「憲法学の散歩道」書籍化第3弾『思惟と対話と憲法と』が2025年10月15日に発売となりました。第44回までの連載分に単行本用書き下ろし1篇が加わった、著者・長谷部さんとの散歩をぜひみなさまも一緒に楽しんでください。
そして第4シーズン、スタートしています。新しい散歩道でどんな風景が眺められるか、乞うご期待。[編集部]
ハンス・ケルゼンが中心となって形成された純粋法学は、根本規範を頂点とする法秩序として国家を把握する。国家と法秩序とは同一であり、法秩序と別個に国家が存在するとの観念は、擬人化にもとづくフィクションである。国家の機関として行動する諸個人の行為の効果を国家に帰責するための手掛かりとなる規範の体系としてのみ、国家は存在する。
ケルゼンは、彼の生まれ育ったオーストリア-ハンガリー帝国が、彼の理論形成に大きく影響したことを認めている*1。
私がこうした[純粋法学の]見解に到達した背景には、私にとってもっとも身近で、一番良く経験し得た国、つまりオーストリアが、明らかに法的統一体としてのみ存在したという事情があるかも知れない。
国家は、民族や言語、宗教や歴史などにもとづく事実上の団体的統一性に支えられていると考えられがちである。しかし、多民族、多言語、多宗教からなり、領土ごとに異なる歴史を有するオーストリアにそうした統一性はないし、単一の民族精神(Volksgeist)も存在しない。ギールケ流の団体実在論の存立する余地はない*2。
オーストリア領内のボヘミアのズデーテン地方で生活するドイツ系住民に、国家としての一体性を裏付けるいかなる民族精神が実在するのか。オーストリアに何らかの統一性があるとすれば、それは法秩序としての統一性のみである*3。
しかも、それが法的に統一されているように見えるのは、そうした視点をとる場合に限られる。ゴーリキイ著の『どん底』で、神はいるのかと問われた巡礼は、「おまえが信じるなら神はいる」と答える*4。ケルゼンは、同じことが国家にも文字通りに当てはまると言う*5。
ケルゼン理論は、一般にそう思われているほどに「純粋」な、政治的-社会的状況と全く無関係の理論ではない。彼の価値相対主義は、彼の生きた状況そのものでもあった。
オーストリアを支配したハプスブルク家の当主は15世紀中葉以降、神聖ローマ帝国の帝位を独占し、ボヘミアやハンガリー等の王位をも兼ねた。1人の君主がさまざまな王国、領邦の君主を兼ねることで支配領域を拡大したことになる。エルンスト・カントロヴィッツの言い回し*6に倣うならば、オーストリアの君主は人間としての身体に加えて、数多くの政治体としての身体を兼ね備えていた。
フランスで1848年2月に起きた革命は、3月にはウィーンに飛び火し、各地で暴動が起こってハプスブルク帝国は崩壊の危機に瀕した。皇帝フェルディナントの政府は、打開策として4月25日に最初の憲法典を発布したが*7、人々の不満は収まらず、新たな憲法典制定のために、7月には最初の帝国議会が召集された。革命の騒乱を避けてモラヴィアのクレムジール(Kremsier)で審議した同議会の憲法委員会は、1849年3月に各領邦に広範な権限を委ねる新憲法草案を策定した。
ところが、1848年12月に即位したフランツ-ヨーゼフの政府は、ハンガリーなど各地の叛乱を鎮圧した勢いを借りて、議会の策定した憲法草案を無視し、同じ1849年3月に中央集権的な欽定憲法を制定・公布した。しかも、この「押し付け」憲法も1851年には廃止され、全土にわたる絶対君主制が成立した。
状況が転換したのは、1859年、イタリア戦線での敗北によってロンバルディアが失われ、財政危機が到来したことによってである。絶対君主制は終焉し、立法権を含む各王国・領邦の権利と地位を承認するいくつかの憲法的文書が、1860年および1861年に制定された。
1866年のケーニヒグレーツでのプロイセンに対する完敗は、さらなる憲法体制の転換をもたらし、1867年、帝国はハンガリー王国とその他*8との2つの主権国家に再編された。
2つの国家はそれぞれ独立した議会と政府、領土と市民権を有する。両者に共通するのは、国防省、外務省、および国防・外務に関する財務省の3省で、これら3省の大臣は2つの議会の代表団に対してそれぞれ説明責任を負う。フランツ-ヨーゼフは、オーストリア側ではオーストリア皇帝であると同時にボヘミア国王、スティリア大公、モラヴィア辺境伯等であったが、ハンガリー国民にとってはハンガリー国王でしかない*9。
