憲法学の散歩道 連載・読み物

憲法学の散歩道
第27回 ボシュエからジャコバン独裁へ──統一への希求

 
 
 ジャック・ベニニュ・ボシュエは、フランス絶対王政のイデオローグとして知られる。
 
 ボシュエは1627年、ディジョンの司法官の家柄に生まれた。イエズス会の教育を受けた後、メスの司教座聖堂参事会員となった彼の説教師としての声望は次第に高まり、1669年にコンドムの司教となり、さらに1670年にはルイ14世の王太子付きの指導教師となった。1680年に指導教師の務めを終えた彼は、1681年にモーの司教となった。マルブランシュ、ピエール・ジュリウー、フランソワ・フェヌロン等と論争を繰り広げた彼は、「モーの鷲 l’Aigle de Meaux」と呼ばれた。
 
 彼の主著『聖書のことばそのものにもとづく政治論 Politique tirée des propres paroles de l’Écriture sainte』は、彼の死の5年後の1709年に刊行されている*1。「聖書のことば paroles de l’Écriture sainte」とタイトルにはあるが、引用はほとんど旧約聖書からである。
 
 ボシュエ研究で知られるジャック・トリュシェは、この点について、「旧約は一連の歴史書に加えて制度、正義、政府、戦争等に関する多くの訓戒を示すが、新約にそうした言辞は稀である。政治的観点から聖書を検討すれば、必然的帰結として、福音の趣の希薄な著作が生まれる」*2と説明する。本書でのボシュエの意図は、愛と慈悲を説くことではなかった。
 

 
 ボシュエが生きた時代のフランスは、カトリックとプロテスタントの激しい対立の中にあった。彼の仕えたルイ14世は、プロテスタントの信教の自由を限定的に認めたナントの勅令を1685年に廃止し、20万人にも及ぶプロテスタントの国外流出を招いた。総人口比で言えば、今日の何百万人にも相当する数である。それでもボシュエは、大法官ミシェル・ル・テリエ(Michel Le Tellier)の追悼演説で勅令廃止を熱烈に擁護している。

神は彼[ル・テリエ]に、宗教上の大事業の完遂を委ねました。彼はかのナントの勅令の廃止に押印した後、この信仰の勝利、王の敬虔のかくまでに見事な瞬間の後には、もはや自らの命が尽きることも恐れないと述べたのです*3

 ル・テリエは押印の15日後に逝去した。
 
 ナント勅令廃止を擁護するボシュエの出発点にあるのは、王を中核とする国家の統一という固定観念である。王太子を読者として想定した Politique で、彼は君主の荘厳とは何か、君主の地位とは何かという問いへの回答を次のように描く。

王たちを取り巻くうわべのおごそかさや庶民の目を眩ませる見せかけをもって荘厳(majesté)とは私は言わない。それらは、真の荘厳の反映であり、荘厳そのものではない。
 荘厳とは、君主の示す神の偉大さの表象(l’image)である。
 神は限りなく、神はすべてだ。君主は、君主である限り、私人として理解すべきではない。君主は公人(personnage public)であり、国家全体が彼の中に存する。人民全体の意思が彼の意思に込められている。神の中にすべての完全性とすべての徳が統合されるように、すべての個人の力が君主の人格に統合される。1人の人間の中にかくも大いなるものが含まれようとは、何と偉大なことであろうか*4

 自分の立てた問題に自分で回答して、その内容に驚愕を示しているわけである。相当に面倒くさい人間であることが分かる。
 
 唯一不可分の王権が国家の統一を実現する。人々が同じ場所に住み、同じことばを話すだけでは、十分ではない。人間はその激情と気質の違いのため、1つの政府に自然に従うことはない。アブラハムとロトが袂を分かったのも(『創世記』13: 6–9)そのためである*5
 
 唯一不可分の王権は人々の気儘さに箍(たが)をはめる。各人が各人の望むことをするだけでは、すべては混乱に帰する*6
 
 聖書が繰り返し指摘するのも、その点である。暴虐なアンモン人に反撃せよとのサウルの指令の下、「イスラエルの民は1人の人間のように現れ出た」(『サムエル記 上』11: 7)。

