憲法学の散歩道 連載・読み物

憲法学の散歩道
第32回 道徳理論の使命──ジョン・ロックの場合

 
「憲法学の散歩道」単行本化第2弾! 書き下ろし2編を加えて『歴史と理性と憲法と――憲法学の散歩道2』、2023年5月1日発売です。みなさま、どうぞお手にとってください。[編集部]
※本書の「あとがき」をこちらでお読みいただけます。⇒『歴史と理性と憲法と』あとがき
 
 
 
 ジョン・ロックは1632年8月29日、イングランド南西部のサマセットに生まれた。父親は治安判事の書記や弁護士として働いた法律家で、1642年に議会とチャールズ1世の間で戦闘が開始されると、議会側の軍に参加した。ロックは父親が仕えた治安判事の推挽でロンドンのウェストミンスター校に入学し、さらにオクスフォードのクライスト・チャーチ・コレッジに進学した。1684年に除名されるまで、彼はクライスト・チャーチに籍を置くことになる。
 
 ロックが修めた学問分野の1つは医学である。彼は1666年に財務卿のアンソニー・アシュレイ・クーパー──1672年より初代シャフツベリ伯──と知り合い、1668年には彼の企画でシャフツベリ伯の肝臓の手術が行われた。手術は成功し、伯の厚い信任を得たロックは伯の庇護の下で、医者、秘書、相談役、子女の教育掛など、さまざまな役割を果たす。
 
 シャフツベリ伯の邸宅で生活したロックは、ロンドンの汚染された空気のために肺を病んだ。転地療養のため、彼は1675年から79年までフランスに滞在する。彼が『統治二論』の大部分を執筆したのは、帰国した79年から83年までのことと考えられている*1
 
 シャフツベリ伯と国王チャールズ2世との関係は、安定したものではなかった。伯は73年には大法官の職を解かれ、79年4月には枢密院議長に任命されるが、カトリックである王弟ジェームズから王位継承権を剥奪する企てを諦めようとしなかったため、同年10月に罷免された。ジェームズが継承権を失えば、王位は彼の娘でプロテスタントであるメアリー──名誉革命後に、夫であるウィリアム3世と共同王位に就くメアリー──に受け継がれる。
 
 チャールズはジェームズの王権に制限を加えることと引き換えに王位継承権剥奪法案を取り下げるよう議会に求めたが、議会は承服しなかった。チャールズは1681年3月に議会を解散し、その後、議会を召集することはなかった。カトリック諸国の盟主であるフランスのルイ14世からの財政支援を得て、チャールズは議会抜きの王権行使による執政を開始した。
 
 ロックは『統治二論』で、議会を召集し解散するのは執行権者であることを認める。しかし、その権限はあくまで、公共善を実現するため執行権者に信託されたものである*2

立法部が集合し議決することが必要になったときに、政治的共同体の実力を握っている執行権力が、その力を利用してそれを妨げたらどうなるのだろうかと問われるかもしれない。それにたいして、私は、権威もなく、また、自分に寄せられている信託に背いて人民に実力を用いることは人民と戦争状態に入ることであり、その場合には、人民は立法部が彼らの権力を行使しうる元の地位に戻す権利をもつといいたい。……社会にとって必要なこと、あるいは国民の安全と保全とが賭けられていることから何らかの力の妨害によって遠ざけられた場合には、彼らはそれを実力によって排除する権利をもつからである*3

 必要があるにもかかわらず議会の召集を執行権が拒んだとき、人民は叛乱を起こすことができる。議会を通じた抵抗の途をふさがれたシャフツベリ伯は、実力行使に訴えることを企てる。1681年7月、彼は謀叛の嫌疑で逮捕され、ロンドン塔に送られた。11月末、大陪審は彼を不起訴とする。その後、陪審員選任への影響力をも削がれた伯は、82年11月オランダに亡命し、翌年1月死去した。
 
 ロックがオランダに渡ったのは83年9月のことである。何がその直接のきっかけであったかは、明らかになっていない*4。彼がジェームズの王位排斥運動を主導したシャフツベリ伯の庇護下にあったことは、周知の事実である。それに加えて、政治権力の根拠が人民の同意にあり、政府が信託に背いて権限を行使したとき、叛乱が正当化されると主張する原稿をひそかに作成していたことが、要因の1つであったことが推測される。84年11月、チャールズの指示を受けて、クライスト・チャーチ・コレッジはロックのスチューデントシップ*5を剥奪した。
 
