憲法学の散歩道 連載・読み物

憲法学の散歩道
第30回 科学的合理性のパラドックス

 
 
 人間は合理的な動物である。それを疑う人は少ないであろう。少なくとも人間は合理的であるべきだと考える人の方がそう考えない人より多いはずである。
 
 問題は、そこで言う「合理性」とは何かである。
 
 人間は誰もが、自分の効用をもっとも効率的に最大化しようとするものだ、それこそが人間の合理性だという考え方がある。そこで言う「効用」はベンサム流に快楽から苦痛を差し引いたもの──どのようにすれば差し引けるかは不明だが──かも知れないし、経済学の入門書で描かれているように、購入した商品から得られる便益から購入費用を差し引いたものかも知れない。
 
 こうした想定は、いわゆる社会科学の広い領域で共有されているように思われる。科学的合理性(scientific rationality)の想定と呼ぶことができるであろう。
 
 この想定からすると、人の直面する選択肢はすべて、それぞれがもたらす効用とコストにもとづいて、1つのものさしの上に落とし込んで、どれが最善かどれが最悪か、どれがどれよりより善いか悪いか、をあらゆる場合に判定することが可能となる。何より事態を数学的に記述すること、さらには客観的に将来を予測することが可能となる。
 
 筆者は以前、ある座談会で、高名な経済学者と高名な社会学者とご一緒したことがある。そのお2人に、「先生方は、人間は自分の効用をもっとも効率的に最大化するよう予めプログラムされたコンピュータと同じだと考えているのですよね」という趣旨の発言をしたところ、その通りであるとの回答を得た。筆者が、法律学はそうした前提をとっていないと述べると、お2人は驚愕していた。
 
 法律学は、人間誰しも、自分の効用をもっとも効率的に最大化すべく行動するという前提をとってはいない──少なくとも、それは標準的な前提ではない──と筆者は考える。すべての選択肢を1つのものさしに落とし込んで、どれがどれより善いか、どれが最善の選択肢であるかを計算し、判定することがあらゆる場合に可能だという前提をとってはいない。
 
 そういう意味では、法律学は社会科学ではないというのが筆者の考えである。理由の1つは、そうした前提はかなりの程度において、人間生活の現実と乖離しているからである*1
 

 
 ある事物や事柄について欲求や選好を抱くこと、その獲得・実現から効用を得ることには、さらにそれを支える理由があるはずである。理由もなくただただ欲しいとか、とにかくそうしたいというのは、依存症的な状態あろう。選択をした結果として、ある効用(非効用)が得られることについても、理由があるはずである。
 
 大学を出て、どのような職業を選ぶかを人は考える。選んだ職業に応じて得られる効用はあるであろう。しかし、得られそうな効用に即して人は職業を選ぶものであろうか。社会全体の中長期的利益に貢献したいと考えて人は公務員になるのであって、公務員になるとこれぐらいの効用が得られそうだから公務員になるというわけではないであろう。そのことは、高校教師にしても、芸術家にしても、書籍編集者にしても、職業選択一般についてあてはまるように思われる。
 
 法律学の世界で「利益衡量」というミスリーディングな名称で呼ばれる作業の多くも、そうした性格のものである。
 
 本来、同じものさしの上に落とし込んで比べることのできない選択肢のうち、いずれを選ぶかを選択する作業である。比べられないのは、それぞれの選択肢がいずれも十分な理由によって支えられているからである。それでもいずれかを選ぶ必要がある。だからと言って、不合理な選択をしていることにはならない。いずれの選択肢も十分な理由によって支えられているのだから、どれを選んでも合理的な選択である。
 
 人は効用計算ではなく、理由にもとづいて行動する。理由が何かはともかく効用がありそうだから、そうしたいからそう行動するというのは、はっきり言って、非人間的(dehumanised or subhuman)である。それでは、コンピュータと同じである。かりに理由と効用とが形影相伴っているとしても、どちらにもとづいて人が行動しているか、見誤ってはならない*2
 
 科学的合理性からすれば、ある選択肢がもっとも効率的に自分の効用を最大化することが判明すれば、当然その選択肢を選ぶべきことになるであろう。人の最適な行動は計算可能であるし、予測可能でもある。おそらくは他の多くの動物についても、同様の計算や予測が可能であろう。人の合理性と動物の合理性は、程度の違いである。サルや蚊が合理性の点で他のサルや蚊と同等であるように、人も合理的である点ですべて平等である。人の尊厳も蚊の尊厳も程度の違いである*3
 
