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デレク・パーフィット 著
森村 進 訳
『重要なことについて 第3巻』
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序文
本書は第3巻と題されているが、それ自体として読むことができる。索引の冒頭は、読者が一層少ない部分しか読まずにすむ方法を説明している。
私はピーター・シンガーにとても感謝している。彼がいなかったら私は第3巻のいかなる部分も書かなかっただろう。シンガーは何人かのとてもすぐれた哲学者たちに、本書の姉妹編である『何か本当に重要なことがあるのか?』に収録された論文を書くよう説得した。私はこれらの論文の著者たちに、返答を書くのにこれほど長い時間がかかったことをお詫びする。これらの論文は私がいくつかの大間違いをしていたことを示して、私に新しい考えを持つようにさせてくれた。私はまた、彼らのうちの二人、アラン・ギバードとピーター・レイルトンが、それぞれ独立に、われわれの間のメタ倫理学上の主要な意見の相違の少なくともいくつかを解消できる方法を示唆してくれたことに興奮を感じた。私はこれらの示唆を第三十八、三十九、四十、四十二、四十六、四十七章で擁護した。これらの章に含まれている彼ら二人のコメンタリーの中で、レイルトンはわれわれの間の意見の相違は完全に解消されたと同意し、ギバードはわれわれの間の意見の相違は部分的に解消されたと同意する。私は自分と同じくらい物事を正しく見ていると思われる人々と意見を異にすることに深く心を乱される。それが理由で、私はレイルトンとギバードと私が今や同じような信念を持っていることを、レイルトンと同様「極めて喜ばしい」と感ずる。
シンガーは私が本書の残りの部分を書くきっかけになった評言も行った。彼は私が第1巻と第2巻の中で、〈行為帰結主義〉とシジウィックが〈常識道徳〉と呼んだものとの間の意見の不一致についてほとんど何も書いていないということに、失望の念を礼儀正しく表明したのだ。本書の第Ⅹ部における私の目的の一つは、これらの不一致のいくつかは解消できると示すことである。私が前に書いたように、「〈非宗教的倫理学〉はごく初期の段階にある。……われわれがすべて意見の一致に到達するかどうか、われわれにはまだ予言できない。われわれは〈倫理学〉が将来どのように発展するかを知らないから、高い望みを持つことは不合理ではないのである」[『理由と人格』本文末尾]。
私はまた多くの他の人々に助けられた。私が最も多くを助けられたのは、セリム・バーカー、ルース・チャン、フランセス・カム、ジェフ・マクマハン、イングマル・ペルソン、ティム・スキャンロン、シャロン・ストリート、ラリー・テムキンによってである。私はロバート・オーディ、ジョン・ブルーム、ニコラス・ボストロム、ロジャー・クリスプ、ギャレット・カリティ、ジョナサン・ダンシー、デイヴィド・イノック、ウィリアム・フィッツパトリック、トマス・ハーカ、トマス・ネーゲル、マイケル・オーツカ、サミュエル・シェフラー、クヌート・スカーソーンによって多くを助けられた。私を助けてくれた他の人々は、マルセロ・アントッシュ、ベンジャミン・バトラー、デイヴィド・コップ、アンドルー・フォースハイムズ、ダニエル・フォーマン、ジェイムズ・グッドリッチ、アビル・アーメド・ハク、アンドルー・ハリス、クリストファー・ハウザー、ハサン・ディルジェル、フランク・ジャクソン、アーロン・ジャスラヴ、ガイ・カヘイン、ジャスティン・カレフ、ジョゼフ・カーステイン、ダグラス・クレム、アントン・マーコク、ダニエル・ムノス、ジェイク・ネベル、マーティン・オネイル、トビー・オード、ジェイコブ・ロス、リチャード・ローランド、ブルース・ラッセル、バート・シュルツ、キーラン・セティヤ、ジョン・スコラプスキー、ソール・スミランスキー、シグルン・スヴァヴァルスドッティル、ヴィクター・タドロス、フィオナ・ウッドランド、アレックス・ウォースニップ、フランク・ウーである。また私が名前を書かなかったか見つけられなかった人々が他に何人もいることを私は確信している。
ピーター・モントチロフには今度もまた多くの賢明な助言をいただいたことに大変感謝する。