ここにあるのは1つの国家なのか、2つの国家なのか、それとも2+1の3つの国家なのか。さらに言えば、ハンガリー以外の領域はそれ自体、多くの国家の寄せ集めではないのか*10。謎は深まるばかりである。
若きケルゼンは1907年から翌年にかけて、ハイデルベルク大学で当時名声をほしいままにしていたゲオルク・イェリネクのセミナーに参加した*11。国家は法的統一体として認識されるべきだとのテーゼは、イェリネクが打ち立てたものである*12。しかしイェリネクは、民族や言語、宗教や歴史など、国家を構成する事実上の側面を捨象したわけではなかった。
何が認識できるかは、視点のとり方による。『公権論』の総論第3節「国家の法的性質」で、イェリネクは交響曲を例にとって、視点による認識の違いを説明する*13。
自然科学の視点からすれば、交響曲は空気の振動とそれによって生ずる音の感覚である。しかし美的考究の視点からすれば、それは享楽の対象であり、音楽的認識の目的である。ベートーヴェンのハ短調交響曲は、音楽的経験と考究にとっては奥深く、真正で力強い現実であるが、それを自然科学や心理学が認識することはない。同じことは、ラファエロやティツィアーノの絵画、シェイクスピアやゲーテの戯曲についても言い得る。
国家も同様である。視点のとり方によって、法学的な統一体として把握することもできるし、民族や言語、宗教や歴史など、国家を構成する事実上の側面を記述することもできる*14。法学的に言えば、国家は権利主体としての社団法人であり、社会学的に見れば、国家は目的論的に統一された団体である*15。
もっともこうした記述は、意図的に図式化・単純化されたものである。イェリネクは、『一般国家学』の冒頭部分で、国家学の対象類型として、理想類型(der Begriff des idealen Typus)と経験類型(der empirische Typus)とを区別する。理想類型は、SeinではなくSollenであって、所与のものに対する価値基準である。対象が善いものかそうでないかを区別するものさしとなる。
他方、経験類型は、多数の個別的なものに共通する特徴を総括し表象するもので、研究者による抽象化によって獲得される。国家学の対象となるべきなのは、理想類型ではなく、経験類型である*16。
イェリネクによる理想類型と経験類型との区別は、同僚であったマックス・ウェーバーによって換骨奪胎した形で定式化され、そのためしばしば誤解を生んできたが、イェリネクの言う経験類型は、むしろウェーバーの言う理念型に近い*17。理念型である以上、それが現実世界において必ずすべての特徴を備えた形で実在するわけではない。国家の理念型を確定し得たからと言って、個別の国家がすべて理念型通りであるわけではない*18。
社会学的に見た国家が目的論的に統一された団体であり、法学的に見た国家が権利主体としての社団法人であるとして、オーストリア-ハンガリー帝国はどうであろうか。
イェリネクは、『一般国家学』の中の何カ所かでオーストリア-ハンガリー帝国について触れている。第一にその成り立ちについてであるが、彼によると、それはマリア・テレジア以来、1つの共通組織(ein gemeinsame Organisation)の下にドイツおよびボヘミアの世襲領が包摂され、統一的な結合体をなしたもので、統一国家が何時誕生したかを正確に言うことは不可能である*19。
カール6世がその娘マリア・テレジアを後継者と定めた国憲勅諚(pragmatische Sanktion)は、それまで1つの国家であったか疑わしかった多様な領土を1つの結合体としたが、しかしそれは統一国家を作り上げたわけではない。構成部分の国家性は、明確には否定されていない。ボヘミア諸邦がいつ国家としての性格を完全に喪失したのかを確定することはできない。また、ハンガリーが独立国家なのかも疑われてきたが、1867年にその答えは確定された*20。
1867年以降のオーストリア-ハンガリー帝国は、では何であろうか。イェリネクは、それは国家結合(Staatenverbindungen)の一種たる物上連合(Realunion)だと言う。彼はここでも、国家は主権的で独立しているべきだとの理想類型にこだわるべきではないとする。そうした理想類型からすると、国家が結合するなどということはあり得ないはずである*21。しかし実際には、国家間の政治的性格を有する永続的な法的結合が存在する。それが、物上連合である。
