同体の自治(liberté communale)は稀であり、しかも壊れやすい*19
 
 地域共同体の自治を確立することは困難であり、権力の侵害を受けやすい。国民の思想や習慣と一体化し、気風に根付くことのないかぎり、それは簡単に破壊される。個々人の努力で出来上がるものではない。
 
 しかし、人民の自由の力は地域共同体にこそある。地域共同体の諸制度が自由にとって持つ意味は、小学校が学問にとって持つ意味に相当する。これらの諸制度を通じて、人々は平穏に自治を味わい、それに慣れる。地域の自治制度がなくとも、国として自治的(民主的)な政府を樹立することはできるであろうが、そこに自治の精神はない。束の間の情熱や関心、偶然の事情で人民による政治の外観が備わることはあり得るが、遅かれ早かれ、抑え込まれていた専制が顔をのぞかせる*20
 
 フランス語のlibertéには、個人の自由という意味に加えて、政治体の自治・独立という意味も含まれる。トクヴィルはここで、2つの意味の間を行き来している*21
 
 トクヴィルによると、ニューイングランドの地域共同体の人口は、2千人から3千人である。住民の利害がほぼ共通しており、しかも行政手腕を備えた人を見出せるほどの規模ではある*22。しかし、住民は「立法者législateur」にも耳を貸さないほど無教養な人々からなっている。啓蒙が進むにつれて、地域の自治はより容易にではなく、より困難となる。文明の進んだ社会は、なかなか地域の自治を許さないものだとトクヴィルは言う*23。フランスを含めたヨーロッパ諸国のことを言っているのであろう。
 
 「立法者」は、ルソー『社会契約論』の第2編第7章に登場する。その任務は、建国にあたって人民に対し国の基本的なあり方を提案することである。『アメリカのデモクラシー』に登場する「立法者」はしばしば、マディソン、ハミルトン等の合衆国憲法の立案者──建国の父たち──を指している*24。トクヴィルは、ルソーの真摯な読者であった。
 
 アリストテレスは、人はその本性からして「政治的動物zōon politikon」であるとしたが*25、その舞台となる国家は、「一望できる程度」の大きさであるべきだと述べている*26。人々の生活の要求に応える国家生活を自足的に成り立たせるほどの規模は必要だが、どのような公職を誰に割り当てるべきかが判断できる程度には、皆が皆を知っている必要がある。その規模を超えて国家が膨張すると、公職者の選出や判決は劣悪になるとアリストテレスは言う*27
 
 小規模な政治体の長所を指摘する点で、アリストテレスとトクヴィルは共通している。
 

 
 自発的結社に関するトクヴィルの議論は、日本では「ルソー=ジャコバン型」と「トクヴィル=アメリカ型」という近代社会の2つのモデルを通じて知られている*28
 
 トクヴィルは、「民主国家においては、結社に関する学問はすべての学術の根本である。」と言う。他のすべての学術の進展は、結社に関する学問の進展に依存している*29
 
 アメリカでは、年齢、境遇、思想の如何を問わず、誰もが結社を作る。商工業の団体だけでなく、宗教上の結社、道徳向上のための結社、真面目な結社、不真面目な結社、大きな結社、小さな結社、ありとあらゆる結社がある。新規の事業を始めるのは、フランスなら政府であり、イギリスなら大地主だが、アメリカでは結社である*30
 
 貴族制社会には力と富を蓄えた少数の人々がいる。彼らが事業を始めると、他の無力な人々は協力せざるを得ない。民主社会では誰もが無力である。仲間に協力するよう強いることもできない。自発的に結集して協力する術を学ばない限り、誰も何事もなし得ない。
 
 多数のメンバーを結集して結社を運営することは、決して容易なことではない。だからと言って、無力な諸個人の代わりに政府があらゆることを引き受ければ、人々の自治の精神は失われ、産業も衰退する。トクヴィルは、社会の平等化によって消え去った有力な諸個人の代わりになるのは、結社だと言う*31
 
 アメリカ人を結社へと向かわせるのは、「正しく理解された自己利益l’intérêt bien entendu」*32である。アメリカ人は共同の利益に奉仕する徳を称揚しようとはせず、それは各自の利益にもなるのだと言う。自身の利益を正しく理解すれば、それは相互の助け合いと協働の事業へと向かうというわけである。自己利益と無関係に人を動機づけることはできない。
 
 トクヴィルは、正しく理解された自己利益という考え方は、高尚とは言えないが「明晰で確実claire et sûre」だと言う*33。誰もが容易に理解することができ、人々の情念をたくみに抑制して、穏和で先見性のある規律ある人間を作り出す。彼によれば、それはあらゆる哲学理論の中で、現代人の必要にもっとも適合したものである*34
 