見よ、これこそ、各人が自己の意思を捨て、それを君主である裁き司の意思へと譲渡し、統一したとき立ち現れる人民の統一である。さもなければ、統一はない。人民はばらばらの家畜のように流浪者となる*7

 君主によって代表されることではじめて、ばらばらの群衆であった人々は、1つの人民となる。
 
 王権による国家の統一が必要なのは、それによって各人の安全が保たれるからである。国家のすべての力は集中され、主権者たる司はそれらを束ねる権限を持つ。人々はそこから利益を得る。君主が統合する権力は、人々が譲渡する権力よりも強い。
 
 かくして各人は抑圧や暴力から解放される。君主は力を奮って各人を保護することに利益を見出す。彼以外の力が人民の間で優勢となれば、彼の権威と生命が危機に瀕するからである*8
 

 
 ボシュエの論理の背後には、ホッブズの論理が垣間見える。ボシュエはホッブズの注意深い読者であった*9。主権者に代表されることではじめて人民が立ち現れ、国家が成立するという論理も含めて。
 
 ナントの勅令廃止後、オランダに亡命したプロテスタントの神学者ピエール・ジュリウーへの論駁の中で、ボシュエは、人民が本来自然の主権者であるとのジュリウーの論理は誤りだとする。

政府が樹立される以前の自然の人々を見るならば、そこにはあらゆる者が凶暴かつ野蛮に自由である無秩序(l’anarchie)しかない。各人はすべてが自分のものだと主張し、他者の主張に抗う。そこではすべての者は警戒し、すべての者に対して継続的な戦闘状態にある。そこでは理性(raison)に意味はない。各人が自己の感情が赴くところを理性と呼ぶだけだから。そこでは自然の法でさえ無効である。理性にも効力はないから。したがって、そこには財産も安らぎもあり得ない。最強者でない限り、誰にも本当の権利があるとは言えない*10

 まるで『リヴァイアサン』の描く自然状態そのままである。王権への反抗とそれがもたらす国家の分裂は、万人の万人との戦いをもたらす。主権者たる君主に統一的に代表されることではじめて、国家が成立し、混乱は収束する。
 
 ボシュエがフランスの王権を守るために対抗した相手は、プロテスタントだけではない。ローマ教皇庁も敵であった。ボシュエの起草にかかると言われる「4カ条の信条 les quatre articles」は、その第1条冒頭で以下のように述べる*11

聖ペトロとその後継者たち、イエス-キリストの代理人たち、そして教会全体でさえ、神からは霊的事柄にかかる権限、永遠の救済にかかる権限のみを受け取っており、世俗の事柄にかかる権限は一切受け取っていないこと。イエス-キリストはわれわれに、彼の王国はこの世のものではないと教え、また、カエサルにはカエサルのものを、神には神のものを返せと教え、さらに聖パウロはかく堅く教えていること―――すべての者は、上位の権威に従うこと、なぜなら神から来ていない権威は存在せず、地上にある権威は神の定めたものだから。権威に逆らう者は神の命に逆らうことになる。したがって王と主権者たちは、世俗の事柄に関して神の命により教会のいかなる権威にも服さないこと、王と主権者たちは、教会の首長の権威によって直接にも間接にも廃位されることはあり得ないことをわれわれは宣言する。

 フランス国王の王権は、直接、神に由来する。教皇や教会を経て伝えられたものではない。したがって、教皇に国王を廃位する権限はあり得ない。典型的なガリカニズムである*12
 
 プロテスタントにもカトリックにも対抗して世俗の権力を統一し、紛争の芽を摘んで国内の平和を確立する。ボシュエはポリティークであった。
 

 
 絶対主義(absolutisme)とは、王権が法から解放されている(absolue)ことを意味する。しかしそれは、専制政治(gouvernement arbitraire)とは異なるとボシュエは言う*13

