憲法学の散歩道
第45回 憧れるのはやめましょう──『虞美人草』とミメーシス

About the Author: 長谷部恭男

はせべ・やすお  早稲田大学法学学術院教授。1956年、広島生まれ。東京大学法学部卒業、東京大学教授等を経て、2014年より現職。専門は憲法学。主な著作に『権力への懐疑』(日本評論社、1991年)、『憲法学のフロンティア 岩波人文書セレクション』(岩波書店、2013年)、『憲法と平和を問いなおす』(ちくま新書、2004年)、『Interactive 憲法』(有斐閣、2006年)、『比較不能な価値の迷路 増補新装版』(東京大学出版会、2018年)、『憲法 第8版』(新世社、2022年)、『憲法学の虫眼鏡』(羽鳥書店、2019年)、『法とは何か 新装版』(河出書房新社、2024年)ほか、共著編著多数。
Published On: 2025/12/2By

 
「憲法学の散歩道」書籍化第3弾『思惟と対話と憲法と』が2025年10月15日に発売となりました。第44回までの連載分に単行本用書き下ろし1篇が加わった、著者・長谷部さんとの散歩をぜひみなさまも一緒に楽しんでください。
そして第4シーズン、スタートです。新しい散歩道でどんな風景が眺められるか、乞うご期待。[編集部]

 
 
 
 夏目漱石『虞美人草』のヒロイン甲野藤尾は、24歳ながら、恋の駆け引きに長じている。彼女の英語の家庭教師を務める、恩賜の銀時計を得た文学士、小野清三を手玉にとる。

愛の神は今が盛(さかり)である。緑濃き黒髪を婆娑とさばいて春風に織る羅(うすもの)を、蜘蛛の囲(い)と五彩の軒に懸けて、自(みずから)と引き掛る男を待つ。引き掛った男は夜光の璧を迷宮に尋ねて、紫に輝やく糸の十字万字に、魂を逆にして、後の世までの心を乱す。女はただ心地よげに見遣る*1

 ある日の夕刻、藤尾は兄、そして兄の友人、宗近一とともに、不忍池の周辺で催された博覧会に出掛ける。たまたま見掛けたのが、かつて京都で世話になった井上父娘を博覧会見物へ案内する小野だった。漱石は、井上小夜子の美貌を描く。
 
 翌日、数日ぶりに家庭教師として甲野家を訪れた小野に藤尾は、彼を見掛け、しかし知らぬ振りをして立ち去った茶店について触れ、「あなた、まだ御這入になった事はないの? まだ御這入にならないなら、今度是非その京都の先生を御案内なさい。私もまた一さんに連れて行ってもらうつもりですから」と言い放つ。「藤尾は一さんという名前を妙に響かした」*2
 
 他愛のない三角関係、蜘蛛の囲のように幾重にも張りめぐらされた三角関係のもつれ合い。漱石が描こうとしたのはそれであろうか。
 

 
 ルネ・ジラール(1923−2015)は、フランス出身の思想家である。主な活動の舞台はアメリカであった。彼はかつて教皇庁のあったアヴィニヨンで生まれた。フランス伝統の詰め込み教育が性に合わなかった彼は、父親の勧めでパリの古文書学院(l’École des chartes)に進む。卒業後は、第二次世界大戦からの大量の帰還兵を受け入れたため教員の不足したアメリカの大学でフランス語を教えた。最初に赴任したのは、インディアナ大学である。
 
 そうしているうち彼は、比較文学、文化人類学、神話学、神学等へと関心を広げていく。彼が1966年、ジョンズ・ホプキンズ大学で共催したシンポジウムには、ジャック・ラカン、ジャン・イポリット、まだ無名であったジャック・デリダ等が集い、フランス現代思想をアメリカに流布させる起爆剤となった*3。2005年には、フランス学士院会員に選出されている。
 
 ジラールの提示した観念の一つにミメーシス(μιμησις; mimesis)がある。古典ギリシャ語で模倣(imitation)という意味である。
 
 きわめて単純化して言うと、ジラールによれば、欲求や憧れが個人の自発的・自律的なものだというのはロマン主義的な思い込みにすぎない。人は誰かに倣い真似をして、憧れたり欲しがったりしているだけである。自身に本来的な欲求があるわけではない。他者の欲求を模倣して自分の欲求とする。それは物でもサービスでも地位でも恋人でも同じである。古今のすぐれた文学作品がそれを示している。
 