 ウィリアム3世によるイングランド侵攻が成功した後の1689年2月、ウィリアムの側近であったチャールズ・モードント卿の招請で、ロックは帰国した。彼は57歳になっていた。彼が当代を代表する哲学者として名声を博するにいたるのは、帰国後のことである。
 

 
 オランダ亡命中のロックが執筆にいそしんだのは、『人間知性論 An Essay concerning Human Understanding』である。彼がこの書物にかかわる研究を開始したのは、1671年のことである。ロック自身による本書冒頭の「読者への手紙」によると、

この試論の成立の経緯をお話ししてよければですが、私の部屋で5~6人の友人ともに本書と全く関係しないテーマについて議論していたところ、そのあらゆる側面が困難をもたらしたためすぐに行き詰まってしまいました。しばらく悩んでも疑問に解決を与えることができなかったところで、私は次のことに思い当たりました。われわれは間違った手順を踏んでいるのではないか、ことの性質を探求する前に、われわれ自身の能力を検討し、われわれの知性が何を扱うことができ、何を扱うことができないかを理解することが必要ではないかと。そう友人たちに話したところ、彼らはすぐに同意し、その場で、この問題をまず探求すべきだということで意見の一致を見ました*6

 ロックはこの頃、シャフツベリ伯の邸宅で暮らしていた。人間の知性と理解力の探求がこうして始まり、病弱なロックの健康状態が許す限りで続けられ、そして本書に結実した。ロックの友人であったジェームズ・ティレル(1642−1718)によると、ロックの部屋で議論された当初の問題は、「道徳と啓示宗教の諸原理」である*7。道徳と啓示宗教とは、いずれも『人間知性論』で扱われてはいるが、その中心的テーマとは言えない。論争をもたらすテーマは周縁的にのみ扱うことにしたのであろうが、それでもこれらはロックが終生、関心を持ち続けたテーマであった。
 

 
 『人間知性論』は、生得観念(innate ideas)を否定したことで知られる。人のすべての知識、すべての観念は、経験から得られたものである。生まれながらにして人の心に刻み込まれた観念は存在しない。神の存在も、神の全知全能性も、神の啓示した道徳の真正性もそうである。これは当時の通念に反する主張であった。
 
 ロックが実際に扱っているのは、生得の観念よりはむしろ生得の原理(innate principles)である。原理は理論的(speculative)原理と実践的(practical)原理に区分される*8。生得の原理があると主張する人々は、原理の中には普遍的に承認されているものがあるとし、それを根拠としてそれらが生得のものであると主張する。
 
 しかし、普遍的に承認される原理があるとしても、生得であること以外に普遍的に承認される理由があるとすれば、生得原理の存在証明にはならない。さらに悪いことに、この議論は、生得原理が存在しないことを証明している。というのも、すべての人が一致して承認する原理など存在しないからである。
 
 理論的原理としては、同一律や矛盾律が知られている。これらは普遍的に承認された原理として想定されている。しかし、子供や白痴(children and ideots)はそもそもこれらの原理を理解しない。ということは、生得原理は存在しないということである*9。生まれながらに心に刻み込まれているのであれば、それを理解できないはずはない。理解していないのであれば、そうした刻み込み(impressions)はなかったことになる*10
 
 実践的原理については、普遍的承認がないことはさらに明らかである。同一律や矛盾律ほどに広く承認された実践的原理は1つとして存在しない。そうすると、実践的原理に生得のものは、さらにあり得ないことになる。同一律や矛盾律は、生得の原理ではないものの証明を要しないほど自明ではある。他方、実践的原理の中に、真のものがあり得ないわけではないが、それらは自明ではない*11
 
 人類すべてが承認する道徳原理は存在するだろうか。何の疑いもなく普遍的に承認された道徳的真理はあるだろうか。正義(justice)や契約の遵守は、多くの人が同意する原理である。盗人の巣窟や悪党の集団でも、誠実さや正義のルールは遵守される。しかし彼らがそうするのは、それが生得だからではなく、仲間うちの便宜にかなうルール(rules of convenience)だからである。悪党が正義を道徳原理として承認しているのであれば、仲間うちではフェアに振る舞う一方、たまたま出会った正直者に強盗や殺人を働くことはないはずである*12
 