専制政治には4つの特徴がある。第一に、そこでは臣民は生まれながらに奴隷であり、まことの農奴である。自由人はいない。
 第二に、誰にも固有の財産(propriété)はない。あらゆる富は君主に帰属する。父から子への相続の権利さえない。
 第三に、君主には意のままに、臣民の財産だけでなく生命さえ処分する権利がある。奴隷がそうであるように。
 第四に、君主の意思以外に法はない。

 専制政治は野蛮で忌むべきものである。これら4つの特徴は、フランスの習俗(mœurs)とは異なる。フランスに専制政治はない。
 
 政府が絶対的であることと、専制的であることとは異なる。絶対王権の下では、君主はいかなる人的権威からも独立している。だからと言って、君主が専制的になるわけではない。すべては神の審判に服する上(それは専制体制でも同様であるが)、王国の基本法(des lois dans les empires)があり、それに反する行為は法的に無効(nul de droit)である。そして必ず是正の可能性がある。他の機会、他の時機に*14。各人は自身の財の正当な所有者であり、何人も法に反して何であれ占有し続けることができるとは思わない。不正と違法行為に対する法の警戒と行動とは不滅である。それは正当な政府であり、本性において専制的政府の対極にある*15
 
 しかし、絶対主義の下、王権がたとえ不正を犯したとしても、それを強制的に是正する余地はない。強制的権限はすべて君主に属する。

国内において武装するのは君主のみである。さもなければすべては混乱し、国家は無秩序へと陥る*16

 君主を定めた神は、君主の掌中にすべてを託す。審判する主権的権威もその他の国家的権威も。
 
 イスラエルの民は、「王がわれわれを裁き、われわれの先頭に立って進み、われわれの戦いを戦う」ことを望んだ(『サムエル記 上』8: 20)。これに対しサムエルは、王の権威は絶対であり、いかなる他の権威によっても拘束され得ないと宣言した。「あなた方を治める王の権威は次の通りである。彼はあなた方の息子をとり、自分に仕えさせる。彼はあなた方の土地を取り上げ、最上のものを彼の臣下に与える」*17
 
 君主にこうしたことを合法的に行う権限はあるだろうか。神はそれをよろこばない。神はそうした権限を君主に与えはしない。しかし、人的正義に関する限り、君主は罰せられることなく(impunément)それを行う権限がある。君主は臣民に対して責任を負うことはない。彼が責任を負うのは、神に対してのみである。
 
 ダビデは、ヘテ人ウリヤの美しい妻バト・シェバを見初め、ウリヤを意図的に死地に送って戦死させるよう、指揮官のヨアブに秘かに命じた。ウリヤの死後、ダビデはバト・シェバを召し入れた(『サムエル記 上』11: 14−27)。
 
 預言者ナタンに神の怒りを伝えられたダビデは言う(『詩篇』51: 3−6)。

私を憐れんで下さい、神よ、あなたの恵みにふさわしく。……
あなたに、あなただけに私は罪を犯し、
あなたの目に悪であることを私は行いました。

 ダビデが罪を犯したのは、ウリヤに対してでも、巻き添えになって戦死したイスラエルの兵に対してでもない。ヤハウェに対してのみである。
 
 ボシュエは、聖アンブロシウスによる『詩篇』の注解を引用する。「ダビデは王であり、罪人をしばる刑罰から自由であるため、王が法に服すことはない」*18
 
 王が遵守すべき法がないわけではない。王は公平でなければならず、民の模範でなければならない。しかしそうしなかったとしても、王は法の定める刑罰に服することはない*19。バト・シェバは、ダビデの後継者、ソロモンを生んだ(『サムエル記 下』12: 24)。
 

 
 臣民は君主に対して、祖国に対するのと同様に仕える義務がある。国家全体が君主の一身に在るのだから。君主に全人民の意思が込められている*20
 
 臣民は国家に対し、君主の理解に即して仕える義務がある。国家を指導する理性は君主に存するのだから。君主に仕えるのとは別に国家に仕える途があると考える者は、自身に王権の一部があると思い込んでいる。それは公安を害し、すべての者の首長との合致を阻害する。君主はすべての秘事を知り、公事のすべてを理解する。一時たりとも彼の命令に背くことは、すべてを偶然事に委ねることである*21。国益の有権解釈権は君主にのみある。
 