訳者解説
本書はDerek Parfit, On What Matters, Volume Three(Oxford University Press, 2017)の全訳である。
著者パーフィットが「序文」で書いているように、本書はピーター・シンガー編『何か本当に重要なことがあるのか?』に収録された、『重要なことについて 第1巻・第2巻』に関する十三篇の論文に対する返答をまとめると同時に、パーフィットが提唱する帰結主義倫理のさらなる展開を行った書物である。なお本書四八二頁で予告された『重要なことについて 第4巻』はパーフィットの逝去のため書かれないままに終わった。以下の解説では『重要なことについて』を「OWM」と呼び、頁数を示す必要がある場合は訳書の頁数によることにする。
本書の構成は大まかには、第Ⅶ部から第Ⅸ部が、OWM第1巻第Ⅰ部と第2巻第Ⅵ部のメタ倫理学的議論を補足しているのに対して、第Ⅹ部は行為帰結主義と常識道徳の周到な検討などによってOWM第1巻第Ⅲ部およびパーフィットの前著『理由と人格』(一九八四年。邦訳は勁草書房、一九九八年)第Ⅰ部の帰結主義的規範倫理を補足していると言えよう(ただしパーフィット自身は、OWM第Ⅰ部の理由に関する客観主義と主観主義の対立は、OWM第Ⅵ部のメタ倫理学的な実在論/反実在論の区別とは異なる実質的な規範的問題と考えているようだ。本書160節後半、特に二八九―九〇頁を見よ)。第Ⅹ部については以下で触れないのでここで一言だけ述べると、その中で一番成功しているのは、「ダブル・エフェクトの原理」とも呼ばれる、義務論者がしばしば訴えかける〈手段と副次的効果の原理〉に対する根本的批判(177節)だと思う。(ただし注意すべきことだが、パーフィットがそこで言う「一人の人を殺すことで他の何人かの命を救うことは不正である」という〈危害原理〉は、J・S・ミルが『自由論』で提唱したと解される反パターナリズムの〈危害原理〉と名前は同じでも別物である。)
以上で述べた事情から、本書は『何か本当に重要なことがあるのか?』と併読することが望ましいし、後者の読者も本書を併読することが有益だろう。この二冊の原書はパーフィットが二〇一七年一月二日に死去した直後、その一月中に刊行されたが、訳書もそれにあわせて同時に刊行することにした次第である。
ここで『何か本当に重要なことがあるのか?』の諸論文を振り返ってみる。OWM第2巻第三十五章「ニーチェ」のニーチェ解釈を問題とするハドルストンの論文を除く十二篇が取り上げるテーマはしばしば重なっているので、それらのテーマのうち中心的なものとそれに言及する論者を列挙すると次のようになろう。
・「重要である」とはいかなることか テムキン、ギバード、ストリート
・「理由」の概念(特にウィリアムズ解釈との関係で) テムキン、スミス、ストリート、ダーウォル
・瑣末性の反論 レイルトン、ギバード、ジャクソン、シュローダー、ラッセル
・表出主義 ギバード、ブラックバーン
・進化論的暴露論法 ストリート、チャペル、ラザリ=ラデクとシンガー
・意見の不一致 チャペル、ジャクソン、ラッセル
パーフィットは本書で彼らの議論のすべてに逐一応答しているわけではないが、いずれのテーマについても何らかの仕方で触れている。どの節でどのテーマに触れているかは本書冒頭の「要約」と巻末の索引が手引きになる。多くの場合、パーフィットは基本的な主張は譲らないが、いくつかの論点については自分が論者の主張を誤解していた(たとえばギバードの表出主義について)とか、自分の書き方がミスリーディングだった(たとえば瑣末性の反論の表現方法について)と率直に認めている。パーフィットの応答がどの程度成功しているかは読者自身で判断していただきたいが、素朴な感想を言えば、私はパーフィットの主張の多くに賛成できる一方で、「重要である」に関するテムキン論文4節とストリート論文8節、瑣末性の反論に関するジャクソン論文5節とラッセル論文4節の批判的なコメントには説得力を感じ、パーフィットがあまり満足すべき応答を行っていないように思った。
なお進化論的暴露論法について付言すると、これらの論文でもOWMでも十分明確には述べられていないが、それは規範倫理学上の主張とメタ倫理学上の主張に分けることができる。(以下、本文つづく)