 
 トクヴィルは、民主社会が専制に陥るリスクを指摘する。『アメリカのデモクラシー』の第Ⅰ巻で指摘されるのは、多数派による専制のリスクである。ある社会が内部の矛盾・衝突のために解体してしまわないためには、どこかに他のすべてに優越する1つの力がなければならない。しかし、この力が何の障害もなくその力を振るえば、自由は危機に瀕する。彼は、「アメリカで私がもっとも嫌悪するのは、極端な自由の支配ではなく、[多数派の]専制に抗する保障がほとんどないことだ」と言う*35
 
 少数者が不正な扱いを受けたとき、誰に訴えればよいか。世論は多数者が形成するし、立法府は多数者を代表し、執行権は多数者が任命する。警察は武装した多数者に他ならず、陪審制は多数者に判決を下す権限を与える。裁判官でさえ、州レベルではしばしば選挙によって選ばれる。少数者がどれほど不正で不合理な目に遭おうとも、忍従せざるを得ない。
 
 トクヴィルは、万が一にもアメリカで自由が失われることがあれば、少数者を絶望に追いやり、実力に訴えざるを得なくした多数者の全能に責めを帰すべきであろうと言う。多数者の専制の結果として、混乱した無政府状態が帰結しかねない*36
 
 他方、トクヴィルは第Ⅱ巻の末尾で、民主社会において完全に平等化した諸個人が自身の無力を感じるあまり無気力となって各自の利益にのみ関心を集中し、集権的政府の柔和な専制に服するリスクを指摘する*37

私の目に浮かぶのは、無数の互いに似通った平等な人々が矮小で低俗な愉しみで胸を膨らませ、それを手に入れようと休みなく動き回るさまである。誰もが自分に引きこもり、他の誰の人生にも関心を持たない。彼にとっては子どもと親友だけが人類のすべてである。残りの同胞市民は傍らにはいるものの、彼らを見ることはない。触れ合ってもそれを感じることもない。彼は彼自身だけで、自身のためにのみ存在する。家族はまだあるとしても、少なくとも祖国は存在しない。

 ニーチェの言う「末人」の世を思わせるこうした人々の背後には巨大な後見的権力が屹立し、人々の生活を微に入り細に入り、穏やかに規制し面倒を見る。権力に歯向かわず、人々が娯楽に興じることが、権力にとっては都合がよい。人々は、自分たち自身がこの後見的権力を選んだことを思い起こし、考えることもなく、安んじてその手に身を委ねる。権力は中央に集中し、人々は地域の小事についても自主的に決めることを忘れる。しかし、自主独立の気風を失った人々が、いかにして自分たちの指導者を適切に選ぶことができるだろうかとトクヴィルは懸念を示す*38
 
 こうした柔和な専制の出現を阻止し得るのも、結社である。かつての貴族制社会であれば、有力な少数の貴族が王権に対抗し、その付随的帰結として人民一般の自主と自由を守ることができた。しかし、平等化が進む今日において、貴族制を復活させることは望み薄である。

私はこの世界に貴族制を新たに築くことはできまいと固く信じている。だが普通の市民が団体をつくって、そこに非常に豊かで影響力のある強力な存在、一言で言えば、貴族的な人格(personnes aristocratiques)を構成することはできると思う*39

 そうすれば、かつての貴族制のような不正とリスクなしに、最大の政治的便益を手に入れることができる。政治結社、商工業の結社、学芸の結社でさえ、権力の要求に抗して自己の権利を主張し、その帰結として人々の共通の自由(libertés communes)を擁護することができる。そして、こうした市民に共通する要求を国全体に周知させるには、新聞の自由が何より重要である*40
 
 インターネットが普及して誰もが情報の発信者となり得る現代では、新聞やテレビをはじめとするマスメディアの役割はもはや終わったかのように言われることがある。トクヴィルが現代に生きていれば、それは全く逆だと言うであろう。
 
 ここでも「自由liberté」の2つの異なる意味が拮抗している。貴族や結社が守ろうとする自由は、政府に対抗して守られる優越的で特殊な人々、エリートの自由である。他方、平等へと向かうとどまることなき傾向は、自分たちの同類が選択した地方政府や中央政府に従うこと、それのみに従うことこそ自由だとの信念を生み出す*41。前者は少数者に認められた特権であり、後者はすべての個人が生来、平等に享有する自由である。
 
 しかし逆説的にも、前者は専制に対する防波堤となり、後者は専制を招来する。すべての個人が平等に自由な社会では、すべての個人がばらばらで平等に無力である*42。専制に抗するには、2つの自由を併せ持つ必要がある。人々の結集を通じて社会のつながりを回復し、破壊された貴族制の要素を再建して人々に力を与え、専制を抑止する必要がある。それは永遠に未完の、繰り返し遂行されるべき任務ではあるが*43
 