 実践的原理について、人がその理由(根拠)を尋ねようとしないものはない。もし実践的原理が生得で自明であれば、そんなことをするはずがない*13。契約を遵守すべきだという原理は否定しがたい道徳原理である。
 
 しかし、キリスト教徒になぜ契約を遵守すべきかと訊けば、永遠の生と死を支配する神がそれを命じたからだと答えるだろう。他方、ホッブズ主義者(Hobbist)であれば、それが公益にかなうし、遵守しなければリヴァイアサンに罰せられるからだと答えるだろう。古典古代の哲学者であれば、契約を遵守しないことは不正直であり、人の尊厳に反し、美徳に背くからだと答えるだろう*14
 
 良心(conscience)と呼ばれるのは、行為の正・不正に関するわれわれの判断にほかならない。もし人の良心が生得の原理の証明になるとすれば、相互に衝突するさまざまな原理が生得のものだということになる。ある人が避けようとすることをほかの人はしようとするものである*15
 
 もし道徳原理が生得のもので、人の心に刻みつけられているなら、なぜ都市の略奪、強盗、殺人、強姦が起こるのか。母親が出産の際に死亡すると生まれた子も一緒に埋葬する国もある。アジアには、瀕死の病人を荒れ野に放置し、風雨にさらして死ぬにまかせる国もある。自分の子供を太らせて食べてしまう国もある。人類の歴史を調べ、諸国を見渡すならば、道徳原理や美徳のルールと言われるもので、無視されたり断罪されたりしないものはないことが分かる*16
 
 これらの事例はルールが知られていないことの証明ではなく、ルールが違背されたことの証明にすぎないと反論されるかも知れない。そうだとしても、道徳原理が生得のものではないことの証明にはなる。親は子を慈しむものだというルールほど、広く承認されたものはないにもかかわらず、前述の事例は、このルールがすべての人を支配してはいないことを示している*17
 
 実践的原理に関する人々の間での見解の相違は明白であり、普遍的承認をもって生得の道徳原理の存在を証明しようとすることは不可能である。実際のところ、生得の道徳原理が存在すると主張する人々は、何が具体的にそれにあたるかを滅多に明示しようとはしない。具体的に示された稀な例を見ると、たとえば「美徳は神の最善の崇拝」という原理は、もしそれが、人々がそれぞれ美徳だと信ずることを行えということであれば、確かな原理とは到底言い難いし、「神が命ずることを行え」ということであれば、神が何を命じているかが分からない限り、無内容な原理である*18。「罪を悔い改めるべし」という原理も、何が罪であるかが明らかにされない限り、やはり無内容である*19
 
 こうしてロックは、生得の道徳原理という考え方を根底から覆そうとする。人が何を正しいと考えるかは、国ごとに異なる慣習や世論や教育や迷信にもとづくところが大きい。もっとも彼は、客観的に正しい道徳原理が存在することを否定するわけではない。生来われわれに備わる理性を用いることで、自然法(law of nature)を把握することはできる。生得の法を否定することは、啓示によることなく、理性によって知り得る法の存在を否定することではない*20
 
 ロックによれば、道徳原理は法である。法は立法者の存在を含意する。立法者は、賞罰を与えることで人々の欲望(desires)にもとづく行動にたがをはめる。賞罰は人が法に違背することで得られる満足のバランスを正す*21
 
 道徳の立法者は神である。神が人々を義務づけることができるのは、この世を超える来世が存在するからである*22。道徳原理が生得のものだと主張する人々は、したがって、神の存在と来世での賞罰が生得の観念だと主張する必要がある。しかし、それは決して普遍的に承認された考え方ではない。中国をはじめとして、そうした神の観念の欠如した国々は珍しくない*23
 
 そもそも人は生来備わった理性を用いることで、生得の原理に訴えることなく、神の存在と神にかかわる事柄を知ることができる*24。人が自分の力で考えるよう、神は人をしつらえている。原理が生得のものだとすれば、人はもはや自分で考える必要がなくなる。人を支配し権威を振りかざそうとする者にとって、原理を生得で疑うべからざるものとすることは都合がよいであろうが、それは神の意図に反する*25
 