 セルバンテスの描くドン・キホーテは、騎士物語を読みふけった挙げ句、自身も騎士として遍歴の旅に出るベきだと思い立つ。騎士への憧れは騎士物語という媒介を経て受け取ったもので、そこに自発的・自律的な判断や決定はない。
 
 スタンダールの『赤と黒』の冒頭で、町長のレナール氏は自分の子どもたちのために、ラテン語の読み書きができるジュリアン・ソレルを家庭教師として雇おうとする。ところが父親の老ソレルに、「もっと良い話がある」と言われ、同じ町に棲むライヴァルであるヴァルノ氏が、やはりジュリアンを子どもの家庭教師に雇おうとしているのだと当たりをつけて、ますますジュリアンが欲しくなる。立身出世を望むジュリアン自身の憧れも、ナポレオンの戦記やセント・ヘレナでの日記に教え込まれたものである。
 
 欲求には、その主体と対象のほかに、欲求の媒介者が存在する。レナール氏がジュリアンを欲しがるのは、ヴァルノ氏というライヴァルがいるからである。ドン・キホーテが騎士となって遍歴の旅に出るについては、モデルとなる騎士アマディス・デ・ガウラの存在がある。モデルは憧れの的であり、憧れを抱く主体にプライドを与える。
 
 もっともアマディスは、媒介者してあまりにも遠い存在である。ドン・キホーテがいかに努力しようと、アマディスになり切ることは不可能である。他方、レナール氏にとってヴァルノ氏は、現に同じ町内で生活するライヴァルである。ライヴァルは欲求される対象の獲得、つまり自己実現を妨げ、ルサンチマン(ressentiment)の的となる*4。そのライヴァルも逆に主体を模倣し、同じ対象を欲求する。相手を模倣しているという意識は自尊心を損ない、憤りを生む*5。媒介者は敬われると同時に嫌悪されもする。
 
 ライヴァルと自分とが同等で、似通っていると思えば思うほど、対象への欲求は強まる。会の近代化と技術の進展は、人々の差異をなくし、欲求はより激しく衝突する。欲求の模倣と伝播は平等化をさらに促進し、攻撃の応酬(相互模倣)は、闘争を激化させる。差異の消失(undifferentiation)はアイデンティティの喪失をもたらし、万人が万人と、至上の栄誉(kudos)をめぐって争うゼロサム・ゲームが現出する。
 
 ついには、家族愛や友愛を含めて絆のすべては失われ、あらゆる価値、あらゆる区分、あらゆる規範は消滅する*6
 
 藤尾にとっては小夜子が媒介者である。小夜子が現れたからこそ藤尾は嫉妬し、小野がより欲しくなる。獲得の手管として、宗近一というライヴァルの存在を小野にアピールする。自身への小野の恋心を掻き立てるためである。媒介者によってプライドが傷つけられ、嫉妬を覚え、それに対抗するために欲求の対象に傷ついたプライドを吹き込もうとする。小夜子は憎しみの的、小野は操作の対象となる。
 
 しかし、主体と媒介者と対象の三角関係を主体が明瞭に意識したとき、魔法は解ける。欲求もプライドも、妬みも憎悪も消え去る。遍歴の末にようやく故郷にたどり着いたドン・キホーテは、ぶっ続けに6時間以上眠った結果、理性を取り戻す。

わしは今や曇りのない理性を取りもどし、あのおぞましい騎士道物語を読みふけったがためにわしの頭にかかっていた、無知という黒々とした霧もすっかり晴れたのじゃ。それゆえ、今ではああした物語がいかに荒唐無稽で、まやかしに満ちていたかをはっきり認めることができる*7

 ジュリアン・ソレルも、物語の最後になって、あれほど強く憧れていた立身出世がいつわりの目標であったこと、大切にしていたプライドが虚栄にすぎなかったこと、立身出世の妨げとなるとの憎しみから殺意を抱いたレナール夫人こそが、愛すべき人であったことに気づく。
 
 藤尾の組み上げた蜘蛛の糸の囲も、物語の最後に溶け散る。お互いが藤尾を望むライヴァルだという迷いから覚めれば、彼女のかけた魔法も消失する*8。小野も宗近も、もはや彼女を希求してはいない。藤尾の突然の死は、物語の冒頭で藤尾が読む『プルターク英雄伝』中のクレオパトラの死が予告している*9。彼女の死もまた、ミメーシスである。

呆然として立った藤尾の顔は急に筋肉が働かなくなった。手が硬くなった。足が硬くなった。中心を失った石像のように椅子を蹴返して、床の上に倒れた。……春に誇るものは悉く亡ぶ。我(が)の女は虚栄の毒を仰いで斃れた*10