 君主の利益と国家の利益を区別する者は、公共の敵である。国家の敵は君主の敵と呼ばれる。人民を攻撃する者はその君主を攻撃する者でもある。人民を攻撃することなく、君主を攻撃することはできない*22
 
 君主は公共善として愛されなければならない。「君主よ永遠であれ」との叫びがかくして生まれる。アブサロムの叛乱に際してダビデが民と共に出陣しようとしたとき、民が「出陣してはいけません。あなたは町にいてわれわれを助けて下さる方がよいのです」と言って押し止めたのも(『サムエル記 下』18: 3)、そのためである*23
 
 君主が完璧に服従されないとき、公の秩序は覆される。神は君主を地上における代理人とし、その権威を神聖にして侵すべからざるものとした*24
 

 
 政治思想史家のリュシアン・ジョームは、フランス革命の際、ジャコバン独裁が目指したのは、ボシュエの描いた国家の一体性であったと指摘する*25。信仰の統一は教会が単一の教義を示し、信徒全体を代表することで果たされる。イエス-キリストは次のように父なる神に祈る(『ヨハネによる福音書』17: 21−23)。

皆が1つであるように。父よ、あなたが私のうちにおられ、私もあなたのうちにいるのと同じように、彼らも私たちのうちにありますように。……あなたが私に与えて下さっている栄光を、私も彼らに与えて来ました。私たちが1つであるのと同じように、彼らも1つであるようにと。私は彼らのうちにおり、あなたが私のうちにおられます。彼らが全うされたものとなり、1つとなるためです。

 キリストは彼自身のうちにすべての信徒を代表する。キリストは統一された全体を代表する部分である*26。代表者への無私の信従なくして、救済はあり得ない*27
 
 ジャコバン革命政府が目指した国家像もこれとパラレルである。彼らの言説も宗教的な言辞に彩られていた。
 
 国家の一体性を実現するには、人民全体を統一する指導部を樹立し、異質な分子を排除する必要がある。一般利益に仕える徳(vertu)のためにあらゆる私的想念は捨て去られねばならない。
 
 革命政府が自己浄化(auto-épuration)を絶えず唱導したのもそのためである。中央による発言と行動以外、いかなる発言・行動もあってはならない*28。革命の敵は国外に逃亡しない限り、即決裁判とギロチンによって排除される。教養や啓蒙ではなく、信念と意思が要求される。人民の浄化と人民の代表は同時に遂行される。全人民が同質となり再生することで、はじめて統一的な代表が可能となる。そのとき代表者たる革命政府と人民とは一体化し、真の人民主権が実現する*29
 
 代表者は、革命的統治にあっては、腐敗した現実の民意に即して行動すべきではない。代表者は未だ存在しない人民を代表しており、現に存在する人民の意思に反して行動すべきである。通例、ジャコバン主義と同義とされる命令委任は端的に否定される*30
 
 1793年8月10日、国民公会でクロード・ロワイエが読み上げた「共和国の一体性と不可分性、自由・平等・友愛さもなくば死、暴君との戦い、連邦主義者との戦い」と題されたフランス人民への呼びかけは、そうした終末論的心情を典型的に示している*31

パリが共和国にあるのではなく、共和国のすべてがパリにある。我等すべての心は1つだ。我等すべての魂は混合され、勝ち誇る自由はその視線をジャコバンに、我等が兄弟と朋友にのみ注ぐ。
 おお、我等が同志よ、友よ。あまりの感覚の昂揚で、多くを語ることはできない。フランスを分裂させようとする連邦主義者どもは震え上がる。我等は共和国の一体性を誓った。この誓いは、すべての陰謀家、裏切り者たちの死刑判決となろう。穏健派(le Marais)はもはや存在しない。我等は、すべての王党派と暴政の手先に火を吐きかける、巨大で恐るべき山岳派のみとなるのだ。
 パリを誹謗した下劣な中傷者どもよ、滅びよ! かような大罪には死のみが相応しい。いや、彼らは平等の責め苦に耐えることとなろう。そして我等が至福の証として、永遠の悔恨に処せられるだろう。