 
 ロックによれば、善と悪の観念は快楽(pleasure)と苦痛(pain)の観念に由来する。快楽をもたらすものが善であり、苦痛をもたらすのが悪である*26。道徳的な善悪も変わりはない。道徳的に善い行為とは、立法者が結果として報奨を与える行為であり、悪い行為とは、立法者が罰を与える行為である*27。行為自体が道徳的に見て善や悪であるわけではない。あくまでその結果としてもたらされる快楽と苦痛が問題である。

意思とその決定に関して人々が混乱に陥ってきたのは、道徳的な正しさ(rectitude)の観念を道徳的な善と同一視したからである。人がある行動をとることで得る快楽やその結果として期待される快楽は、たしかにそれ自体で意思を動かし得るし、動かすべき善である。しかし、道徳的な正しさそれ自体は、善でも悪でもなく、意思を動かすものではない。意思を動かすのは、行動に伴う快楽や苦痛、または行動の結果として期待される快楽や苦痛である。このことは、神が道徳的な正や不正に結びつける罰や報奨が意思の動機付けとしてふさわしいことからも分かる。もし道徳的な正しさ自体が善であり、道徳的な不正自体が悪であれば、神による罰や報奨は不要であろう*28

 神の法にしろ、人定法にしろ、世論の法にしろ、人は法の遵守と違背の結果として何がもたらされるかを規準に、道徳的な善と悪を判断する*29
 
 中でも神の法は、理性によって把握し得るものであれ、聖書で啓示されたものであれ、道徳的正しさに関する唯一の真正な規準である。神が法によって人の道を指し示すことを疑う者はいない。

われわれが神の被造物である以上、神にはそうする権利がある。神には、われわれを最善の行いへと導く善と知が備わっている。そして神には、来世において無限の重さと時にわたる報奨と罰を与える力がある。何者も彼の手からわれわれを解き放つことはできない*30

 ロックは人が快楽と苦痛にもとづいて行動すると考える快楽原理主義者(hedonist)である。人はある行為がいかなる快楽と苦痛をもたらすかを自ら検討し、その結果として欲望(desire)を覚え、欲望に従って行動する。快楽と苦痛を検討し、いかに行動するかを判断する能力が意思(will)である。人が自身の判断によっていかに行動するかを決めるとき、その人は自由である。そうでないとき、その人は自由ではない。テニスボールは自由ではない。川で溺れている人も自由ではない*31
 
 何に快楽や苦痛を感じるかは、人それぞれである。ある人は学問を好み、ある人は狩猟を好む。ある人は美しい風景を好み、ある人はワインを好む。何が最善の生き方かも人によってさまざまである*32。人を行動へと駆り立てる欲望は、誤った判断によって生じることもある。来世の永遠の賞罰に比べれば、この世のはかない幸福は些末なことのはずであるが、人は必ずしもそうは判断しない*33
 
 来世で永遠の幸福を得られるか否かは、神の法に従うか否かによって決まる。神の法が何かは、数学の定理と同様に、理性を使うことで明らかにできる*34。永遠にして全知全能の神の存在は、証明可能である。われわれが、能力で劣り、生が限られ、神に存在を依存する被造物である以上、人は至高にして無限の存在に従わざるを得ない*35。数学に比べると道徳的観念は、私的利害や党派の対立がからみ、より複雑ではあるが、正しくことばを使い、関連する諸観念の異同を明らかにすれば、道徳原理の証明は可能である*36
 

 
 ロックの描く人間は、快楽と苦痛にかかわる効用計算で動く。その計算で圧倒的な比重を占めるべきなのは、神の設定する法に対応する来世における永劫の賞罰である。道徳的な善悪は、法との関係で定まる。善悪の究極の規準となるのは、神の定める法である。
 
 ところで神に対しては、誰も法を定めることはない。誰も神に賞罰を与えることはない。つまり神にとって善悪はない。神は道徳を超越している。神が善だと決めたことが善である。神の判断は法にもとづくことはなく、完全に恣意的である。これでは、無法な独裁者の支配と変わるところはない*37
 