 平等な民主社会はうわべの形式であり、深刻な不平等を覆い隠しているとの批判は多い。巨大な私的団体が個人の自由と平等を侵害している。しかし他方で、人々を平等化し分断し破砕化する止めどない圧力がもたらすリスクを無視することはできない。貧富の較差、力の較差はたしかにある。それらは是正されるべきである。ただ、是正された後に到来する平等社会に伴うリスクを抑止しようとすれば、人々の自発的結集を通じてさらなる富と力の不均衡が発生する。永遠の繰り返しである。
 

 
 『アメリカのデモクラシー』は新しい世界のための新しい政治学である。それは、平等化が進展した民主社会の政治指導者のための、民主社会の「立法者」のための書である。
 
 ところで、社会の平等化は、誰にも押しとどめることのできない神の摂理であった。神の摂理が働いているとすると、民主社会の政治指導者には、どれほどの判断と行動の余地が許されているであろうか。トクヴィルの立場は揺れ動いているように見える*44
 
 彼は、立法者は数多くの努力の末、ときに間接的に国民の運命に影響を及ぼすことができるにすぎないと言う。立法者によっては動かしようのない国の地理的位置、社会状態、由来不明の気風や観念、立法者の与り知らぬ国民の起源が社会の動きを定めており、立法者がそれらと抗っても無駄である。立法者は、大海原で船を操る人に似ている。針路を定めることはできるが、船を造り変えたり、風を吹かせたり、海の波を静めることはできない*45。結局のところ、立法者に可能なことは限られている。
 
 他方、トクヴィルは、決定論に飲み込まれるべきではないとも言う。第Ⅱ巻第1部第8章「民主的世紀の歴史家に特有の傾向について」で彼は、古典古代の歴史家たちが、すべてのできごとを数人の偉大な個人の業績として語るのに対し、近代の歴史家たちは、歴史の動きを何らかの一般的な要因に還元してしまい、歴史における個人の役割を全面的に否定しようとすると言う。

民主的な時代に生きる歴史家たちは、人民の運命に働きかける個々の市民の力を否定するだけでなく、人民自身からもその運命を動かす能力を奪い去り、不変の摂理や盲目の宿命の下に従属させる。彼らによれば、各民族は、その位置と起源と過去の歴史とその性向により、いかなる努力によっても変えようのない宿命に克服し難く結びつけられている*46

 トクヴィルが言いたいのは、こうした歴史観を信じ込んでしまえば、民主社会は本当にそうなってしまうということである。こうした宿命論の教義が著者から読者に伝わり、市民全体の心の中に浸透すれば、いずれそれは社会の新たな運動を麻痺させ、キリスト教徒をトルコ人に変えてしまうだろうとトクヴィルは言う*47

神の摂理は人類を完全に独立したものとしても、完全に従属したものとしても創造しはしなかった。それは各人の周りに、決して脱け出ることのできない運命の円を描いている。ただ、その広大な境界線の中では、人は力強く自由である。人民も同じである *48