物上連合は、たまたま複数国の君主の地位が同一人に帰することで成り立つ身上連合(Personalunion)とは異なる。1714年にイギリスとハノーバーの君主が同一人──ジョージ1世──となったときに生じたのは、身上連合である。身上連合は、法的に意図されて生ずるものではなく、同一人への王位(または帝位)の帰着が解消することで、ただちに解消される。それは、複数国家の永続的な法的結合ではない。
イェリネクによると、真正の物上連合の最初の例は、1713年の国憲勅諚によって構成されたハプスブルク家支配下の諸領土間の結合である。それは『一般国家学』が刊行された時点では、ハンガリー王家支配下の諸領土とオーストリア王領および領土間の結合としてのオーストリア-ハンガリー帝国となっている*22。
物上連合は、成熟した君主制と少なくとも結合した一国における議会制あるいは立憲的な[統治権の]制約を前提としている。それは近代になってはじめて成立した形態である*23。
以上のイェリネクの説明からおぼろげながら理解できるのは、彼は、オーストリア-ハンガリー帝国の構成要素のうち、ハンガリー王国が独立国家であることは明確だが、それ以外の構成要素、とくにライタ河のこちら側の諸邦が個別の独立国家かどうかははっきりしない──かつてはそうであったが、おそらくもはや独立国家ではない──と考えていることである。オーストリア-ハンガリー帝国そのものは、独立国家同士の結合であるから、それ自体が国家というわけではないのであろう*24。
ここでイェリネクは、国家について社会学的視点、法学的視点のいずれをとっているのだろうか。法学的視点をとったとき、あらゆる法概念についてと同様、事実の世界にそれと対応する知覚可能な何かが存在するわけではない*25。法学的視点からすれば、国家があるか否かは、それがあると想定するか否かで決まるはずで、ある時点で国家が成立したり、消滅したりすることは考えにくい*26。
では、社会学的視点がとられているのだろうか。社会学的視点をとったとき、人々の結合体が国家なのか国家結合なのかをはっきりと見定めることができるものだろうか。オーストリア-ハンガリー帝国に関する限り、彼は社会学的視点と法学的視点とを行き来しているように見受けられる。
実際には、ボヘミアをはじめとするライタ河のこちら側の諸邦は、自分たちが独立した国家であるとの主張を取り下げはしなかった。マサリクやベネシュなどのチェコスロヴァキア独立運動の闘士たちの主張は、まさにそれである。
フェルディナンド1世が1526年、ボヘミアの等族会議によってボヘミア国王として選挙された際、彼はボヘミアの古来の法と権利を守ることを誓約した。ボヘミアは、対トルコ防衛を目的として、モラヴィアやシレジアとともに、オーストリア-ハンガリーと攻守同盟を締結したまでである。
その後のオーストリアの君主たちはその誓約を守らず、叛乱を起こしたボヘミアの貴族たちは、1620年のホワイト・マウンテンの戦いで皇帝軍に敗れ、チェコは暗黒時代を迎えたが、ボヘミア国は休眠ないし潜伏しただけで、独立性を失ったわけではない。第一次大戦にオーストリア-ハンガリー帝国が敗れた結果、チェコが独立を回復したのは、眠っていた国家が再び覚醒しただけのことである*27。同様の主張は、帝国内の各地域において行われた。
第一次大戦以前においても、オーストリア議会の制定法は必ずしも各領域の法に優越したわけではなかった。両者は対等の立場にあり、いずれもが相手を覆すことができると主張された。同一事項について、異なる立法権者が衝突する法を制定することが可能だった*28。両者がともに権限-権限(Kompetenz-kompetenz)、つまり主権の保有を主張したことになる。
こうした混迷状況を説明する手掛かりを提供したのが、ケルゼンの国家=法秩序論である*29。前述したように、ケルゼンが創始した純粋法学は、根本規範を頂点とする法秩序として国家を把握する。国家と法秩序とは同一である。国家の機関として行動する諸個人の行為の法的効果を国家に帰責するための手掛かりとなる規範の体系としてのみ、国家は存在する。
どのような法秩序が存在するかは、究極的には、個々人の視点のとり方による。ボヘミアの法秩序こそが主権的だと考える者からすれば、それ以外の法秩序はすべて、ボヘミアの法秩序から授権された限りにおいて妥当する。帝国全体の法秩序も、帝国内の他の領域の法秩序も、すべてそうである。
他の法秩序の法規範がボヘミア法と抵触することも、当然あり得る。ボヘミアの法秩序は、他の法秩序に対して、ボヘミア法と合致する法の創造を授権することも、ボヘミア法と抵触する法の創造を授権することも可能だからである*30。