 それにしても藤尾は、なぜ死ななければならなかったのだろうか。とってつけたように。
 

 
 情熱的に生きる人間でさえ、今の自分が本当になりたかった自分であるとは感じない。すばらしいと思う存在は常に他者であり、それが模倣され、その欲求が借用される。われわれは何を欲したらよいのか知ってはいない。憧れる他者を模倣し、その欲求を欲求するだけである*11
 
 憧れの他者そのものにはなり得ないとの意識は競合と憎悪をもたらし、闘争が引き続く*12。媒介者を通じた模倣の連鎖は、妬みと虚栄と憎悪を生み出す。同じ対象を求めて人々は抗争する。闘争はまたたく間に共同体全体に伝播し、暴力の応酬は秩序崩壊の危機をもたらす。
 
 緊張と混乱を収束するために編み出されるのが、スケープゴート(贖罪のヤギ)である。旧約聖書の語る贖罪のヤギは、イスラエルの民のすべての罪責を背負って、荒野に送り出される*13。ヤギに罪があるわけではない。彼は単なる身代わりである。
 
 人間がスケープゴートとされる場合も同じである。何の罪もないのに、あるいは他人より重い罪があるわけでもないのに、混乱の原因と目され、共同体から排除される。ときには追放され、ときには生命を奪われる。
 
 他者の模倣に起因し、社会全体に伝播した万人の万人に対する闘争は、突如として、万人による一人の「ヤギ」に対する闘争へと転轍される*14。集団を崩壊させかねない内部での暴力の応酬と昂進を回避するため、避雷針のように、スケープゴートへの集団的暴力が実行される*15。自分たちの自己破壊衝動から身を守るため、スケープゴートは犠牲とされる。
 
 「ヤギ」として選ばれるのは、社会の周縁的な存在──外国人、下層民、あるいは途方もない金持ちか高位者──いずれにせよ、反撃のできない存在である。「ヤギ」に罪があると確信した群衆は、一体として「ヤギ」を糾弾し、攻撃する。誰にも罪はない。全員が石を投げれば、誰の石が殺したことにもならない。
 
 スケープゴートが犠牲となることで、社会の一体感と安定が回復される。社会はもはや暴力に訴える必要はなくなる。罪はすべて「ヤギ」が背負ってくれた。「ヤギ」に罪があるとの認識で全員がまとまり、新たな出発が可能となる。
 
 社会の秩序と一体性を当面、回復してくれたスケープゴートは、往々にして神として祀られる。社会が解決し得なかった問題を、スケープゴートが解決してくれたからである*16。社会の多数派にとって、メカニズムのコストはきわめて小さく、報酬は大きい*17
 
 とはいえ、それで模倣の連鎖が消え去るわけではなく、競合と闘争の激化は繰り返し生起する。「ヤギ」を犠牲にすることで秩序を回復した記憶を伝承する人々は、犠牲を伴う祭儀を定期的に催行する一方*18、闘争や災厄の原因となる(かもしれない)人々の行動や相互作用を禁忌として遮断しようとする*19
 
 こうして祭儀と禁忌を伴う宗教が誕生し、それとともに人間の文明が生まれる*20。古来、あらゆる祭礼では、意図的・儀礼的な暴力と衝突が起こり、犠牲を供することでそれが収束する。人類史の黎明以降、無数のスケープゴートが殺され、犠牲として捧げられてきた。
 

 
 ジラールの描くスケープゴートのメカニズムは、福音書の伝えるイエス・キリストの磔刑を想起させる。
 
 ジラールは、十字架につけられたイエスの「父よ、彼らを赦して下さい。彼らは自分が何をしているか、分かっていないからです」(『ルカ』23: 34)という言明は、ことば通りに受け取るべきだと言う。糾弾する群衆はイエスに罪がないこと、なぜ彼らがイエスを糾弾しているかを理解していない*21
 
 罪があるのは、糾弾する群衆である。
 
 イエスが捕縛された後、大祭司の館の中庭でペトロがイエスのことを繰り返し知らないと否定したとき、彼は、大祭司の下役たちとともにたき火にあたって暖をとっていた(『マルコ』14: 66-72)。暖をとる人々との一体感に溶け込むことが、ペトロのそのときその場での、切実な希求であった。捕縛によってイエスとその弟子たちの共同体は崩壊した。凍てつく夜、一人きりのペトロにできることは、何者でもない存在として、人々に紛れて暖をとることであった。
 