 ジョームがもう1つの典型例として挙げるのは、1794年2月4日付けの公安委員会の布告である*32。布告は、連邦主義の不純な残滓を一掃すること、公職を汚す陰謀を暴くべきこと、愛国者面した偽善者の仮面を剥ぎ取ること、暴君の手先、加担者、密使による錯雑した手管を追及すること、そして同時に、世に埋もれて生きる有徳者を明らかにし、再生の計画と革命の規律の働き手となり得る慎み深い才能の士を発見して鼓舞し、純粋で開明され勇気ある、暴政に耐え得ぬ者を公職に就けることを呼びかけている。

異質な要素をすべて退けることで、あなた方はあなた方自身となる。あなた方は、純粋にして輝ける、堅く引き締まった核となる。表面に積み重なった泥が作る層皮を取り除いたダイヤモンドのように。
 そのとき、人民の代表者たちは、あなた方の世論の法廷にすべての公職者を呼び出すだろう。彼らの活動を記した大部の記録のページがめくられる。あなた方は判決を言い渡す。悪人の足元では深淵が口を開き、輝く光が義人の顔を照らすであろう。
 革命の大事業は間もなく完遂される。

 徳の有無、愛国心の有無という抽象的な「心根 Gesinnung」の問題は、ヘーゲルが指摘するように、結局のところ「嫌疑 Verdacht」にもとづいて認定されるしかない。「嫌疑があるということは、すでに有罪と判定されていることだ」*33。異端審問や魔女裁判と同様である。
 
 革命は完遂され、歴史は終わる。義人は称揚され、罪人は裁かれる。真の人民が創造される。ロシア、ドイツ、中国など、その後、世界各地で発生したいくつもの革命政府が繰り返し唱導し、遂行した人工的かつ強制的な全員一致の終末論である。
 