ボヘミア法と抵触する他の法は、当然に無効ではなく、取消し可能であるにとどまる。取り消されるのは、ボヘミア法が取消しのための実効的手段を備えている場合だけである。
こうして帝国内のすべての法規範は、ボヘミアの法秩序を頂点とするピラミッドとして理解される。そして、ボヘミアの法秩序の頂点には、「ボヘミアの法秩序に服従すべし」という根本規範(Grundnorm)が、そうした視点をとる人の思惟において、想定されている。
同様の事態は、帝国内の各法秩序について成立し得る。成立するか否かは、各人がどのような根本規範を想定するかによって定まる。信ずる者にとっては、そこに全体として整合的な法秩序が立ち現れる。
日本の法秩序について、地方分権が不十分だと指摘されることがある。地方公共団体の条例が、国レベルの法律や命令に反しない限りにおいてのみ制定され得ることが、その証左とされる*31。
しかしそれは、国レベルの法秩序からの授権がある限りにおいて、地方公共団体の法秩序が成り立つという視点をとっているからこそ言い得ることである。鳥取県の法秩序が、日本の法秩序の頂点にあると想定する人からすれば、法令に違反しない限りにおいて条例を制定できると定める国レベルの規定も、鳥取県の法秩序の授権の下で成り立っているはずのものである*32。
鳥取県の条例によって、そうした国レベルの法令を覆すことは、当然可能である。その人の視点からすれば。果たしてそうした条例が実効的であり得るか──鳥取県の条例が国レベルの法令を取り消すための実効的手段を備えることが可能か──は、別の問題であるが*33。
第一次大戦終結後のオーストリア-ハンガリー帝国の解体は、アメリカのウィルソン大統領が提唱した民族自決(self-determination)原則との関連で説明されることがしばしばある。しかしこの原則は、いかなる国家がいかなる領域において成立すべきかについて、自明の結論を導くわけではない*34。
自決すべき主体は何によって区切られるであろうか。人種か、言語か、宗教か、あるいは古来の歴史か。いずれを単位とするかによって、さまざまな相互に両立しない主体と領域とが立ち現れる。村落ごとに国家を成り立たせることが非現実的だとすれば、歴史的な領域を単位とするしかなさそうである。
チェコスロヴァキア独立運動の闘士たちは、ドイツ系住民をはじめとする多様な少数民族を包含するボヘミアは、歴史的に存在する(潜在的)国家であり続けたと主張して、その一体性を正当化しようとした。しかし歴史が根拠であれば、長年にわたってハンガリー王国の一部であり続けたスロヴァキアがボヘミアと合体すべき理由はない。不明瞭な根拠にもとづく不明瞭な国境線で区切られたチェコスロヴァキアは、第二次世界大戦を引き起こす発火点の1つとなった*35。
他方、多くの領域を削り取られたオーストリア-ハンガリー帝国の残余部分は、オーストリア共和国となった。その憲法を起草したのは、ケルゼンである。
1919年9月に連合国とオーストリア共和国とが締結したサン・ジェルマン条約は177条で、オーストリア-ハンガリー帝国による侵略戦争のもたらした損害について、オーストリア共和国に賠償義務を課している。その根拠は何であろうか。国名が似ているからか。二重帝国のうちの一国の首都を引き続き首都としているからか。
帝国が解体したとき、後継国家のうちの1つが当然に帝国の責務(と権利)を引き継ぐべき理由は自明ではない。オーストリア共和国に課された賠償義務は、新たに成立した同国が条約によって賠償義務を果たすことを約束したからこそ負ったものとして説明することも可能である*36。
同様の疑問は、ソヴィエト連邦が解体したとき、国連安全保障理事会の常任理事国の椅子を含めて、当然にロシアが権利を引き継ぐことになるのかという論点についても生ずる。ユーゴスラヴィアが解体したとき、セルビアは改めて国連加盟の手続をとったが、ロシアはそうしてはいない。なぜそうする必要はないのだろうか。
イギリスの植民地が第二次世界大戦後に独立したとき、イギリスは、国家としての同一性を保ち続けた(と考えられている)。それは、独立したのが旧植民地であって、それらの「新」独立国は、実は植民地化される前から国家として存立しており、植民地化された間は休眠していただけであって、もともとイギリスとは別の統治権の主体だったという説明が可能のように見える*37。大日本帝国が解体した後の朝鮮半島と日本の関係についても、同様の説明が可能であろう。