 「おまえはあのガリラヤ人の一味だ」という詰問は、彼を糾弾し、排除することばである。詰問者は、ペトロとたき火の暖を共有することを拒絶した。「違う、おまえの言っている人間のことなど、私は知らない!」。彼は、集団からの排除を恐れて懸命に否定する。
 
 「鶏が二度啼く前に、あなたは三度私を否むだろう」とイエスが彼に語ったことばを思い出したペトロは、地に伏して泣いた。彼もまた糾弾者の一員となったこと、イエスを罪なきスケープゴートとして糾弾したことに気づいて、泣いた*22
 
 イエスの磔刑は、では古来繰り返されてきたスケープゴーティングの一例であろうか。彼の死によって社会の秩序と平和が回復されたからこそ、キリストは神として崇められるのか。
 
 ジラールはそれを否定する。
 
 ジラールによれば、福音書はスケープゴーティングにおけるミメーシスのメカニズムを暴露した最初のテクストである*23。福音書は、罪のないイエスの死が群衆の狂乱がもたらした現象であることを明らかにした。それは、それまでの宗教のすべてが、文明の黎明以来、祭儀と禁忌によって隠蔽しようとしてきた秘密である。福音書は超越的啓示のみを語っているわけではない。
 
 キリスト教は、無実の者に罪をなすりつけるスケープゴーティングを止めるよう、他者の模倣から来る嫉妬と憎悪、暴力の応酬を止め、互いを赦すよう呼びかけている。「ヤギ」を犠牲にすることで社会の一体性が回復されるというのは、いつわりの神話にすぎない。
 
 キリスト教は宗教を脱神秘化し、無意味な教義や祭儀を放棄するよう説いている。この教えに耳を傾けなければ、キリスト教による暴露のためにスケープゴートという歯止めを失った人類は、文字通り、滅亡という極限に至る闘争へと突き進むことになりかねない*24
 
 無実の「ヤギ」を犠牲にしなくとも、ミメーシスが闘争を引き起こすメカニズムを直視することで、平和は実現できる。集団的暴力に訴えなくとも、社会秩序を回復するすべはある。宗教的儀礼を繰り返す必要はない。禁忌が禁忌であるがゆえに盲従する必要もない*25
 
 イエスが神聖化されるのは、古来の宗教とは異なり、共同体の一体性を回復したスケープゴートとしてではない*26。そこにキリスト教の革新性がある。暴力の連鎖を止める手立ては、キリストに倣うこと(imitatio Christi)である*27
 
 なぜわれわれは糾弾し、裁き続けるのか、なぜ争いに駆り立てられるのか、そのメカニズムを認識できれば、われわれはそれから解放される。現在、われわれがスケープゴートのメカニズムにつき、表立って語り、議論することができるのも、キリスト教のおかげである*28
 
 ところで、藤尾に罪はあったのだろうか。
 
 