 他方、人は理由にもとづいて行動するという立場からすると、十分な理由によって支えられた選択肢があるとしても、当然にその選択肢を選ぶべきことにはならない。十分な理由によって支えられた選択肢が複数あることも珍しくないし、また、そのうちどれかを必ず選ばなければならないというものでもない。
 
 それぞれの選択肢を支えている理由は、往々にして比較不能である*4。単一のものさしに落とし込んで、相互の優越を云々することがそもそも意味をなさない。
 
 今夕、N響のコンサートに行くべきか、貧困に苦しんでいる人たちを食料支援するボランティア活動に参加するべきか、それとも病に伏す友人の見舞いに行くべきか。それぞれから得られる効用を計算していずれを選ぶかを決めるべきなのだろうか。そんな計算や比較は、本当に可能だろうか。
 
 そうした計算や比較が不可能であっても、そのいずれかを選択することが不合理(irrational)となるわけではない。それぞれの選択肢が、十分な理由によって支えられていて、しかもそうすべきでない決定的な理由がない限り、いずれを選んだとしても、その選択は合理的(rational)である。つまり理由がある。
 
 他方、科学的合理性の想定は、すべての選択肢は比較可能であり、そのうち効用をもっとも効果的に最大化する選択肢を選択することのみが合理的だと想定している。合理的な結論は、いつも1つに定まる。どちらの立場が、他の動物とは異なる人が生きるこの世の中を正確に描いていると言えるだろうか。どのような職業を選ぶか、会社員になるとして、どの企業を選ぶか、人は自身の効用をもっとも効果的に最大化するのはどの職業か、どの企業かと考えて、選択をしているのであろうか。それは、現実とかけ離れたカリカチュアのように思われる。
 

 
 法律学は、人間誰しも、自分の効用をもっとも効率的に最大化すべく行動するという前提をとってはいないと筆者が考えるについては、もう1つの理由がある。この科学的合理性の前提は、首尾一貫した学問的前提として成り立ち得ないのではないかという理由である。
 
 ある社会科学者が、この科学的合理性の前提をとって学問を遂行しているとしよう。なぜ彼がこうした前提をとるかと言えば、そうすることが、彼自身の効用をもっとも効率的に最大化することになるからである。首尾一貫して考えようとすると、そう考えざるを得ない*5
 
 つまり、彼がこの前提をとる理由は、それが事実に即しているから、あるいは学問的に正当であるからではなく、彼の効用の最大化に役立つからである。そうだとすると、科学的合理性の前提をとる彼の学術的成果を、人は額面通りに受け取ることができるであろうか。彼自身のためになるからという前提に立脚する「学問的成果」をなぜ、その他の人は学問的成果として受け取るべきことになるのだろうか。
 
 いや、そこは大丈夫という反論があるかも知れない。社会科学者としての効用は、何より、真実を獲得すること自体から得られる快楽*6、そしてさらに、事実に即した学問的成果を発表することで、学者としての声望を高めることにある(なぜ声望が高まるかと言えば、多くの人々は真実を知ることに快楽を見出すからである)。だから、彼自身の効用の最大化と彼の学術的成果の真実性とは十分に両立し得るという反論である。
 
 そういった可能性は確かにある。しかし、それは確実とは言えない。確実に言い得るのは、彼がそうした前提をとる究極の根拠は、それが彼の効用をもっとも効率的に最大化することにあるという点である。彼にとって、真理そのものに価値があるわけではなく、あくまで真理がもたらす効用に価値がある。この前提からすると、彼は事実に即した学術的成果を生み出すかも知れないが、そうではないかも知れない。事実に即した学術的成果を公表することが、つねに彼の効用の最大化につながる保証はないからである。
 
 実験や調査で得られたデータを枉(ま)げてでも、自分の雇い主にとって都合の良い論文を公表する方が(その結果として高額の報酬を受け取ることが)、彼の効用の最大化に資することは十分にあり得る。問題なのは効用の多寡だけであるから、そんなことは科学者としての倫理に反すると言っても、意味はない。倫理に即して行動することが彼の効用の効率的最大化に資する場合にのみ、倫理は意味をなす。彼の学術的成果を額面通りに受け取るべきか、はなはだ不確かとしか言いようがない。
 