 自己実現的予言に騙されて自らの運命を切り拓く気概を失うなと、トクヴィルは呼びかけている。
 

*1 Alexis de Tocqueville, De la démocratie en Amerique, tome I (Gallimard 1961) 53 ; 邦訳『アメリカのデモクラシー』第一巻(上)松本礼二訳(岩波文庫、2005)30頁。訳に忠実には従っていない。
*2 Ibidem 40; 邦訳13頁。
*3 Ibidem 41; 邦訳14頁。
*4 Ibidem 42; 邦訳15頁。
*5 Ibidem 42; 邦訳16頁。
*6 Ibidem 43; 邦訳16頁。
*7 Ibidem 50; 邦訳26頁。
*8 Ibidem 51; 邦訳27頁。
*9 Ibidem 347; 邦訳第一巻(下)111頁。
*10 Thomas Hobbes, Leviathan (Richard Tuck ed, Cambridge University Press 1996) 103 [chapter 15].
*11 Jean-Jacques Rousseau, Du contrat social, livre II, chapitre 7.
*12 Ibidem livre IV, chapitre 8. もっともルソーは、神の存在も不在も論証はされ得ないものの、神の存在を否定することは日常生活を支える信念への攻撃であって、人の情としては残酷で耐え難いとし、理性がそれを疑い得ることは分かってはいるが、魂の不滅性を進んで信じると述べる(‘Lettre de J.-J. Rousseau à Monsieur de Voltaire’ in Œuvres complètes, vol IV (Bernard Gagnebin et Marcel Raymond eds, Gallimard 1969) 1059 ff.; see also ‘Lettre à Monsieur de Franquières’ in Œuvres complètes, vol IV 1133 ff.)。
*13 Tocqueville (n 1) 427; 邦訳第一巻(下)212頁。
*14 Ibidem 427−28; 邦訳213頁。
*15 Ibidem 430−36; 邦訳217−25頁。
*16 Ibidem 436; 邦訳224頁。
*17 Alexis de Tocqueville, De la démocratie en Amerique, tome II (Gallimard 1961) 36−39 ; 邦訳第二巻(上)44−48頁。
*18 Tocqueville (n 1) 439; 邦訳第一巻(下)228頁。
*19 Ibidem 111; 邦訳第一巻(上)96頁。
*20 Ibidem 112−13; 邦訳97頁。
*21 ‘freedom’ という英語も、集団の自治・独立という意味合いで使われることがある。植民地の本国からの独立が「民族の解放」とか「自由の回復」と呼ばれるときがそうである。たとえ、独立後の政府が国民の自由を抑圧する独裁政権であっても。
*22 Tocqueville (n 1) 113−14; 邦訳99頁。
*23 Ibidem 112; 邦訳96頁。
*24 Ibidem premièr partie, chapiter VIII, passim; 邦訳第1部第8章各所。
*25 『政治学』牛田徳子訳(京都大学学術出版会、2001)9頁[1253a]。
*26 同上356頁[1326b]。
*27 同上。ルソーも、国家には自給自足できる程度の規模は必要だが、あまり膨張すると社会的紐帯が緩み、力を失うと言う(Rousseau (n 10) livre II, chapiter 9)。
*28 樋口陽一『憲法〔第4版〕』(勁草書房、2021)37−42頁。
*29 Tocqueville (n 17) 159; 邦訳第二巻(上)195頁。
*30 Ibidem 154−55; 邦訳188−89頁。
*31 Ibidem 155−58; 邦訳190−94頁。
*32 Ibidem 174; 邦訳213頁。See also Alan Ryan, On Tocqueville: Democracy and America (Liveright Publishing 2014) 83−86.
*33 Tocqueville (n 17) 175; 邦訳第二巻(上)214頁。
*34 Ibidem 176; 邦訳215頁。
*35 Tocqueville (n 1) 378 ; 邦訳第一巻(下)150頁。
*36 Ibidem 388; 邦訳163頁。
*37 Tocqueville (n 17) 434; 邦訳第二巻(下)256頁。
*38 Ibidem 434−38; 邦訳256−62頁。
*39 Ibidem 442; 邦訳267頁。
*40 Ibidem; 邦訳267−68頁。
*41 See Pierre Manent, Tocquville et la nature de la démocratie (Gallimard 1993) 35−37.
*42 Ibidem 41−46.
*43 Ibidem 47−48
*44 See Steven B Smith, Political Philosophy (Yale University Press 2012) 238−42.
*45 Tocqueville (n 1) 252−53; 邦訳第一巻(上)266−67頁。
*46 Tocqueville (n 17) 124−25; 邦訳第二巻(上)155−56頁。
*47 Ibidem 125; 邦訳156−57頁。
*48 Ibidem 455; 邦訳第二巻(下)282頁。

 
 
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第22回 未来に立ち向かう──フランク・ラムジーの哲学
第23回 思想の力──ルイス・ネイミア
第24回 道徳と自己利益の間
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憲法学の本道を外れ、気の向くまま杣道へ。そして周縁からこそ見える憲法学の領域という根本問題へ。新しい知的景色へ誘う挑発の書。
 
2021年11月15日発売
『神と自然と憲法と 憲法学の散歩道』
長谷部恭男 著

3,300円(税込) 四六判 288ページ
ISBN 978-4-326-45126-5

https://www.keisoshobo.co.jp/book/b592975.html
 
【内容紹介】 勁草書房編集部ウェブサイトでの連載エッセイ「憲法学の散歩道」20回分に書下ろし2篇を加えたもの。思考の根を深く広く伸ばすために、憲法学の思想的淵源を遡るだけでなく、その根本にある「神あるいは人民」は実在するのか、それとも説明の道具として措定されているだけなのかといった憲法学の領域に関わる本質的な問いへ誘う。
 
本書のあとがきはこちらからお読みいただけます。→《あとがき》

長谷部恭男

About The Author

はせべ・やすお  早稲田大学法学学術院教授。1956年、広島生まれ。東京大学法学部卒業、東京大学教授等を経て、2014年より現職。専門は憲法学。主な著作に『権力への懐疑』(日本評論社、1991年)、『憲法学のフロンティア 岩波人文書セレクション』(岩波書店、2013年)、『憲法と平和を問いなおす』(ちくま新書、2004年)、『Interactive 憲法』(有斐閣、2006年)、『比較不能な価値の迷路 増補新装版』(東京大学出版会、2018年)、『憲法 第7版』(新世社、2018年)、『法とは何か 増補新版』(河出書房新社、2015年)、『憲法学の虫眼鏡』(羽鳥書店、2019年)ほか、共著編著多数。