 それとも神は慈愛にあふれており、そのため彼の被造物が平和に暮らし、この上なく幸福になるべく、その法を定めるのであろうか。そんな保証はないように見える。被造物の幸不幸は、結局のところ、来世における賞罰によって決まる。来世の賞罰が現世のどのような行為と結びつくかは、神のみぞ知ることである。
 
 現世でのどのような行為が来世での賞罰と結びつくかをロックは、理性によって明らかにすることができると言う。しかし、人が理性によってそれを知り得るためには、神が被造物に対する慈愛にあふれた存在であることが不可欠の前提となる。神が、人類はすべて来世で永劫の苦難を味わうべきだと最初から決定しているのであれば、人知を尽くしたとしても、人が従うべき神法を解明することは不可能であろう。
 
 実際、ロックは『人間知性論』の中では、神の法の具体的内容が何かを明らかにしてはいない*38。神の法は、啓示された聖書にすでに示されているという回答は役に立たない。ロックは、何が神の啓示(divine revelation)であるかは、理性によってしか判断できないとする*39
 

 
 ロック自身は、神が慈愛にあふれる存在であると信じていたようである*40。しかし、それは証明可能だろうか。ロックによる神の存在証明は、次のようなものである*41
 
 無から有は生じない。この世の存在者はすべて、別の存在者から生ずる。とすると、無限の過去に遡ってもなお、存在するものがいたはずである。
 
 ある存在者(A)が別の存在者(B)を生み出すとき、Bはその能力のすべてをAに負っている。とすると、すべての存在の源泉である永遠の存在者は、この世のすべての能力の源泉でもある。つまり永遠の存在者は全能でなければならない。
 
 さらにわれわれ人間には知覚し、理解する能力がある。とすると、この世界にはわれわれを生み出した知的存在者がいるはずである。その存在者は無限の過去から知覚し理解する能力を備えていたはずであるし、その能力はすべてを知覚し理解する能力でなければならない。つまり永遠にして全知全能の神は存在する。
 
 しかし、以上からは、神が被造物に対する慈愛にあふれた存在であることは帰結しない*42
 
 いかに行動すべきかという実践的問題に関する限り、ロックの言う人間の理性は、快楽と苦痛を素材とする効用計算の能力である。皮相でエゴイスティックな人間観と言わざるを得ない。結局のところ、ロックの道徳理論は、何のたがもはめられることなく恣意的に法を設定する神と、自らの快楽と苦痛のみを鍵にいかに行動すべきかを盲目的に探し求める人々の群れという寒々とした風景を浮かび上がらせることになる*43
 

 
 政治哲学者のJ. B. シュニーウィンドは、ロックの道徳理論をフーゴー・グロティウスが開始した近代自然法論の系譜に位置づける*44。宗教改革後、自らの神こそが真正の神であるとの強固な信念の下、対立する宗派が血みどろの闘争を続ける中で、狂信者の集団とも価値相対主義とも距離を置き、人々が平穏に社会生活を送ることのできる安定的な枠組みを人間理性のみによって構築しようとしたプロジェクトである。
 
 ロックに先行するトマス・ホッブズの『リヴァイアサン』も、こうしたプロジェクトに位置づけられる。しかし、ホッブズは無神論者として激烈な非難を浴びた。『リヴァイアサン』は、神の存在をあからさまに否定してはいない。あの世があるかどうかは分からないとは言っているが*45。それでも、自然状態で暮らす人々が、自己保存のみを駆動力として主権国家を創設し、主権者の命令を梃子として市民生活の枠組みを構築するという『リヴァイアサン』の行論では、神の積極的な役割は無に等しい。
 
 ホッブズによれば、何が善(good)で何が悪(evil)かは、各人の主観によってしか判断できない*46。自然状態では、誰もが自己保存を基本に据えた上で、各自が善だと考えることをそれぞれ行うことになるが、事態を客観的に見るならば、そこで展開されているのは、誰もが自己保存を目指して無制約な自然権を思うがままに行使する無秩序状態である*47。人々の平和な社会生活を確保するには、主権者の主観的判断にもとづく命令を誰もが共通のルールとして受け入れ、それに従うしかない*48。しかし、神を窓際に追いやるホッブズの構想が、当時の人々に受け入れられることはなかった*49
 