ソ連が解体したとき独立を果たしたウクライナやバルト三国などの諸国家は、実はロシアの植民地だったのだろうか。あるいは実質的に見れば、ロシアがそれらの領域を不法占拠していただけだったのだろうか。そう説明しない限り、ロシアと旧ソ連との連続性を説明することは難しいように思われる。もっとも、そうした説明をロシアが受け入れるとは考えにくいが(受け入れないとすると、ロシアは常任理事国としての地位を現在、不法占拠していることになりそうであるが)。
同様の疑問は、スコットランドがイギリスから独立したときにも、発生するはずである。スコットランドがイングランド(イギリス)の植民地でなかったとすればであるが。
*1 Hans Kelsen, ‘Autobiographie (1947)’ in Hans Kelsen Werke, vol 1 (Mattias Jestaedt ed, Mohr Siebeck 2007) 59−60.
*2 ギールケの団体実在論については、さしあたり長谷部恭男『憲法の境界』(羽鳥書店、2009)6−9頁参照。
*3 Manfred Baldus, ‘Hapsburgian Multiethnicity and the »Unity of State«−On the Structural Setting of Kelsen’s Legal Thought’ in Dan Diner and Michael Stolleis (eds), Hans Kelsen and Carl Schmitt. A Juxtaposition (Bleicher 1999) 18−20; Natasha Wheatley, The Life and Death of States: Central Europe and the Transformation of Modern Sovereignty (Princeton University Press 2023) 143.
*4 ゴーリキイ『どん底』中村白葉訳(岩波文庫、1961)73頁。訳に忠実には従っていない。
*5 Hans Kelsen, Der soziologische und der juristische Staatsbegriff: Untersuchungen des Verhältnisses von Staat und Recht (Scientia 1962 (1922)) 90, n1.
*6 Ernst H Kantrowicz, The King’s Two Bodies: A Study in Medieval Political Theology (Princeton University Press 1957).
*7 内務大臣フランツ・フォン・ピラーズドルフ(Franz von Pillersdorf)の起草した憲法で、ピラーズドルフ憲法と呼ばれる。
*8 ハンガリー以外の「その他」の領域は、ライタ河のこちら側(Cisleithania)と呼ばれる。「オーストリア」と俗称されることもある。いずれも正式名称ではない。
*9 ハンガリーが完全な分離・独立を求めなかった背景には、そうすることがハンガリー国内の少数派の分離・独立運動を刺激しかねないとの懸念があったと言われる(Richard J Evans, The Pursuit of Power: Europe 1815−1914 (Penguin 2017) 259)。
*10 Wheatley (n 3) 56−59.
*11 Ibidem 162. ゲオルク・イェリネク(1851−1911)および彼とケルゼンの理論の異同については、さしあたり長谷部恭男『思惟と対話と憲法と──憲法学の散歩道3』(勁草書房、2025)第12章「国家が法人であるとは何を意味するか──ゲオルク・イェリネクの場合」参照。
*12 Georg Jellinek, Allgemeine Staatslehre (3rd edn, Athenaum 1976 (1914)) 164. 原著の初版が刊行されたのは1900年である。邦訳として『一般国家学』芦部信喜ほか訳(学陽書房、1976)を参照した。
*13 Georg Jellinek, System der subjektiven öffentlichen Rechte (Elibron 2006 (1892)) 20−21.