*1 夏目漱石『虞美人草』(岩波書店、1990)196頁。
*2 同上222頁。
*3 Cynthia L Haven, Evolution of Desire: A Life of René Girard (Michigan State University Press 2018) chapter 8.
*4 ジラールは、主体と媒介者との距離が遠く、両者が相互作用を起こす余地のない場合を外的媒介(external mediation)と呼び、両者がライヴァル関係等の相互作用を引き起こすほど距離が近い場合を内的媒介(internal mediation)と呼ぶ(René Girard, Deceit, Desire, and the Novel: Self and Other in Literary Structure (Yvonne Freccero trans, Johns Hopkins University Press 1965) 9)。
*5 イヴァン・クラステフとスティーヴン・ホームズは、ジラールを典拠として引きつつ、冷戦終結後に旧東欧圏諸国が、西側諸国の諸価値──リベラル・デモクラシーや市場経済──を模倣すべきだとされ、十分に似ているかを監視され続けたことが、現在、ロシア、ハンガリー等で見られるポピュリズムや政治の権威主義化をもたらしているとする(Ivan Krastev and Stephen Holmes, The Light that Failed: A Reckoning (Penguin 2020) 11−13)。
*6 René Girard, Violence and the Sacred (Patrick Gregory trans, Johns Hopkins University Press 1977) 49−51, 72.
*7 セルバンテス『ドン・キホーテ 後篇(三)』牛島信明訳(岩波文庫、2001)403頁。
*8 小野に対する宗近の「真面目」になるべきだとの忠告(夏目(n 1)367頁)は、藤尾のかけた魔法に気づき、それから逃れよという趣旨にとるべきであろう。魔法が解けた後の「真面目」な生き方が、自発的で真正な生き方である保証はない。そこにもまた、モデルとなる媒介者はいるはずである。
*9 夏目 (n 1) 39頁。
*10 同上390頁。
*11 René Girard, ‘Violence and Religion: Cause or Effect?’ in René Girard, All Desire is a Desire for Being: Essential Writings (Cynthia L Haven ed, Penguin 2023) 190.
*12 René Girard, ‘Conflict’ in René Girard, All Desire is a Desire for Being: Essential Writings (Cynthia L Haven ed, Penguin 2023) 4.
*13 『レビ記』16: 20-22。
*14 Haven (n 3) 154.
*15 Girard (n 6) 4.
*16 René Girard, ‘Victims, Violence and Christianity’ in René Girard, All Desire is a Desire for Being: Essential Writings (Cynthia L Haven ed, Penguin 2023) 254.
*17 René Girard, ‘Violence and Foundational Myths in Human Societies’ in René Girard, All Desire is a Desire for Being: Essential Writings (Cynthia L Haven ed, Penguin 2023) 5.
*18 ジラールは、ヤギを犠牲として供することで災厄を逃れ祝福を受けた例として、母リベカの機転で屠ったヤギを料理して盲目の父イサクに供し、しかもヤギの毛皮を身につけて毛深い兄エサウに扮することで、父の呪いを避け祝福を受けたヤコブの事例を挙げる(Girard (n 6) 5;『創世記』27)。
*19 疫病の穢れや近親相姦に関する禁忌、聖的な(暴力的な)ものから可能な限り距離を置く禁忌がその例である(Girard (n 6) 33−34, 239)。
*20 Girard (n 6) 92, 119; Girard (n 17) 6.
*21 Girard (n 17) 6.
*22 René Girard, ‘Peter’s Denial and the Question of Mimesis’ in René Girard, All Desire is a Desire for Being: Essential Writings (Cynthia L Haven ed, Penguin 2023) 137−45.
*23 Ibidem 149.
*24 René Girard, Battling to the End: Conversations with Benoît Chantre (Mary Baker trans, Michigan State University Press 2010) x, xiv, 21.
*25 Girard (n 16) 256.
*26 René Girard, ‘Belonging’ in René Girard, All Desire is a Desire for Being: Essential Writings (Cynthia L Haven ed, Penguin 2023) 212.
*27 Haven (n 3) 182.
*28 Girard (n 16) 255.

 
《全バックナンバーリスト》はこちら⇒【憲法学の散歩道】
 
 
遠い昔の学説との対話を楽しみつつ、いつしか「自意識」が揺さぶられる世界に迷い込む。憲法学の本道を外れ、気の向くまま杣道へ。
 
2025年10月15日発売
『思惟と対話と憲法と 憲法学の散歩道3』
長谷部恭男 著

3,520円(税込) 四六判 216ページ
ISBN  978-4-326-45147-0

https://www.keisoshobo.co.jp/book/b10145412.html
 
【内容紹介】 書き下ろし1篇を加えて、勁草書房編集部webサイトでの好評連載エッセイ「憲法学の散歩道」の書籍化第3弾。心身の健康を保つ散歩同様、憲法学にも散歩がなにより。デカルト、シュミット、グロティウス、フィリッパ・フット、ソクラテス、マッキンタイア、フッサール、ゲルバー、イェリネク等々を対話相手の道連れにそろそろと。
 
 
連載書籍化第1弾『神と自然と憲法と』のたちよみはこちら。→《あとがき》
 
連載書籍化第2弾『歴史と理性と憲法と』のたちよみはこちら。→《あとがき》
 

About the Author: 長谷部恭男

はせべ・やすお  早稲田大学法学学術院教授。1956年、広島生まれ。東京大学法学部卒業、東京大学教授等を経て、2014年より現職。専門は憲法学。主な著作に『権力への懐疑』(日本評論社、1991年)、『憲法学のフロンティア 岩波人文書セレクション』(岩波書店、2013年)、『憲法と平和を問いなおす』(ちくま新書、2004年)、『Interactive 憲法』(有斐閣、2006年)、『比較不能な価値の迷路 増補新装版』(東京大学出版会、2018年)、『憲法 第8版』(新世社、2022年)、『憲法学の虫眼鏡』(羽鳥書店、2019年)、『法とは何か 新装版』(河出書房新社、2024年)ほか、共著編著多数。
Go to Top