 ロックの『人間知性論』では、神が頻繁に登場する。神は人間にとって道徳の真の規準となる法を設定し、その遵守・違背に対応する制裁を来世において──機械仕掛けのように自働的に──与える。しかし、ロックの描く道徳理論では、人間は結局のところ自分の快楽と苦痛を駆動力として行動し、神は全く恣意的に人の従うべき法を設定する。
 
 『リヴァイアサン』では、人間の専制君主が恣意的に法を定め、それに人々が従う。『人間知性論』では、神が専制的に法を定め、人々は来世での永遠の至福を求めてその法に従おうとするが、その法が何かを人々が知ることができる保証はない。ロックは理性によって神法が何かを知ることができると言い張るが、その主張自体は、理性ではなく信仰に依拠している。どちらが、よりましな世界像だろうか。
 

*1 Peter Laslett, ‘Introduction’ to John Locke, Two Treatises of Government (Peter Laslett ed, Cambridge University Press 1988) 51; Roger Woolhouse, Locke: A Biography (2nd ed, Cambridge University Press 2012) 181−82.
*2 ジョン・ロック『統治二論』加藤節訳(岩波文庫、2010年)480−82頁[II篇13章156節]。『統治二論』は、名誉革命後の1689年10月、匿名で出版された。
*3 同上479−80頁[II篇13章155節]。
*4 Woolhouse (n 1) 194−96.
*5 他のコレッジにおけるフェロウシップに相当する。
*6 John Locke, An Essay concerning Human Understanding (Peter H Nidditch ed, Clarendon Press 1975) 7. 本書はロックが生前に刊行した著作のうち、唯一、著者名を公にしたものである。
*7 Peter H Nidditch, ‘Introduction’ to Locke (n 6) xix; Woolhouse (n 1) 98.
*8 Locke (n 6) 49 [I.II.2]. I.II.2は、Book I, Chapter II, Section2の略である。
*9 Ibidem 49 [I.II.5].
*10 Ibidem 50 [I.II.5].
*11 Ibidem 65−66 [I.III.1].
*12 Ibidem 66 [I.III.2].
*13 Ibidem 68 [I.III.4].
*14 Ibidem 68 [I.III.5].
*15 Ibidem 70 [I.III.8].
*16 Ibidem 70−72 [I.III.9−10].
*17 Ibidem 72−73 [I.III.11−12].
*18 Ibidem 78 [I.III.18].
*19 Ibidem 78−79 [I.III.19].
*20 Ibidem 75 [I.III.13]. つまりロックは、社会学的事実としての価値の相対性は認めるが、価値相対主義者ではない。
*21 Ibidem.
*22 Ibidem 74−75 [I.III.13]; ibidem 87 [I.IV.8].
*23 Ibidem 88 [I.IV.8].
*24 Ibidem 91 [I.IV.12].
*25 Ibidem 101−02 [I.IV.24].
*26 Ibidem 229 [II.XX.1]. 快楽と苦痛は、歓喜(delight)と苦悩(trouble)と言い換えてもかまわない(ibidem)。呼称は問題ではない。
*27 Ibidem 351 [II.XXVIII.5].
*28 John Locke, ‘Voluntas’ in John Locke, Political Essays (Mark Goldie ed, Cambridge University Press 1997) 321.
*29 Locke (n 6) 352 [II.XXVIII.7].
*30 Ibidem 352 [I.XXVIII.8].
*31 Ibidem 236−38 [II.XXI.5−10]. つまり、ロックにとって、人の行動が快楽と苦痛(に関する自身の判断)によって決定されていることと、人が自由にその意思にもとづいて行動することは両立する。
*32 Ibidem 268−69 [II.XXI.54].
*33 Ibidem 255 [II.XXI.37].
*34 Ibidem 549 [IV.III.18].
*35 Ibidem 651 [IV.XIII.3].
*36 Ibidem 565−68 [IV.IV.7−10].
*37 JB Schneewind, ‘Locke’s Moral Philosophy’ in The Cambridge Companion to Locke (Vere Chappell ed, Cambridge University Press 1994) 206−07.
*38 Laslett (n 1) 81. 自然法の具体的内容を詳細に描き、それが神によって「全人類の胸のうちに書き込まれて」いるとする『統治二論』の論述(ロック(n 2) 304頁[II篇2章11節])と生得の道徳原理を否定する『人間知性論』の矛盾のゆえに、ロックは『統治二論』を匿名で刊行したのではないかと、ラスレットは推測する(Laslett (n 1) 82)。他方、自然法が生得であることを否定すると同時に、他人の財物を奪うな、他人を傷つけるな、両親を敬え、隣人を愛せ等が理性によって獲得し得る自然法であると述べる『自然法論Essays on the Law of Nature』(Locke, Political Essays (n 28) 95−100 and 122−23)は、ロックの生前、刊行されることはなかった。
*39 Locke (n 6) 695 [IV.XVIII.10].
*40 Ibidem 352 [II.XXVIII.8].
*41 Ibidem 620−21 [IV.X.3−6].
*42 Schneewind (n 37) 207.
*43 Ibidem 208.
*44 Ibidem 219−22.
*45 Thomas Hobbes, Leviathan (Richard Tuck ed, Cambridge University Press 1996) 103 [Chapter 15].
*46 Ibidem 39 [Chapter 6].
*47 Ibidem 91 [Chapter 14].
*48 ホッブズの言う「自然法law of nature」は、自己保存に反することはするな、自己保存に役立つことを怠るな──言い換えれば、他人の暴力による死を逃れよ──というものである(ibidem)。この自然法からは、人々が樹立した主権者が恣意的に設定した法(実定法)には、何であれ従えという結論が導かれる。
*49 Schneewind (n 37) 210−11.