*14 Ibidem 40, 50−51.
*15 Ibidem 179, 183.
*16 Jellinek (n 12) 34−38.
*17 長谷部恭男「マックス・ウェーバー国家論序説」比較法学57巻2号(2023)4−5頁参照。
*18 たとえばイェリネクは、主権は国家にとって概念必然的なものではないと言う(Jellinek (n 12) 486)。連邦国家の支邦は、国家(Staat)ではあるが主権国家ではない。
*19 Jellinek (n 12) 277−78.
*20 Ibidem 286.
*21 Ibidem 737. ここからも分かる通り、物上連合は、独立国家間の国家連合とは異なる。国家連合の場合、諸国家は結合してはいない。
*22 Jellinek (n 12) 757.
*23 Ibidem.
*24 See ibidem 485. なお、これはあくまでイェリネクの見解であって、当時のオーストリア-ハンガリー帝国の性格についてはそのほかに、分権化された単一国家、連邦国家、国家連合などの見方があり、統一された見解はなかった(Baldus (n 3) 19)。
*25 Jellinek (n 12) 183.
*26 後注32で触れる国際法上の実効性の原則を前提とするならば、法学的視点からしても、個別国家の始期と終期およびその領域の如何を議論することが可能となるが、イェリネクは、そうした前提を置いていない。
*27 Wheatley (n 3) 186−87.
*28 Ibidem 228−29.
*29 Ibidem 229−31.
*30 See Hans Kelsen, The Pure Theory of Law (Max Knight trans, University of California Press 1967) 271−76 [35j]. 邦訳として『純粋法学〔第2版〕』長尾龍一訳(岩波書店、2014)を参照した。
*31 日本国憲法94条、地方自治法14条1項参照。
*32 同様の事態は、各国の法秩序と国際法秩序の間にも成り立っている(Kelsen (n 30) 328−44 [43])。国際法秩序が上位の法秩序として想定される場合、国際法秩序と個別の国内法秩序とは実効性の原則──他の政府から独立し、一定地域の住民を実効的に支配している政府が正当な政府である──によって接続されている(ibidem 215, 336)。ある特定の国内法秩序が最上位の法秩序として想定される場合、国際法秩序も当該国内法秩序の一部分をなすことになるが、その国際法秩序と他の個別国内法秩序とは、やはり実効性の原則によって接続される(ibidem 340)。いずれが正当かを決めるのは政治的論議であって、法理論ではない(ibidem 347)。
*33 イェリネクは、政治的に不可能な事態は、まじめな法学研究の対象とはなり得ないと回答したであろう(Jellinek (n 12) 17)。
*34 Wheatley (n 3) 201−06.
*35 Ibidem 215.
*36 1925年に下した判決でオーストリアの最高司法裁判所は、新旧のオーストリアに国家としての連続性はないとし、サン・ジェルマン条約177条は、旧オーストリアの一部の人民に新たに賠償義務を負わせただけだと判断している(Wheatley ( n 3) 356, n 87)。
*37 Charles H Alexandrowicz, ‘New and Original States: The Issue of Reversion to Sovereignty’ International Affairs, vol 45, No 3 (1969) 465−80; see also Wheatley (n 3) chapter 7.
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遠い昔の学説との対話を楽しみつつ、いつしか「自意識」が揺さぶられる世界に迷い込む。憲法学の本道を外れ、気の向くまま杣道へ。2025年10月15日発売
『思惟と対話と憲法と 憲法学の散歩道3』
長谷部恭男 著
3,520円(税込) 四六判 216ページ
ISBN 978-4-326-45147-0
https://www.keisoshobo.co.jp/book/b10145412.html
【内容紹介】 書き下ろし1篇を加えて、勁草書房編集部webサイトでの好評連載エッセイ「憲法学の散歩道」の書籍化第3弾。心身の健康を保つ散歩同様、憲法学にも散歩がなにより。デカルト、シュミット、グロティウス、フィリッパ・フット、ソクラテス、マッキンタイア、フッサール、ゲルバー、イェリネク等々を対話相手の道連れにそろそろと。
連載書籍化第1弾『神と自然と憲法と』のたちよみはこちら。→《あとがき》
連載書籍化第2弾『歴史と理性と憲法と』のたちよみはこちら。→《あとがき》