 
 この苦境(苦境だとすればだが)を切り抜ける方法がないわけではない。科学的合理性の妥当範囲を限定する方法である。人が誰しも自分の効用の効率的な最大化を目指すのは、買い物をしたり外食をしたりホテルに滞在したりという経済的合理性の枠内、つまり市場の枠内、あるいは私生活の枠内でのことであって、研究者が学問を遂行する場ではそうではないという回答である。
 
 同じように、国会議員が国会で発言や表決をしたり、有権者が国政選挙で投票したり、裁判官が判決を言い渡ししたりするときも、彼らが目指しているのは個々人としての効用の効率的な最大化ではなく、社会公共に広く行き渡る中長期的公益の最大化であったり、憲法と法律に即した具体的正義の実現であったりすることになるのであろう。これらは公的な場での行動であり、私生活上の行動ではない。そこでは、科学的合理性にもとづいて行動すべきではないことになる。
 
 ただ、この切り抜け方は、問題を相当に複雑にする。あらゆる事態を単純明快に説明するのが科学の真髄であるはずなのに。
 
 社会科学者の場合をとってみると、自己の効用の効率的最大化ではなく、事実に即した学術的成果の公表を目指すというのは、事実の描写なのか、それともそうあるべきだという規範の措定なのか、どちらであろうか。人は誰しも自己の効用の効率的最大化を目指すというのが、社会科学一般にあてはまる前提なのであれば、事実に即した学術的成果の公表を目指すというのは、学者としての倫理を描いた規範的措定であろう。
 
 あるべき論としては理解可能であるが、学者はその通りに行動するという保証はあるのだろうか。むしろ、こういった倫理を標榜している方が、みんなに公表した成果を信じてもらえて、その結果として自己の効用の効率的最大化が実現するという計算ずくの見せかけになりはしないだろうか。
 
 問題なのは規範の措定ではなく、事実のありのままの描写なのだと主張されるかも知れない。そうだとしても、不安の種は残る。市場で自己の効用の効率的最大化を目指す人間が、職場で研究に勤しむ場面では、途端に人間性が根本的に変化して、事実に即した学術的成果の公表を目指すようになると信じてもらいたいと言われても、そうはいかない。職場で研究に勤しむことも、ある意味では市場での活動である。大学に勤める研究者も、大学から給与をもらい、著書を刊行して印税を得る。
 
 同じ事態は、国会議員の国会での活動にも、有権者の投票所での活動にも、裁判官の裁判所での活動にもあてはまりそうである。
 
 というわけで、人は誰しも自己の効用の効率的最大化を目指すものだという科学的合理性の想定から出発する学者の言うことをはたして額面通りに受け止めることができるのか、不安の種が尽きることはなさそうである。つまり、問題は法律学がこうした前提をとるか否かに限定されてはいない。
 
 結局のところ、科学的合理性の想定から出発する学者は、自分の学問的活動に関する限りは科学的合理性の想定はあてはまらないという、かなりご都合主義的な主張をするか、あるいは科学的合理性の想定自体を撤回するかの選択を迫られるのではないであろうか。そして、この選択を何にもとづいて行うか──自己の効用の効率的最大化に資するか否か、あるいは十分な理由にもとづいているか否か──もさらに問われることになる。
 

 
 ところで、冒頭で触れた座談会の場で筆者は、以上で述べたような話をその通りにはしなかった。そんなことをすれば、お2人の怒りを買って(あるいは、あきれられて)座談会はただちに打ち切りになっていたおそれがある。なぜ筆者がこうした話を持ち出さなかったかと言えば、それは筆者自身の非効用の効率的最大化を回避するためだったのではないか、と後にして思うことがある。
 
 いやそれは違う、という反論が可能である。それぞれの科学者が生涯をかけてコミットし、遂行している学問の前提を覆しかねないような話を軽々にするものではないことは、ごく普通の世間並みの道徳(conventional molarity)を考慮すれば、当然に導かれる結論である*7。筆者が考慮したのは、この世間的な道徳的理由の方であって、筆者自身の効用(非効用)ではない。
 