 
 
憲法学の本道を外れ、気の向くまま杣道へ。山を熟知したきこり同様、憲法学者だからこそ発見できる憲法学の新しい景色へ。
 
2023年5月1日発売
長谷部恭男 著 『歴史と理性と憲法と』

 
四六判上製・232頁 本体価格3000円(税込3300円)
ISBN:978-4-326-45128-9 →[書誌情報]
【内容紹介】 勁草書房編集部webサイトでの好評連載エッセイ「憲法学の散歩道」の書籍化第2弾。書下ろし2篇も収録。強烈な世界像、人間像を喚起するボシュエ、ロック、ヘーゲル、ヒューム、トクヴィル、ニーチェ、ヴェイユ、ネイミアらを取り上げ、その思想の深淵をたどり、射程を測定する。さまざまな論者の思想を入り口に憲法学の奥深さへと誘う特異な書。


【目次】
1 道徳対倫理――カントを読むヘーゲル
2 未来に立ち向かう――フランク・ラムジーの哲学
3 思想の力――ルイス・ネイミア
4 道徳と自己利益の間
5 「見える手」から「見えざる手」へ――フランシス・ベーコンからアダム・スミスまで
6 『アメリカのデモクラシー』――立法者への呼びかけ
7 ボシュエからジャコバン独裁へ――統一への希求
8 法律を廃止する法律の廃止
9 憲法学は科学か
10 科学的合理性のパラドックス
11 高校時代のシモーヌ・ヴェイユ
12 道徳理論の使命――ジョン・ロックの場合
13 理性の役割分担――ヒュームの場合
14 ヘーゲルからニーチェへ――レオ・シュトラウスの講義
あとがき
索引
 
「憲法学の散歩道」連載第20回までの書籍化第1弾はこちら⇒『神と自然と憲法と』
 
連載はこちら》》》憲法学の散歩道

長谷部恭男

About The Author

はせべ・やすお  早稲田大学法学学術院教授。1956年、広島生まれ。東京大学法学部卒業、東京大学教授等を経て、2014年より現職。専門は憲法学。主な著作に『権力への懐疑』(日本評論社、1991年)、『憲法学のフロンティア 岩波人文書セレクション』(岩波書店、2013年)、『憲法と平和を問いなおす』(ちくま新書、2004年)、『Interactive 憲法』(有斐閣、2006年)、『比較不能な価値の迷路 増補新装版』(東京大学出版会、2018年)、『憲法 第7版』(新世社、2018年)、『法とは何か 増補新版』(河出書房新社、2015年)、『憲法学の虫眼鏡』(羽鳥書店、2019年)ほか、共著編著多数。