 思想の力を見くびるべきではない。
 

*1 Jacques-Bénigne Bossuet, Politique tirée des propres paroles de l’Écriture sainte (Alexis Philonenko ed, Dalloz 2003, originally published in 1868).
*2 Jacques Truchet, Politique de Bossuet (Armand Colin 1966) 29.
*3 Jacques Bénigne Bossuet, Oraisons funèbres (Jacques Truchet ed, Gallimard 1998) 340−41.
*4 Bossuet (n 1) V.IV.1. Livre V, Article IV, Proposition 1を意味する。
*5 Ibidem I.III.1.旧約聖書の訳については、岩波書店刊行の旧約聖書翻訳委員会訳を参照した。
*6 Ibidem I.III.2.
*7 Ibidem I.III.3.
*8 Ibidem I.III.5.
*9 Lucien Jaume, Le Discours jacobin et la démocratie (Fayard 1989) 372−73.
*10 ‘Cinquième avertissement aux protestants’ reproduced in Truchet (n 2) 83.
*11 ‘Les quatre articles’ reproduced in Truchet (n 2) 169–70. パウロの言明は、『ローマ人への手紙』13: 1からのものである。
*12 See Lucien Jaume, Le religieux et le politique dans la Révolution française : L’idée de régénération (Presses universitaires de France 2015) 50−51.
*13 Bossuet (n 1) VIII.II.1.
*14 ボシュエは、王は所詮「肉と血の神、泥と塵の神」にすぎず、「しばしの間、人は貴賤に分かれるが、最後はすべて等しくされる」と警告する(ibidem V.IV.1)。
*15 Ibidem VIII.II.1.
*16 Ibidem IV.I.3.
*17 Ibidem. 『サムエル記 上』8: 11−15に相応するが、かなり簡略化されている。サムエルは実際には、次のように述べる。「彼はあなた方の息子をとり、自分のために戦車や馬に乗せ、自分の戦車の前を走らせる。彼らを千人隊の長、五十人隊の長として、自分の耕地を耕させ、刈り入れの労働に従事させ、武器や戦車の部品を作らせる。あなた方の娘をとり、香料作り、料理女、パン焼き女にする。また、王はあなた方の最良の畑、ぶどう畑、オリーブ畑を取り上げ、自分の家来に与える。あなた方の穀物と葡萄の十分の一を取り上げ、宦官や家来に与える。あなた方の僕、仕え女、それに優秀な若者や驢馬を取り上げ、自分のために働かせる。彼はあなた方の羊の群れの十分の一をも取り上げる。こうして、あなた方は彼の奴隷となる」(『サムエル記 上』8: 11−17)。
*18 Bossuet (n 1) IV.I.3.
*19 Ibidem IV.I.4.
*20 Ibidem VI.I.1.
*21 Ibidem VI.I.2. もっともボシュエは、神の命令に違背する王の命令には従うべきではないとする(ibidem VI.II.2)。これでは、王国分裂の余地を残すことにならないかとの疑念がある。
*22 Ibidem VI.I.3.
*23 Ibidem VI.I.4.
*24 Ibidem VI.II.1.
*25 Jaume (n 9) 375.
*26 Ibidem 380.
*27 Ibidem 382.
*28 Ibidem 383. 革命下での人民の自己浄化という観念については、さしあたり、拙著『憲法の論理』(有斐閣、2017)9章「主権のヌキ身の常駐について」参照。
*29 Jaume (n 12) 90−93.
*30 Ibidem 338−39.
*31 Quoted in Jaume (n 12) 155; see ibidem 94−95.
*32 François-Alphonse Aulard (ed), Recueil des actes du Comité de salut public, tome X (Imprimerie nationale 1897) 680−82; see Jaume (n 12) 95−97.
*33 GWF Hegel, Vorlesungen über die Philosophie der Geschichte (14th edn, Suhrkamp 2021) 533; 『歴史哲学講義(下)』長谷川宏訳(岩波文庫、1994)364頁。訳に忠実には従っていない。

 
 
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第21回 道徳対倫理──カントを読むヘーゲル
第22回 未来に立ち向かう──フランク・ラムジーの哲学
第23回 思想の力──ルイス・ネイミア
第24回 道徳と自己利益の間
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憲法学の本道を外れ、気の向くまま杣道へ。そして周縁からこそ見える憲法学の領域という根本問題へ。新しい知的景色へ誘う挑発の書。
 
2021年11月15日発売
『神と自然と憲法と 憲法学の散歩道』
長谷部恭男 著

3,300円(税込) 四六判 288ページ
ISBN 978-4-326-45126-5

https://www.keisoshobo.co.jp/book/b592975.html
 
【内容紹介】 勁草書房編集部ウェブサイトでの連載エッセイ「憲法学の散歩道」20回分に書下ろし2篇を加えたもの。思考の根を深く広く伸ばすために、憲法学の思想的淵源を遡るだけでなく、その根本にある「神あるいは人民」は実在するのか、それとも説明の道具として措定されているだけなのかといった憲法学の領域に関わる本質的な問いへ誘う。
 
本書のあとがきはこちらからお読みいただけます。→《あとがき》

長谷部恭男

About The Author

はせべ・やすお  早稲田大学法学学術院教授。1956年、広島生まれ。東京大学法学部卒業、東京大学教授等を経て、2014年より現職。専門は憲法学。主な著作に『権力への懐疑』(日本評論社、1991年)、『憲法学のフロンティア 岩波人文書セレクション』(岩波書店、2013年)、『憲法と平和を問いなおす』(ちくま新書、2004年)、『Interactive 憲法』(有斐閣、2006年)、『比較不能な価値の迷路 増補新装版』(東京大学出版会、2018年)、『憲法 第7版』(新世社、2018年)、『法とは何か 増補新版』(河出書房新社、2015年)、『憲法学の虫眼鏡』(羽鳥書店、2019年)ほか、共著編著多数。