 とはいえ、筆者がこのように考えるのは、筆者自身がそもそも科学的合理性の想定から出発していないからである。科学的合理性の想定から出発する科学者であれば、当然、筆者は筆者自身の効用計算にもとづいてそうした選択をしたのだと結論づけるであろう。それに、世間一般の道徳観なるものも、こうした立場からすれば、標準的な場面において各人の効用をもっとも効果的に最大化する行動は何かに関する人々の判断が収束していく平均値にすぎない。道徳的格率そのものに価値があるわけではなく、あくまで道徳的格率がもたらす効用に価値がある。
 
 どのような前提から出発するかによって、この世界の見え方が全く変わってしまうことが分かる。もちろん社会科学者の方々は、科学的合理性の想定から出発したものの見方の方が、「現実」的な見方なのだと主張するはずである。筆者も、そうしたものの見方が見事にあてはまっているかに見える人々が現に存在することを否定するつもりはない*8。ただ、それが人間の本来のあり方を示しているか、という問題は依然として残る*9
 

*1 もっとも、そうした前提通りに生きているかのように見える人間がいないわけではない。たとえば、総理大臣を務めるある政治家が、どの選択肢をとれば自分が総理大臣で居続けられる可能性がもっとも高いかを予測しつつ、選択をしているかのように見えることもある。どの選択肢をとっても、総理大臣に居続けられる可能性はゼロに近いと判断すれば、次には将来に向けて自分の政治力を温存する可能性がもっとも高い選択肢は何かを考えることになる。こうした枠組みで出処進退を決めているように見える政治家の立ち居振る舞いは、身も蓋もない感じになる。理由ではなく、効用計算にもとづいて選択している以上、選択の理由を説明しろと言われても説明はできない。自分だけでなく、人間誰でもそうであるはずだと本人が思い込んでいるために、説明する必要があることさえ理解できない。深刻な問題は、こうした政治家に国民全体の中長期的な利益に関する判断をあずけて善いのかである。
*2 カントは、人間が理由にもとづいて行動する能力を獲得するに至った経緯について、憶測を試みている。カント「人間の歴史の憶測的始元」『カント全集14 歴史哲学論集』(岩波書店、2000)所収。
*3 ジェレミー・ベンサムはこの点で首尾一貫していた。彼によると、家畜類を人類が飼育して最終的にそれを食物として消費し、効用を得ることは合理的である。他方、家畜類も自然の生活で被る災厄を回避できるし、いずれ死が待つことを予測することもできないので、最後の瞬間まで幸福に生きることができる。両者にとって合理的である。See Jeremy Bentham, An Introduction to the Principles of Morals and Legislation (JH Burns and HLA Hart eds, Clarendon Press 1996) 282−83 note b.
*4 たとえば、子どもを金銭で売買する人、子どもに深刻なリスクが及ぶことと引き換えに金銭を受け取ろうとする人は、親であることの価値と金銭的価値の比較不能性を理解していない人である。子どもを事故で失ったとき、親が加害者から受け取ることのできるのが賠償金に限られるとしても、それは変わらない。こうした場合、金銭によって現状を回復することは、そもそもできない。慰謝料の意味は、謝罪に代替する象徴的な意味にとどまる。See Joseph Raz, ‘Incommensurability’ in his The Morality of Freedom (Clarendon Press 1986) 321ff.; John Gardner, From Personal Life to Private Law (Oxford University Press 2018) 158−60. ジョン・ガードナー(1965−2019)は、スコットランド出身の法哲学者。ロナルド・ドウォーキンの教えたオクスフォード大学の法哲学講座の後継者。
*5 これは、『ゴルギアス』での善とは快楽であり悪とは苦痛に他ならないとするカリクレスとそれを反駁しようとするソクラテスとの対話に関連して、レオ・シュトラウスが指摘する論点でもある(see Leo Strauss, On Plato’s Protagoras (Robert C Bartlett ed, University of Chicago Press 2022) 45)。もっとも、聴衆に迎合する術を身につけることなく、子どものように正義にばかり気を取られていると、いずれ不正な糾弾者に告発されて死刑判決を受けることになりかねないと警告するカリクレスに対して、ソクラテスがなぜ快楽や苦痛にとらわれず正しく生きることを選ぶべきかを説明する際、正しく生きるならば死後に「幸福者の島」で暮らすことができるからと応じていることは(523a−524a)、到底額面通りに受け取ることができない。せいぜいのところ、快楽主義者であるカリクレスを籠絡するためのレトリックを弄していると見るべきであろう(Strauss, op. cit., 190)。他方、『プロタゴラス』の末尾近くで、ソクラテスはあたかも徳とは将来にわたって快楽と苦痛とを正確に計算し得る知に尽きるかのような議論を展開するが(351b−358a; cf.『国家篇』505b−d)、これも「世の多くの人々」の考え方によれば、という引用符つきの議論にとどまる。やはり額面通りに受け取るわけにはいかない(Strauss, op. cit., 435)。
*6 デイヴィッド・ヒュームは、真実の追求は狩猟によく似ていると言う。いずれも、目的の達成は困難かつ不確実で細心の注意と多大な努力を必要とするだが、それだけに有益な目的が達成されたときに得られる喜びは大きい(David Hume, A Treatise of Human Nature (David Fate Norton and Mary J Norton eds, Clarendon Press 2007) 288−89 [2.3.10.8])。
*7 前提が覆されるのは、筆者の面前のお2人だけではないであろう。何千人という社会科学者の方々の生活がかかっている。歴史学の領域で類似した前提をとっていた学者として、ルイス・ネイミアがいる(本連載第23回「思想の力──ルイス・ネイミア」参照https://keisobiblio.com/2021/12/14/hasebeyasuo23/)。
*8 前出注1で描いた事例を参照。
*9 本稿で「科学的合理性の前提」と呼んだ選択のモデルは、オクスフォードで長く哲学を教えたジェームズ・グリフィン(1933−2019)が「嗜好モデルthe taste model」と呼ぶものに、それと対立するモデルは、彼が「認識モデルperception model」と呼ぶものに対応する(James Griffin, Value Judgement: Improving Our Ethical Beliefs (Clarendon Press 1996) 20)。これらはそれぞれ、ジョゼフ・ラズが「合理主義的rationalist」および「古典的classical」な人間行動のモデルと呼ぶものとほぼ対応している(Joseph Raz, Engaging Reason: On the Theory of Value and Action (Oxford University Press 1999) 47)。さらに、すべてを選好の問題に還元する「法と経済学」と古典的な道徳上の諸問題とを対比させるGardner (n 4) 9をも参照。

 
 
》》》バックナンバー
第21回 道徳対倫理──カントを読むヘーゲル
第22回 未来に立ち向かう──フランク・ラムジーの哲学
第23回 思想の力──ルイス・ネイミア
第24回 道徳と自己利益の間
《全バックナンバーリスト》はこちら⇒【憲法学の散歩道】
 
憲法学の本道を外れ、気の向くまま杣道へ。そして周縁からこそ見える憲法学の領域という根本問題へ。新しい知的景色へ誘う挑発の書。
 
2021年11月刊
『神と自然と憲法と 憲法学の散歩道』
長谷部恭男 著

3,300円(税込) 四六判 288ページ
ISBN 978-4-326-45126-5

https://www.keisoshobo.co.jp/book/b592975.html
 
【内容紹介】 勁草書房編集部ウェブサイトでの連載エッセイ「憲法学の散歩道」20回分に書下ろし2篇を加えたもの。思考の根を深く広く伸ばすために、憲法学の思想的淵源を遡るだけでなく、その根本にある「神あるいは人民」は実在するのか、それとも説明の道具として措定されているだけなのかといった憲法学の領域に関わる本質的な問いへ誘う。
 
本書のあとがきはこちらからお読みいただけます。→《あとがき》

長谷部恭男

About The Author

はせべ・やすお  早稲田大学法学学術院教授。1956年、広島生まれ。東京大学法学部卒業、東京大学教授等を経て、2014年より現職。専門は憲法学。主な著作に『権力への懐疑』(日本評論社、1991年)、『憲法学のフロンティア 岩波人文書セレクション』(岩波書店、2013年)、『憲法と平和を問いなおす』(ちくま新書、2004年)、『Interactive 憲法』(有斐閣、2006年)、『比較不能な価値の迷路 増補新装版』(東京大学出版会、2018年)、『憲法 第7版』(新世社、2018年)、『法とは何か 増補新版』(河出書房新社、2015年)、『憲法学の虫眼鏡』(羽鳥書店、2019年)ほか、共著編著多数。